■<安保関連法案>首相、今国会採決明言「十分な時間取った」
2015年06月26日 12:23 毎日新聞
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=3486362
●【砂川判決はまず、無効である。さらに、砂川判決は、集団的自衛権など日本が使えると判断してはいない】
1.砂川判決は、無効だ。
判決を下した最高裁判所裁判長田中耕太郎は、判決前に自ら米国大使と進んで内通し米国に情報を流し、米国の意に沿う判決を下すことを示してきた。これは、司法権の独立に反する。完全なる憲法違反。もはや日本の司法権が成り立ってない。
ここに、極秘公電の翻訳文がある。
極秘公電の翻訳文を公開
☆駐日米国大使発米国務省宛て3本の極秘公電の翻訳文を公開する
(Home / 天木直人のブログ / 駐日米国大使発米国務省宛て3本の極秘公電の翻訳文を公開する)
http://new-party-9.net/archives/1913
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駐日米国大使発米国務省宛て3本の極秘公電の翻訳文を公開する
Photo by : IWJ 「砂川裁判再審請求訴訟を起こしている元当事者・土屋源太郎氏と弁護団による記者会見 」
[
http://www.ustream.tv/recorded/64096162]
以下に掲載するのは1959年4月から11月にかけて、ダグラス・マッカーサー2世駐日米国大使(筆者註:連合国最高司令官として知られているダグラス・マッカーサーの甥)から米国国務省宛てに送られた3本の秘密公電を私が翻訳した、その全文である。
すでにお知らせしてきた通り、6月18日に、砂川判決再審請求訴訟の原告、土屋源太郎さんらによる記者会見が衆院議員会館で開かれた。
その全貌は
http://www.ustream.tv/recorded/64096162で見る事ができるので是非ともご覧いただきたい。国民必見の記者会見である。
その時配布された資料の一つに私が訳した公電の翻訳があったが、動画では見る事が出来ないのでここに公開するのである。
この翻訳の内容は記者会見の席上配布されたものと同一のものであるが、そのコピーをそのまま転載したものではなく、原告側が指名し、東京地裁が公認した原告側翻訳官としての私が、自らの原稿に基づいて再現したものである。
なぜそうしたか。それは、翻訳した時の私のその時の心境を共有してもらいたいと思ったからである。
6月18日の記者会見でも話したが、私はこの公電を、ひとつの光景を頭に描きながら、そしてこの公電を発見したジャーナリストや学者の方たちに敬意を表しながら、私の高ぶる感情をぶつけるように一字一句翻訳したのだ。
この国の司法の最高権力者が、よりによってみずから何度も足を運び、米国政府から全権を委任されているマッカーサー駐日米国大使と都内某所で何度も密会を重ねているその光景はあまりにもおぞましい。
砂川判決の情報提供とみずからの私見と司法指揮権限をあますことなく伝え、米国政府の意向に迎合する。
これは裁判の中立と守秘義務と言う根幹を否定する不当、不法な行為である。
あってはならないことだ。
それをこの国の司法のトップが自らおかしていたのだ。
当時の報道をひもとくと、予断や司法介入があったのではないかという疑義に対し、田中耕太郎は「一切ない」と言い切っている。
どのような顔をしてそこまでの虚偽答弁が出来たというのか。
そのような田中耕太郎最高裁長官に、この国は、菊花大綬章という最高位の勲章を与えている。
私はここに、この国の戦後一貫した対米従属の原点を見るのである。
歴代のこの国の指導者たちは、すなわち自民党政権の首相らは、あるいは密約を重ね、あるいはウソの答弁を繰り返して、ことごとく日本国民の願望より、米国の命令を優先させ、それに従ってきた。
その対米従属ぶりは、時代的背景や首相の個性によって、程度の差はあったが、その本質はいささかも変わらなかった。
しかし、いずれの首相も米国の命令と国民の声の狭間の中で、揺れ動き、悩んだ。
ところがついに戦後70年と言う節目の年に、安倍首相という、何のためらいもない暴走首相によって、この対米従属が憲法9条否定の安保法制案成立の強行と言う形で、完成させられようとしている。
そんな矢先に、田中耕太郎最高裁長官と彼の下した砂川判決の根本的な違憲判決が、皮肉にも、米国の極秘公電の公開と言う形で、満天の下にさらされたのである。
天網恢恢という言葉があるが、いままさに、神の手によって、「米軍基地は憲法違反であり、米軍基地を容認した日本政府は憲法9条をおかした」と断じた1959年の名判決、伊達判決がよみがえったのである。
伊達判決がよみがえって安倍暴政にストップをかけたのだ。
安倍首相は憲法9条によってひとたまりもなく罰せられようとしている。
我々の憲法9条を守るという気概がそれを現実のものとするのである。
戦後の日本の政治史のクライマックスを、国民の手で安倍首相を弾劾するという形で飾るのだ。
その思いを込めて、私は翻訳文の全文を以下に公開する。
1. 1959年4月24日付電報
最高裁判所は4月22日、砂川裁判の東京地方裁判所判決に対する最高検察庁による上告趣意書の提出期限を6月15日に設定した。これに伴い、被告の弁護側は彼らの立場を示す文書を提出することになる。
外務省当局者は大法廷での上告の審理はおそらく7月中旬までに始まるだろうと我々に伝えている。しかし、現時点では、判決が下される時期を推測するのは不可能である。田中裁判長は大使(筆者註:マッカーサー駐日米国大使)との内密の会話の中で、本件訴訟は優先権が与えられているが、日本の手続きでは、判決に至るまでには、審理が始まった後少なくとも数か月はかかる、と述べた。
2. 1959年8月3日付電報
共通の友人宅での会話の中で、田中耕太郎裁判長は駐日米国大使館首席公使に対し、砂川裁判の判決はおそらく12月になると今は思うと語った。田中裁判長はまた、弁護団は裁判の結審を遅らせるためにあらゆる可能な合法的手段を試みているが、彼(筆者註:田中裁判長)としては争点を事実問題ではなく法的問題に限定することを決めていると述べた。この考えに立って、彼は、9月はじめに始まる週から週一回、それぞれ午前と午後の二回開廷すれば、遅くとも三週間で口頭弁論を終えることができると確信している。問題はその後に生じうる。なぜなら彼の14名の同僚裁判官たちの多くがそれぞれの見解を長々と論じたがるからだ。裁判長はまた、結審後の評議が、実質的に全会一致の判決が下されるような、そして世論を”乱す“少数意見が回避されるようなやり方で行われるよう希望していると付言した。
コメント(筆者註:これは米国公電に書かれている言葉で米国大使のコメントである。私のコメントではない)
(米国)大使館は最近、外務省や自民党の情報源から、日本政府が新日米安全保障条約の提出を12月から始まる通常国会まで延期する決定をしたのは、砂川裁判判決を、最高裁判所が当初意図していた晩夏ないし初秋までに出す事が不可能になった事に影響されたという複数の示唆を得た。これらの情報源は、砂川裁判の進捗状況が新条約の国会提出を延期した決定的理由ではないが、砂川裁判が審理中であることは、そうでなければ避けられたであろう、社会主義者やその他の野党に論争点を与えかねないと受け止められていることを教えている。さらにまた社会主義者たちは米軍の日本駐留は憲法違反であるという地方裁判所の判決に強く傾倒している。もし最高裁判所が地方裁判所の判決を覆し、国会で審議が行われているその時に、政府側に有利な判決を下すなら、新条約を支持する世論の風潮は大きく助けられ、社会主義者たちは政治的柔道の中で、みずからの奮闘により逆に投げ飛ばされることになろう。
3. 1959年11月5日付電報
田中裁判長との最近の非公式の会話の中で、我々は砂川裁判について短い議論をした。裁判長は、時期については明言できないが、いまや来年のはじめまでには最高裁は判決を下すことができるだろうと言った。彼
は、15人の裁判官にとって最も重要な問題は、この裁判に取りかかる際の最大公約数を確立することだと見ていた。田中裁判長は、可能であれば、裁判官全員が一致して、適切で、現実的な、いわば合意された基本的規準に基づいて裁判に取りかかることが重要だと言った。彼は、裁判官の何人かは「手続上」の観点から事件に取りかかろうとしているのに対し、他の裁判官は「法律上」の観点から事件を見ており、さらにまた「憲法上」観点から問題を考えている者もいることを、示唆した。
(私は田中との会談からつぎのように推測できた。すなわち何人かの裁判官は、伊達判事を裁判長とする第一審の東京地方裁判所には米軍駐留の合憲性について裁定する司法権はなく、東京地方裁判所は、みずからの権限と、米軍基地への不法侵入という東京地方裁判所に最初に付託された争点を逸脱している、という厳密な手続上の理由に基づいて判決を下す考えに傾いている。
他の裁判官は、最高裁判所はさらに踏み込んで、最高裁判所自身が米軍の駐留が提起する法律問題を扱うべきだと考えているようだ。さらにまた他の裁判官は、日本国憲法の下で日米安保条約は憲法より優位であるかどうかという、憲法上の問題に取り組むことを望んでいるかもしれない。)
田中裁判長は、下級審の判決が支持されると思っているような様子は見せなかった。それどころか反対に、彼は、それは覆されるだろうが、重要な事は、この事件に含まれている憲法上の争点について判断が下される場合は、15人の裁判官のうち、できるだけ多くの裁判官が一致した判決を下すことだと考えている印象だった。すなわち、伊達裁判官が憲法上の争点について判断を下したことは大きな誤りであったと、彼は述べた(了)
Posted on 2015年6月20日 Naoto Amaki
Posted in 天木直人のブログ
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【私見】
最大のポイントはここだ。
「 この国の司法の最高権力者が、よりによってみずから何度も足を運び、米国政府から全権を委任されているマッカーサー駐日米国大使と都内某所で何度も密会を重ねているその光景はあまりにもおぞましい。
砂川判決の情報提供とみずからの私見と司法指揮権限をあますことなく伝え、米国政府の意向に迎合する。
これは裁判の中立と守秘義務と言う根幹を否定する不当、不法な行為である。
あってはならないことだ。
それをこの国の司法のトップが自らおかしていたのだ。」
最後にこのビデで、天木直人さんの怒りを、己の怒りとして日本人民は共有しなければならない。
IWJ 「砂川裁判再審請求訴訟を起こしている元当事者・土屋源太郎氏と弁護団による記者会見 」
[
http://www.ustream.tv/recorded/64096162]
この動画で、最高裁判所長官田中耕太郎の世紀の犯罪を焼き付けることだ。
其処が日本国人民の原点とならねばならない。
最大のポイントは、00:38:00〜の天木直人さんの発言だ。
(上記はリンク切れ。00:38:00〜の発言は
https://www.youtube.com/watch?v=UeMjDQ6tvz4で見ることができる。2:52〜。)
【2】 安倍晋三と内閣法制局長官の屁理屈
●昭和47年10月14日の政府見解(全文)
昭和47年10月14日 「集団的自衛権と憲法との関係に関する政府資料」(参議院決算委員会提 出資料)
(ソース:武蔵村山市憲法9条の会
https://bn-in.facebook.com/murayama9zyou/posts/402917136515511)
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・・・
しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止(や)むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。
*−−−−引用終了−−−−−−*
文中の、【外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態】
これを昭和47年の政府見解の基本論理の部分と、安倍晋三と横畠内閣法制局長官は、呼んでいる。
内閣法制局長官の主張はこうだ。
【資料】 昭和47年10月14日の政府見解(全文)
http://reef100.blog.fc2.com/blog-entry-5367.html
*−−−−−−−−引用開始−−−−−−−−*
●内閣法制局長官
昨年来何度か説明している。
昭和47年の政府見解の基本論理の部分というのが、
「外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処する」
この場合に限って、憲法9条のもとでも例外的に武力の行使が許されるという、基本的な考え方を述べた部分。
で、論理構造上、それは基本論理であって、そのあとに「そうだとすれば」という事で結論を述べている。
基本論理と結論を結びつけるものとして、当時の事実認識がある。
当時の事実認識というのはどういうことかというと、
先ほど述べたような、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」というものは我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるというふうに当時は考えていた。
その基本論理部分と事実認識を併せて、結論部分の「我わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる。すなわち、「個別的自衛権に限られ、集団的自衛権の行使は憲法上許されない」と言う結論を当時は導いている。
今般、事実認識の部分を改めて、
【我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し】、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合も、基本論理である「外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処する」ということにあてはまると考えた。
*−−−−−−−−引用終了−−−−−−−−*
●考察
ようするに、47年見解は、結論として、集団的自衛権を認めなかった。
【外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態】
47年見解は、この文の時のみ憲法9条の下で自衛権の発動ができる、自衛の戦争ができる、として、
その自衛権とは個別的自衛権のみと考えていた。
我が国が攻撃されたときの自衛なのだから、外国に出かけて行って外国を守るというような集団的自衛権は当然考えていない。
しかし、【外国の武力攻撃によって】というのは、【どこの国が】外国の武力攻撃によって攻撃されたときとは書いてない、というのだ。
【日本が外国の武力攻撃によって】とは、書いてない、というのだ。
だから、【どこか外国が、他の外国の武力攻撃によって攻撃された場合も含む】、というのだ。
その国が攻撃されたことで、【我が国の国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態】が発生することがあったと仮定したとき、その場合も、自衛権の発動で戦争ができるというのだ。
この場合は、外国に出かけて行ってその国を守る為に戦争するのだから集団的自衛権の行使容認だ、というのだ。
こんなこじつけのお粗末な屁理屈で、自衛隊を海外に戦争に出すという。
●【こんな非合理な集団的自衛権行使容認で、こんな非合理な戦争法を通してよいのか?】
これはもうdemocracy無血革命する時なのだ。
日本国憲法は社会契約説にのっとっている。
社会契約説が、近代市民革命をリードし、近代憲法の礎になっている。
それらの価値は日本国憲法の基盤をなしている。
・国家とは、なにか。国家とは主権者人民が、主権者人民の基本的人権を守る為に、主権者人民が作ったものだ。
・人民主権の主権とはなにか。政治を最終的に決定する権利である。主権は人民にある。
・国家権力とは何か。国家に主権者人民の基本的人権をまもるという使命を果たさせるために、主権者人民が国家に信託した権力だ。
・もし、国家が主権者人民の基本的人権を毀損する資格無き国家になったらどうすればいいのか?
主権者人民は、そんな資格無き国家を取り換える権利を持つ。それが抵抗権であり革命権だ。抵抗権、革命権はきわめて正当な権利だ。
・憲法とは何か?憲法とは、主権者人民が国家を縛ったものだ。
・立憲主義とは何か?国家が憲法に縛られて政治をすることだ。
安倍晋三は、すでに、憲法99条に違反している。
「第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」
もはや、資格無き国家権力なのだ。
最高裁判所も資格無き国家権力なのだ。
国会はどうか。憲法を重視しているか?していない。自公政権の憲法蹂躙は目に余る。
この戦争法推進など典型的な憲法蹂躙だ。
もはや、この国家権力は、抵抗権、革命権で取り換えるべき存在なのだ。
(了)
【補足日記】
【砂川判決は違憲なので評価に値しないが、それでも集団的自衛権を認めているという安倍晋三と内閣法制局長官のペテンを明らかにしておこう】
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1943534622&owner_id=38378433
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コミュ紹介
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同志は参加すべし!このコミュへ!
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コミュ“新党憲法9条”
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コミュ“「新党憲法9条」の活用術”
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コミュ“改憲阻止!民治主義を_市民の会”
(
http://mixi.jp/view_community.pl?id=5994067 )
(了)
【参考情報】
武蔵村山市憲法9条の会
https://bn-in.facebook.com/murayama9zyou/posts/402917136515511
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昭和47年10月14日の政府見解(全文)
昭和47年10月14日 「集団的自衛権と憲法との関係に関する政府資料」(参議院決算委員会提 出資料)
国際法上、国家は、いわゆる集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもって阻止することが正当化されるという地位を有しているものとされており、国際連合憲章第51条、日本国との平和条約第5条、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約前文並びに日本国とソビエト社会主義共和国連邦との共同宣言3第2段の規定は、この国際法の原則を宣明したものと思われる。そして、わが国が国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない。
ところで、政府は、従来から一貫して、わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されないとの立場にたっているが、これは次のような考え方に基づくものである。
憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が……平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第13条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、……国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。
しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止(や)むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。
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