mixiユーザー(id:40049699)

2015年06月23日18:54

204 view

続(7)数十年前のチョムスキーの姿

絶歌出版に女児の母がコメント
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=3480902

あまり付け足すこともないかとは思われるので、この流れを見ていたとき、ロベール・フォーリソンの歴史修正主義論争が思い返されたことなどの話を置いておこうと思う。もちろん、私自身、カール・マルクスを引いた悪口は腐るほど申し上げているので、気に入らないのであればそれはそれで結構なことです。ロッカーというよりかかってこいやなドッジボーラーなので。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

言論の自由とは私は私の言いたいことを言う。あなたはあなたの言いたいことを言い、理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする・・・のが本来なのだが、


http://anond.hatelabo.jp/touch/20150620221518

のようなずのぼせたRidiculousな形容のしかたで表される真性の愚の骨頂の『バカ』は、「言論の自由」を前段だけに限定してとらえている。

フランソワ=マリー・アルエにもやや足りなかったこれの重要性は、擬制的に「理非の判断を下す方々」を論争の当事者よりも「上に置く」ということになるからだ。

かつてフランスで、ロベール・フォーリソンという「自称歴史家」が

「アウシュヴィッツにガス室は存在しない。
なぜならば、それを証明するナチスの公文書が存在しないからだ。
ユダヤ人はチフスで死んだんだよ」

という論を立てた。

その書物の序文をノーム・チョムスキーは
「私はこの著者の論に賛成ではないし、論証も不備であると思う。
しかし、どのように人を不快にする主張であろうと、それを公表する権利を私は支持する」と書いた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そこには原理に対する敬意はあったけれど、当の本を読んで、その理非を判断する人々の知性に対する敬意はいささかも感じられない。

ユダヤ人と言論 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1937645173&owner_id=40049699&full=1

事件発生が7日で、翌日の8日の『ニュースウォッチ9』で、パリ特派員がヴォルテール(フランソワ=マリー・アルエ)を引用したんですよね。 

I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it. 

しかし、ヴォルテールはそこから途切れているわけです。ヴォルテールはその死んでも守る自由を駆使して何をしたのか? 

例えばこんな本があります。 

Poliakov, Léon, 菅野賢治『ヴォルテールからヴァーグナーまで(反ユダヤ主義の歴史第3巻)』(筑摩書房、2005.11) 

まあ、これじゃあなんのこっちゃ、というわけで、ヴォルテールの『諸国民の風俗と精神について(Essai sur les Moeurs et l'esprit de nations)』(1756年)がよいでしょう。とにかくこき下ろします。 

大事なことは、批判対象者に反論する機会が与えられているか否かです・・・が、死人に対しては、これは原理的に批判の仕様がなくなってしまうので、例外としても宜しいであろうと解釈しております。イスラム教徒に反論の機会が与えられていたか?例えばヴォルテールのユダヤ批判に対して、ユダヤに反論する機会があったかを考えてみれば、わかるはずです。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

自分の意見を言い切っておしまい、ということだとそれでは言論の自由にならないのではないか。公開していてもなんもドッジボーラーでもボールが飛んでこない、ということは度々あるが。

原理的にはなるのだろうが、社会制度として、もちこたえることができないのではないのか。

反論する機会を持たない人を激しく攻撃することをも「言論の自由」だと言い切れる人間は病んでいるのではないのか。読んだら蟻地獄のように引きずり込まれる呪いを掛けながらその自由を語るのは如何なものか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これについては、どっちにも取れるといえば取れるのですが、文脈から解釈してください。

「例えば、上下運動する球を両端から糸で引っぱってごらん。球は止まるでしょ。同様に文章の中で言葉は、無数の糸で引っぱられているのです。引っ張られて意味が決まる。その働きが文脈の力というものです。(・・・)現代文は論理を日本語で表さなければならない。つまり、「個人言語」ということです。そして、その言葉は揺れ動く。論理そのものは普遍的ですけど、それを表現する言葉が数学における記号と違って、たえず状況に応じて様々な意味に変化します。だから、同じようにきちんと論理的に書いてある文章でも、われわれが自分の個人言語で読んでしまうと、人によって言葉の感覚が違うから、いく通りもの答えになってしまう。」(出口汪『NEW出口現代文講義の実況中継』(語学春秋社、2007)pp.43, 46-47) 

「まず、時間は独自の役割を演じる。人々は間違いを犯したことに気づき始める。(・・・)成熟と理解はゆっくりとしか現れない。大事なのは我々のパートナーらに対し、自分たちが作り上げたこの状況が耐えられないほど馬鹿げた危険なものであることを理解させるため、語りかけ、説得し、辛抱強く待たねばならない。(・・・)」(セルゲイ・カラガノフ教授と『スプートニク』のインタビュアーとの対話による。『ロシアの声』2015年2月20日付)


0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する