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2015年05月11日00:12

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5月11日の日記

今日の出来事:1524年−相合元綱誅殺、1862年−松浦松洞切腹、1868年−北関東戊辰戦争:第一次宇都宮城攻城戦、1891年−大津事件、1939年−第一次ノモンハン事件、1942年−「大洋丸」沈没、1942年−第二次世界大戦:第二回神戸空襲、1955年−紫雲丸事故、1970年−松浦輝男・植村直己がエベレストに日本人初登頂

今日は、相合元綱誅殺です。相合元綱は、毛利弘元の三男で毛利興元・元就の弟です。武勇に秀でており「今義経」の異名を取りました。1517年の「有田中井手の戦い」では、次兄・元就と共に武田元繁を討つなどの活躍をしました。1523年、甥(興元の子)で当主・幸松丸が9歳で病死すると、志道広良ら重臣達の推挙により、正室の子・元就が後継者となる事が決定しました。しかし、家臣団の中では元就か元綱か、尼子氏から当主を入れるかで大いに揉めていたため、元就は家督を継ぐ事を辞退しました。そのため、毛利元就の家督相続を要請する起請文を作成し、15人の宿老(福原広俊、桂元澄、坂広秀、渡辺勝、井上元兼、井上元盛、井上元貞、井上元吉、井上就在、志道広良、赤川元保、赤川就秀、粟屋元秀、飯田元親、国司元相)が署名しました。それを確認すると、家督を継ぐ事を承諾しました。しかし、それでも城に入ろうとしなかったため、妻の妙玖が満願寺の住職に城に入る日取りを占ってもらって、吉田郡山城に入城しました。これに対して、坂広秀・渡辺勝らが相合元綱を当主に擁立しようと画策し、元就の暗殺を計画しました。それに気付いた元就は先手を打ち、志道広良に300の兵を率いさせて相合元綱の居城・船山城を急襲させました。相合元綱の手勢は30名余りでしたが、武勇に優れる元綱は志道広良の軍勢を押し返すなどの抵抗をしましたが、最後は体中を射抜かれた後に槍で刺されました。坂広秀と渡辺勝が誅殺され、桂広澄が自刃しました。謀反を起こした坂氏の一族で長老格であった桂広澄は事件に直接関係していませんでしたが、毛利元就が止めるのも聞かずに一族の責任を取って自害してしまいました。元就の命を聞かずに勝手に自害した事で、桂一族では粛清を受けると思って桂元澄を中心に一族で桂城に籠りました。驚いた毛利元就は児玉就忠を遣わして説得しましたが、桂元澄は応じませんでした。そのため、毛利元就自らが桂城に単身乗り込んで、桂元澄を説得しました。また、謀反を起こして粛清された渡辺勝の息子、通は乳母に助けられて備後の山内家へ逃れました。その後、毛利幸松丸の外戚として強大な専権を振るって、尼子氏と通じて相合元綱を擁立しようと画策した高橋興光ら高橋氏一族を討伐しました。まず、松尾城にいた高橋興光の父・弘厚を滅ぼし、次に興光の叔父・盛光を唆して合戦から帰還途中の高橋興光を討たせました。それに乗じて高橋氏の領地を併呑し、主君殺しを理由に高橋盛光を殺害しました。これにより、石見高橋氏は滅亡しました。相合元綱派は尼子氏の有力家臣・亀井秀綱を後ろ盾とし、尼子経久が絡んでいたため、毛利元就は尼子氏から離反して大内氏へ接近しました。相合元綱の子・元範は幼少であったため、罪を許されました。後に敷名と名字とし、備後地方を拠点とする毛利家臣となりました。毛利元就には、子・毛利隆元、吉川元春、小早川隆景がおり、兄弟の絆を大切にするように諭したという逸話「三子教訓状」や「三矢の教え」は、この悲劇を経験したからであると言われています。

次に、松浦松洞切腹です。松浦松洞は、長州藩の志士です。魚商人の子として生まれ、通称は亀太郎です。長州藩士・根来主馬の家臣として仕えました。1856年、吉田松陰の松下村塾に入り、尊王攘夷運動に参加しました。1858年、江戸に出て渡米を企てましたが、失敗しました。幼少より絵画を志し、画家としては四条派の羽様西崕に師事しており、1859年の「安政の大獄」によって江戸護送が決定した吉田松陰の肖像画を残しました。吉田松陰は、小田村伊之助(後の楫取素彦)の勧めで肖像画に賛文を書き入れて、江戸へ護送されました。この「吉田松陰自賛肖像」は、形見として吉田松陰の家族や門下生の元に届けられました。1862年、久坂玄瑞らと上洛して公武合体・開国派の長州藩士・長井雅楽の暗殺を計画しましたが、翻意を促されて断念し、京都・粟田山にて切腹しました。享年26でした。これが、松下村塾生の最初の殉難者となりました。現在、「吉田松陰自賛肖像」は6本が確認されています。そのうち、門下生の久坂玄瑞、品川弥二郎、岡部富太郎、中谷正亮に与えたものが4本、残る2本は吉田松陰の実家・杉家と、養子に行った吉田家に渡したものです。

その次に、北関東戊辰戦争:第一次宇都宮城攻城戦です。大鳥圭介が率いる旧幕府軍本隊は「小山戦争」で勝利し、壬生を目指しましたが既に新政府軍が駐留していたため反転し、栃木に入ると鹿沼へ向かい日光を目指しました。一方、土方歳三が率いる旧幕府軍別動隊は松戸から水海道、下妻、下館を経て、真岡まで進軍しました。こうした旧幕府軍の動きに、新政府軍は「小山戦争」での敗戦後に宇都宮へと帰還していた香川敬三隊100人と、宇都宮藩主・戸田忠恕が率いる宇都宮藩兵300人、救援に駆けつけた烏山藩兵100人の計500人が宇都宮城の守備を固めました。一方、東山道総督府軍が宇都宮救援のために緊急派遣した鳥取(河田景与が率いる藩兵3小隊)、土佐(祖父江可成が率いる藩兵、迅衝隊5小隊と砲兵隊)、松本の藩兵が古河に進軍し、薩摩(伊地知正治が率いる藩兵5番隊と砲兵隊)、長州(藩兵第1大隊第二中隊)、大垣(藩兵2小隊)の各藩兵が幸手に進軍しました。土方歳三は砂田村に到達すると守備する彦根藩小隊を急襲し、宇都宮城へ撤退させました。次に、宇都宮藩の主力1番隊が備える簗瀬の背後に進撃し、宇都宮城内へ撤退させました。こうして宇都宮城下へ進軍し、英厳寺に軟禁されていた幕府老中・板倉勝静を救出しました。宇都宮城下では、幕府軍と新政府軍が衝突して白兵戦となりました。二ノ丸御殿やその北にある宇都宮二荒山神社も被弾して炎上しました。東山道総督府参謀・有馬藤太は、目の前の敵から宇都宮城を守りきっても、大鳥圭介が率いる旧幕府軍本隊から宇都宮城を守り切る余力がないと判断しました。そして、一度撤退して宇都宮城を奪還する戦略を執る方が有利と大軍監・香川敬三に進言し、新政府軍と宇都宮藩主・戸田忠恕以下は宇都宮城から脱出しました。その日、宇都宮城下の火炎で城内の建造物は藩校・修道館など一部を除いてすべて焼失しました。城下は放火されて、二荒山神社は本殿をはじめ殆どの社殿が全焼しました。二荒山神社の宝物は社家により城外の平野神社に移されたため、戦火から逃れました。鹿沼に進軍していた大鳥本隊は宇都宮に向けて進軍し、土方別働隊と宇都宮城にて合流しました。

その次の次に、大津事件です。大日本帝国を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現・大津市)で警備にあたっていた警察官・津田三蔵に、突然斬りつけられて負傷した暗殺未遂事件です。日本政府は、事件を所轄する裁判官に対し、大逆罪によって死刑を類推適用するよう働きかけました。大審院院長の児島惟謙は「法治国家として法は遵守されなければならない」と、政府の圧力に対し反発しました。一般人に対する謀殺未遂罪を適用して津田三蔵に無期徒刑の判決が下されました。この事件判決で司法の独立を達成した事により、まだ曖昧だった「大日本帝国憲法」の「三権分立」の意識が広まる事となりました。日本政府内では外務大臣・青木周蔵と内務大臣・西郷従道、司法大臣・山田顕義が責任を負って辞職しました。

そのまた次に、第一次ノモンハン事件です。1939年5月11日、満州国軍とモンゴル軍が遭遇し、交戦しました。第23師団長の小松原道太郎中将は、モンゴル軍を叩くために東八百蔵中佐の師団捜索隊と2個歩兵中隊、満州国軍騎兵からなる部隊(東支隊)を送り出しました。5月15日、現地に到着した東支隊は、敵が既にいない事を知って引き上げました。しかし、支隊の帰還後、モンゴル軍は再びハルハ川を越えました。5月21日に小松原道太郎師団長は再度の攻撃を命令しました。出動した兵力は、歩兵第64連隊第3大隊と連隊砲中隊の山砲3門、速射砲中隊の3門をあわせて1058人、前回に引き続いて出動する東捜索隊220人(九二式重装甲車1両)、輜重部隊340人、さらに満州国軍騎兵464人が協同し、総兵力2082人でした。指揮は歩兵第64連隊長・山県武光大佐がとり、山県支隊と呼ばれました。ソ連軍も部隊を送り込み、25日にハルハ川東岸に入りました。兵力は約1200人でした。これにモンゴル軍第6騎兵師団の約250人をあわせ、ソ連・モンゴル軍の総兵力は約1450人、装甲車39両、自走砲4門を含む砲14門、対戦車砲6門でした。ソ連軍の指揮官は機械化狙撃大隊長のブイコフ大佐でした。山県武光大佐は、敵兵力を実際より少なく見積もり、包囲撃滅作戦を立てました。先行する東八百蔵中佐の捜索隊は、5月28日の早朝にほとんど抵抗を受ける事なく突破に成功し、橋の1.7キロ手前に陣取りました。これとともに後方陣地への航空攻撃、主力部隊の前進がはじまりました。戦闘開始直後、ソ連・モンゴル軍は混乱して退きました。正面と南の部隊も退却して兵力を抽出し、西岸から渡ってきた部隊とともに山県・東の部隊に立ち向かいました。さらにソ連の第36自動車化狙撃師団の第149連隊が、タムスクから自動車輸送で到着しました。日本軍主力の前進は第一線の陣地を突破したところで停止し、東支隊は孤立しました。29日にソ連・モンゴル軍は東捜索隊への攻撃を強化し、その日の夕方に全滅させました。東八百蔵中佐は戦死しました。日本軍主力は30日に兵力の増援を受けましたが、ソ連・モンゴル軍は次の戦闘に備えて防衛線を西岸に移しました。以後は目立った戦闘は起こらず、日本軍は捜索隊の遺体と生存者を収容して6月1日に引き上げました。ハルハ川東岸は再びソ連・モンゴル軍の制圧下になりました。

そのまた次の次に、「大洋丸」沈没です。「大洋丸」は日本郵船が運航していた客船で、元は「第一次世界大戦」でドイツから賠償船として譲渡された「カップ・フィニステレ」です。日本では当時最大級の客船でした。「太平洋戦争」開戦後、日本陸軍の輸送船となりました。1942年5月5日、宇品港を民間人を含む1360名、物資2300tを乗せ他4隻と特設砲艦(貨物船改造)1隻の船団を組み、シンガポールに向けて出航しました。5月8日に米潜水艦「グレナディアー」の雷撃を長崎県男女群島の近くで受け、浸水直後カーバイト150tに引火炎上しました。さらに、積荷弾薬へ誘爆し、被雷から約55分後に沈没しました。乗客、軍属、船員他817名が殉難しました。この時、南方の占領地インフラ整備に召集された鐘淵紡績、小野田セメント、三菱商事、住友商事、三井物産などの営業マンや、台湾烏山頭ダムの八田與一をはじめとした技術者らが多く搭乗しており、当時の経済、技術分野の第一線に立ち牽引していた人々が犠牲となりました。

さらに次に、第二回神戸空襲です。1945年5月11日、「B−29」爆撃機92機により、神戸市の川西航空機甲南工場を標的とした空襲を受けました。この空襲で、死者1093名、負傷者924人の被害が出ました。

最後に、紫雲丸事故です。紫雲丸事故は、「国鉄戦後5大事故」の1つです。国鉄宇高連絡船・紫雲丸が第三宇高丸に衝突して沈没、修学旅行中の児童ら168人が死亡しました。この事故は前年に起きた「洞爺丸事故」と並んで国鉄に大きな教訓を与え、連絡船の船体構造の全面的な見直しが実施されました。瀬戸大橋の建設機運が高まり、本州四国連絡橋3ルートのうち、児島・坂出ルートが最初に建設される事につながりました。また多数の児童が溺死する事態となったため、この事故を境に全国の小中学校へのプールの設置と体育の授業で、水泳の普及が進められました。

今日の誕生日:丹羽長重、サルバドール・ダリ、泉谷しげる、高橋洋子、久保田早紀、松尾貴史、冬木弘道、浜田雅功(ダウンタウン)、ひかる一平、田辺徳雄、松井大輔、SHELLY、中島麻末「Ami」(E−girls、Dream)、宮武美桜(bump.y)、トロットスター

今日の記念日:こむぞう記念日、長良川鵜飼の日、朔太郎忌、ご当地キャラの日

今日の「今日訓」:本日は、1942年に詩人の萩原朔太郎が死去した事で「朔太郎忌」、毎年、この日に岐阜県・長良川で「鵜飼い開き」が行われる事から「長良川鵜飼の日」、「こ(5)むぞうが、い(1)い(1)ね」と君が言ったから「こむぞう記念日」、「ご(5)当(10)地(1)」の語呂合わせで「ご当地キャラの日」となりました。
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