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2015年05月02日07:25

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「戦争ごっこ」

朝は海外ニュースを観る

今朝も観ている

アルジャジーラが
中東の紛争地域を取材した映像が流れている

もはや
かなり見慣れた光景になっている

なんにも見えない茫漠とした荒野に向けて
重機関銃をぶっ放している

こういう映像は
かなりむかしから見せられている

そして
かなりむかしから違和感をかんじてきた

最初のうちは
「いったい誰に向けて機関銃をぶっ放しているのか?」と思っていた

そのうち
もっと強い違和感をかんじるようになった

こういう映像は誰に見せるために撮影しているのか?



「崩れ落ちる兵士」という有名な写真がある

ロバート・キャパという報道カメラマンが撮ったとされる
スペイン内戦で敵の銃弾に倒れる瞬間の兵士を写したといわれている写真だ

確かにひとが撃たれた瞬間を写した写真というのは
それなりにインパクトを持ったものには違いない

しかし
これもまた
誰に見せるために公表されたのか
いったいなんのための写真なのか
そのことを思わずにいられない

1960年代のヴェトナム戦争でも数多くの戦闘写真・戦闘映像が公表された

なかにはピューリッツァ賞を受賞した写真もある

しかし
そのときにも
一抹の
「誰に向けて公表しているのか?」という疑念をかんじた


2014年
イスラム国を取材していた日本人ジャーナリストが
イスラム国戦闘員に拘束され
処刑される映像がインターネットにアップロードされた

世界中のマスメディアが
「これはイスラム国のプロパガンダだ」と一斉に非難した


ふと思う
5月の晴れた土曜日の朝に報道された
もはや日常化したアルジャジーラの重機関銃をぶっ放す映像もまた
プロパガンダではないのか?

おれには
この映像で重機関銃をぶっ放しているオトコにどんな正義があるのかわからない

だいいち
誰に向かってぶっ放しているのかも知らない

でも
確実に
そのオトコが誰かと戦っていることを
映像は伝える

崩れ落ちる兵士も
ヴェトナムの写真や映像も
イスラム国の処刑映像も
結局は
誰かを鼓舞させるための道具に過ぎないのではないのか



そこから
悲惨さを受けるか
勇ましさをかんじるか
それはあくまでも観る側の問題だが
確実に誰かになにかをインスパイアさせるための手段である


子ども時代
戦争のドラマや映画を大量に観た

アメリカ兵にはサンダース軍曹という名前があって
きちんとした性格付けがされているのに
サンダース軍曹が戦っている相手であるドイツ兵には名前もなく
まるで「ただの敵兵」とでもいうように
まるでダミー人形のように
ただ殺されるだけのために存在しているように描かれていた

「なんか おかしい」と思った

現実社会では
名前のない人間などいないし
ただ殺されるためだけに存在している兵士もいない

存在は
相対性はあるものの
等価ではないのか?

むろん
そんな難しい考え方はしなかったものの
アメリカ兵には名前も性格もあるのに
ドイツ兵には名前もなければ性格もないなどということはないだろと思った

それがいま
ひとつにつながった

これは
誰かに見せるために写されているのだ

誰かが観ることを企図して報道されているのだ

フィクションも
ノンフィクションもない

対局にいるのが誰であろうと
「こっちにいるのは味方だ」と
そう物語る


なにか
とても虚しい感覚をおぼえた
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