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2015年04月25日01:44

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広島に住んでて知らなかったこと2題

今日は広島市から岩国市まで仕事で回ってきました。

途中の宮島近辺で知らなかったことを二つ発見しました。

一つ目は宮島口から宮島へ渡る連絡船が2社あったことです。

現在、利用者の9割以上は宮島口-宮島間で、以下の2路線が就航している。

広島電鉄系の宮島松大汽船(赤いライン)と

西日本旅客鉄道系のJR西日本宮島フェリー(宮島連絡船)(青いライン)

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両航路の違いが今日分かりました。

青いラインのJRは宮島口の桟橋から宮島の桟橋へ直行ですが、赤いラインの松大汽船は満潮時は海に浮かぶ大鳥居に向かっています。

大鳥居ぎりぎりまで近づき直前で左折します。

観光客の皆さんは船の右側でカメラを構えて、大鳥居の向こうに、これも海面に浮かぶ厳かな厳島神社の佇まいを真っ直ぐに捉えることができます。

今まで広島に住んでて何回も行ったのに、JRばかり乗っていたのでこのことを今日初めて知りました。

次回、お客様をご案内する時は、満潮時を狙い、松大汽船にてご案内しましょう。

二つ目は国道2号線を宮島口から少し岩国方向に走行すると、

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このような標識が建っています。

今まで、気にはなりながらも調べていませんでした。

京大原爆調査班? の災害?

以下、京大のホームページから

昭和20年、原子爆弾が投下された広島で被爆者調査、診療にあたっていた「京都大学原爆災害総合研究調査班」は、同年9月17日に西日本を襲った枕崎台風による土石流の被害にあいました。

調査班は、原爆投下直後に軍の依頼を受けて医学部と理学部を中心とした教員、学生、看護婦らで結成されました。

9月3日からは大野町(現廿日市市)にある大野陸軍病院を拠点に原子病患者の治療および病理学的研究調査が、約50名の調査班員により進められました。

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しかし、折しも「枕崎台風」と呼ばれる大型台風による大規模な土石流で、班員11名を含む156名が死亡しました。

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京都大学で行われた合同葬儀

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なぜに京都大学かは以下www.marino.ne.jp/~rendaico/jissen/hansenheiwaco/gensuikinundoco/genshiryokukenkyushico/nihonnokaihatushi.html

【戦前日本の原爆開発史】
 平野貞夫氏が、「昭和天皇の極秘指令」の中で、戦前日本の原爆開発史を記述している。非常に興味深い裏舞台を明らかにしている。

 日本は、米国に遅れること1年後の1940(昭和15).4月、原爆開発研究に着手する。1941(昭和16).4月、航空技術研究所長の安田中将が、理化学研究所の大河内正敏所長に「原爆製造に関する研究」を正式に要請した。

仁科芳雄博士が責任者となり、研究を進めて行った。1943(昭和18)年初め、東条英機首相兼陸相が、川島虎之輔大佐に「アメリカとドイツで原爆製造計画が相当進んでいる。もし我々が遅れたら戦争に負ける。ひとつお前が中心になって製造を進めろ」との指示を与えている。

陸軍は、仁科博士の研究をサポートしながら原爆開発に乗り出していくことになった。その研究は、仁科博士の「仁」をとって「二号研究」と呼ばれた。

海軍の原爆開発は、1943(昭和18).5月、京都大学の荒勝文策教授に原爆開発研究を委託したことから始まる。しかし思うように進捗せず、1945(昭和20)年初め、仁科研究室に開発の協力依頼し、「F研究」を立ち上げる。

昭和天皇と原爆開発

【戦前日本の原爆開発史】
 平野貞夫氏が、「昭和天皇の極秘指令」の中で、戦前日本の原爆開発史を記述している。非常に興味深い裏舞台を明らかにしている。

 昭和天皇が、原爆開発研究を快く思わず制約し始めたと云う。1945(昭和20).2月当時の海軍航空本部嘱託で、ウランについての情報を担当していた岩田幸雄氏は次のように証言している。

杉山元・元帥が私邸で岩田氏に話した内容とのことである。杉山元帥は次のように語った(出典は、出雲井晶編著「昭和天皇」)。

 「岩田君、君は軍籍の無い一民間人であるにも拘わらず、この戦争では日本軍の為に挺身して偉大な貢献をしてくれ心から感謝している。その労苦に報いるためにも、一日も早く新兵器(原子爆弾)を開発し、劣勢を挽回すべく懸命の努力をしていたが、事情があって残念ながら新兵器製造は中止した。実は御上(天皇)から強いお叱りを受けたのだ」。
 
概要「自分としては猶予は赦されず、製造を急がせていた。そして完成すれば最初にハワイに落とし、その威力を示し、戦況を日本軍有利に導く計画であった」。

 概要「日本が原爆開発を本格化させた段階で、当時首相だった東条英機がその旨を昭和天皇に上奏した。東条首相としては、『戦局は極めて困難な状況下にあり、起死回生の決定打として、天皇にお喜びいただけるものと思って申し上げた』のだが、昭和天皇は『意外に強い口調で反対された』」。
 
概要「昭和天皇のご叱責は次のような観点からのものであった。『数カ国が、新兵器開発を競っているとのことだが、日本が最初に完成し使用すれば、他国も全力を傾注して完成させ使用するだろうから、全人類を滅亡させることになる。それでは人類滅亡の悪の宗家になるではないか。またハワイに投下する計画とのことだが、ハワイには、日本の同胞が多数移住し、現地アメリカ人民と共に苦労し、今日を築き上げたところだ。そのような場所に新兵器を製造することには賛成できない』」。
 
概要「天皇陛下のそういう態度に接して、東条首相は、天皇陛下のご意志に反することは出来ないと尻込みし始めた。私は、敗戦となれば日本が滅びてしまい、全てをなくしてしまう。そう考えて製造促進を主張した。

次のように述べた。『参謀総長の立場に在る者として日本を敗戦に導くことはできない。戦争とは結果に於いて勝利を導くことが肝要であり、今の日本は手段を云々できる時ではない。勝てば天皇にお喜び頂けるに違いない。

そして天皇が希求される世界平和を実現できるではないか』。私はこういって東条首相を説得したが、結局同意は得られず、1944(昭和19).2月に参謀総長の座を東条に譲り、野に下った」。
 
概要「ところが、同じ年の7月、東条内閣が総辞職して小磯国昭内閣が誕生し、私は再び陸軍大臣として入閣した。復帰した私は、秘密裏に再度原爆の開発を急がせることを決定したのだが、新兵器を積むロケットの燃料製造過程で誤爆事故が突発し、再び昭和天皇の知られるところとなった。天皇陛下に呼ばれた私は、『まだやっていたのか!』と強く叱責され、誠に面目なく、これ以上開発を進めることは出来なくなった」。
 
概要「私は、日本が勝っても負けてもこの責任はとる覚悟だ。例え勝てたとしても天皇陛下の大御心を煩わせた罪は万死に価する。更に、多くの部下をしに至らしめた責任から逃れることはできない。ここで話した事は誰にも話さないでくれ給え。このことを知っている者は天皇陛下と東条と自分だ。いずれにしてもその時が来れば自決してお詫びする覚悟だ」。(杉山元帥は、杉山メモを残し、敗戦直後に自決した。そのメモには昭和天皇との原爆開発遣り取りの記載は無い)

 これによれば、昭和天皇が、「人類滅亡の悪の宗家になる。人類滅亡の原因が我ら大和民族であってはならない」として原子爆弾の研究禁止を通告したことになる。これにより、軍部の核兵器研究は極度に内密に研究されて行くことになった。しかし、このことが昭和天皇に知れ渡り再度研究の禁止が通告されている。

 広島、長崎に原子爆弾を投下された。昭和天皇は玉音放送の中で次のように抗議している。

 「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜(むこ)ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯(かく)ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子(せきし)ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ 」。

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荒ぶる時代にあっても昭和天皇のお心には日本人、そして世界の人類の姿が映っていたのだと思わずにはいられない。

特定の思想や主義や民族や教義で人類を分断し対立を煽るのではなく、いつの時代も、全ての人々が、全ての人々の姿を心に思い浮かべ、自立と自己抑制をしながら寛容と忍耐で対立を乗り越え、共生の理念を共にしたいものですね。

そんな宇宙大のように広い、深い、理知的な心を持ちたいものだ。

あらら、また話がそれてしまった・・・。
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