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2015年01月21日18:11

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古い映画を思い出す名前・・片目だとやっぱり死ね氏ね団

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Papal bull(牛!)
ローマ教皇の書簡に付いている丸い鉛の封印
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「雄ウシはへビの父親であり、へビは雄ウシの父親である」
●雄牛(Bull) 〔Gr. tau:roV〕

 聖書で「神」 Godと訳されている添え名はエルElであるが、このエルは本来は「人類の父」と呼ばれたフェニキアの雄ウシ神の添え名であった。

「セム族の神々の至高神として、エルはその地その地の神々、つまりパール神とともに、シリア各地で崇拝された。

そして、エルの添え名の1つに、実際、『雄ウシ』というのがあった」[1]。
白い月- 雌ウシ神であるへーラー-エウローペー-イーオーの夫であった雄ウシ神ゼウスと同様、エルもアシュラAsherah(セム族の聖なる雌ウシ)と結婚した。

エルは太陽神エリアス、すなわちへリオスと同一視された。

エルはイエスの時代になっても、なお、セム族の人類の父であって、イエスは十字架上からエルに向かつて叫ぴ、エルを父と呼んだ(『マルコによる福音書』 15: 34)。

 古代ではほとんどすべての神々は、遅かれ早かれ、雄ウシに化身した。
クレタ島のミーノースという月を象徴する王はミノタウロスという月を象徴す雄ウシ群の中につぎつぎと宿った。

そしてその雄ウシたちはミーノースの身代わりとして生贄に供された。
ヒンズー教の死の神であるヤマは雄ウシの頭をしていて、ミーノースと同様、冥界における審判者になった[2]。

シヴァは白い雄ウシであるナンディに化身した[3]。
ネプカドネザル王が「草を食べた」本当の理由は、おそらく、彼の霊魂がひととき聖なる生贄の雄ウシの体内に入ったからであったろう(『ダニエル書』 4: 33)。
イスラエルの王たちに仕えた宮廷の予言者たちは、雄ウシの仮面を着けて、王になり代わり、戦いに勝つためのまじないをかけた(『列王紀上』 22:11)

 雄ウシ崇拝はミトラ教の核心であった。

雄ウシの血は、雌ウシの助けを借りずに、地上に万物を創造するカがあるものと信じられた。

しかし、雄ウシの血を取って、月がそれに呪術をかけた、ということを考えると、雌ウシの力も暗に働いていたとも思われた。

雄ウシはペルシアの月女神アナヒーターに捧げられた。
ギリシア人はアナヒーターをアルテミス・タウロポロス(「雄ウシ殺戮者」)と呼んだ。

雄ウシを殺す救世主ミトラMithraはこのアルテミスを後代になって男性化したものである[5]。

父権制社会のたいていのシンボルもそうであったが、ミトラ教のシンボルもアジアの女神にまつわる神話から取ってきたものであった。エローラの洞穴にあるカーリーの像はミトラ特有の姿態を示している。
すなわち、生贄になるウシの鼻面をつかみ、いまやまさにそのウシを殺さんとしているのである[6]。

 アッティス、キュベレー、ミトラの祭式において、ローマでは雄ウシの供犠が行われたが、そのとき、血の洗礼をするために雄ウシが殺されたのであった。

「深い掘割」が掘られて、その上に穴や裂け目のある厚板が張り渡された。そしてその上で生贄のウシが殺され、その血が掘割の中にいる入信者の上にしたたり落ちた……

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1976 映画 キャリー
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入信者は振り向いて頭を上に向け、その血が唇、耳、目、鼻孔にしたたり落ちるようにした。

舌をその血で湿らせて。それから、その血を聖餐のように飲んだ。

こうした洗礼式を見ていた人々に迎えられて、入信者は血の洗礼を終えて掘割から出てきた。
そして罪の汚れが清められ、再生して永遠の生をこれから生きるのだ、と信じた」[7]。

こうした雄ウシの供犠に参加した人々は、キリスト教徒が仔ヒツジの血で洗うと言っていることを、文字通り、実行したのであった。

 エジプトの救世主ウシル〔オシリス〕は、エジプトの月-雄ウシであるアーピス-ウシル〔オシリス〕として、雄ウシの姿で崇拝された。

そしてその地域の罪を償うために、毎年、殺された[8]。

ウシル〔オシリス〕はその再生の犠式においては、黄金の仔ウシ、ホルスとしてその姿を現した。

ホルスは黄金の雌ウシをその像とするアセト〔イシス〕から生まれたものである。

アロンの下にあったイスラエルの人々も同じような黄金の仔ウシを崇拝していた(『出エジプト記』32: 4)。

 オルペウス教の神ディオニューソスも雄ウシの姿をしていた。

ディオニューソスが早くに化身したもののうちの1つに、クレタ島の雄ウシ神ザグレウスがある。

ザグレウスという名前は「みごとな雄ウシ」という意味で、彼はゼウスの息子であり、またゼウスが再化身した者であり、そして彼もまたミノタウロスであるとも言われている。

ディオニューソスは地上では雄ウシ、再生の場である冥界ではへビであった。

オルぺウス教の定式文句に次のようなものがあった。

「雄ウシはへビの父親であり、へビは雄ウシの父親である」[9]。

ディオニューソスはくり返し何度も新しい肉体に生まれ変わった。そのためディオニューソスをペルシアのメシアMessiahと同一視する人もいた。

『エノク書』(偽典の中の1書)では、メシアは白い雄ウシとして表わされている[10]。

 モイラたち、すなわち運命のの三女神についてのアテーナイの伝説では、人間はすべて、遅かれ早かれ、運命のの女神の手にかかつて死ぬと宣告される生贄の雄ウシにたとえられた。

中世の迷信では、運命の女神はモーラMoraと呼ばれた。
モーラは夜の精で、世界をさまよっては人間どもを捕らえ、入院が「雄ウシのようにほえる」まで打ちひしいだ、という。

モーラは、また、キリスト教化されて聖マウロMauraとなった。
聖マウロの日には女性は縫いものをしてはいけないとされた。それは、モイラたちのように「生命の糸を切って」しまうといけないからであった[14]。

 中世イングランドでは、公現祭(1月7日)前夜の祭儀に雄ウシ崇拝の名残りが見られた。

中央に穴のあいた大きなケーキをウシの角に投げかけたのである。

これは男根に女陰がからんだことを表す。

そしてそれからウシをくすぐると、ウシはそのためにかぶりを振った。
もしケーキがうしろに飛ぶと、そのケーキはそのウシの飼い主の女性のものとなり、前に飛ぶと土地管理人のものとなった[12]。

こうしたことは古代の占いのならわしに由来したものであったと思われる。超自然界にすでに捧げられたすべての供犠の生贄と同じように、雄ウシも予言能力があると信じられていたのであった。

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 "bull"は英語で雄ウシ。
去勢された雄ウシは"ox"〔複数"oxen"〕。


ヘブライ語アルファベット第1字の、〈アレフ〉(alef)は、〈雄ウシ〉を意味し、「太陰暦第1遇の月のシンボル、同時に、一連の月の宮が始まる黄道宮の名称である」(ELIT、157)。多くの文字、象形文字、記号は、月の位相や、よく三日月にたとえられる雄ウシの角と共存関係にある。

〔ローマ・祭儀〕 小アジアの祭祀が、西暦2世紀に、イタリアに入り、キュベレーの地下道の祭祀に、それまでローマで知られていなかった雄ウシの供犠という慣行を加えることになる。
それは、血の洗礼による通過儀礼であった。
ジャン・ボージュは書いている。

その恩恵に浴そうとする信徒は、このために特別に掘られた、地下の洞窟へ降りていった。
洞窟は、いくつも穴をあけられた天井で、覆われていた。

それから、彼の頭上で、雄ウシが、神聖な槍で殺された。
血が湯気を立てて、傷口からどっと流れ出し、信徒の全身をびっしょりぬらした。

このような血の洗礼を受けた者は、永遠の再生者〈レナートゥス・イン・エテルヌム〉であった。
ライオンとともに、最も勇猛果敢で知られる動物の生気が、祭祀にあずかる者の肉体や、おそらく精神を生まれ変わらせたのだろう。

 秘儀を受けた者を、びっしょりぬらす雄ウシの血は、二重の象徴によって、雄ウシの生命力と、とくに霊的で不死の、人生への究極の到達を洗礼者に伝えるものと考えられていた。

〔ペルシア・祭儀〕 イランを発祥の地とする《ミトラ》崇拝も、同じような意味で、雄ウシを生け贅にする。しかし、祭儀と教義の様式は、少し異なる。ローマ軍が帝国全体に《ミトラ》崇拝を普及させた。
《ミトラ》は、《救い》の神で、無敵の《勝利者》、冬至が終わって日が長くなり始める12月25日に岩から生まれた。

その日、人々は、《太陽神》ナタリス・ソリスの再来を祝っていた……。《ミトラ》の生涯で、重要な出来事は、最初の雄ウシを生け贅にしたことだった。

この雄ウシは、《アフラ・マズダ》が創った最初の生き物だった。

雄ウシを馴らして、洞窟まで連れてきてから、太陽神の命令に従って、のどを切って殺した。

アフリマン(暗黒の悪神)の身代わりである、ヘビとサソリの妨害はあったものの、その血と、骨髄と、種から、動植物が生まれた。

ミトラの昇天と、雄ウシの供犠を描いた装飾が、ミトラ教のおびただしい記念碑に光彩を添えている。

ジャン・ボージューの説明によると、この2つの場面は、〈悪霊に対する善の支配者の闘い〉を象徴する。全信徒は、たえず全力を挙げて、この闘いに加わらなければならない。

また、この場面は、ミトラのまったきとりなしによって、正しき者の魂に保証された〈永遠の光が宿る天上への到達〉をも象徴している。(BEAG)

 クラップにならって、ミトラ教の雄ウシの供犠の中に、男性原理の女性原理に対する、火の湿気に対する、太陽の月に対する、浸透を見て取り、そこから豊饅の象徴的意味を説明するのは、おそらく、あまりにも非本来的な解釈基準を適用することになる。

それは、ある面で、ミトラ崇拝そのものから生まれた象徴解釈というよりも、死と再生の、周期的な循環や生命の根源を永遠に統合しようとする象徴解釈である。

〔エジプト・神話〕 死は、生と切っても切れない関係にある。

雄ウシは、したがって、喪の一面も表す。
エジプトで、角の間に太陽円盤をつけた雄ウシは、同時に豊餞と〈死者〉の神のシンボルである。

死者の神は、ウシル〔オシリス〕と、彼の復活に結びつけられる。ウシル〔オシリス〕の葬儀は、メンフィスで盛大に催され、エジプト中から奉納物が届けられる。

だが、死んだアビス(聖牛=ウシル〔オシリス〕)は、すぐさま、別の経惟子をまとってよみがえる。人々は、額、首、白毛の背に、黒い斑点をつけたアビスの姿を、雄ウシの群れの中に認める。

〔中央アジア・神話〕 アルタイ山脈のタタール族にとって、冥界の主は、樺のない黒い小舟か、逆に黒い雄ウシに乗った姿で描かれる(HARA、244)。

彼は、ヘビか、月の形をした斧を、手に持っている。この神には、黒い雄ウシか雌ウシが奉納される。

〔アジア・エジプト・慣習〕 ほとんど全アジアで、黒い雄ウシは死と結びつけられる。
インドやインドネシアでは、雄ウシをかたどった柩に、王の遺体を安置し、茶毘に付す習慣がある。エジプトでも、ウシル〔オシリス〕の遺体を背中に乗せた、黒い雄ウシの絵が残っている。

〔ケルト・慣習〕 ケルト族にとって、雄ウシは、生殖能力という、ただそれだけの象徴的意味を持っているようにはみえない。

またその原義が、雌ウシとの性的ペアないし対立の中に求められるかどうかも不明である。事実、雄ウシは、アイルランドで、とくに好戦的な隠喩の対象にされる。武勲の誉れ高い、英雄や王は、しばしば「闘牛」と呼ばれる。

一方、『クーフリンの病』という作品で語られているように、国王選出の最初の祭典を、アイルランドでは、「雄ウシの宴」と呼んでいたが、そこで雄ウシは生け贅にされる。

動物が生け贅にされてから、詩人は肉を食べ、腹いっぱいスープを飲んで眠る。

詩人は、王の候補者の夢を見る。この候補者が、貴族の集会で選出されることになっている。

2回目の祭典(選出された王の件)では、ウマが生贅にされる。だから、雄ウシは、ウマと対立するカップルということになる。だが、いずれも同じように好戦的な動物である。

プリニウスの記述(『博物誌』16、249)によれば、ヤドリギ(神木)を摘み取る際に、白い雄ウシが生け贅にされるが、これは古くからある王家のしきたりで、ローマ帝国に征服され、独立国としての政治生命を根こそぎ奪い取られると、すっかり存在理由を失ってしまった。
というのも、雄ウシは、ウマと同じく、〈王家の動物〉、つまりデーイオタロス「聖牛」だからである。

中略
〔ケルト・神話〕 雄ウシは、まさに〈天地開闢の動物〉である。

『クーリーのウシの襲撃』という物語で、褐色の雄ウシと白い雄ウシが、死闘を演ずる。一方のウシはアルスタ一地方、他方はコノート地方を代表する。
いずれのウシも、人間の声と知力を持っているだけに、両方のウシを我が物にできれば、〈戦争の覇権〉を握ったことになる。この2頭のウシの話は、アイルランドの、《南》の支配者と、《北》の支配者の家来であった、ブタ飼いの変身譚から生まれたものだ。

そして、動物も、いろいろな種族に変わった。

ガリアには、3匹のツル(おそらく島のハクチョウに相当する類義語)を持つ雄ウシや、3本の角を持つ雄ウシの図像がある。
後者の図像は、おそらくガロ・ロマン時代には、考えられなかった好戦的な昔のシンボルである。3本目の角は、アイルランドでロン・ラースlon laith、つまり「英雄の月」と呼ばれていたものを表していたらしい。
これは、戦意に燃えた、意気軒昂たる英雄の、頭上からほとばしり出る一種の〈血の霊気〉のことである。バイソン(野牛)の名が、ブザンソンの旧名、ウェソンティオに残っている点をついでに指摘しておこう(CHAB、54-65;OCAC、10、285以下、15、123以下と245以下)。

〔象徴〕 雄ウシには、まさに両義性、両面性といったものがある。水と火をともに表しているのだ。
豊餞多産の祭儀と結びつけられると、雄ウシは太陰である。血のほてりや精液の放射から見ると、太陽のイメージである。

ウルの王墓には、黄金の頭(太陽と火)と、青金色(月と水)の顎をした雄ウシがそびえ立つ。
雄ウシは、ウラノス的で、かつ地下的である。

ウシ類は、事実、イヌ類と同じで、地上や地下の顕現神として、またウラノスの顕現として、現れる場合もある。
雄ウシのシシボルは、しばしば色によって規定される。したがって、白馬が男神-天上の力を体現しているのに対して、「灰色のウシ」は、大地-女神の顕現とみなされる。
アルタイ語族に見られる、《地》と《天》の夫婦の図像では、そうなっている(ROUF、343以下)。

〔中国・神話〕 中国では、農業の開祖、神農の角の生えた頭が、ウシや雄ウシを連想させるが、蚩尤の頭も、明らかに雄ウシと同一視できる。だが、黄帝は、両者と対立した。雄ウシは、風の精である。頭には角、足にはひづめの生えた蚩尤は、風(と雨)のおかげで、黄帝と対立する。黄帝が、蚩尤を、水に住む竜や、ひでりと戦わせたからである。蚩尤は、宇宙の混沌を創り出す。
彼は、黄帝に敗れる。黄帝の紋章は、ミミズクである。

〔象徴・去勢〕 去勢牛は、去勢しない雄ウシと象徴的に対立する。
このために、複雑な様相を呈する。
なぜなら、去勢牛も、農耕祭儀と結びついているからである。

しかし、去勢牛は、雄ウシの生殖力の犠牲を象徴し、かえって生殖力の唯一性を一層際立たせる。
このような去勢は、ますます生殖力の価値を高める。
純潔が性の重要性を際立たせるのと同じである。

ウラノス的な行動原理は、自己肯定や自己否定を同じように、絶対的に行いながら、おのれの力を誇示する。自由奔放な場合は、多産である。
抑制し禁欲的なときは、少なくとも同じ土俵、同じ生活水準で、このような行動原理なき多産など不可能なことを同じようにはっきりと指摘する。
これは、同じ1つの事実の逆証である。
精力の純化は、別の次元の多産を生む。霊的生活の豊かさである。

〔心理学〕 ユングの精神分析学における象徴体系では、雄ウシの生け贅は「ある精神生活の欲望を表す。
中略
 ある精神分析学者は、ウラノスの例にならって、たけり狂う父親像を雄ウシに見て取った。

息子のクロノスが、父親の去勢を決意したからである。
エディプス・コンプレックスという、別の形態もある。
つまり、雄ウシを殺すことは、父親を抹殺することである。

 ポール・ディエルの、生物倫理の解釈によれば、粗暴な力を持った雄ウシは、「悪徳の支配」を象徴する。

雄ウシの息は、破壊の炎である。〈足〉というシンボルに付加された〈青銅〉という属詞は、ギリシア神話では、なじみのイメージで、魂のある状態を示す場合に使われる。

雄ウシに付与された、青銅の足という言葉は、威圧的な性癖、魂の残忍さ、冷酷さを示す特徴的なシンボルである。(DIES、176)。
 ヘーバイストスは、2頭の、たくましく、荒々しい雄ウシのために、青銅のひづめを作った。その雄ウシは、見た目には、手に負えない感じで、鼻から火を吹いていた。

イアソンは、金羊毛が奪い取れるように、誰の助けも借りず、雄ウシにくびきをつけなければならなかった。この状況が示唆しているのは、英雄は、このような完徳のシンボルを横取りする前に、はやる血気をなだめ、本能的な欲望を浄化しなければならなかったということである。

〔黄道十二宮〕 黄道十二宮の第2宮〈金牛宮〉(4月21日-5月20日)は、春分と夏至の間に位置する。たくましい馬力のシンボルで、あらゆる本能、とくに自己保存と快楽本能、さらに遊興に対する度はずれた性癖のシンボルである。

この宮は、占星術の用語に従えば、《金星》に「支配されて」いる。
つまり、空のこの部分が、この惑星の本性と完全に親密な和合を示しているわけだ。

《金牛宮》には、基本要素である《大地》、母なる大地に匹敵する第一質料、つまり原初の物質の象徴体系がかかわりを持つ。

《白羊宮》には、原初の火が割り当てられている。これを体現しているのは、超男性的な肉のそげ落ちた動物で、高く前方に飛び出した頭部に特徴がある。
これに対して、《金牛宮》は、〈命をみごもる女の静態性〉を表しており、水平的で、かつ腹部を主体に、豊潤な、さまざまな様式の創造能力を特徴とする。
ここでは、重み、鈍重、厚さ、のろさ、安定、耐久、撤密、不変といった精神が支配している……。
超女性的なこの宮には、田園交響曲と同系統の、まさに地上的な意味を持った価値観が結びつく。

黄道十二宮の合奏で、《金牛宮》の譜面は、生みの母である《ビーナス》(金星)をたたえたバッコス賛歌と一体になる。躍動する肉体と朱色の血、大地の霊気をはらんでうち震えるビーナス。母なる自然の高揚の中で、月の満潮をたたえる賛歌。

《金牛星》は、本来的に、とくに豊かな感覚運動をそなえた、動物的な本性を「示している」。この世で生きるとは、すすり、味わい、触れ、見、聞くことだ……。

それは、地上の滋味を貪欲に味わうこと、ディオニューソス的な歓喜の陶酔に身を委ねることだ。
生への渇望が、そこでは、揺るぎない活力と、たくましい強固さで豊かな土壌に根づいている。
その渇望は、情念にむせ返る快楽的な人生でも、労働の拘束の中でも癒される。
生きようとする欲望がかなえられれば、それで良いのだ。(『世界シンボル大事典』)
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/bull.html
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