自分が死んだら、FacebookやTwitterのアカウントはどうなるのか
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今朝、目を覚まして、ふと横を見ると、隣で寝ていた5歳の息子、はるちゃんはすでに起きていて、ジッと天井を見つめていた。
僕が目を覚ましたのに気付いたのか、はるちゃんは僕にこう言った。
「なぁ、パパ。明日は何の日か知ってる?」
明日は、嫁の母方の祖父の一周忌の法事の日だ。
続けて、はるちゃんは、
「明日はな、パパ。お風呂で死んじゃったおじいちゃんのことを思い出す日やねん。
やから、パパも明日は一緒に、お風呂で死んじゃったおじいちゃんのことを思い出そうな。」
「そっか。じゃあ、はるちゃんも、明日はおじいちゃんのことを思い出すんかな?」
そう僕がはるちゃんに問いかけると、はるちゃんは、
「ううん。はるちゃんはもう、おじいちゃんのことをおもいだしてるねん。」
と言った。
そうか。
それではるちゃんは、ジッと天井を見つめていたのか。
去年のちょうど今頃。
嫁の母方の祖父が亡くなった。
嫁の義母が実家に帰って、おじいちゃんが居ないので、ふと、風呂場を覗いてみると、おじいちゃんは浴槽の中で、すでに亡くなっていたらしい。
義母からの連絡を受け、僕らは慌てて、嫁の母方の実家に向かった。
家に着くと、すでに警察が来ていて、おじいちゃんは浴槽から、居間に移され、布団の上に寝かされていた。
まだ司法解剖が済んでいないおじいちゃんは、死化粧も衣装も着替えることなく、寝かされていて、おじいちゃんの鼻腔や目、耳からは血が流れて出ていた。
本来は、このような姿を子供に見せるべきではないのかも知れない。
でも、僕は人が死ぬということが、どういうことかを知る機会だと思い、はるちゃんと一緒におじいちゃんの傍へ行き、2人並んでおじいちゃんに手を合わせた。
その日の帰り、嫁は義母の手伝いをしたいということで、僕は、2人の息子を連れて、一足先に家に向かうことにした。
その車中、はるちゃんがぽつりと僕にこう言った。
「パパ。おじいちゃん、お顔から、血がいっぱい出てたな。」
「そうやな。きっと、お風呂の中で死んじゃって、長い間風呂の中に浸かっていたから、血が出てきちゃったんかな。」
僕がそう言うと、はるちゃんは、こう僕に尋ねてきた。
「ねぇ、パパ。おじいちゃんは、死んじゃったら、どうなるの?」
僕は、はるちゃんに人の死について、こう言うことにした。
「そうやなぁ。パパもよくわからないんやけど、人は死んじゃうと骨になっちゃうねん。
だから、おじいちゃんとは、もうお話できないし、骨になっちゃったら、もう、お顔も見ることができなくなっちゃうな。
だから、おじいちゃんのお顔、忘れないように、しっかりと覚えとこうな。」
その翌々日、おじいちゃんの通夜があった。
お坊さんが帰り、僕たちも、一旦は家に帰ることになったが、僕は仕事の都合上、葬式には参列することができなかったので、葬儀場の人にお願いして、最後にもう一度だけ、おじいちゃんの顔を見させてもらうことにした。
僕がおじいちゃんの棺桶がある場所に行くと、後ろから、はるちゃんが走って付いてきた。
僕たちは、あの日、おじいちゃんに手を合わせた時と同じように、2人並んで棺桶の窓越しからおじいちゃんの顔を見て、そして手を合わせた。
おじいちゃんの顔は、綺麗に死化粧が施され、安らかな顔をされていた。
はるちゃんは、きっと、その小さな胸に、おじいちゃんの顔を焼き付けたんだろうと思う。
人は死んだら、骨になる。
そして、その存在は、生きている人の記憶の中で生き続ける。
でも、僕がもし、今、死んだら。
はるちゃんや2歳の息子、みのりくんは、いつまで僕のことを覚えていてくれるだろうか。
幼い時に、一緒に遊び、一緒に寝て、いろんなところへ出かけた日々。
それは、きっと、大きくなるにつれ、2人の記憶から薄れていくことだろう。
僕が書く、このmixiの日記の中には、そんな僕にとっての貴重な思い出の数々がたくさん残されている。
この思い出の数々は、僕が生きている限り、これからもたくさん残されていくことだろう。
そして、もし、僕が死んだとしても、それまでの思い出の数々は、mixiの日記の中で、色褪せることなく生き続けることだろう。
そんなことをふと思った。
明日は、そんなおじいちゃんの一周忌だ。
おじいちゃんは、いつまではるちゃんの記憶の中で生き続けることだろう。
そして、そんな一周忌の法事のことを、''おじいちゃんのことを思い出す日''と説明した、はるちゃんのママは、とても素敵なママだなぁと思った。
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