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2013年07月01日20:28

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人の命と気持ちを考える

看護学生が患者の臓器を撮影してTwitterに投稿 「倫理観を著しく欠く」と学校が謝罪
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=32&from=diary&id=2487828

学生の頃、解剖の実習があった。

解剖室には、僕たちの実習の為に、献体として捧げてくださった、骨や臓器が標本として置いてある。
僕らは、その標本を使わせていただいて、解剖を学んだ。

ああいう場にいると、感覚が麻痺してくる。
例えば、骨のスケッチをして、その骨の構造を学んでいても、その骨がモノ、つまり物質に思えてくる。

もちろん物質は物質なのだ。
モノには変わりない。
しかし、物質である前に、その骨は過去には誰かの命のある身体の一部として、人間の身体の一部としてあったものだ。

そのことをああいう場に居ると、麻痺して忘れてしまう人がある。
中には、骨のスケッチをしながら、骨を鉛筆で突ついて指してみたりする人が出てくる。

そんな時、解剖学の先生は、本当に激怒される。
それは、倫理的に許されない行為だと。

何故、それが倫理的に許されない行為であるか。
それは、そこにある骨が模型ではなく、人骨であり、その人骨は、その亡くなった方や亡くなった方の御家族の好意によって、献体されたものなのだ。
こうした行為は、献体になっていただいた方を冒涜する行為であり、献体になっていただいた方や御家族の好意を踏みにじる行為なのだ。

もし、自分の愛する家族の身体を、他人にそんな風に扱われたら、解剖学の先生が激怒されるのは、当たり前だ。
しかも、学生は、これから医療に携わることになるのである。
こうした人の心というのがわからないことには、医療に携わるにはやはり問題がある。

今回の臓器は、献体でもなければ、標本でもない。
あくまで、分析する前の臓器をお借りしてきたものだ。
普通の病院ではあり得ないことで、看護師を育成する学校だからこそ、勉学のためにお借りできたことなのだ。

そうした臓器を粗末に扱うことは、人の命に携わることになる看護学生にとっては、倫理的に許されることではない。

その臓器は、モノであってモノでないのだ。
一人の人間の一部であり、家族にとっては、その亡くなった方の一部なのだ。
人の気持ちがわからないと、医療は成り立たなくなる。
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