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2011年09月04日23:46

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奴隷

週刊そーなんだ 歴史編87号より以下抜粋

アフリカは15世紀まで高度な文化をもち
とても栄えていた。
しかし16世紀に急激な変化が訪れる。

西ヨーロッパから交易商人が押し寄せ
アフリカに銃などの武器を売り
かわりに黄金や象牙、人間を買った。
人間、つまり奴隷だ。

ヨーロッパの交易商人たちは
アフリカの人々を新たな労働力とするため
敵対する部族の一方を支援するなどして
奴隷を大量に集め、アメリカなどに輸出した。
こうした奴隷貿易の拠点となったのが
セネガル沖の「ゴレ島(世界遺産登録)」
という小島だった。

アフリカ各地で捕らえられた奴隷たちは
「奴隷の館」という2階建ての建物に
集められた。

買い取られた奴隷は、体に番号の焼き印を
押され、「男」「女」「子ども」
の3グループに分けて部屋に入れられた。

4畳くらいの部屋に15〜20人の奴隷が
押し込められ、館全体では
常に200人の奴隷がいた。
トイレは重い足かせをつけたまま
1日1回しか行かせてもらえなかった。

島に船が到着するまでのあいだ
3ヶ月もこの館に閉じ込められていた。

奴隷の値段は、身体検査や運動能力テスト
をして決められた。
体重が60キログラムに満たない男性は
ピーナッツなどを無理やり食べさせられ
太らされた。

定員をはるかに超える人数が押し込められた
不衛生な奴隷船では、アメリカに
たどりつくまでに3人に1人の奴隷が
死んでしまった。
船内で死んだ奴隷はそのまま海に捨てられ
その肉をサメが食べた。
やがてエサを求めるサメの群れが
死体が投げ込まれるのを待って
奴隷船を追いかけるようになった。

約300年間つづいたこの奴隷貿易によって
1000万人の奴隷がアメリカ大陸などへ
運ばれた。
そこで、サトウキビや綿花、コーヒーなどを
栽培する大規模農場で毎日重労働させられた。

ヨーロッパやアメリカの繁栄は
アフリカの犠牲のうえに
成り立っていた。

アフリカの多くの民族は文字をもたず
これがヨーロッパ人には野蛮で遅れている
ように見えた。
「黒人は白人より劣った人種」
という偏見が生まれ、黒人を家畜と同じとして
奴隷としてあつかうようになった。

奴隷貿易により働きざかりの若者が激減
したことで、アフリカ社会の発展は
止まってしまった。

18世紀、ヨーロッパで自由・平等・博愛・人道
を重んじる「啓蒙思想」がおこり
奴隷貿易への批判が高まったのを受け
各国は奴隷貿易を禁止している。

ヨーロッパ諸国はアフリカの資源をめぐって
各地で植民地争奪戦が始まった。
ベルリン会議でアフリカはヨーロッパ諸国の
都合だけで植民地が決められた。
今でもアフリカに不自然な直線の国境があるのは
このためだ。

第二次世界大戦が終わり
戦争で疲れきったヨーロッパ諸国の国力が低下し
かわって世界の新リーダーとなった
アメリカとソ連が「反植民地」を
叫び始めたことを受け
アジア、アフリカの国々が次々と独立した。

独立後のアフリカ諸国では
差別や内紛など多くの問題が山積みだった。

たとえば、南アフリカ共和国では
植民地時代に少数の白人が
大多数の黒人を支配するため
「アパルトヘイト」という
人種隔離政策がとられていたが
(べンチが白人用と黒人用に分かれているなど)
これは1961年の独立後もつづけられ
黒人に対する根強い差別を残す原因となった。
さらに激しい民族紛争も各地でおこった。
これはアフリカ分割の際、ヨーロッパ諸国が
民族や宗教を無視して国境を引いたため。
同じ国内でことなる部族が対立する原因となり
現在もいくつかの国と地域で内戦がつづいている。

このほかにも、貧困や飢餓、欧米企業による
資源の独占など、植民地時代と変わらず
今後解決していかなければならない
問題は多く残されている。
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