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2009年09月30日11:20

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一番の魅力は作品の雰囲気かと

思うに、昔の文豪が書いた作品でも、深い意味や啓蒙などはこめられていないものも普通にあるはず。

たとえば宮沢賢治の作品解題などではどの作品にも、「この話は一見単純な内容のようにみえるが、実はこれこれこういった意味ないしは思想がこめられており、決して浅はかなものではないのだ」という、研究者による解説が付されている。
それも断定していることが多い。

もちろんこういう綿密な解題は、作者の人間像や作品を徹底的に研究したうえでの考察なのだろうが、それにしても決めつけすぎではと思ってしまうことしばしば。
まあ私のように読解力の無い人間からすると、なるほどと思ったり、こういう考え方もあるか、いやそれは違うだろう、などいろいろ受け取ることができるのでためになるのだが。

それはともかく、CLAMPの大川七瀬の持論に「この世に偶然は無い、あるのは必然だけ」があるが、これは本人の弁によると、「起こることが全て決まっているのではなく、どんな些細なことでも起きた物事には必ず何らかの意味がある。だからあるのは必然だけで偶然なんてものは存在しない」ということらしい。

私はこの考えにはまったく賛同できない(本当の偶然や無意味もあると思うので)のだが、上記の持論は「文豪の作品はどんな単純そうな話や意味がなさそうな話でも、必ず深い思想や意味がある」というものに似ている気がする。

さて、ダンセイニ卿の作品にも「なぜ牛乳屋は夜明けに戦慄き震えたのか」や「黒衣の邪な老婆」といった、意味不明としか思えない短編がそれなりにある。
以前、未谷おと氏と談笑した際、ラヴクラフトはダンセイニを持ち上げすぎる傾向があるという話題で、ラヴクラフトが批評でダンセイニの戯曲の一つをシェリダン風と称したことに、「ダンセイニは単に描きたいから書いただけで、別段誰か・何かを意識してはいなかったと思う」との意見を耳にして、同感だと思った。

然るに上記二つの短編なども特に作品中に深い意味はないと私は考えるが、ダンセイニ自伝「陽光の煌めきと影」(訳・稲垣博――西方猫耳教会)ではダンセイニ自身がこう回顧している。
まずは牛乳屋の話。

『その作品は牛乳配達夫の間で口伝されている話を扱っており、その伝承の神秘について書き上げたものである。しかしこの話は牛乳配達夫の詰め所でのみ語られるものであることが後に判明した。話を聞いた者にとっては謎が深まるばかりであり、この話は口外してはならないという掟となっていたのだ』

……ありゃ、作品の意味も何も、しっかり解答しておりますな。

ちなみに黒衣の老婆については「こんな話を書いた。サイム氏は見事な挿絵を描いてくれた」という記述しかなく、こっちは逆に考察材料に乏しいですね。

ん、まあ、要は私としては、単純な作品や意味不明な作品だろうと話の雰囲気が楽しめればそれでいいではないかと、こういうことです。
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