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開催終了関西大学で講演会

詳細

2015年12月08日 13:24 更新

池澤さんが客員教授を務められている関西大学で講演が行われます。
(実は、先週も「日本文学全集の作り方」という講演があったようです)


日時 12月11日(金) 13:00〜14:30
場所 関西大学 千里山キャンパス
   第一学舎一号館 B301教室
講演タイトル
「編集と翻訳 『日本文学全集』から見えた文学の原理」

主催 関西大学文学部
〒564-8680 大阪府吹田市山手町3丁目3番35号
(06)6368-1121(大代表)

※文学部学生以外の参加も歓迎します。



コメント(6)

  • [1] mixiユーザー

    2015年12月11日 23:31

    行ってきました。
    まず、関西大学のHPから情報を写したのに、建物の番号がまちがっていて(1号館ではなく2号館)、私自身、なかなか教室が見つけられなくて焦ってしまいました。
    この情報を見て、教室に行き着けなくて苦労した方があったら申し訳ありませんでした。


    さて、一般の聴衆もOKという催しでしたが、やはり大学の授業ですので、聞きに来ているのは圧倒的にこの大学の学生の方々でした。
    見るからに学生ではないというのに、前の方が空いていたので特等席に座ってしまいましたが。

    お話は、現在刊行中の日本文学全集と関連して、編集と飜訳がテーマ。
    上代文学においては、オリジナルの作品を作った作者と、たくさんの作品を集め、選び、束ねる役目をした編者というのは同等の役割。
    また、飜訳もひとつの新たな作品の創作に等しいということで、今回の日本文学全集に収められた古典文学の現代語訳の例をいくつか朗読して紹介されました。

    お父様の福永武彦さんが訳された今昔物語も一部、紹介されました。

    古典文学の飜訳についての池澤さんの考え方を知ることもできました。

    この講義、次回についてのお知らせはありませんでしたが、また続きがあるのかも知れませんね。
  • [2] mixiユーザー

    2015年12月12日 10:22

    EMYさんとともに拝聴してきました。じぶんの息子や娘のような若い学生さんに混じって聴いたのですが、とても充実した講義でした。学生さんだけに聞かせるのがもったいない(笑)。以下、わたしのノーとから書き起こした内容です。

    〜〜〜 〜〜〜 〜〜〜 〜〜〜
    文学はどうやってつくられるか、ということで「編集」と「翻訳」についてお話します。

    編集、と言うと普通は作家から原稿を集め、時には写真なども入れてレイアウトして本を作る、プロデューサー的なもの、作家が主役で編集はそのお手伝い、という位置づけだと思います。
    二次的な価値のように受け取られているが、文学の始まりではそうではなかった。
    編集や翻訳は創作と同じように価値がある、ということです。

    僕は現在、河出書房新社から出ている「日本文学全集」を編んでいますが、古典文学については、本を読む楽しみが大事なので、現代語訳にしました。
    しかし、けしからん、と言う人も出てきます。三島由紀夫などは古典は神聖なものなので、現代語訳はもってのほか、という主張。彼は古典を女神のようにあがめていたわけです。ほかにも同様の老大家はいますが、僕は、女神のまとっている羽衣を脱いで、セーターとジーンズに着替えてもらおう、と。
    そして現代語訳をするのは、学者ではなく、ピカピカして、ガンガンくる、今を生きている作家に依頼しました。いわばマッチングをしたわけです。
    声をかけると大半の作家が引き受けてくれました。僕は後ろで彼らを頑張れ、と叱咤激励するつもりが、それはダメだ、お前もやれ、と言われ「古事記」訳を引き受けた次第です。
    「古事記」の文章はひとつひとつが短くもってまわった言い方をしない、そんなに難しくないから、というのを知っていたのでやりました。
    翻訳とは、一番丁寧に読むことです。

    「古事記」は、その素材である神話・伝承、歌謡、系図が合わさったもの。
    稗田阿礼の頭に浮かんだものを書きとめたのではなく、多人格を束ねたようなものではなかったか。各地の神話・伝説を集め、一定の方針のもとに配列されている。
    上巻は国の起こり、中巻は神武天皇から国の体裁ができるまで、下巻はいろいろな人々の冒険。
    神の名前、人の名前だけで、出てくるのは千人を超える。
    天皇家とのつながりを強調し、国の運営を容易にすることが目的であり、創作ではなく、素材を集めたうえで組み立てていく。
    これも文学をやる上で、大事な仕事なのではないか。
    文学史を見て見ると、「編集」のものがある時代まで多い。
    たとえば万葉集。
    これも一定の方針のもとに選びだして配列して、万葉集ができた。

    僕が文学全集を作ってわかったのは、日本人は恋の話が本当に好きだ、ということ。
    そもそも「古事記」のさいしょに出てくる「イザナギ、イザナミ」の名前も語源は「いざなう」です。
    恋のことを誰もが考える、日本全体の雰囲気がそこにあった。
    そして自然に重ねて意味を見出す、ということをします。
    僕はフランス人に「僕らの国には50ぐらい季節がある」と言います。
    たとえば春には桜の咲き始め、満開、散った頃とそれぞれに情景を歌う。

    万葉集に、
    「君が行く 海辺の宿に 霧立たば わが立ち嘆く 息と知りませ 」という歌があります。
    新羅に行くーいわば海外赴任ですがーあなたの海辺の宿に霧が立ったら、それは私が嘆く吐息です・・・という意味。
    自然と感情を重ねて恋ごころを歌っています。

    歌を読み合うことをイベントとしてやろう、ということでやったのが歌合(うたあわせ)。
    いわば和歌のコンテストです。
    小野小町と対決することになった男が、こっそり彼女の家の陰で小町の歌を盗み聞きし、それを万葉集の本に書きこむ。歌合でははるかに小町の歌の出来が良くて勝ちとなったところに、万葉集にすでにある歌で盗作だぞ、と男が言う。
    小野小町は、それを水で洗って下さい、と答える。昨夜書き足したその歌は墨が新しく、たちまち流れ落ちてしまった、という話もあります。

    「竹取物語」も一人の筆によるもののようだが、素材は色々なものから来ている。
    天に在る者が地上に降りて、また天に還って来る、これは各地で見られる「羽衣伝説」。
    このパターンは海外にもあり、トルストイの「人はなぜ生きるか」もそうですー裸の男を家に連れ帰って世話をし、その男が実は天使であったという話ー。
    それから「婿取り」における試練。
    娘を嫁に欲しい、という男に試練を課す話が出てくる。
    古事記にも、スサノオの娘をめとりたいオオナムチにスサノオが試練を課す物語がある。それにパスしたら、娘をやる、と。
    「竹取物語」では五人がかぐや姫に求婚する。
    創作には違いないが、非常に編集的であると言える。
  • [3] mixiユーザー

    2015年12月12日 10:25

    (続き)
    「説話文学」は短い、実話っぱい話をが集められ、落語のようなリアリティがある。
    「今昔物語」などは1000話ぐらい。これも誰かが集めたもの。
    集めて、選んで、並べて、まとめる。非常に編集的。
    創作童謡の文学的いとなみと言えます。

    現代は、一個一個の作品に作家の名前がついているから、それを発表すればいい。
    昔は個人の作品が一対一ではなかった。
    お話は作家名ではなく、面白さによって伝わっていった。
    これは文学だけでなく、美術も同様。
    無名の職人の作った工芸品が美しかったりする。
    現代では、ひとりひとりの名前が出過ぎて。全体像が見えなくなっている気がする。

    文学の編集には批評家の存在も必要。
    最初の批評家と言うべき人物は藤原定家。そして江戸時代は松尾芭蕉、明治では正岡子規。
    指導的な批評家は、今、いないと思います。
    個々の作品を生む努力とともに、それらをまとめて束ねていく力が要ります。

    僕は文学全集を編むことは、とても文学的なことだと気付きました。
    だから(古事記の編纂にたずさわった)太安万侶(おおのやすまろ)には、非常に親近感、連帯感があります。

    「源氏物語」は作家名はわかっているが、「平家物語」にはない。
    連綿と語られていた話が、優秀なひとに統一され、まとめられた。

    翻訳についても、創作に対しセカンドリーな、二次の仕事であると思われている。
    ひところまでは大学でも翻訳は権威主義的な、上から目線の(外国語が分からない連中のために)仕方ないから訳してやる、という態度だった。

    しかし翻訳して読む、上演して楽しむ、というのは大事なこと。
    翻訳と言うのは、別の言語によるテキストを生みだす創作です。
    新しい衣をまとい、別の世界へ進出する。
    文学は個々の言語に訳されて、解き放たれ、世界文学のネットワークがつくられる。

    「世界文学」という言葉を作ったのはゲーテ。
    彼はシェイクスピアをドイツ語で読んで感動した。
    すぐれた翻訳は何かを付け加え、文学的な価値はむしろ高まっている。
    僕は以前から、翻訳者をたたえよう、と言ってきた。とても意味がある、そしてセンスの要る仕事が翻訳なんです。

    「日本文学全集」のマッチングは、河出書房新社の編集部が知恵を出してくれました。
    「源氏物語」は10種類以上、現代語訳があります。
    最近だと瀬戸内寂聴、林望もあるが、もっと新しい訳がほしい。
    ダメモトで角田光代さんに声をかけてみた。
    というのも源氏物語の現代語訳、となると何年もかかるし、ほかの仕事もできない。源氏は長めの長編小説6冊分ぐらいあります。
    しかも「翻訳」は原文を読んで、よくよく意味を取って調べ、現代語訳、という辛気くさい作業。
    大変な手間なので、全集の最後の配本にしました。角田さん本人だけではなく、校閲も大変ですから。
    角田さんは今、たいへんあぶらが乗りきっている作家です。
    「八日目の蝉」などを読めばわかります。
    彼女の担当編集者からは、これから3年先まで、角田さんは小説を書いてくれない、池澤さんのせいだ、と言われていますが(笑)。

    翻訳の際の創作はどこまで許されるのか? という問題。
    翻訳には制限があります。
    その中で新しい現代語訳が上がって来ると、個性的なテキストが並びます。
  • [4] mixiユーザー

    2015年12月12日 10:25

    (さらに続き)
    <ここで、河出書房新社から発行の「日本文学全集」のうち、古典を現代語訳したものの中から、池澤さんみずからががいくつか朗読をする>

    語っているのをみなさんが聴く、これが元々の姿です。
    文学は文字ではなく「声」であり、朗読に向いているのです。

    <伊藤比呂美訳の「日本霊異記」から朗読>

    特別お話が上手な奴が話して聞かせて、人々が楽しんだ。それが文学の最初の形です。

    <町田康訳の「宇治拾遺物語」から朗読。よく知られている「こぶとりじいさん」。
    町田氏の現代語訳はかなりファンキー。
    「おじいさんは鬼を見てパニック!」「ピンクやゴールドのフンドシの鬼たち」という言葉に聴きながら笑ってしまう>

    現代語訳、としては町田康さんの文章、これぐらいが限界でしょう。
    昔の人々がこれを読んで笑ったように、現代の人々が笑って読んでしまうように訳す、というのが町田さんのスタンスです。

    <「今昔物語」は福永武彦訳を朗読。朗読の前に「この福永武彦っていうのは・・実は僕のオヤジなんですよ」と、一言>

    <島田雅彦訳の「好色一代男」を朗読>

    ちょっと刺激的なところは読めないので・・・(とあたりさわりのない、花魁の品定めをしている箇所を読む)。この好色一代男というのは生産的なことはなにもせず、3000人の女と交わり、あちこちのいわば「遊郭リポート」をしている。いくつもの人やモノを並べ、羅列して評するのは、日本文学の伝統と言えますね。「枕草子」はその典型でしょう。

    <円城塔訳の「雨月物語」を朗読>

    「安珍・清姫」の原型ですね。構造がはっきりしていて、その場の会話も流れるようになっている。円城さんは、それだけなめらかな文体で訳しています。

    <島本理生訳の「春色梅児誉美」を朗読。 女性たちの会話が、まるで現代の若い女の子の「恋バナ」のように弾んでいきいきしたものになっている。>

    江戸で文学が盛んだったのは、平和だったから。
    パックス・トクガワーナです。遊ぶ余裕ができ、一般の人たちが手に入れた喜びが本を読むことだったんです。

    村々の管理人として侍が赴く。
    要するに、村ごとに、読み書きのできるインテリがいたわけです。
    そして寺子屋ができ、読み書きそろばんを習う。当時、男だけでなく、女も字が読め本が読めるという国はなかった。
    また、木版印刷の技術があって、本が安く作られるようになった。
    活版印刷ではなく、1頁分、木版を作るやり方。この方法だと、絵が入れられるのが利点です。
    本が流通して教養が行き渡ったところへ明治の文明開化、そして欧州式の文化が入って来るようになりました。

    <ここでおよそ1時間半の講義が終了。学生から質問を受け付け、前の方にすわっていた女子学生から「作家の個性」についての質問。前半の「現代は一個一個に作家の名前がついているが、昔は個人の作品が一対一ではなく、作家名でなく、作品の面白さによって伝わっていた・・・」というくだりに対して池澤氏の答え>

    小説はひとりの作家のものであるけれど、社会の空気が背景になる。
    「個性一辺倒」でない、ふわっと全体をまとめるような本の読み方もあります。
  • [5] mixiユーザー

    2015年12月12日 21:52

    詳しいご報告をありがとうございます。私もメモは採っていたのですが、それを読めるように書き起こすのはとても時間がかかりますよね。


    ところで、池澤さんの訳された「古事記」について、古代文学がご専門の三浦佑之さんのこのような文章が笠間書院のサイトにありました。
    http://kasamashoin.jp/2015/11/59_20141123.html

    それによると、「古事記」の現代語訳は福永武彦氏もされており、池澤訳はかなり福永訳も意識されているとの指摘がありました。
    池澤さんは、文学の飜訳は作家がするべきだという立場でしたが、三浦さんは研究者が訳すことの意義もまたあるという立場ですね。
    古典の現代語訳というのも、外国語からの翻訳とはまた違ったいろいろな問題がありますね。
    とくに、こういった「編集もの」であり、国家の意図で編まれた本の場合は。

    もう一回、「古事記」を読み直そうという気になりました。
  • [6] mixiユーザー

    2015年12月12日 22:45

    >>[5] 実際のお話を書き起こすのはなかなかむずかしいですね。
    うまく話の流れがスムーズに文字になっていない部分もあります。

    三浦さんの文章をご紹介いただき、ありがとうございます。
    「古事記が近代のある時期にいかなる歴史を担わされていたかという認識と担っていた研究者や知識人に対する明確な姿勢が見受けられない現代語訳はまずいのである。その基準としてわたしは、古事記を論じるのに、日本、日本と連呼してはいないか、神や天皇を敬語まみれにしてはいないか、この二つを目安にすればいいと思っている。もしそうした臭いを感じたら、読まないほうがいい。」

    という指摘はなかなか鋭いですね。
    ちなみに三浦佑之さんはあの三浦しをんさんのお父様ですが、
    彼女のエッセイに出てくる「ちょっとだらしないおとうさん」とは全然むすびつきません(^^;

    福永武彦訳の「古事記」については
    「 「古事記」は福永武彦、まあ、僕の父ですが―が、訳をしていて、それをちょちょっといじれば僕のになるかな、と思ったけど、そうはいかない。どうしても冗長になる。僕は気が短い。古事記は早い文体でコトがポンポン決まっていく。方向が福永訳と正反対なんです。
     「今昔物語」も福永が訳していてコレは好いんです。たぶん男性的な文体が古事記より合っていたんでしょう。」
    ということを、昨年の大江健三郎さんとの対談でおっしゃっていました。
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  • 2015年12月11日 (金)
  • 大阪府 関西大学
  • 2015年12月11日 (金) 締切
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