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開催終了スピリチュアリティー学際研究会・夏のシンポジウム

詳細

2006年06月11日 11:13 更新

ご案内


テーマ:スピリチュアルヒーリング(ひきつづき)
日時:6月24日土曜日 11:30から15:00
場所:くるめ亭(フランス料理)042−472−4129
   西武池袋線東久留米駅より徒歩10分
   11:20に駅に車でお迎えに上がります。
会費:3000円(ランチコースのお料理込み) 

プログラム:
11:30   ご挨拶・前回の報告など      尾崎
11:45   お食事(自己紹介・近況報告など)
12:30   笠置発表・討論
13:00   井上発表・討論・演奏・演舞
14:00   甲田発表・討論・落語
14:40   ご挨拶・次回の案内など      尾崎

発表される方は、レジュメを6月10日くらいまでにMLにアップ、配布資料は前日正午までにアップしていただけると用意してまいります。当日持参の場合は、15部印刷してお持ちいただけると助かります。
今回は一人当たりの時間をゆっくり取りましたので,お食事をいただきながらお楽しみください。

着席数が12と限られてますので、お早めにお申し込みくださいね。

コメント(12)

  • [1] mixiユーザー

    2006年06月12日 00:35

    笠置です。
    近日中にレジュメをアップいたします。
    遅くなってすみませんが、よろしくお願いいたします。
    表題は、「教育の課題としての〈スピリチュアル・ヒーリング〉―教育における〈気づき〉と教師の〈Being〉―」を考えています。
  • [2] mixiユーザー

    2006年06月12日 07:13

    楽しみにしています。よろしく。
    お忙しい中ありがとうございます。
  • [3] mixiユーザー

    2006年06月13日 05:49

    教育の課題としての〈スピリチュアル・ヒーリング〉
    ―教育における〈気づき〉と教師の〈Being〉―

    笠置 浩史 日本大学大学院


    〈要旨〉
     本発表では、〈スピリチュアル・ヒーリング〉を教育の課題として捉えること
    を試みたい。その前提として、1)教育と〈スピリチュアル・ヘルス〉に着目し、
    教育の一側面として、〈ヒーリング〉の視点が重要であることを指摘する。では、
    〈ヒーリング〉とは何か。2)〈癒し〉〈ヒーリング〉の特徴として、〈気づき〉
    があげられる。〈スピリチュアル・ヒーリング〉とは、スピリチュアルな〈気づ
    き〉によるところが大きいのではないか。となると、3)教育における〈スピリ
    チュアル・ヒーリング〉のために、必要なことが見えてくる。これに対して、2
    つの側面から考察する。すなわち、?〈スピリチュアリティ〉をめぐる理解(
    〈気づき〉)の促進、?教師の〈スピリチュアリティ〉(≒〈存在〉そのもの=
    〈Being〉)による「薫習」の2つである。

    1.教育と〈スピリチュアル・ヘルス〉

     WHO(世界保健機構)が、〈スピリチュアル〉という言葉を使っていること
    は、よく知られている。なかでも、「健康」定義のなかに、「肉体的」、「精神
    的」、「社会的」の3領域以外に、〈スピリチュアル〉な領域を加えようとした
    ことは注目に値する。すなわち、人間は本来〈スピリチュアル〉な存在であり、
    「健康」を〈スピリチュアル〉な次元で見直すことの重要性をWHOは認めてい
    るのである。
     ところで、わが国の教育基本法では、第1条に教育の目的として「心身ともに
    健康な国民の育成」があげられている。つまり、「健康」であるということは、
    教育の目的であり、課題であるといえよう。
     もしそうであるならば、〈スピリチュアル〉な「健康」(spiritual health)
    をも、教育の課題として捉えなおすことが重要なのではないか。では、教育にお
    いて、いかにして〈スピリチュアル・ヘルス〉を実現するか。これには、治癒的
    観点が必要なのではないか。つまり、教育の一つの側面として、〈スピリチュア
    ル〉な〈癒し〉、すなわち〈スピリチュアル・ヒーリング〉という在り方を認め
    るべきなのではなかろうか。

    2.〈気づき〉・〈つながり〉・〈スピリチュアル・ヒーリング〉

     心理療法・カウンセリング等の〈癒し〉・〈ヒーリング〉の場面での癒える過
    程において、〈気づき〉という要素が重要であるように思われる。クライエント
    中心療法やフォーカシング、ゲシュタルト療法やハコミセラピーなど、多くの心
    理療法の要訣は、クライエントが自身の「とらわれ」に「気づく」ことによって、
    治癒的変容をもたらすというものである。
     また、〈つながり〉の感覚を回復することも、〈ヒーリング〉における要件の
    一つであろう。例えば、自助グループでは、「苦しんでいるのは私ひとりだけで
    はない。皆同じように苦しんでいるのだ」という〈つながり〉の実感(〈気づき〉)
    が、〈癒し〉に向かうのであろう。
     この〈気づき〉・〈つながり〉の実感を、〈スピリチュアル〉なレベルで実現
    すれば、〈スピリチュアル・ヘルス〉をもたらす〈スピリチュアル・ヒーリング〉
    となるのであろう。換言すれば、〈スピリチュアル・ヒーリング〉とは、「〈ス
    ピリチュアル〉な〈気づき〉を促進することによる治癒的変容」ということがで
    きる。

    3.教育における〈スピリチュアル・ヒーリング〉のために

    ?〈気づき〉の促進
     教育において、〈スピリチュアル〉な〈気づき〉を促進することが課題となる。
    これにあたって、まずは〈スピリチュアリティ〉に関する(ある意味では「知的
    な」)理解が必要であろう。例えば、現代の科学では捉えきれない、所謂「サム
    シング・グレート」とでもいうべき何かが「ある」と知ること。神秘的な生命の
    〈つながり〉について学ぶこと。客観的な知識の習得ではない。知識を、自分自
    身の問題として、受け止めること。腑に落ちる体験。岡野守也の「コスモロジー
    教育」は、〈スピリチュアル〉な〈つながり〉に〈気づく〉ことを目論んだもの
    であった。教育によって〈気づき〉、意識の変容が起こる。これはまさに〈スピ
    リチュアル・ヒーリング〉としての教育の一つの在り方である。

    ?教師の〈Being〉による〈薫習〉

     【薫習】物に香が移り沁むように、あるものが習慣的に働きかけることにより、
        他のものに影響・作用を植えつけること。(『広辞苑』第5版)

     〈気づき〉とは、当然のことながら、各人が自分自身で「わかり」、体得しな
    ければならないことである。〈気づき〉を促進するということは、「教え込む」
    こととはそぐわない。教育における〈気づき〉促進の背景として、〈薫習〉によ
    る〈場〉を重視したい。
     マクルーハンは“Media is message”と述べた。つまり、伝える内容ではなく、
    その「伝えよう」によって伝わるものがあるという。〈スピリチュアル・ヒーリ
    ング〉としての教育においては、以下のようになる。すなわち、教師の〈スピリ
    チュアリティ〉が、教師の〈在り方〉そのものに体現され、それが焚き染めるよ
    うに学習者に(治癒的)影響を与える。この〈在り方〉を〈Being〉と呼ぼう。
    〈Being〉を「教育メディア」として位置づけようというのが、拙稿(2006)の議
    論であった。
     帯津良一は、医療の現場で〈場〉を高めることによる治癒効果を報告している。
    ユングが重視した「中国の雨乞い師」のエピソードは、〈Being〉を整えること
    によって〈場〉を整え、変容をもたらすものであった。ハコミ・セラピーでは、
    セラピストの〈Being〉を整えるための工夫として「ラビング・プレゼンス」と
    いう技法を用い、適切な〈場〉を作り出している。
     教育においても、教師は教授技術にばかり囚われるのではなく、自身の
    〈Being〉を整え、そのことによって教育の〈場〉が整うということに目を向け
    なければならない。シュタイナーが、教師の「存在そのもの」を重視したのもそ
    のためであろう。〈スピリチュアル・ヒーリング〉をもたらす〈気づき〉のため
    には、まず教師が自身の〈Being〉を見つめなおさなければならないのである。

  • [4] mixiユーザー

    2006年06月13日 06:15

    ヒーリングにおける奇跡現象と無縁の愛

                  甲田 烈 相模女子大学非常勤講師

    1.問題の所在

     この発表では、宗教的、またはスピリチュアルな技法におけるヒーリングにおいて、しばしば見られる奇跡的な治癒や病や死への自己受容といった事柄が、いったい人間存在においていかなる事態を指し示しているのかということを、哲学的観点から考察
    することを目的としている。そして哲学の立場から考察した場合、奇跡とは、まず第一次的にすでに起こったことであり、二次的に現象した諸々の奇跡は、その第一次の奇跡を「指し示す」働きをしているということが明らかになるであろう。
     現在、ヒーリングはブームの観を呈しているし、手技療法やクリスタルを用いたもの、チャクラと呼ばれている人体システムに働きかけるものなど、多岐にわたっており、各々の「奇跡的治癒」の成果がかまびすしく喧伝されている。
     それでは、ヒーリングにおいて「奇跡」が生じるメカニズムはどのようなものであろうか。その有力な仮説としては意識の非局在性(Non Local Consciousness)がラリー・ドッシーによって提唱されている。意識は脳や身体に局在しているものではなく、
    時空を超越しているというのである。また近年マクタガードによって紹介されたゼロ・ポイント・フィールド(Zero Point Field)仮説によれば、作用粒子が生成する場であ
    る他人のZFPにヒーラーが働きかけるという捉え方がみられる。そしてバーガーは人間はエネルギー、もしくは波動的(vibrational)な多次元構造を有するという視点から、物質界・肉体/エーテル界接触面・エーテル界・アストラル界・メンタル界・コーザル界・より高次の霊的エネルギー界という多次元構造をモデルとした波動医学(Vibrational Medicine)を提唱している。
     これらは一見して説得力を有するように見えるが、人間存在を「波動」や「エネルギー」という科学的知見によって整理することにより、「微妙な還元主義」に陥ーる可能性がある。認識論的には利得をもたらす知見であっても、あらためて存在論の立場から、ヒーリングにおける奇跡の構造について考えることはできないだろうか。

    2. 独在論的反転における愛の構造

     私はこれまでヒーリングの構造について、永井均の提唱する独在論を手がかりとして考察を進めて来た。永井の独在論の骨子は「〈私〉の存在は奇跡であり、〈私〉と特定の人物との結びつきは原始偶然である」というテーゼに要約することができる。
    〈永井均〉は他の誰でもがそうであり得たのに〈永井均〉は一人しかいない。これは奇跡である。けれども、言語ゲーム的な合理性においては、この〈永井均〉という独在性はただちに「永井均」という単独性に置換されてしまう。「他の誰でもないこの
    私」という主張が、たとえば「それはよくわかるよ」という他者の賛同を受けたとき、それはただちに理論上、他の様々な人々と並び立つ「他者」へと変換されてしまうのーである。この独在性には、原理的にはそれと並び立つ〈私〉とは別の〈私〉はいない。
     しかしそれは「他者」の形態をとった〈私〉として現れる。永井は〈私〉を複数認めてしまえばその〈私〉はただちに「私」へと転落してしまうと考える。
     だが、その並び立つはずの「他者」が〈私〉にしか触れられないものだとしたら、いかがであろうか。最初の奇跡はすでに起こっている。それは他ならぬこの〈私〉、あるいは永井の言葉を転用すれば〈魂〉が在るという事態である。この〈魂〉は「他
    者」と並び立つ「私」として日常を生きる。
     けれども、ヒーリングという事態においては、「他者」を媒介として〈私〉の〈他者〉への翻りが起こるのではないだろうか。これを独在論的反転と呼ぼう。すでに起こったはずのあの奇跡(一次的な〈私〉があること)を「他者」を媒介とした翻り(第2次的奇跡現象)が指し示すと言い換えてもよい。
     なぜ、このようなことが可能になるのであろうか。永井によれば、他者の〈魂〉に対する態度とは、1つの矛盾である。それは、決して出会い得ぬものへの、〈私〉の
    世界の内部へは決して現われぬものへの、どのような態度も取り得ないような態度だからである。それゆえ、これを「無視する愛」と永井は呼ぶ。しかしながら、無視とは、そこに何かが見られているがゆえの無視であろう。すでに絶対的不可能性という形式において、そこでは絆が築かれてしまった。見まいと決する事も1つの「縁」なのである。そこで永井の含意を明晰に表現するためには、この存在論的な事態を「無縁の愛」と名づけたほうがよいと、私は考える。
     ところで、ヒーラーたちがしばしば語る「愛」は意識する自己の「意図」を越えていると表現されている。それはこの「無縁」の態度に、ヒーラーが深く在ることを意味しているのではないだろうか。「無縁の愛」は意識する自己の裏へと「反転」させるのである。
     そして、世界には複数の〈私〉がある。それこそが奇跡の意味なのである。
  • [5] mixiユーザー

    2006年06月14日 00:05

    アンナさま
    原稿アップありがとうございます!
  • [7] mixiユーザー

    2006年06月16日 19:37

    ビルシャナさま
    笠置でございます。コメントありがとうございます!
    私も学部学生の時分は塾に勤め、現在は高校で講師をしております。
    まだまだ駆け出しの若輩ですが、研鑽してゆく所存です。
    今後ともご指導お願いいたします。
    いつか研究会などでお会いできますことを楽しみにしております。

    笠置浩史
  • [9] mixiユーザー

    2006年06月20日 05:13

    スピリチュアルヒーリングの器
    >
    >井上ウィマラ
    >
    > 赤ちゃんが空腹やオムツが濡れて泣いているときにお母さんがおっぱいをあげたりオムツを替えてあげたりすることによって二人の間に笑顔が生まれる体験は、人間が人生で最初に体験する魔術的体験である。それは、自分にとって辛くて悪い体験が他者(主な養育者)と共にいることによって嬉しくて幸せな体験になるという奇跡的体験であり、安心と信頼を獲得するために必須な体験であり、精神的な健康の基盤となるものである。
    >
    > この考察では、母子関係、セラピストクライアント関係、師弟関係、スピリチュアルケアにおける変容の器としての機能を考察することで、スピリチュアルヒーリングとは何かについて考える手がかりを提供してみたい。
    >
    >
    >
    > ウィニコットは、「赤ちゃんはひとりでは存在できない。母親(母親的養育者)と二人一組になって初めて生きてゆくことができる」と言った。母親の関心は、出産後の数週間にわたって社会的な関心が減少し、生まれてきた赤ちゃんに対して集中する。これを母親的専心(Maternal preoccupation)と呼ぶ。この自然な関心の集注により、母親は鳴き声や身
    >振りという前言語的メッセージによって表現される赤ちゃんの欲求を察知して適切に対応することが可能になる。こうして赤ちゃんが心身ともに健康に成長するための環境が提供されるのであるが、それを程よい母親的環境(Good enough
    >mothering environment)と呼ぶ。
    >
    > 母乳を提供しぬくもりを与えてくれる母親の身体は、赤ちゃんにとって「対象としての母親」である。これに対して、自分がむずかったり、おっぱいを噛んだりけったりしてしまったときに、自らの筋肉的興奮による攻撃衝動にサバイバルして二人の間に幸福な笑顔が体験される器を提供してくれる意識の姿勢(関心のあり方)としての母親の存在は、「環境としての母親」である。 赤ちゃんは母親のおっぱいを噛んだり蹴ったりしてしまったとき、母親の身体的反応を察知して、「大切なものを破壊してしまったかもしれない」という不安を抱く。これが原初的な罪悪感となる。このような状況で、母親が赤ちゃんを身体的にも精神的にも抱きとめる(Holding)ことができると、その器の中で二人の間に笑顔が回復する。この修復体験によって赤ちゃんは「お母さんを幸せにして上げられた」という貢献の喜びと自信を得ることができ、それに支えられて原初的な罪悪感は思いやりへと変容する。このような幼少期の非言語的体験が、成長して自我意識や言語を獲得してからの許しや和解の体験の土台を提供する。このとき、思いやりに変容されずに、報復され踏みにじられ無視された原初的な罪悪感は抑うつや反社会的心性や衝動的攻撃性などに凍り付いてゆく。 ボウルビィは、精神的健康の基盤を、母子相互の親密で継続的な共に喜び満たされるような体験であるとした。そして、成人後の人生において離別や喪失などによる危機的状況に遭遇したとき、どのように対応するかのパターンは、その人の性格がどのように構造化されたか、すなわちどのような幼少期の生育歴を過ごしたかによると述べている。 スピリチュアルなヒーリングが起こるときにも、その背景にこのような変容の器の機能が存在する。ヒーラーはこの器の環境を提供すると同時に、クライアントと共によい体験をすることが望ましい。そして、クライアントが陰性感情を転移して来たとき、それにサバイバルしながら、クライアントの魂が本当に求めているものに寄り添い、それに付随する感情を自分のものとして体験するための環境を提供する。クライアントがその感情を自分のものとして体験しつくすことができたとき、そのテーマの背景に存在するクライアントの家系の魂のもつれは時空を超えた非局在的なつながりによって影響を受け変容する。それはあたかも幽霊だったものが、家族を守る祖霊に変わるような出来事である。 関係性 器の機能 獲得されるもの 母子関係 身振りや泣き声に対応 安心と信頼 セラピスト・ クライアント関係 自分史(何が繰り返されたかに関するナラティブ)の再編集する 健全な自我の強さ、個性化 仏教瞑想における 師・弟関係 自我の仮想性(誰が繰り返しを必要としていたのか?)を脱構築する 無我、空 スピリチュアルケア 自我の危機(死と再生)に寄り添う 共に喜び友に悲しむ力としての智慧と慈悲 
  • [10] mixiユーザー

    2006年06月21日 04:10

    第3回スピリチュアリティー学際研究会
    シンポジウム配布資料

    2006年6月24日(土)11:30〜15:00
    東久留米市くるめ亭


    テーマ:スピリチュアルヒーリング

    プログラム
    11:30   ご挨拶・前回の報告など      尾崎
    11:45   お食事(自己紹介・近況報告など)
    12:30   笠置 浩史 (日本大学大学院) 発表
    教育の課題としての〈スピリチュアル・ヒーリング〉
    ―教育における〈気づき〉と教師の〈Being〉―
    13:00   井上ウィマラ (高野山大学)発表・演奏
    スピリチュアルヒーリングの器
    14:00   甲田烈 (相模女子大学)発表・落語
    ヒーリングにおける奇跡現象と無縁の愛
    14:40   ご挨拶・次回の案内など      尾崎

    ご挨拶
    皆様、本日はお忙しい中、遠く新潟から!もよくいらっしゃいました。
    今回は、前回時間不足で消化不良気味だった点をじっくりディスカッションしていただくために、少人数でざっくばらんな討議に多く時間を使いたいと考えています。発表するかたがた、どうぞよろしくお願いいたします。
    最近ミクシー内のコミュニティーでの議論も活発で、いろいろな広がりを見せています。秋のシンポジウムは、愛について、来年の春は発達の視点からスピリチュアリティーを見ていこうという提案がなされています。ご関心のあるところをみなで取り上げてまいりましょう。
    研究会代表・尾崎 真奈美


    発表者紹介

    笠置 浩史(かさぎ こうじ)











    (情報ください)

    甲田 烈(こうだ れつ)                             
    1971年、東京生まれ。東洋大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。大学院における専攻は仏教学・比較思想。東洋大学東洋学研究所研究員を経て、現在相模女子大学文芸学部人間社会学科の非常勤講師として、「トランスパーソナル学」を講じている。トランスパーソナル学には在学時より関心を抱き続け、関連論文多数。現在の関心は妖怪研究。 所属学会は日本宗教学会・比較思想学会・トランスパーソナル心理学/精神医学会・日本トランスパーソナル学会(常任理事)など。
    井上ウィマラ(いのうえ ういまら)

    1959年山梨県生まれ。京都大学文学部哲学科宗教哲学専攻中退。日本の曹洞宗、ビルマのテーラワーダ仏教で出家し、ウィパッサナー瞑想とパーリ経典の解釈学ならびにアビダンマ仏教瞑想心理学を学ぶ。カナダ、イギリス、アメリカで瞑想指導。マサチューセッツ州バリー仏教研究所客員研究員を勤めた後に還俗し、帰国。現在は高野山大学スピリチュアルケア学科助教授。
    日本トランスパーソナル学会常任理事。
    訳書に、「呼吸による癒し」ラリー・ローゼンバーグ(春秋社)。著書に、「心を開く瞑想レッスン」(大法輪閣)、「呼吸を感じるエクササイズ」(岩波書店)、「子どもの心のありかに寄り添う」(主婦の友社)、共著に「自分という自然に出会う」(講談社)などがある。

    教育の課題としての〈スピリチュアル・ヒーリング〉
    ―教育における〈気づき〉と教師の〈Being〉―

    笠置 浩史 

    〈要旨〉
     本発表では、〈スピリチュアル・ヒーリング〉を教育の課題として捉えること
    を試みたい。その前提として、1)教育と〈スピリチュアル・ヘルス〉に着目し、
    教育の一側面として、〈ヒーリング〉の視点が重要であることを指摘する。では、
    〈ヒーリング〉とは何か。2)〈癒し〉〈ヒーリング〉の特徴として、〈気づき〉
    があげられる。〈スピリチュアル・ヒーリング〉とは、スピリチュアルな〈気づ
    き〉によるところが大きいのではないか。となると、3)教育における〈スピリ
    チュアル・ヒーリング〉のために、必要なことが見えてくる。これに対して、2
    つの側面から考察する。すなわち、?〈スピリチュアリティ〉をめぐる理解(
    〈気づき〉)の促進、?教師の〈スピリチュアリティ〉(≒〈存在〉そのもの=
    〈Being〉)による「薫習」の2つである。

    1.教育と〈スピリチュアル・ヘルス〉

     WHO(世界保健機構)が、〈スピリチュアル〉という言葉を使っていること
    は、よく知られている。なかでも、「健康」定義のなかに、「肉体的」、「精神
    的」、「社会的」の3領域以外に、〈スピリチュアル〉な領域を加えようとした
    ことは注目に値する。すなわち、人間は本来〈スピリチュアル〉な存在であり、
    「健康」を〈スピリチュアル〉な次元で見直すことの重要性をWHOは認めてい
    るのである。
     ところで、わが国の教育基本法では、第1条に教育の目的として「心身ともに
    健康な国民の育成」があげられている。つまり、「健康」であるということは、
    教育の目的であり、課題であるといえよう。
     もしそうであるならば、〈スピリチュアル〉な「健康」(spiritual health)
    をも、教育の課題として捉えなおすことが重要なのではないか。では、教育にお
    いて、いかにして〈スピリチュアル・ヘルス〉を実現するか。これには、治癒的
    観点が必要なのではないか。つまり、教育の一つの側面として、〈スピリチュア
    ル〉な〈癒し〉、すなわち〈スピリチュアル・ヒーリング〉という在り方を認め
    るべきなのではなかろうか。

    2.〈気づき〉・〈つながり〉・〈スピリチュアル・ヒーリング〉

     心理療法・カウンセリング等の〈癒し〉・〈ヒーリング〉の場面での癒える過
    程において、〈気づき〉という要素が重要であるように思われる。クライエント
    中心療法やフォーカシング、ゲシュタルト療法やハコミセラピーなど、多くの心
    理療法の要訣は、クライエントが自身の「とらわれ」に「気づく」ことによって、
    治癒的変容をもたらすというものである。
     また、〈つながり〉の感覚を回復することも、〈ヒーリング〉における要件の
    一つであろう。例えば、自助グループでは、「苦しんでいるのは私ひとりだけで
    はない。皆同じように苦しんでいるのだ」という〈つながり〉の実感(〈気づき〉)
    が、〈癒し〉に向かうのであろう。
     この〈気づき〉・〈つながり〉の実感を、〈スピリチュアル〉なレベルで実現
    すれば、〈スピリチュアル・ヘルス〉をもたらす〈スピリチュアル・ヒーリング〉
    となるのであろう。換言すれば、〈スピリチュアル・ヒーリング〉とは、「〈ス
    ピリチュアル〉な〈気づき〉を促進することによる治癒的変容」ということがで
    きる。

    3.教育における〈スピリチュアル・ヒーリング〉のために

    ?〈気づき〉の促進
     教育において、〈スピリチュアル〉な〈気づき〉を促進することが課題となる。
    これにあたって、まずは〈スピリチュアリティ〉に関する(ある意味では「知的
    な」)理解が必要であろう。例えば、現代の科学では捉えきれない、所謂「サム
    シング・グレート」とでもいうべき何かが「ある」と知ること。神秘的な生命の
    〈つながり〉について学ぶこと。客観的な知識の習得ではない。知識を、自分自
    身の問題として、受け止めること。腑に落ちる体験。岡野守也の「コスモロジー
    教育」は、〈スピリチュアル〉な〈つながり〉に〈気づく〉ことを目論んだもの
    であった。教育によって〈気づき〉、意識の変容が起こる。これはまさに〈スピ
    リチュアル・ヒーリング〉としての教育の一つの在り方である。

    ?教師の〈Being〉による〈薫習〉

     【薫習】物に香が移り沁むように、あるものが習慣的に働きかけることにより、
        他のものに影響・作用を植えつけること。(『広辞苑』第5版)

     〈気づき〉とは、当然のことながら、各人が自分自身で「わかり」、体得しな
    ければならないことである。〈気づき〉を促進するということは、「教え込む」
    こととはそぐわない。教育における〈気づき〉促進の背景として、〈薫習〉によ
    る〈場〉を重視したい。
     マクルーハンは“Media is message”と述べた。つまり、伝える内容ではなく、
    その「伝えよう」によって伝わるものがあるという。〈スピリチュアル・ヒーリ
    ング〉としての教育においては、以下のようになる。すなわち、教師の〈スピリ
    チュアリティ〉が、教師の〈在り方〉そのものに体現され、それが焚き染めるよ
    うに学習者に(治癒的)影響を与える。この〈在り方〉を〈Being〉と呼ぼう。
    〈Being〉を「教育メディア」として位置づけようというのが、拙稿(2006)の議
    論であった。
     帯津良一は、医療の現場で〈場〉を高めることによる治癒効果を報告している。
    ユングが重視した「中国の雨乞い師」のエピソードは、〈Being〉を整えること
    によって〈場〉を整え、変容をもたらすものであった。ハコミ・セラピーでは、
    セラピストの〈Being〉を整えるための工夫として「ラビング・プレゼンス」と
    いう技法を用い、適切な〈場〉を作り出している。
     教育においても、教師は教授技術にばかり囚われるのではなく、自身の
    〈Being〉を整え、そのことによって教育の〈場〉が整うということに目を向け
    なければならない。シュタイナーが、教師の「存在そのもの」を重視したのもそ
    のためであろう。〈スピリチュアル・ヒーリング〉をもたらす〈気づき〉のため
    には、まず教師が自身の〈Being〉を見つめなおさなければならないのである。

    スピリチュアルヒーリングの器

    井上ウィマラ

     赤ちゃんが空腹やオムツが濡れて泣いているときにお母さんがおっぱいをあげたりオムツを替えてあげたりすることによって二人の間に笑顔が生まれる体験は、人間が人生で最初に体験する魔術的体験である。それは、自分にとって辛くて悪い体験が他者(主な養育者)と共にいることによって嬉しくて幸せな体験になるという奇跡的体験であり、安心と信頼を獲得するために必須な体験であり、精神的な健康の基盤となるものである。
     この考察では、母子関係、セラピストクライアント関係、師弟関係、スピリチュアルケアにおける変容の器としての機能を考察することで、スピリチュアルヒーリングとは何かについて考える手がかりを提供してみたい。

     ウィニコットは、「赤ちゃんはひとりでは存在できない。母親(母親的養育者)と二人一組になって初めて生きてゆくことができる」と言った。母親の関心は、出産後の数週間にわたって社会的な関心が減少し、生まれてきた赤ちゃんに対して集中する。これを母親的専心(Maternal preoccupation)と呼ぶ。この自然な関心の集注により、母親は鳴き声や身振りという前言語的メッセージによって表現される赤ちゃんの欲求を察知して適切に対応することが可能になる。こうして赤ちゃんが心身ともに健康に成長するための環境が提供されるのであるが、それを程よい母親的環境(Good enough mothering environment)と呼ぶ。
    母乳を提供しぬくもりを与えてくれる母親の身体は、赤ちゃんにとって「対象としての母親」である。これに対して、自分がむずかったり、おっぱいを噛んだりけったりしてしまったときに、自らの筋肉的興奮による攻撃衝動にサバイバルして二人の間に幸福な笑顔が体験される器を提供してくれる意識の姿勢(関心のあり方)としての母親の存在は、「環境としての母親」である。
     赤ちゃんは母親のおっぱいを噛んだり蹴ったりしてしまったとき、母親の身体的反応を察知して、「大切なものを破壊してしまったかもしれない」という不安を抱く。これが原初的な罪悪感となる。このような状況で、母親が赤ちゃんを身体的にも精神的にも抱きとめる(Holding)ことができると、その器の中で二人の間に笑顔が回復する。この修復体験によって赤ちゃんは「お母さんを幸せにして上げられた」という貢献の喜びと自信を得ることができ、それに支えられて原初的な罪悪感は思いやりへと変容する。このような幼少期の非言語的体験が、成長して自我意識や言語を獲得してからの許しや和解の体験の土台を提供する。このとき、思いやりに変容されずに、報復され踏みにじられ無視された原初的な罪悪感は抑うつや反社会的心性や衝動的攻撃性などに凍り付いてゆく。
     ボウルビィは、精神的健康の基盤を、母子相互の親密で継続的な共に喜び満たされるような体験であるとした。そして、成人後の人生において離別や喪失などによる危機的状況に遭遇したとき、どのように対応するかのパターンは、その人の性格がどのように構造化されたか、すなわちどのような幼少期の生育歴を過ごしたかによると述べている。

     スピリチュアルなヒーリングが起こるときにも、その背景にこのような変容の器の機能が存在する。ヒーラーはこの器の環境を提供すると同時に、クライアントと共によい体験をすることが望ましい。
    そして、クライアントが陰性感情を転移して来たとき、それにサバイバルしながら、クライアントの魂が本当に求めているものに寄り添い、それに付随する感情を自分のものとして体験するための環境を提供する。クライアントがその感情を自分のものとして体験しつくすことができたとき、そのテーマの背景に存在するクライアントの家系の魂のもつれは時空を超えた非局在的なつながりによって影響を受け変容する。それはあたかも幽霊だったものが、家族を守る祖霊に変わるような出来事である。


    関係性 器の機能 獲得されるもの
    母子関係 身振りや泣き声に対応 安心と信頼
    セラピスト・
    クライアント関係 自分史(何が繰り返されたかに関するナラティブ)の再編集する 健全な自我の強さ、個性化
    仏教瞑想における
    師・弟関係 自我の仮想性(誰が繰り返しを必要としていたのか?)を脱構築する 無我、空
    スピリチュアルケア 自我の危機(死と再生)に寄り添う 共に喜び友に悲しむ力としての智慧と慈悲
     


















    ヒーリングにおける奇跡現象と無縁の愛

                  甲田 烈 

    1.問題の所在

     この発表では、宗教的、またはスピリチュアルな技法におけるヒーリングにおいて、しばしば見られる奇跡的な治癒や病や死への自己受容といった事柄が、いったい人間存在においていかなる事態を指し示しているのかということを、哲学的観点から考察することを目的としている。そして哲学の立場から考察した場合、奇跡とは、まず第一次的にすでに起こったことであり、二次的に現象した諸々の奇跡は、その第一次の奇跡を「指し示す」働きをしているということが明らかになるであろう。
     現在、ヒーリングはブームの観を呈しているし、手技療法やクリスタルを用いたもの、チャクラと呼ばれている人体システムに働きかけるものなど、多岐にわたっており、各々の「奇跡的治癒」の成果がかまびすしく喧伝されている。
     それでは、ヒーリングにおいて「奇跡」が生じるメカニズムはどのようなものであろうか。その有力な仮説としては意識の非局在性(Non Local Consciousness)がラリー・ドッシーによって提唱されている。意識は脳や身体に局在しているものではなく、時空を超越しているというのである。また近年マクタガードによって紹介されたゼロ・ポイント・フィールド(Zero Point Field)仮説によれば、作用粒子が生成する場である他人のZFPにヒーラーが働きかけるという捉え方がみられる。そしてバーガーは人間はエネルギー、もしくは波動的(vibrational)な多次元構造を有するという視点から、物質界・肉体/エーテル界接触面・エーテル界・アストラル界・メンタル界・コーザル界・より高次の霊的エネルギー界という多次元構造をモデルとした波動医学(Vibrational Medicine)を提唱している。
     これらは一見して説得力を有するように見えるが、人間存在を「波動」や「エネルギー」という科学的知見によって整理することにより、「微妙な還元主義」に陥ーる可能性がある。認識論的には利得をもたらす知見であっても、あらためて存在論の立場から、ヒーリングにおける奇跡の構造について考えることはできないだろうか。

    2. 独在論的反転における愛の構造

     私はこれまでヒーリングの構造について、永井均の提唱する独在論を手がかりとして考察を進めて来た。永井の独在論の骨子は「〈私〉の存在は奇跡であり、〈私〉と特定の人物との結びつきは原始偶然である」というテーゼに要約することができる。
    〈永井均〉は他の誰でもがそうであり得たのに〈永井均〉は一人しかいない。これは奇跡である。けれども、言語ゲーム的な合理性においては、この〈永井均〉という独在性はただちに「永井均」という単独性に置換されてしまう。「他の誰でもないこの私」という主張が、たとえば「それはよくわかるよ」という他者の賛同を受けたとき、それはただちに理論上、他の様々な人々と並び立つ「他者」へと変換されてしまうのーである。この独在性には、原理的にはそれと並び立つ〈私〉とは別の〈私〉はいない。
     しかしそれは「他者」の形態をとった〈私〉として現れる。永井は〈私〉を複数認めてしまえばその〈私〉はただちに「私」へと転落してしまうと考える。
     だが、その並び立つはずの「他者」が〈私〉にしか触れられないものだとしたら、いかがであろうか。最初の奇跡はすでに起こっている。それは他ならぬこの〈私〉、あるいは永井の言葉を転用すれば〈魂〉が在るという事態である。この〈魂〉は「他 者」と並び立つ「私」として日常を生きる。
     けれども、ヒーリングという事態においては、「他者」を媒介として〈私〉の〈他者〉への翻りが起こるのではないだろうか。これを独在論的反転と呼ぼう。すでに起こったはずのあの奇跡(一次的な〈私〉があること)を「他者」を媒介とした翻り(第2次的奇跡現象)が指し示すと言い換えてもよい。
     なぜ、このようなことが可能になるのであろうか。永井によれば、他者の〈魂〉に対する態度とは、1つの矛盾である。それは、決して出会い得ぬものへの、〈私〉の
    世界の内部へは決して現われぬものへの、どのような態度も取り得ないような態度だからである。それゆえ、これを「無視する愛」と永井は呼ぶ。しかしながら、無視とは、そこに何かが見られているがゆえの無視であろう。すでに絶対的不可能性という形式において、そこでは絆が築かれてしまった。見まいと決する事も1つの「縁」なのである。そこで永井の含意を明晰に表現するためには、この存在論的な事態を「無縁の愛」と名づけたほうがよいと、私は考える。
     ところで、ヒーラーたちがしばしば語る「愛」は意識する自己の「意図」を越えていると表現されている。それはこの「無縁」の態度に、ヒーラーが深く在ることを意味しているのではないだろうか。「無縁の愛」は意識する自己の裏へと「反転」させるのである。
     そして、世界には複数の〈私〉がある。それこそが奇跡の意味なのである。






  • [11] mixiユーザー

    2006年06月22日 04:17

    現在9名の参加者がいますが、まだ大丈夫です。よろしかったらご連絡ください。
  • [12] mixiユーザー

    2006年06月22日 05:41

    笠置浩史(かさぎ こうじ)

    1982年、イギリス生まれ。日本大学文理学部教育学科を経て、現在同大学院文学
    研究科教育学専攻博士前期課程在籍。学部学生の時分はルドルフ・シュタイナー
    の思想を、現在は専ら教育におけるスピリチュアリティの問題について探求して
    いる。
    また、高校時代より音楽に傾倒しており、各種演奏会の主催、出演など多数。
    指揮法を進藤潤氏に師事。
    現在、日本トランスパーソナル学会、日本トランスパーソナル心理学/精神医学
    会、教育思想史学会、日本大学教育学会、各会員。スピリチュアリティ学際研究
    会、気づき教育実践研究会、獲得型教育研究会、ユング心理学研究会など参加。
    朋優学院高等学校非常勤講師。
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  • 2006年06月24日 (土)
  • 東京都 東久留米市
  • 2006年06月20日 (火) 締切
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