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開催終了スピリチュアリティー研究会 第4回シンポジウム〈愛・ヒーリング〉

詳細

2006年11月21日 22:37 更新

スピリチュアリティー研究会 第4回 シンポジウム 〈愛・ヒーリング〉
 2006年12月16日(土) 13時30分-16時30分
 神宮前区民会館 第一会議室
研究発表の部
 1.甲田 烈:「ヒーリングはなぜ問題になるのか」
 2.持田 将俊:「福祉の現場における癒しの試み」
 3.新井 宏依:「医療現場における治療と癒し」
 4.尾崎 真奈美:「スピリチュアリティーと倫理観」

ワークショップの部
 アートパフォーマンス
(ファシリテーター:「アンナちゃん」こと尾崎 真奈美)

会費:1,000円
*定員がございますので、必ず事前に事務局までお申込ください。

お申込・お問合せ
 スピリチュアリティー研究会事務局 笠置浩史 kasagi_koji@yahoo.co.jp

コメント(11)

  • [1] mixiユーザー

    2006年11月22日 03:08

    笠置様ありがとうございます!

    癒しの理論と実際、おおづめですね。
    今年もいろいろ有益なシンポジウムが多く楽しかったですね。

    今月中にレジュメをアップします。
    ゆっくりとできるだけ少しのことを丁寧に・・・はい。
    これだけにします・・笑

    尾崎真奈美
  • [2] mixiユーザー

    2006年11月22日 08:59

    参加します。みっくん
  • [3] mixiユーザー

    2006年11月23日 22:37

    ワークショップは参加自由(観察してるだけもあり)ですので、お気楽にいらしてください。
  • [4] mixiユーザー

    2006年11月30日 11:36

    第4回スピリチュアリティ研究会シンポジウム 2006.12.16
    スピリチュアリティーと倫理
    尾崎真奈美
    研究1
    ○宗教教育と健康促進的なスピリチュアリティー

    【目的】宗教教育が個人のスピリチュアリティーに及ぼす影響を探索した。【方法】スピリチュアル教育の効果測定尺度であるサイコシンセシステストを一般大学生(N=844、M=376,F=468)と特別な宗教教育を受けている大学生(N=107,M=50,F=57)とに試行し、探索的因子分析により抽出された5因子ごとの得点を比較した。【結果】 宗教教育の背景を持つ学生は、信念に基づいた行動(F1)、超越次元への気づき(F3)、倫理観(F4)対人的敏感さ、気遣い(F5)合計得点で、一般学生より優位に高得点を示したが、スピリチュアルな喜び(F2)に関しては差が見られなかった。【討論と結論】「喜び」得点が宗教的背景と関連がなかったことにより、健康促進的スピリチュアリティーが宗教教育によっては達成されない可能性が示された。


    研究2
    ○スピリチュアルハラスメント・癒し・愛・倫理に関する一考察
    部分的な霊的覚醒によって、狂信的、非科学的信念を自我肥大的に盲目的に押し付けたり脅したりといった、スピリチュアルハラスメントが観察される。自我の成熟がない場合にこれは癒しと正反対の破壊的様相を帯びてくる。病が治らない場合に、行いが悪い、信仰が足りない、因果の報いであるといったネガティブな解釈も大きな問題である。
    これはスピリチュアルヒーリングに関する誤解から生じている。スピリチュアルヒーリングとは、魂の癒し、すなわち、宇宙の秩序に従いありのままの状況をそのまま感謝して受け止めるような態度であり、必ずしも心身の健康回復を意味しない。
    宗教的規範を持った、倫理観の高い学生の喜びが期待したほど多くなく、うつ状態が多いことより、メンタルヘルスとスピリチュアルヘルスを明確に区別する必要を示唆された。
    道徳的発達段階の研究で著名なコールバーグも自殺している。霊的抑圧が起きているかどうかの吟味と同時に、倫理観の高さが必ずしも精神的健康を意味しないことの意味を探りたい。


    アートパフォーマンス
    ○ クリスタルのミストに包まれて   即興ダンス
    愛の季節クリスマスにふさわしいきらきらした雪の結晶のような音楽とともに、インスピレーションのままに踊りたいと思います。
  • [5] mixiユーザー

    2006年11月30日 18:46

    これから、急いでレジュメを作成します。
    しばしお待ち下さい。

    ユング研究会のコミュで、コメントした様な内容になるかと思います。

    医療現場における癒しには限界もありますが、一つの教義を信じ過ぎて、心と体のバランスを崩される方も多くおられます。

    これも、スピリチュアルハラスメントの一種かと思います。

    その様な事例を踏まえながら、治療と癒しについて発表をしたいと思います。
  • [7] mixiユーザー

    2006年12月10日 20:24

    持田さんのレジュメです。

    ---
    第4回スピリチュアリティ研究会シンポジウム 2006.12.16
    福祉の現場における癒しの試み
    持田将俊

     高齢福祉の現場でも、情緒に働きかける、様々なセラピーが行なわれています。たとえば、音楽療法や園芸療法など、芸術や自然に接することで、心身を活性化しようとするものがあります。最近流行っている学習療法は、脳を鍛えなおして認知症の予防を図ろうとするものだといえるでしょう。
    いずれも興味深いものですが、今回お伝えしようと思うのは、まだ国内では単行本にされたことがない、「タクティール」というものです。これは、認知症の方の問題行動をしずめたり、ターミナルの患者さんの疼痛を軽減するなどの効果があると言われる、癒しの技法です。福祉先進国といわれるスウェーデンから、ごく最近に紹介されたばかりの、一番新しい癒しの試みだといっていいのではないでしょうか。
    といっても、行なうことは、背中や手などをゆっくり包み込むようにさするだけなのですが、それによって、オキシトシンという物質の分泌が増えることが、確認されているそうなのです。これは、授乳中の母子などに大量に分泌されるもので、安心感につながるホルモンだといわれているそうです。そのために、母親のぬくもりが安心感の象徴となるのでしょうか。
     ちなみに、認知症の方は、分からなくなっていくことへの不安を抱えていると言われます。タクティールの与える安心感が、その不安を解消し、行動を落ち着かせるのだと考えられます。そこには、不快は快によって打ち消せる、という仕組みが働いているように思われます。
     蛇足ですが、そのように「快が不快を打ち消す」、ということを一般化して捉える試みについても、ご提示してみたいと考えております。
  • [8] mixiユーザー

    2006年12月10日 21:39

     甲田です

     さきほどのレジュメにつき、人名の誤記がありましたので修正いたしました。それ以外の修正箇所はありません。
     当日は、どうぞよろしく。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    第4回スピリチュアリティ研究会シンポジウム 2006.12.16
     ヒーリングはなぜ問題になるのか
                                
                 甲田 烈(相模女子大学)

    1. 問題の所在

     欧米においては1980年代から知られていたことであるが、日本においても特に1990年代後半以降、「ヒーリング」はブームの観を呈している。“Healing”とは、もともとギリシャ語の“Holos”に由来する言葉で,「全体性」を意味する。そして、翻訳語としての和語の「癒し」は上田紀行によって『覚醒のネットワーク』(1989年)に使用されて以来、今やグラビアアイドルやゲームキャラの属性に転用して使われるほどに一般化している。
     ところで、このように「癒し」もしくは「ヒーリング」の由来や伝播過程について説いたとしても、それは宗教学・人類学・社会学・補完代替医療研究にはなりえても、それ自体は必ずしも「哲学」のテーマではない。実際のところ、「ヒーリング」についての哲学的考察というのは、皆無に等しいのが現状である。
     しかしながら、哲学がもし、世界と自己の全てを対象とする学であるとするならば、「ヒーリング」もまた哲学の対象となってよいであろう。とりわけ本発表では、人々が「ヒーリング」というものを求めていく1つの根拠を「波動説」の批判的検討に求め、ついでこの視点から欠落していると考えられる「ヒーリング」の存在論的身分について若干の考察を加えたい。
     あらかじめ結論を言えば、たとえば「波動説」のような立場は,ヒーリングにおいて「何」が起こっているのかということをとりわけ身体論的立場から検討するのに有益である。そうした意味で,それは「ヒーリングの認識論的理解」と言えるであろう。
     しかし、それだけでは「誰に」それが起こるのか・必要なのかという視点は抜け落ちてしまうのではないだろうか。この「誰」を考察するためには、「ヒーリングの存在論的理解」と呼ぶべき視点の転換が必要なのである。

    2. ヒーリングの認識論的理解

     ヒーリングについて問おうとするとき、「霊的な多階層構造」や「波動」といったモデル認識を避けることはできない。自然科学の発達においては、当該の時代の最先端のモデルが世界認識の主流となる。たとえば、デカルト・ニュートン・カントが機械のモデルとしたのは時計であった。そしてヘーゲルの時代,それは水車へと変化していく。19世紀から20世紀にかけては、それはフォード型のベルトコンベヤーシステムとなり、現代ではノイマン型のコンピューターということになる。
     注目すべきことは、特に現代で「セラピューティック・タッチ」と呼ばれる諸技法が、ヘーゲル直後のアメリカにおける新ヘーゲル派とクリスチャン・サイエンスの合流の下に誕生していることである。ヘーゲルが水車に着目したのは、位置エネルギーが回転エネルギーに転化するという、エネルギーの形態変化にあった。そこでヒーリングにおいても、「エネルギー」という理解範疇が重要なものとなったと推察される。
     その一例として、補完代替医療のモデル化を試みたR.ガーバーの『バイブレーショナル・メディスン』(1998年)を見よう。バーガーはこの本において、身体の構造について肉体・肉体/エーテル体接触面・エーテル体・アストラル体・メンタル体・コーザル体・より高次の霊的エネルギーという多階層構造モデルを提示し,各次元に妥当する代替医療の地図化を試みている。
     このような多階層構造モデルは、たとえばトランスパーソナル・インテグラル思想でも「意識」の側面から提示されていることで、特に問題はないかもしれない。しかし、身体の多次元的構造のすべてが「エネルギー」の異なる形態、つまりは周波数的特性として説明されるとき、その点には疑義を禁じ得ない。なぜなら、多階層モデルとは、各次元の質的差異をともなう事象として定義されなければならないはずだが、それを「周波数帯」という、実は単一次元的な用語で説明する事は、論理的な矛盾を犯しているのではないかと考えられるからである。また、ウィルバーが提起している「カテゴリー・エラー」の疑義も免れるものではないだろう。
     しかし、哲学的に重要なのは,このような「エネルギー」という人口に膾炙しやすいモデルーそれゆえ、人々の直観にフィットするーを形成する反面、ガーバーには「ヒーリング」が「誰」に起こるのかという、存在論的な問いが欠如していることである。
     この問いを持たないまま一人歩きしたモデルが、安易な「癒し」願望やモデルそのものの誤用を再生産するのではないかと考えてみたほうがいいだろう。

    3. ヒーリングの存在論

     それでは、「ヒーリング」を「誰」が必要とし、またそれは「どこ」で起こるのか,このことについて簡略に考察しておきたい。
     これについては、本研究会ですでに幾度か述べているので、詳細は略するが,要点としては、それは〈私〉に起こるということである。
     永井均は「他者」(1990年)において、他と取り替え可能な、どこにでもいるという意味で、とりわけ言語ゲーム的に通用してしまう自己の位相を「私」と呼び、他と取り替え不可能な、世界がなぜかそこから開けている原点を〈私〉と呼ぶ。
     発表者はかつてこの存在論的分析を応用して、「ヒーリング」とは「私」が〈他者〉を媒介として〈私〉へと反転することと解釈した。
     「あるがまま・そのまま」とか、「自分のありのままを受容する」と直観的に表現される内実がもし厳密なものであるとすれば、「私」ではなく〈私〉の位相から語り示されているのである。
     通常、人は自らを他と取り替え可能な「私」として生きる傾向がある。実はそのことは「他者」も取り替え可能で、「私」という世界の中の一風景だという、潜在的な独我論の態度と結託している。しかし生や死について問われるような病において、人は一時的に、この「独我論」を己の救いを求めると言う方向で顕在化させる。
     しかし、それは「他者」という壁にぶちあたることだろう。「私」とは、他者と取り替え不可能な世界の唯一の開けであるはずたが、他者もまたーロボットであると考えない限りー世界がまたそこから開ける唯一の原点である。けれども、唯一が二つもあるというのは、論理的に矛盾しているし、二つある「唯一」は「取り替え可能」なはずである。しかし、それはそうではない。永井はいみじくもこのことを「奇跡」と表現している。
     〈私〉とは一つの奇跡である。これが永井の独在論(独我論ではない)の前提だが、ヒーリングの場合、それはまず〈他者〉の自覚を媒介として生じると考えられる。具体的にいえば施術者とクライエントは、相互に癒し・癒されるものとして、しかも取り替え不可能な形で「反転」するのである。
     このことを独在論的反転と呼ぶことができよう。独在論は〈他者〉を介した〈私〉が示されることで、独我論から解放されるのである。
     このような存在論的な理解と,先に述べた認識論的な理解はどのように結びつくだろうか。それは今後の課題であるが、身体の深層次元の開けとは、その反転なのではないかということを示唆するに止めておきたい。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  • [9] mixiユーザー

    2006年12月12日 17:21

    遅くなりまして、申し訳ありません。
    レジュメをアップ致します。
    宜しくお願い申し上げます。
    ============

    第4回スピリチュアリティ研究会シンポジウム 2006年12月16日

    「医療現場における治療と癒し」

    発表者:新井宏依

    医療現場での治療とは、身体的な問題に対して行われている。クリニックに通う患者の多くはうつ病と統合失調症であり、うつ病の場合は、抑うつ状態・不眠等に対して薬を与え、統合失調症の場合だと、幻覚・妄想状態等を抑制する薬物療法を行う。勿論、双方共に精神療法を行うのであるが、薬物療法なしで病状が改善されるケースは極まれである。

    特に、うつ病では会社や家族間等のトラブルで、心にストレスが積もって引き起こされるケースがある。医療関係者は、患者がいかに苦しんでいるかを傾聴する事は出来ても、ストレスに対して直接関わりを持てないのが実情である。例えば、会社の人間関係で悩んでいても、その相手の話を聞くことは極めて難しい。医師は、悩みで生じた症状に合った薬を処方するのが精一杯である。

    それでも、患者本人が薬を医師の指示通りに服薬して、身体的症状が改善されれば、心にも免疫が付き、会社や家族間でトラブルが生じても、それを受け流すことが可能になり、以前の様な心身共にバランスが取れた状態に戻るのである。

    病気の原因になった外的ストレスを、変えることは困難であり、患者本人がストレスによって崩した体調を治して、外的ストレスと対面出来る状態へと持って行かない限り回復にとても時間が掛かってしまうのである。

    近年、「癒し」が話題になり、薬物療法なしで精神障害者への治療が行われているケースもある。発表者がクリニックを初めて訪れた者(1年間に約192名が初診。その内、約96名に問診を実施。)に問診をした範囲ではあるが、約半数が癒しを掲げる民間療法を受けていた。どうして、民間療法を中断してクリニックへ来院した理由を尋ねた所、彼らの殆どは初め精神科のクリニックへ行くことに抵抗を感じ、カウンセリングのみや、アロマセラピー、温熱療法等の治療を受けて病状改善を試みたが、限界を感じて改めてクリニックへ行くことに決めたと答えている。

    こうした実情を踏まえると、治療と癒しは切っても切れないものだと思うのである。薬物療法は副作用の問題もあり万全とはいかないが、体の治療をしなければ心の癒しには繋がらないと医療現場を通して考えられる。
  • [10] mixiユーザー

    2006年12月13日 01:19

    参加表明、遅くなりました!

    参加させていただきます。

    ほわん
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  • 2006年12月16日 (土) 13:30-16:30
  • 東京都 神宮前区民会館
  • 2006年12月16日 (土) 締切
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参加者
6人