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開催終了念仏者九条の会 北海道 設立記念 講演会

詳細

2007年03月21日 23:27 更新

念仏者九条の会北海道設立記念
講演会
『二つの約束。9条と20条』
講師:菱木政晴氏(同朋大学大学院特任教授)
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 今、日本国憲法が、改正されようという動きが現実になろうとしている。
 問題点は「国のかたち」を変えようというもの。
 憲法九条のみならず、第二〇条(信教の自由・政権分離)等々すべてにわたる。中でもとりわけ「戦力不保持」と「武力行使の否定」した、第九条が改悪の狙いの中心になっている。
 第九条は、古くなったのでは決してない。
「殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」(ダンマパダ)お釈迦さまの思い
「世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」(ご消息)親鸞聖人の思い
 共に声をあげていきましょう
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日時:4月14日(土)17:00〜19:00
場所:教化センター札幌別院
 (札幌市中央区北3条西19丁目)
入場料:500円
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講師著書:『浄土真宗の戦争責任』〔岩波ブックレット〕・『解放の宗教』〔緑風出版〕・『非戦と仏教』『市民的自由の危機と宗教』〔白澤社〕共著:『宗教の戦争責任』〔樹花舎〕・『憲法九条は仏の願い』〔明石書店〕など
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主催 / 念仏者 9条の会 北海道

コメント(1)

  • [1] mixiユーザー

    2007年04月16日 20:07

    「念仏者九条の会・北海道」

    が、2007年4月14日に発足しました。

     設立総会に続く記念講演会は、講師に菱木政晴氏を迎え、けっこう盛況だったと思います。

     講演の中で印象に残ったのは、主に二点。

    1.その人が死ぬ/殺される・殺すようなご縁を積極的に作り上げた責任者はなんと言うべきか。

    「死んでくれてありがとう、あなたの犠牲をふまえ、あなたにならってもっとたくさん死んでってもらいます。ご安心ください。わたしを信じてください」

    というべきなのか。それとも

    「死んでくれて、ごめんなさい。あなたの犠牲があったればこそのこの行動です。あなたの犠牲をふまえ、あなたの死を無駄にしないために、もう二度と再びあんなことはしません。ご安心ください。とは言え、末とおらないわたしなのです。」

    と言うべきなのか。

    2.菱木氏は源左さん(妙好人の一人)の「わしは知らん、あれに聞け」を実地でいっている、実はとてもありがたい方でした。びっくりしました。

    以上です。

     以下は、参加しての感想。

     総会も講演会も、質疑応答を含めとても刺激的でとても良かったです。この講演会をふまえ、わたしにはどういう実践が「できるだろう?」を考えるより、わたしはどういう実践をしたいのだろう・するのだろう。

     ともかく、立ち止まっている理由はもう一切ないと思う。ヤバい法律も確実に通ってしまう。だから逆に、立ち止まっていてはいけないと言う理由には事欠かない状況になりつつあると思います。

     今年の安居[あんご]の特別論題は昨年に引き続いて「平和」系です。つまりはこの問題を絶対に避けません・逃げません・あきらめませんという、勧学寮の意思表示なのだろうと、今は思っています。

     まさか「顕行」「穏行」にこだわって「後者がより深いからわたしは何もしない」と思うための安居ではないはずです。それはあたりまえだと思う。また、「わたしには末通ったことが出来ないから何もしない」と思うための安居でもないでしょう、それも当たり前だと思う。

     ただ、勉強しないでいると人間なんて絶対バカになる一方です。だから、真宗の僧侶はいかなるカタチであれ「宗学の研鑽」をしないといけない。安居はその形式のいちばん完成されたものだと思う。会読の問答[もんたつ]に参加するためにはものすごい勉強せんならん。時間が許すならやるべきだと思う。その個人的な勉強の成果や、安居期間中にたくさん開かれてる勉強会の成果や、実際の問答[もんたつ]で思うようにいかなかった経験というある種の成果、そんなのの総体としての「よろこび」みたいなものを、ご門徒さんやご縁の方々に伝えていく。その実践は確実に、親鸞聖人のおっしゃる「仏法ひろまれ世のなか安穏なれ」の心に沿った、わたしがやりたいタイプの実践であるに違いない。

     しかし、だからと言って、それだけで良いとは言えない。安居系の学問と実践だけが真宗の学問や実践なのではない。

     何かをしようかどうしようか迷ったとき、結局してしまったときよりもしなかったときの方が後悔は大きい、とよく言われてるんではなかったっけ。だったら、動きたくて動けるのなら、動いた方が良いと思う。

     「わたし」に末通ったことができないなんて今始まったことじゃない。慈悲には二種類あると言う。絶対的に良い慈悲と、相対的だから末通った善でも悪でもないへんてこな慈悲と。わたしが一生懸命やってるつもりの善は末通らない。わたしの行動はすべて末通らない。ということは、当然のことだから言うまでもないかもしれないけれど、わたしが一生懸命やってる、安居の場における宗学の研鑽だってまったく末通ったことではない。そんなことは端っから明らかだと思う。どんだけ宗学の研鑽をしたところで阿弥陀さまのようになれるわけではない、それがわかってくる。。

     末通らないことがたくさん存在するこの世の中で、その中から殊更に宗学の研鑽だけを選択して実践しなければならない理由なんてどこにもないだろう。「それがいちばん大事だ」ということかもしれないが、では二番目に大事なことはしなくて良いのか? そんなことはないだろう。

     社会に問いかけたり答えたりしようとする、真宗の実践はそれを含むんではないか。というか、含むモノであることをいまのわたしは知っている。

     バランスは問わないと思うけど、どっちもやらないと。どっちかにあまりに偏るとバカになると思う。本ばかり読んでいたらバカになるけど本を読まないでいてもバカになる、それと一緒だと思う。宗学の研鑽ばかりやっていてはバカになります。また、宗学のことを何にもわかってないのに「社会に答える仏教!」ばかりやっていてもやっぱりバカになると思う。

     両方やりたいんだから、わたしはこのまま両方やっていく方向でいきます。(その方がラクです。)

     以上、so-netの日記に書いたことのコピペなどを編集しての書き込みでした。(ちしゅーのところにも同じ文章があります。)
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