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開催終了 ネット読書会 『存在と時間』ハイデッガー “本を手に街へ出よう!” 

詳細

2016年12月15日 16:50 更新

 
さて、私の持ってる、桑木務訳(岩波文庫;上・中・下)の扉に書かれてる宣伝文を全文引用します手(パー)

> 『存在と時間』
> 20世紀ドイツ哲学の巨人ハイデガー(1889〜1976) の主著。
> 古代ギリシア以来ヨーロッパ哲学の課題であった存在一般の意味を、限りある個々の人間の根本構造の分析を通じて、時間の視界から決定しようと企てる。
> 哲学史史上に輝く不朽の名著。

> この大著が発表されたのは1927年。
> 第一次世界大戦の混乱は、当時のヨーロッパの精神世界を激動の渦に落しいれていた。
> その中に現われた本書は、公表されるやいなや異常な反響をまきおこし、「稲妻のように閃いて見る間に思想界の形勢を変えた」 と言われる。

> 本書の登場によって20世紀前半の哲学界は大きく塗りかえられた。
> 形而上学の復興、その後のヤスパース、サルトルらの実存哲学など、影響ははかり知れない。
> 現代哲学の新しい流れはすべて、『存在と時間』 に端を発すると言っても過言でなかろう。

:と、まあ大絶賛なんですけど、さあ、それでは一体どうなんでしょう・・・。
私、ちょっと読み始めてみたんですけど、・・・ちんぷんかんぷんがまん顔頭に入りませんげっそりどうしましょう・・・!!冷や汗
 
(ジャック・)

 

軽めのしか手を出さなくなりつつある現代人の皆様、ネット上で楽しみながら / 助けあって、ひとつ哲学書を読みはじめませんか? スポーツ感覚で。 走る人
 
『存在と時間』。
長大ですが、半月ずつ、ゆるめにペース・メイクしますから、私生活への負担は少ない、かと。 いい気分(温泉)
 
<参加ボタン> を押し、分割された章節を期間内に読んでいただき、以下主題などをコメントしあう、という企画内容です。
何が書かれてたか、の解釈。
解釈に対して、何を感じたか、の感想。
(トピック参加者の多くが第1 〜 23節を読了するまで、進行を一時停止。
解釈と感想を必須とせず、任意にし、読了記録だけは書きこむ。
小節を飛びこえて解釈や感想を書きこんでもいいし、誰かの書きこみについて書きこみ可、むしろ企画に有意義なので推奨。)
 
今、各社から文庫や新書が出てますし、月1くらいで図書館に通うのもいいですよね。 本
都度、各書と訳語照合します。
 
以下サイトを参考として中途参加も歓迎しますし、既読の方なら再読なしでもかまいません。 OK
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%A8%E6%99%82%E9%96%93
 
いくつかのコミュニティで共催され、横のつながりも面白いと思われます。 アベックアベックアベック
http://mixi.jp/view_event.pl?id=22825475
http://mixi.jp/view_album.pl?id=4213676&mode=comment
 
( w a r m a r t)
 

コメント(156)

  • [117] mixiユーザー

    2007年11月25日 02:06

    第3章、第22節、第23節、第24節です。

    <解釈>
    C 自分の周りと「現存在」が「広がり」を持ってそうな感じ

    第22節 事物の「広がり」について

    事物の広がりは客観的な3次元空間が与えられている、
    とかではなくて、意味の連関によって広がっているんだ。
    例えば「上」とは、「天井」だったり、「空」だったり。
    「広がり」を意味する事物は、そこにあることがまさに
    ドンピシャってな感じ(有意義性)でそこにあって、
    「現存在」はその都度、その都度、それを配慮的に発見
    するんだ。


    第23節 「現存在」のありかたとしての「広がり」について

    「現存在」は事象だから、そもそも、どこにも移動しない。
    どこかに行く時や、何かを取る時は、その距離を取り除いて
    いるだけ。
    そして「現存在」は見回しによって、方向を定めて、事物を
    見つけるんだ。


    第24節 「空間」とは

    「空間」が僕たちの主観の中にあるのでなく、また、
    「世界」が「空間」の中にあるのでもない。
    「現存在」が「空間」っぽさを持っているんだ。
    ただ周りを眺めていると何にもない「空間」が
    あるように見えるけど、それは僕らが持っている
    「空間」っぽさが、意味連関の中でそうさせているんだ。


    <感想>
    やっとの思いで第3章が終わりました。

    第23節では、和訳されてない「エントフェルヌング」
    と言う言葉が出てきますが(私の持っている岩波文庫では)、
    「距離を取り除く」と言う話を、
    『僕たちは生まれた時からずっと同じ場所にいて、
    一歩も動いていない。
    移動しているように見えるけど実は地面が動いていた。』、
    なんて想像しながら読みました。

    「現存在」の「現」を「いまここ」と訳すならば、
    「世界性」とか「空間性」の説明というのは、
    「いまここ」の「ここ」についての説明だったんだ、
    っていまさらながら気づいたりしています。
  • [118] mixiユーザー

    2007年11月29日 21:21

    <解釈>
    22〜24節は「空間性」を論じている

    22節
    ----
    14〜18節にて、内世界的に存在するものは適在性に基づいて解釈されているとした。しかし、同時に世界内部にあるものはある空間を占めている。この空間を占めるベースになるものが、方位である。この方位は、真っ先に展開され準備されているため、ほとんど意識されることがない。
    しかし、このように考えると

     方位 → 記号 → 適在性 → 解釈

    となる。これでは空間を認識しているというより、解釈された道具や事物に囲まれていて、それが空間を占めている。


    23節
    ----
    現存在の空間性は、22節に示した道具(内世界的に存在するもの)の空間性とは違う。現存在は配慮することでモノを認識している。配慮する場合、対象となる物体に方向が定められ、かつ、その物体に対する心理的な距離が縮まる(つまり、身近に感じられる)。これを注目される"モノ"の視点から見直してみる。すると、現存在が"モノ"に近づくように見えるだろう。現存在は、モノを認識するときに手近にモノを引き寄せるあり方で空間的であると言える。

    24節
    ----
    現存在はモノに囲まれて空間を認識している。この時点で、純粋な意味での空間(X,Y,Z軸で展開される3次元的な空間)は認識されていない。そこでは、認識の対象物が(世界の中にある)空間を埋め尽くしている。3次元的な空間が認識されるためには、空間の中を満たしている"モノ"を一旦取り去る必要がある。すると空間だけが残り、3次元的な空間が認識される。更に、当初は主題的に理解されていたモノが、3次元的な空間の中に物体があるように見えてくる。

    まとめると、有意義性・方位を予め持っている世界が展開される→適在性の展開→記号による指示がある→"モノ"解釈される→モノの消滅で空間が残る→空間認識 ということになるだろう。

    <感想>
    入りが難しいところだった。読み始めで分からなくても、そのまま突き進んでいくとなんとなく分かるんじゃないかと。話の展開は面白かった。特に、人間がモノに近づくのではなくて、モノが近づいてくる…の下りはイメージが湧きやすかった。

    >makotoさん
    距離を取り除くところですが、私は地動説←→天動説 のような考え方のシフトをイメージしてました。考えることはやっぱり似てるんですね(笑)
  • [119] mixiユーザー

    2007年11月30日 22:37

    <解釈>
    25節
    ----
    世界性(=有意義性)の分析で足りなかった部分を補足する。それは現存在の"共同現存在"という側面だ。
    「現存在=私」という視点で話を進めてきたけれど、いきなり「私である現存在」が世界・内・存在としてあるわけではない。まず、"ただ目の前にあるもの"があり、それが「私」だ…と解釈されている。これが「私」でないものと解釈されることもある。

    26節
    ----
    現存在がモノを認識する話ばかりしてきたけれど、実際には「他人」も認識している。この「他人」は、モノ(ハンマーとか本とか)とは種類が違うものである。「他人」もまた現存在である。私である現存在は、他人である現存在を認識している。この認識は"関心"というキーワードで考えることになる(モノの場合は"配慮"をキーワードとしていたけれど)。

    現存在は有意義性を支えにして、周囲の物体的な環境を認識しているとしたけれど、同じ支えを頼りに他者も認識している。これが、現存在の一つの特徴であり、本質の一つである。この特徴は常に働いて、周りに全く誰もいない場合であっても「他者を認識する働き」は作用している(が、結果としてアウトプットは何もない)。

    27節
    ----
    現存在は自分も他人も"目の前にあるもの"に色をつけるようにして「これは私」「あれは誰か」と認識されている。私と他者には違いがあり、現存在は(積極的にも消極的にも)自分と他人の差を認識している。この差を感じることが、現存在の日常的なあり方である。ここでいう他人とは、特定の「他人」ではなく、世間や一般大衆といった意味合い。現存在は、自分と周囲の違いにとても敏感で、比較することに夢中になっていて、"自分"を見失った状態にある。これが現存在の日常的なあり方となる。

    28節
    ----
    今後の展開の見通しについて…
    これまでの話は、世界・内・存在について話を展開したときに、論旨が崩壊しないようにするための下準備である。今後は、内・存在について更に話を進めていこう。その先では「関心」や「現存在のもつ自分自身を開示する機能」が視野に入ってくる。但し、これは現存在の本質であるけれど、日常的な状態ではない。日常的な状態では「開示性」は見えていない。
    ということで、ここから先は、世界・内・存在(特に内・存在)について、本質と日常的状態について論じる

    <感想>
    自分なりに一番理解しがたいパートでうまくまとめられなかったかも。ここら辺りまで来ると、ハイデガーは持論を展開しているというより、哲学の歴史を遡りながら、その先に話を持っていこうとしているのではないかと感じはじめました。
  • [120] mixiユーザー

    2007年11月30日 23:54

    TKDさん>>
    「距離を取り除く」ってまさに天動説みたいなパラダイムシフト
    ですよね!
    私はもうちょっとせこく、ルームランナー的なものを想像
    してましたが。

    さて、第4章、第25節、第26節、第27節です。

    <解釈>
    第4章 「他人と世界を共有していること」と「ふだんの私」

    第25節 「現存在はだれか?」という問いの手がかり

    「現存在はだれか?」という問いの手がかりは次に
    上げることかな。
    ・他人がすでに私の世界内に存在していること。
    ・一つの私が常に存在していること。
    ・人間は「なぜ?」って問い続けている存在であること。


    第26節 「他人と世界を共有していること」と「ふだんの私」

    私と他人は「世界」を共有している。
    だって、他人も「現存在」だし。
    他人も「世界・内・存在」だし。
    他人も「世界」そのもので、かつ、私の「世界」にも登場している。
    そして、私は他人のための「道具存在」。
    だから、私と他人は「共同存在」なんだ。

    そんななんかで私は他人の手本となって生きたりすることが
    できるんだけど、ふだんはいろんなことに迎合したり、
    いろんことに無関心だったりするよね。

    第27節 <ひと>

    実際には他人と私はいろいろなところが違うんだけど、
    迎合したり、いろんなことを肩代わりしあったりしながら
    生きているよね。
    僕はそれってあんまり「実存論的じゃない(なぜ?っていう
    疑問を持ってない)」生き方だと思うよ。
    普通の人は、だいたいその状態にとどまっているんだよね。
    僕はその生き方を、その状態を<ひと>って呼ぶよ。

    <感想>
    「日常性」って言う言葉をちょっと誤解していました。
    これは「ふだん」と訳すとしっくりくる。
    また、これはちょっと前に気が付いたけど、優位(例えば、
    「存在論的に優位」とか言っているところ)は「まず始めに」
    って訳すとわかりやすいかなって思ったりしています。

    人間はふだん、<ひと>として非本来的に生きている、
    と提起したところでしょう。

    人間が「ちゃんと生きる」ためにどうしたらよいか、
    っていうこと言うために、ハイデガー先生はちょっと
    ジャブを打ってきた感じがします。

    では「本来的な生き方」とは。。。。?

    予定は28節までですが、ここで第4章が終わったので
    ここまでとします。

    岩波文庫版は上巻の終わりです。
  • [121] mixiユーザー

    2007年12月10日 01:25

    第5章、第28節、第29節、第30節、第31節です。

    <解釈>

    第5章 内・存在、そのもの
    第28節 「課題」 世界の中に存在しているのはどこのどいつだぁ〜い?

    世界の中に存在しているのはだれかっていうと、それは
    「私」だよね。
    世界の中にいるのは、常に、「ここ」にいることを「了解」
    している自分なんだ。


    A 「現」の構成
    第29節 「気分」

    「ここ」にいるってことを「了解」するのは、先ず「気分」
    が、そうさせるよね。
    「見る」とか言うことより先に、「気分」って言うものが、
    自分がこの世界の中に投げもまれているってことを発見
    させるんだ。


    第30節 「恐れ」 自ら恐れながら存在しているのはどこのどいつだぁ〜い?

    「恐れ」ってのは自分にとって有害なものが近づいてくる
    時に感じる気分だよね。
    そしてこれは脅かそうとしている人の「ため」に感じている
    「気分」でよね。
    これって「気分」によって他の人とつつながっているって
    ことだよね。


    第31節 「了解」の働き

    人は「気分」によって「ここ」にいることを「了解」
    するんだけど、それって単にいることがわかるだけ
    じゃない。
    そこでいろんなことをする「可能性」があることを
    「了解」しているんだ。
    僕たちはここにいる次の瞬間に、いろんなことをする
    「可能性」があるよね。
    僕たちは、いろいろなことをする「可能性」がある中に
    投げ込まれているってことを「了解」しているんだ。


    <感想>

    つい、最近、流行りのお笑い芸人のセリフが頭に浮かんで
    しまいました。

    第28節は、自分が世界を了解するために「了解光線」を
    出していて、世界の中で光っているものを見つけようと
    するんだけど、そこで先ず始めに光っていたものが
    自分っていう感じでしょうか。

    第29節は、見て、聞いて解釈するより先に、「気分」
    が自分の中に立ち現れる、と言うことと解釈しました。
    「我、なんかここにいる気分、ゆえに我在り」っていう
    感じでしょうか。
    「気分」は相当、根源的な現存在の構成要素ってことで
    すね。

    第30節は、「気分」の中の「恐れ」の分析ですね。
    「おどろき」、「おののき」、「ぶったまげ」の分析は
    けっこうかわいいと思いました。

    第31節でいう「可能性」の意味は相当、広いものですね。
    「見る」ってことは接近してくるものと出会わせる可能性
    って言ってますから、「食べる」ことも、「歩く」ことも
    何かと出会わせたり、手に入れたりする「可能性」って
    ことですね。

    以上です。
  • [122] mixiユーザー

    2007年12月10日 20:09

    <解釈>

    29節
    ----
    (この節はこの後の話で展開される持論について大雑把に説明している)
    現存在は"ある気分の元で投げられている"形で存在している。但しこれは「物体」が有意義性に基づいて認識されているのとは違う。むしろ、現存在の機能というよりは、現存在の存在規定と理解するのが正しいだろう。現存在が気分に乗っかっている(情態性)から、現存在は世界・内・存在を展開することができる。「世界」や「共同現存在」の話をしてきたが、それと並ぶくらいに重要な基礎的要素である。また、情態性こそが内世界でモノと出会える仕組みを提供している。

    30節
    ----
    情態性には色々な形がある(上機嫌とか不機嫌とか…)。ここではその中でも恐れについて着目しよう。恐れには恐れる対象とその感情そのもの、そして恐れる理由がある。
    これまでの論を振り返ると、恐れる対象は内世界的に出会うもの。ベースに情態性がある。これらが土台となって恐れる対象を現存在に近づけている。その接近の仕方は空間性のところを振り返って欲しい。恐れる理由は適在性に基づいている。恐れというのは、ほんの一例にすぎないけれど、情態性が現存在の根幹を成す構成物であることは窺い知ることができるだろう。

    31節
    ----
    情態性と並んで現存在の重要な構成要素が了解。了解という言葉は以前にも登場している。そこでは(現存在にとっての)有意義なものか?という観点に軸足を置いて、世界が理解(認識)されている…としていた。
    了解とは「現存在をある状態に投げること」により発生している。"ある状態"に投げられた先で世界が開示され、現存在が周囲を了解している。この意味では、投げること(投げられること)は世界内存在を開くのと同じである。この投げることを投企という言葉で呼ぶ。例えば「了解とは投企の働きによるもの」と表現する。

    <感想>
    「自分で自分を投げるサイコロ。出目が状態を表す」というイメージで理解してみました。20面サイコロくらいので
  • [123] mixiユーザー

    2007年12月14日 07:04

     
     先日オフ会の際と、それとは別の方からも 「この企画はハイ・ペースだ」 と指摘されました。
     
     全日程6ヶ月を、10ヶ月半に延長し、15日7節のペースを15日4節にペース・ダウンしてはどうでしょうか。
    仮に、そう換算すると、来たる12/16〆切分は第20節まで、です。
    正月は休暇の方もいるでしょうから、ノルマまで追いつける好機です。
    まずはこの提案で、1/16まで様子を観てみませんか?
     
  • [124] mixiユーザー

    2007年12月16日 16:43

    >warmart_さん

    ペースを落とす分には構いません。ただ35節まで用意してしまったので、キリのよさそうな34節分まで投下してしまっていいでしょうかね?

    自分は先に進められるだけ進めてみようと思います。投稿はタイミングを計ればよいですし。
  • [126] mixiユーザー

    2008年10月14日 13:21

    はじめまして。
    『存在と時間』つい最近から読み始めていて、今第十六節です。全部読んだらトピを建てようと思っていたのですが、せっかくこの企画イベントがあるのでこちらに参加したいと思いました。

    本当は僕は構造主義か現象学かでは前者の思考を取るのですが、自分の考えを深める為にもハイデガーのような現象学、形而上学を理解し、勉強したいと思います。

    宜しくお願いいたします。
  • [127] mixiユーザー

    2008年10月16日 12:44

    <解釈>(岩波文庫です)

    始めに「実存(現存在)」という言葉について。
    自らを問い考える主体性ある存在、というようなもの。「人間」とか「私」「人格」は実存に当たる。その実存を考える為に、

    物理的存在である実在世界。

    非物理的存在であり単なる主観的空想としての観念世界。

    実在にアプリオリに基づきながらも実在とは異なり、実在に基づくというその事で単なる観念世界とも異なる実存世界。

    それら実在、観念(仮象)、実存、の三つの区分を置いて考えた方が良いと思いました。

    その上で第十二節「内・存在そのものに方向づけることからする世界・内・存在の略図」

    実存とは意味の世界(意味を持つ世界)の事でもある。それは実在ではないので「目の前に在る事と考えてはいけない。」

    「存在するものが世界の内部において、目の前にある存在するものに触れる事ができるのは、それがもともと「内・存在」という存在の仕方をもっているときだけ」(第十二節、P109)

    椅子と壁なら、各々にその実在自体は元々存在している。物理的には目の前にある全ての物は目の前に存在している。それらの中で、「椅子」「壁」として意識される事でそれらはその実存として意識される。(意味が出来る)。その結果それらは出会い、接触する(と認識する)事が出来る。
    元々は椅子も壁もそこに存在していたが各々にそっぽを向いていた存在で、あなた達は椅子と壁であると言われる事で初めて目を会わせ出会う事が出来る。正確には出会わせる事が出来る。

    ハンマーと釘を接触させている時(道具と呼ばれる物の使用中なら何でも)、それは実在としては意味を持たない。そもそも実在に意味などない。それが「打つ」という意味を持った行為に成るのは実存世界においてになる。
    こういった「意味を持つ存在」が実存存在である。
    そう考えると実存を「存在」だと表現する際の「存在」と言う言葉の使用が不適切な気がする、でもハイデガーにとってはそこが重要なのだと思います。

    「現存在の構造」とか「現存在の存在構え」とは、意味という認識作用と実在性との一致により構築されているその構造のあり方の事と思います。でもハイデガーは「一致」というようなものを否定し、実在から現存在へとアプリオリに存在する(自己開示する)ものとを現存在が捉える構造としている。
    よって実存は単なる認識の作用ではなく、むしろ単なる存在(実在)の上位形態とも考えられる。
  • [128] mixiユーザー

    2008年10月19日 12:18

    <感想>

    人智を超える大きなものを感じた時、それを人は何と呼ぶか。ある人は運命と呼び、ある人は神と呼び、ある人は又別の呼び方をする。そういう話を聞いた事があります。
    見ているものは同じでも、捉え方によって違ってくる。でも同じものを見ている。

    そういう意味ではハイデガーの「人間」に対する見方は構造言語(構造主義)の見ているものと多く一致すると思った。特に第十二節、第十五節のハンマー等の「道具」についての見解、第十七節の「指示と記号」等、まさに構造言語的だと思う。

    構造主義との決定的な違いは(存在(実在)に対する)実存の優位を認めるか否かだと思います。

    「存在の時間性」、これが「存在の連続性」の事なら、ハイデガーは人間の「自己同一性」を見ているように思う。
    (自己同一性)映画の撮影フィルムのように、人間は連続して続く自身の知覚フィルムのようなものから「自己」を「自己として」意識し抽出する。その自己に同一性がある知覚フィルムを自己として認識する事でアイデンティティーが確立される。

    だとすると人間の全ては後天的であり、先天的な意味等はない。という事になりそうだけど、ハイデガーならまさにそこ(単なる存在)から自己同一性を見い出す事が出来る能力者、として人間の実存の優位性を肯定するのではないかと思います。
    そういったものには多くの論理的な問題が出て来そうだけど、ハイデガーがどのように論証していくのか楽しみです。アプリオリの定義については今の処は「透徹」して見る事、無媒介な直感、とあるからもしかするとそれ以上の説明はないのかもしれない。


    もしハイデガーが「優位」などとまでせずに「大事(なもの)」として考える事が出来ていたら、もっと良かったのではないかと思ったりもします。

    今、第十九節です。
  • [129] mixiユーザー

    2008年10月22日 21:35

    〈解釈〉

    第二節「存在への問いの形式的構造」と第二十一節「デカルトの「世界」存在論」

    「存在の意味への問いが、出されねばなりません。」
    「さて存在の意味を目ざして、問いが立てられねばなりません。」
    第二節でハイデガーが言っているのは、「存在とは何か?」ではなく、「存在とは実際には何か?」と言うような事と思います。

    その流れで第二十一節。
    デカルトは実体(存在の真相、本質)を二つに分けたとある。
    精神的な実体は思考的実体。
    物理的な実体は延長的実体。
    ハイデガーはデカルトの延長的実体を認めながらも、それでは「この世界」の存在の意味への問いに対する答えにはならないとする。
    延長的実体とは単元論的な、「物質」と呼ばれるものの形態の違いによりこの世界がこう在る、と言うようなもの。この世界に関しては全て物質の延長の差に過ぎない。

    ハイデガーがそれを問いの答えにならないとするのは、「実際には何か?」と言うような事の答えになっていないからだと思う。

    机とは何か?、木材だとか、分子や粒子だとか言う事は確かにそうかもしれない。でも問いの意味はそういう物理的なものではなく、「机とは実際には何か?どういうものか?」である。その答えは辞書に求めるべき、としてみても「台」とは?「平たいもの」とは?「面」とか「角」とは?と切りなく続く。

    実際には何か?「延長」は実在に当てはまると仮定しても、その実在とは実際には何か?になる。

    一段落する答えとしては、「実存」になる。そうは言ってもこれだけでは言葉を変えたに過ぎない。当然、実存(現存在)を問う事になる。
  • [130] mixiユーザー

    2008年10月27日 19:21

    第二十二節、第二十三節。

    〈感想〉
    この節では現存在の「空間性」について書かれているが、現存在(実存)はあくまでも目の前の物理的なものではないとされているので、それを「空間」と呼ぶのは言語の使用に無理があると思う。せめて「空間的」と「空間」とかいう区別が欲しかった。こうした処は大人気ない片意地を感じます。

    現存在と言うものが一つの観念世界であるのは間違いないと思うけど、やはりハイデガーとしては現存在が「存在」していると言う処にこだわるのだと思います。
    第二十三節に「主観的アプリオリ」という変な言い分が出ている。「方位」等の「意味」は主観的であるけど、方位の意味(意味の規定)は自分の主観で決まるものではない、と言う事だと思う。

    自然的合目的的性、と言う概念があって自然本来に「そうなる」ようになっているものをそう言う。一言で言えば「必然」になる。それで考えれば主観的アプリオリも有りにはなるけど、実存論とは別種の論証が必要になる。
    「そうなるようになっている」という事がハイデガーの一つの鍵ではないかと思います。

    〈解釈〉としては、何事にも方位が在り、その方位は内世界的なそうなるようになっているもので決まる。それは物理的な空間性や単なる主観で構成されるものではなく、実存世界(内世界)での物事の把握によってのみ決まる。よって実存は空間的な世界性を持っている。
    東西や左右、遠近等は、それそのものとしては何らそれである事を指し示す実在存在ではない。それらの存在は実存(現存在)世界に於いてそう捉えられる事でそれらの意味を指し示す存在として存在する事が出来る。
  • [131] mixiユーザー

    2008年11月05日 21:10

    構造言語について書いてみたいと思います。


    言葉は意思の伝達手段である。言葉がコミュニケーションの伝達手段として伝わるのは、その当人達に共通する言語基盤のようなものがあるからである。この言語基盤を言語学ではラング(言語)と呼び、ラングとは何かと日々研究されている。
    共有されるラングがあるから言葉の意味が伝わる。
    共有されるラングにない言葉もあるにはある。特定の個人にしか伝わらないその個人達が作った言葉、それらはパロールと呼びラングとは区別される。
    言葉が意味を持つ最小単位は「単語」である。でも、コトバそれ自体は一文字一文字の音素(音声)にまで解体できる。例えば「机」なら「TU/KU/E」の三つの音素から成るが、音声は字の通りのものであって音としての声であり意味ではない。

    ラングは人間が築いてきた人間社会の産物であるが、音声それ自体はアプリオリに在るものである。その音声を存在する事物に当てはめて人は物事を理解し、意思の伝達を行う事が出来る。
    こういった事は「コトバ」に限らず絵や模様等でも同じであって、例えばある他民族(アイヌ)の中に入った人が、まず初めは何事もその絵を書きそれを見せ、それを彼等が何と呼ぶかを知る事から始めたという話がありました。
    同一のものを見ていてもそれに何を当てはめているかで違う。
    存在に『当てはめ』ている。


    実在に実存を当てはめる。
    これは第二十五節なんですが、岩波P222
    「したがってこのばあい、「非〓我」は本質的に「自我であること」を欠いているような存在するものを決して意味しないで、むしろ「自我」そのものの特定の在り方を、たとえば自己喪失を示しているのです。」

    これはジャック・デリダ(ポスト構造主義)の「非中心を中心の喪失とは異なる仕方で規定する肯定」と同じような事と思う。
    自我なり自己なり、ある一つのものに「自我(という事)」を当てはめているが、その一つのものの中でその当てはめに当てはまらないものが在る。自我からすればその当てはまらないものは「外(非中心)」に在るけど、全くもって外かと言うとそうでもない。一つのものの中にそれらが在るのであり、その一つのものより外に在る「外」とは区別される。
    これは非我か自我かの二元論ではなく、一つのものの状態を何と呼ぶかの名の違いであり、存在としては同一ともなる。
    非我は自我になり得ないものではなく、自我の一つの状態を示している。になると思う。
  • [133] mixiユーザー

    2009年01月12日 00:44

    昨年、2008年9月26日に、「存在と時間」を読み終わりました。
    私としては本書を読むのは2回目になりましたが、
    ようやく、ほんの少し、理解ができた気がしました。

    しばらく、このコミュニティーも更新が無かったよう
    ですが、2008年11月ころにはToshi(島)さんが投稿して
    くれており、また、ちょっと覗かせていただきました。
    せっかく読みましたので、一応、私の理解を書いておきます。
    1年以上、間があいてしまいました。
    まとめるのにはちょっと時間がかかってしまいました。
    シロウト読みですので、間違っている部分もあると
    思いますがお許しください。

    前回の投稿までは、半分、ふざけた文章でしたが、
    もう、その必要は無いと思いますので、これからは簡潔に
    書きます。
    でも専門知識が無いので、やわらかい文章で書き進めます。

    では、「第1編 第5章 内・存在そのもの」の途中から
    再開です。
    8日間くらいで最後まで行こうと思います。

    ----------------------------------
    <解釈>

    第32節 了解の働きと解釈

    『解釈』とは、存在するものの「〜のためにあるんだよなー」
    って感じを取り出すこと。
    その、「〜のためにあるんだよなー」って感じが
    『了解』というもの。


    第33節 解釈の派生機能としての陳述

    『陳述』は了解と解釈に根ざしている。
    存在するものの「〜として」を取り出すこと。

    第34節 現=存在と「語り」。言葉」

    現存在とは語っている存在者。
    『語り』によって世界を、その都度、開示している。


    第35節 おしゃべり

    『おしゃべり』とは、非本来的な「語り」。
    普段の「語り」。


    第35節 好奇心

    『好奇心』とは、非本来的な「視る」(わかる)。
    普段の「視る」(世界を視る)。


    第37節 あいまいさ

    普段の了解には『あいまいさ』が根ざしている。
    「だいたいこんなもんか」、「まぁ、だいじょうぶだよ」
    って思っている。


    第38節 転落と被投性

    「おしゃべり」、「好奇心」、「あいまいさ」が普段の
    現存在のあり方。
    これを<ひと>とよぶ。
    らくちんな存在をしている。
    「存在しちゃってるんだぁ〜」っていう感じ。

    ----------------------------------

    今回はここまでです。
  • [134] mixiユーザー

    2009年01月12日 02:18

    このページが進むとは思っていませんでした、嬉しい驚きです。

    今僕は下巻で第六十五節です。ある人に「私達が情報を摂取してから時間を持たなくなった」という事を指摘された事があり、ハイデガーについていろいろ言いたい事がありますが、焦らずにせめて最後まで読んでからトピックとして立てるつもりでした。こちらも動いていなかったので。
    今月中には読み終わる予定なので、とりあえず僕はそれからにしようかと思っています。人が読んでいると励みになります。
  • [135] mixiユーザー

    2009年01月12日 23:25

    Toshi(島)さん >>
    見てくださって、ありがとうございます。
    こちらこそ、励みになります。
    でも、「存在と時間」と言う書物は一筋縄ではいきませんね。
    何とか短くまとめたいのですが、なかなかうまく書けません。

    さて、引き続き第6章です。

    ----------------------------------
    <解釈>

    第6章 現存在の存在としての関心

    第39章 現存在の構造全体の根源的全体性への問い

    現存在は実存している(存在を問題にしながら生きている)。
    でも、たいていは<ひと>して生きている。
    そして、不安を抱え、世界への関心として存在している。
    では、その全体性とは?


    第40節 現存在の優れた開示性としての不安という根本的情態性

    「転落」は『不安』に基づいている。
    その『不安』の相手は「世界」そのものであり、
    それはまた「世界・内」のどこにもいない。
    そして『不安』が<ひと>を転落からつれもどす。


    第41節 関心としての現存在の存在

    現存在は、すでに世界に投げ込まれているから、
    「なぜここにいるのだろう。これからどうなるのだろう。」と
    『関心』をもつ。


    第42節 現存在の前存在的解釈から、関心としての現存在の実存論的解釈を保証すること。

    「現存在が存在する限り、現存在は、その根源である
    〔関心〕に支配される。」と言うことが古い寓話でも
    言われてる。


    第43節 現存在、世界性、及び実在性

    (a)「外界」の存在とその証明可能性の問題としての実在性

    「世界が存在するか?」と言う問いには意味がない。
    その問い自身が世界・内・存在(一つの主観)に基づいて
    いるから。


    (b)存在論的問題としての実在性

    ものがあるの抵抗するからではなく、世界の開示性に
    おいてのみ、抵抗が可能になると考える。


    (c)実在性と関心

    ものが存在するのは「存在了解」があるときだけ。


    第44節 現存在、開示性および真理

    (a)伝統的真理概念とその存在論的基礎

    『真理』とは、伝統的には認識と対象の一致のこと。
    存在論的には、認識の対象は「あらかじめ」存在している
    ことを自ら示す。
    これが現存在に見出されて、存在することになる。


    (b)真理と言う根源的現象と伝統的真理概念

    『真理』とは現存在の開示性である。
    したがって現存在は『真理』のうちに存在する。


    (c)真理の在り方と真理の前提

    『真理』は現存在が存在するときだけ「真」となる。
    現存在は本質的に世界に投げ込まれているため『真理』
    を前提にしなければならない。


    ----------------------------------
    <感想>

    第1編、終わりです。
    第43節、第44節の私の読みはちょっといまいちのような
    気がします。
    「世界・内・存在=一つの主観」、
    「真理(客観)=現存在の開示性」と、大変、めまぐるし
    かったです。
    結論は「現存在は関心として存在する。」と言っている
    第40節、第41節あたりでしょうか。

    以上です。
  • [136] mixiユーザー

    2009年01月13日 23:06

    第2編です。

    ----------------------------------
    <解釈>

    第2編 現存在と時間性
    第45節 現存在の予備的基礎分析の成果とこの存在するものの根源的な実存論的解釈の課題

    今までのまとめとこれからのあらすじ

    世界・内・存在の本質的諸構造は開示性。
    開示性は関心を基礎としており、現存在は自分自身にも
    関心をもち、実存している。

    現存在は、普段は非本来的に存在しているが、『良心』
    が<ひと>を本来的な生き方に向かわせる。
    現存在の本来的な存在可能性は《良心を持とうとする》
    ことのうちにある。

    また、現存在の根源的な存在意味は『時間性』にあり、
    『時間性』は現存在の『歴史性』を示す。


    第1章 現存在の可能な全体存在と、死への存在
    第46節 現存在の全体存在の存在論的な把握および規定の外見だけの不可能さ

    現存在の構造には未完結さがある。
    その未完結が取り除かれると、現存在は消滅する。
    現存在の全体性は終わりへの直面と死の概念の獲得に
    より理解される。


    第47節 他人の死を経験する可能性と全体的現存在を把握する可能性

    他人の死に際して、現存在が現存在できなくなるまでの
    転換を見ることはできるが、あくまで、その場に
    居合わせるだけ。
    死とは独自独個の存在可能性。


    第48節 未済、終わり、及び全体性

    死は現存在のありように一つで、現存在している間は
    体験できない。
    体験すると現存在できなくなる。


    第49節 視の実存論的分析とこの現象の可能な他の諸解釈と区別すること

    死は自分自身の問題だから、死に対する実存論的解釈は、
    生物学より、心理学より、神学より先に位置する。
    また、普段の自分が直面している問題だから、日常の
    中で考える必要がある。


    第50節 死の実存論的=存在論的構造の素描

    死は最も自己的な、他と無関係な、追い越しえない可能性。
    先ずたいていは、それをおおいかくし、それから逃げている。
    死に対する不安は、終わりへ投げられた存在という事実を
    開示している。


    第51節 死への存在と、現存在の日常性

    普段、<ひと>は「死ぬこと」をひとつの出来事として
    無関心をよそおっているが、それでもなお、この極限の
    可能性とかかわっている。


    第52節 終りへの日常的存在と、死の完全な実存概念

    「ひとはいつかは死ぬものだ、でもさしあったてはまだ。」と
    思っているが、生きている実感とは、死の直前の連続である。


    第53節 死への本来的な存在の実存論的投企

    死を配慮することはできない。
    でも、真に思うことで、極限の可能性を開示することが
    できる。
    では、それが、今後、どう役立つのか?


    ----------------------------------
    <感想>

    第49節から第52節が、一つの山場と思いました。

    以前、個人的に疑問に思っていた、なぜ日常を考える
    必要があるのか、なぜ実存論的問題を先に考える必要が
    あるのか、と言う点が、今回の読みで、理解できた
    気がします。

    以上です。
  • [137] mixiユーザー

    2009年01月14日 01:37

    個人的にですが、中巻の後半辺りが最も読むのがしんどかったように思います。
    (実存の)存在可能性という事にこだわるハイデガーにとって、死=有限性、というのが大事だったように思います。

    今第六十九節です。
  • [138] mixiユーザー

    2009年01月15日 00:31

    第2編、第2章です。
    中の後半です。

    ----------------------------------
    <解釈>

    第2章 本来的存在可能の減存在的な証言と、覚悟性
    第54節 本来的な実存的可能性の証言の問題

    これからのあらすじ

    現存在は本来的な生き方を求めている。
    本来的な生き方に向かわせるのは『良心』である。
    『良心』は「責めあること」をよびおこす。
    『良心』をもとうとする心、それを『覚悟性』と呼ぶ。


    第55節 良心の実存論的=存在論的諸基礎

    『良心』とは呼びながら了解させるものである。

    第56節 良心の呼び声という性格

    『良心』はなにを呼びかけるのか?
    『良心』は何も言表せず、情報を与えず、何も物語らない。


    第57節 関心の呼び声としての良心

    『良心』が暗示するものは<責めあること>である。


    第58節 呼びかけという了解の働き

    良心の呼び声を了解することで存在可能性の
    中から最も自分らしい生き方を自由に選ぶ。
    呼び声を了解することは「良心を持とうとすること」。


    第59節 良心の実存論的解釈と通俗的な良心解釈

    通俗的な良心とはとがめない良心。
    悪いと思う心が欠如している。
    とがめる良心は、現存在を最も自己的な可能性へ向かわせる。


    第60節 良心において証言される本来的な存在可能の実存論的構造

    最も自己的な<責めあること>への自己投企を『覚悟性』
    と呼ぶ。
    『覚悟性』の中で『情況』が見えてくる。
    『世界』は、ただ存在するだけ。
    『情況』には、なぜこうなった、と言う理由がある。


    ----------------------------------
    <感想>

    『良心』と『覚悟性』がメインの章だと思いますが、
    『情況』と言う言葉も重要だと思いました。
    第45節の第2編の「あらすじ」で述べられた「歴史性」
    への布石のようです。

    『良心』ってちょっと謎めいていますね。
    このあたりが私としてはわかったような、わからないような。。。
    って感じです。

    以上です。
  • [139] mixiユーザー

    2009年01月15日 02:35

    ハイデガーはよく言葉を言葉通りの意味で使わないから、唐突に出てきた「良心」も「理性(特に演繹を行う理性)」のことのように思えました。
    良心的であろう、とする事とは、理性的であろうとする事ではないかと。

    今第七十五節です。
  • [140] mixiユーザー

    2009年01月16日 01:13

    私はとりえず『良心』を『本来的な実存』と考えてみました。
    人間(現存在)は常に自分自身の存在に疑問を持ち、
    「このままではだめだ。」と感じながら生きているとするならば、
    どこかから「こうしたらどうか。」と言う考えがわいてくる
    のではないかと考えます。
    非本来的なドロボーでも「もっと効率よく盗まなくてはだめだ。」
    と常に思っていて、「ではこうしよう。」と工夫したりする
    でしょう。
    本来的な生き方をしている人も、その人のそのつどそのつどの
    「このままではだめだから、こうすべき。」へ向かって生きて
    行くのでしょう。
    そのきっかけとなる、『気分』とでも言いましょうか。。。

    さて、第3章です。

    ----------------------------------
    <解釈>

    第3章 現存在の本来的な全体存在可能と、関心の存在論的意味としての時間性
    第61節 本来的な現存材的な全体存在の限界づけから、時間性の現象学的な開示にいたる方法的歩みの素描

    時間性とは、時間がいつ終わるかわからないが、それでも
    自分の存在可能めがけて何かができる時間として、時間が
    立ち現れてくる(時熟)すること、
    現存在の時間性は「終わりまで考えること。(存在全体を
    考えること。)」、すなわち先駆的覚悟性において経験
    される。


    第62節 先駆的覚悟性としての、現存在の実存的に本来的な全体存在可能

    現存在は普段は非本来的に生きているので『責めある』
    存在である。
    だから『良心』の『呼び声』が聞こえる。
    『責めあるもの』のために覚悟を決めることを『覚悟性』
    と呼ぶ。
    これは『良心を持とうとすること』である。
    覚悟を決めることとは『死への先駆』であり、実存論的に
    自分の終わりまで考えることである。
    これは死への深い洞察である。


    第63節 関心の存在=意味の解釈のためのにとり得られた解釈学的情況と、実存論的分析論一般の方法的性格

    実存論的解釈は実存理念と存在理念を前提として、
    存在の理念を得ようとしていると非難されるが、
    実存論的分析論では『循環』はさけられない。
    実存論の問題は「整合論理学」的には証明できない。


    第64節 関心と自己性

    『自己の自己であること』という実存性は、先駆的覚悟性
    (終わりまで考えるという関心)を意味する。
    また、関心の構造は、現存在の全体性を規定する関心
    (終わりまで考えること)の意味解釈として、自己性(自分
    自身のことであると言うこと)を含んでいる。


    第65節 関心の存在論的意味としての時間性

    要約
    ?『関心』を構成しているのは「これからどうなるのだろう」
     という気持ち。
     ・「これからどうなるのだろう」と思っていると、いつ
      のまにか「こうなってくる」と言うのが時間性
      =時熟
    ?「どうなるのか」と言う気持ちとは、
     今の自分を抜け出し新たな存在可能(ありうる)に
     向かうこと。
     =脱自的
    ?「どうなるか」は将来からやってくる。
     =将来から時熟する。
    ?その将来とは、終わりへの将来。
     =時間は有限。


    第66節 現存在の時間性と、これから発言する実存論的分析のなお一層根源的な繰り返しと言う諸課題

    ?自分が終わりへの存在であると気づくと本来的な
     生き方が見えてくる。
    ?非本来的な現存在は特殊な時間の中にいる。


    ----------------------------------
    <感想>

    第65節は最後に要約的な部分もあるところから見ると、
    よっぽど重要な章なのでしょう。
    「これからどうなるのか」と現存在が考えているという
    『関心』の分析ですね。

    以上です。
  • [141] mixiユーザー

    2009年01月17日 02:53

    第4章です。

    ----------------------------------
    <解釈>

    第4章 時間性と日常性
    第67節 現存在の実存論的な構えの根本内容と、その構えの時間的解釈の素描

    世界・内・存在の時間性は第65節で示した在り方と同時に
    現存在の特殊な空間性の基礎をなしている。
    すなわち、「距離を取り去ること」、「方向を定めること」
    の時間的構成を示している。


    第68節 開示性一般の時間性
    (a) 了解の働きの時間性

    『了解』の働きとは自分の可能性を開示すること。
    実存とは「疑いうる(疑問の余地がある)」ものであるため
    開示性が必要。
    現存在が了解しながら、存在可能の中で実存することを
    可能にするのは《将来》。

    本来的な《将来》とは『先駆』。(覚悟を決めている。)
    非本来的な《将来》とは『予期』。(なにかを待ちうけ、
    期待している。)
    本来的な《現在》とは『瞬間(瞬視)』。(決意が情況を
    開示する。情況とは、ある理由で世界がこうなっている
    と言うこと。)
    非本来的な《現在》とは『現前』。(配慮された世界へ
    の転落)
    本来的な《過去》とは『取返し』。(覚悟を決めること
    によって自分がすでにあるところのものを引き受ける
    こと。)
    非本来的な《過去》とは『忘却』。(他に心を奪われ
    忘れること)


    (b) 情態性の時間性

    例えば、
    「恐れ」と言う気分は、自己の新たなありうるから逃げる
    こと。→非本来的な気分。
    「不安」は覚悟することによって現れる気分。→本来的な
    気分。


    (c) 転落の時間性

    現存在は、たいていは「こうなったらいいな。」と思い
    ながら、忘却しながら生きている。
    しかし、回り道をするが、本来的な実存へ到達する。
    「到達する。」というところが時間性そのもの意味する。


    (d) 語りの時間性

    「語り」の時間性とは時制表現(文法の)のことではない。
    「語り」そのもの、「語ること」そのものが、新たな
    ありうるにめがけることなので、そのものが時間的といえる。


    第69節 世界・内・存在の時間性と世界の超越の問題

    時間性の中には現存在が根ざしている。
    時間性によって世界・内・存在の実存論的な可能性が
    明白になる。
    この時間性とは、現存在が新たな在りうるにめがけて
    自己投企することの時間性。


    (a) 見回しによる配慮の働きの時間性

    世界に対する配慮とは、事物存在を適在させることの
    可能性。
    事物存在を可能性めがけて適在させること。
    世界がそのつど、そのつどの「〜のために」存在する
    のは、そのつど、そのつどの可能性に基づいている。
    これが配慮の時間性である。


    (b) 見回しによる配慮の働きが、無い世界的な目のまえのものを理論的に発見する作用に変様することの時間的意味

    学問的(理論的に発見する作用)なものの見方は客観的な
    仕方で発見を目指す。
    客観化は超越を前提としている。
    「目指す」という部分が時間的な意味を持っている。


    (c) 世界の超越の時間的な問題

    世界の中では「存在」に出会うことができる。
    その「存在」は客観化された「存在」。
    客観化した視点(超越)に基礎づけられた「存在」である。


    第70節 現存在的な空間性の時間性

    現存在は空間的には存在しない。
    「関心」として存在する。
    関心は事物存在に対して、方向をさだめ、方位を発見する。
    現存在が時間性として、脱自的=視界的(客観的)であるがゆえ、
    空間性をともなう。


    第71節 現存在の日常性の時間的意味

    現存在は日常、転落していて、カレンダー的時間の中に
    いて、終わりへの存在であることを軽視している。
    でも、実存は日常を支配することは可能である。


    ----------------------------------
    <感想>

    実存論的時間論ですね。
    最後には空間も実存論的には時間性でとらえられたと
    いうわけですね。
    いままでは、デカルトの物の存在根拠としての
    「延長するもの」に対するハイデガーの反論が、
    よく理解できていなかったのですが、ここまで読むと
    理解できて来ました。

    「脱自」という言葉は複数の意味があるようで、難し
    いですね。
    可能性への自己投企(新しい可能性へ向かうこと)と
    脱自的視界(客観的に事物を見ること)を分けて考える
    のが難しかったです。

    以上です。
  • [142] mixiユーザー

    2009年01月18日 00:37

    第5章です。

    ----------------------------------
    <解釈>

    第5章 時間性と歴史性
    第72節 歴史の問題を実存論的=存在論的の解明すること

    現存在は、誕生と死の間の「連関(時間内における
    さまざまな体験の連続)」として存在しているので
    歴史的といえる。
    現存在の「連関」への問いとは、「なぜ生まれてきたか」、
    「これからどうなるのだろう」への問い。
    歴史性の存在論的了解を獲得すること。


    第73節 歴史の通俗的な了解と現存在の生起

    歴史とは現存在の特殊な生起。
    つまり、共同相互存在において「過ぎ去って」、かつ
    「伝承された」もの。
    そして今も影響を及ぼし続けている。

    歴史的な「物」について考えると、「物」は残るが、
    「物」の周りの「世界」は過ぎ去っていく、と言える。
    「世界」とは、世界・内・存在、すなわち現存在である。


    第74節 歴史性の根本構え

    死の直前に際して「〜をしなければならない。」という
    めぐりあわせを『宿命』と言う。
    これは個人に決定されためぐり合わせである。

    また、現存在が共同存在であるならば、ある存在の『宿命』
    は「社会」や「民族」の『運命』となりうる。
    『運命』とは「社会」において決定しためぐり合わせ。

    現存在は死の直前に際して「まだこれならできる。」、
    「こらならやる時間がある。」と考えて、本来的にやること
    へ向かう。
    それは自分自身に遺産として残された可能性である。


    第75節 現存在の歴史性と世界=歴史

    非本来的に歴史的な実存は、過去の遺産を背負って、
    現代的なものを求め続けている。
    本来的に歴史的な実存は、歴史を可能なものの「回帰」
    と解して、可能性がただ回帰するだけの理由を知って
    いる。


    第76節 現存在の歴史性に発する歴史学の実存論的な起源

    歴史学は、現存在の歴史性を前提としている。
    宿命的な取り返しに基づいた「過去」の歴史学的開示である。


    第77節 歴史性の問題の前述の解明と、W.ディルタイの諸研究およびヨルク伯の諸構想との関連

    デルタイの友人のヨルク伯は、生きることが歴史の
    発芽点で、自分で態度を決めることと、歴史性は
    呼吸と気圧の関係のよう、と言っている。


    ----------------------------------
    <感想>

    自分が本来的にやらなければならないことは、社会的、
    民族的に『運命』として明らかになる。
    それは自分自身に遺産として残された可能性である。

    というところは、いろんな意味で、かなりヤバイ部分
    でしょうね。
    私はハイデガーへの批判的意見についてはあまり
    詳しくない(本を読んだことがない)のですが、
    なんとなく「言っちまったなぁ〜」って感じがします。

    それ以降の章はちょっとそこまでに比べると、説明的な
    感じがします。
    なんか「客観的に見てもこうだ。」とか、「他の人も
    こう言っている。」とか。。。

    ただ、この辺の受け止め方は、今の時代とか、感覚など
    からくる感想かもしれませんが。。。

    以上です。
    次で最終章です。
  • [143] mixiユーザー

    2009年01月18日 23:28

    第6章です。
    これで終わりです。

    ----------------------------------
    <解釈>

    第6章 時間性と通俗的時間概念の根源としての内部時間性
    第78節 現存在の前述の時間分析の不完全さ

    現存在は内世界的に出会うものとして時間を見出す(物
    として時間を見出す)。
    それがどのようにして通俗的時間概念を形成するかは
    時間的に基礎つけられた存在構造からの解明を必要とする。


    第79節 現存在の時間性と、時間を配慮する働き

    非本来的な実存は、常に時間を失っている。
    本来的な実存は、時間を決して失わない。
    時間を失ったり、取り戻したりできるのは、脱自的な
    「もの」としての時間として、一つの時間が与えられて
    いるから。


    第80節 配慮された時間と、内部時間性

    内世界で現存在が、そのなかで出会うものとしての時間は、
    客観化されたものであり、また、主観的なものである。
    ?世界時間は可能性の制約として客観化されている。
    ?世界時間は現存在の関心に了解された主観的なもの。


    第81節 内部時間性と通俗的時間概念の発生

    日常的な「時間」は、数えられた、公共的なもの
    (「今」の無限の連続で、誰でも等しく与えられて
    いる。)。
    その考えには死からの逃避が隠されている。


    第82節 時間と精神との関係についてヘーゲルの見解に大して、時間性・現存在および世界時間という実存論的=存在論的関連を対照させること

    ヘーゲルによると、時間は思考されることではなく
    直観により見出されるものである。
    この考え方による時間概念は、「もの」としての
    時間であり、通俗的な時間概念の特徴を備えている。

    ヘーゲルの概念によると精神は時間(時間=もの=現存在が
    世界の中で出会うもの=配慮されたもの)の中にいる
    こと(転落)になる。
    実存論では、精神は、時間性の根源的な時熟として実存
    する(限られた時間の中で本来的な可能性にめがけて
    自己投企する)ものである。


    第83節 現存在の実存論的=時間分析と、およそ存在なるものの意味への基礎的=存在論的問い

    今後、以下のことを考える。
    ?時間性の時熟をどう解釈するか
    ?根源的時間から存在の意味を導けるか
    ?時間そのものは明らかになっているか


    ----------------------------------
    <感想>

    長い旅が終わりました。
    この章は、時間概念についての章で、面白いのですが、
    結局、循環していて、今までの議論が繰り返されている
    感じはします。
    「実存論は循環しているものなんだ。」という開き直り的
    な章もありましたが、この循環の中にとどまることに、
    少し疑問があります。

    ただ、この章で出てきた「時間とは可能性への制約である。」
    という考えは、すごく気に入りました。
    フレーズ的にも気に入りました。
    ちょっといろんなところで使ってやろうかと思っています。

    以上で、「存在と時間」の読みを完了します。

    10年後くらいに、もう一度、読みたくなりそうな書物です。

    では。
  • [144] mixiユーザー

    2009年01月20日 18:33

    『存在と時間』

    トピックを建ててハイデガー哲学に留まらずに人間についてあれこれと、と思っていましたがちょっと内容的に多すぎるので、まずはここで自分のハイデガー哲学の解釈を、ぶつ切りにですが提出したいと思います。

    冒頭文(岩波文庫P15)
    「存在」の意味への問いを具体的に仕上げるのが、以下の論文の意図なのです。すべての存在了解一般が可能になる視界としての、時間を解明することが、この論文のさしあたっての目標なのです。

    この「目的」は『存在と時間』の読解に大事で外してはいけない。
    自己存在の「存在の意味」を問うている我々は、問う事が出来る存在である現存在。そして問掛けられているものである存在が実在。現存在は自分の存在が存在しているという事を了解する存在者である。原則的に実存は非物質、実在は物質。

    実存(現存在)は存在を了解しながら存在する存在である。この実存を解き明かす事が、存在の意味への問いであり、そのために実存の存在構え、諸性質、諸構造、実存カテゴリーに迫る。

    「実存の存在了解」という事を『起点』(定言命題)にした演繹論理の結果のある段階で(『存在と時間』の最後)、実存=精神=時間としてそれらは同存在だという事(結論)になる。実体、本質、存在というような、真相はこうで、その本質的な意味はこうで、それらは存在としてはこう。というような感じだと思う。
    ただ起点の正当性は証明できない。

    岩波下巻P31
    循環という非難
    その分析論自身は、「整合論理学」の規則にしたがってはおよそ決して証明されない


    私的な解釈ですがハイデガーの言う「実存」は、モナドやエーテルのような超自然物質としての「実存粒子」とでもいうようなものだと思う。「実存、実在」よりも「霊、肉」に近い。ちょっと違うけど「(実存という)霊的粒子」とも思う。
    そう考えると、あくまでも実存は「(実際に)存在している」とハイデガーが考えるのも頷ける。
    予視、予把、開示性、被投性、投企、それら一群の先駆的なものは実存の超自然的な自然現象(物理現象)。
    非常識とも言える超空間(世界・内・存在の空間)の中で、一つのものはそれがそう成り得る全てのものとして実際に同時に存在している。従って現存在の存在可能性は、予め「存在している」
    (映画のマトリックスで銃弾をよける時、下半身は動かずに上半身だけ超高速で動いて、残像で一つの下半身に複数の上半身が在る様に見えるイメージ)
  • [145] mixiユーザー

    2009年01月20日 18:40

    空間が時間になる。
    時間とは先と後とに関しての運動の数。
    (歴史の発展、精神が)時間のなかへと落ちる。

    こういった他の哲学者の時間概念の援用からも、「時間」とは何かしら時間として本来的(アプリオリ)に在るものではなく、運動の数なり何なりが在り、それを人間が「時間として」認識していると考える事が出来る。

    実存(実存粒子)の運動の数こそが時間と呼ばれるものの正体。そうだとすると、哲学よりもむしろ物理学的な「時間」の解明が果たされれば、それこそがハイデガーの実存論が真理であるとする動かぬ証拠になる。よって「存在の意味への問い」も完結する可能性があった。
    『存在と時間』とは「存在が時間」だという説でもあったと思います。

    かなり雑ですがハイデガー哲学の解釈としてはそんな感じです。
    でもそれよりもハイデガーの「認識の構造」への着目が興味深い。先駆的了解とは先験的認識(経験に先立つ認識)とも言える。自分が産まれる前からそのものとしてあった認識、意味。でもそれはあくまでも「自分が産まれる前から」であって「人間(人類)以前」の自然本来なアプリオリ(先天性)ではない。
    構造への着目は本来は「アプリオリな認識」の否定になるけど、ハイデガーは「アプリオリな認識」の否定にまでは至らない中で、先験的な認識の「構造」を通り、アプリオリな認識というものに「認識の構造」を無理矢理に整合させようとした結果、「存在=時間」だとする存在論になっていったのではないかと推測します。

    「アプリオリな認識」など有るのか無いのかの問題は、何事でもその対象が真実にそのもの「として」在り、その真実に基づいてそれをそのものと認識するという事と、何事でも対象を人間が築いて来た人間の言葉や意味に該当させて(整合させて)そういうものとして認識する事の違いになる。
    アプリオリな真実が在るのか無いのかの違いでもある。
    ハイデガーは「〜として(在る)=構造」だと考えていて、それは本当だと思います。「構造」とは対象であるそのものの構造ではなく、対象を認識する人間の「考え(認識)」の構造である。
    「〜として=構造」とまで言いながら、それをアプリオリではないと考えずに、現存在によるアプリオリな先駆的存在了解として考え始めてしまったのだと思った。
    「先験的」(〜として=構造)という概念はカントのものなので、もしかするとその部分は単にカント哲学をそのまま受け取ったのかも知れない。
  • [146] mixiユーザー

    2009年01月23日 02:00

    別の本からの引用ですが
    「もしわれわれが神について何らかの認識をもたないならば、われわれはどうしてそれを神と名づけることができようか。しかしそれが何らかの仕方で自らを啓示し、自らを表現するように自身を知らせることがなければ、どうしてわれわれはそれを認識するのであろうか。」

    ハイデガーの実存論的認識論にもそんな感じがあると思います。

    ハンマーと釘の存在。
    実在は単なる物質的存在であり意味を持たない。ハンマーと釘との接触がハンマーで釘を「打つ」という意味ある行為になるのは、この世界の内的世界である世界・内・存在においてハンマーも釘も、釘を打つハンマーと、ハンマーに打たれる釘として予め存在しているから。その存在と同時に打ったり打たれたりしない単品でのそれぞれも共に存在している。
    それらは無数の存在可能性があるその全ての無数の数だけ存在している。

    バックアップデータのようなその実存から実在世界の目の前の物事に「適在性」ある形態(意味?)が認識の内容になる。
    「適在性」とは「道具性」でもあり、「存在性格」や「指示」でもある。他の哲学とも照合すると「合目的性」だと言える。
    予めそれらの物はこれこれの物であると実存において決まっていて、その実存の中から、実在のそれらの物に合目的性により当てはまるものが、実際の「それらの実在」が何であるかの認識になる。

    こうした構造への着目の仕方は構造言語とほぼ重なる。
    言葉の意味とはその言葉が指し示す事物の集合。言葉一つ一つがそれぞれに指し示す事物の集合の膨大な総体が「ラング」と呼ばれ、研究の対象になっている。
    ハイデガー的には存在の意味とは、その存在が指し示す実存可能性の中の適在性により選ばれたもの。この実存の全体性が研究対象にもなる。

    構造言語との目立った違いは、認識なり意味の産出を「ラング(言語が他者に通じる言語基盤のようなもの)」に求めるのと、
    (ラングは決して先天的ではないけれど、先験的とは言えるでしょうか?)

    そうではなく、認識の産出を実存(現存在、世界・内・存在)に求める点にあると思う。
    ハイデガーにとってはあくまでも実存がアプリオリに存在し、存在了解が在り、それに基づくアプリオリな認識がある。
    そういった認識論はカント的なコペルニクス的転回とも整合性がある
    カントのコペルニクス的転回(主観が客観に従うのではなく、逆に客観が主観に従い、主観が客観を構成する―公辞宛)
  • [147] mixiユーザー

    2009年01月23日 05:33

    「主観が客観を構成する。」
    これは一般的には受け入れられ難い主張であり、そういった主張には当然批判が多い。
    社会通念上、例えは机を机だと認識するのはそれが客観的に机だから、主観はそれを机だと認識する。ということになっている。
    でも本当は、主観の合目的性(理性)によってこれは客観的に机であるという認識になる。

    カントは置いておくとして、ハイデガーにとって多くの人達の「認識」は真実ではない間違ったものに思えただろうし、そもそも誰も「存在の意味」を知らないその上に間違った諸々のものをあれこれ築いているように見えていたのだと思う。

    『存在と時間』が難解な主な原因として、文章の文法的な拙さがあると言えると思います。岩波文庫以外のもので中央公論社のものを図書館で少し見てみましたが、少しは分かり易いように気遣ってあるようだけど、そんなには変わらなさそうと思いました。(その少しの気遣いが大きいかも知れませんが)
    訳者のせいだけでないとして、そもそも現象学自体がそんな感じなのかどうかはハイデガーしか知らない僕には分かりません。それでもやはりハイデガーの人間性の問題は大きな原因ではないかと思います。

    何が主語なのかがはっきりしない文。つまり言っている事の内容や意味ではなく、何の事について言っているのか自体が解らない。
    かなり独りよがりな他者の理解を無視した文章だと思う。
    たぶん自分と同レベルの同業者からの反駁に構え過ぎていて、むやみにぼかしたり、ほのめかして止めたり、そうして批判をかわそうとしているのだと思う。
    にもかかわらず、循環論法の批判を認めても、なお自説とその論証の正当性を改善したり反省したりせずに、〈より重要なものから名称は生ずる〉という格言のようなものを使う辺り、かなり我の強い人だと思った。


    こういったハイデガーの我の強さと、存在の意味という諸問題の根源を全ての人間は間違っているが、それを自分が掴みとろうというヒロイズムがナチスドイツと相性が良かったのではないかと思いました。

    ただ僕はナチスドイツを決して絶対悪と思っていなくて、第一次対戦の敗戦によって勝戦国から無茶苦茶な圧政を受けていて、生活に苦しむ多くの市民により正当な選挙で政党を取ったと聞きます。確かにユダヤ民族を抹殺すると公約にしていたりすれば選挙で選ばれなかったろうけど、始め市民が何か一つ二つでも早期変革してくれそうだと期待したのは道理だと思います。
  • [148] mixiユーザー

    2009年01月23日 06:12

    「循環論法」という否定をちゃんとは知らなかったので一つ勉強になりました。
    「前提の真理と結論の真理とが相互に依存し合うような堂々めぐりの虚偽の論証‐公辞宛」
    例えば、※実存のアプリオリな存在了解から存在の意味への問いを解明していく事が出来る。
    何故そう言えるのかの根拠として、
    実存の根源的時間性は将来から始まる。実存は予め存在可能性の開示性を了解し、その中から適合性や良心に叶うものが現在へと自己投企する(やって来る)。それと同時に現存在は(P54、第六十五節)わたしが〈在った=ので在る〉という意味で、つねにすでに既在です。
    つまり実存において将来、現在、既在は同時に存在するものであり、そこにあるのは幅であり、ある地点(将来)からある地点(現在)までの到達を時熟と言う。これが現存在の根源的時間性である。
    ※実存のアプリオリな存在了解から存在の意味への問いを解明していく事が出来るのは、このように現存在の根源的時間性が解明されるからである。
    と言う事になり、では何をもって現存在の根源的時間性がそのようなものである事を事実とするのか、と問われたらその根拠に
    ※実存のアプリオリな存在了解から存在の意味への問いを解明していく事が出来るからである。
    と答える。
    こういった結局仮定に過ぎないものを確かな根拠であるようにする虚偽を循環論法と言う。実際には前者と後者の間には何百ページ文の論理がありその分循環論法だという事が判りにくくなる。

    ただ循環論法であると認めない中で、あくまでも整合性に則って根拠があるように断言するから「虚偽」になるのであって、循環である事を自覚したうえであくまでも仮定(仮説)としてなら循環しても問題はないと思います。

    もう一点ハイデガー哲学の事で。
    「死」の概念を使ってハイデガーが説明しようとしていた事。
    あれは「実存(粒子)」なり霊魂単子なりの擬人化だと思います。

    日常的な、特にこれと自己を意識していない時の人間に、その人間の存在の意味は?と考えると共同現存在としての〈ひと〉が答えだという事になる。その共同現存在に転落している実存が、いずれは一人の人として死なねばならない自分の定めに覚悟を持ち、ちゃんとした自己に戻る時、それは存在的に実存本来の優れた存在として存在する。
    ハイデガーは神に頼る気はないようだし、人間の力で存在を確立する野望があったのではないかと思います。
  • [149] mixiユーザー

    2009年01月24日 19:28

    「予め」ということ。
    机なら机で、その机という存在が先ず在るのではなく、「予め」これこれのものを「机」とする「何らかのもの」があって、実際に存在するものを机として認識するという事。

    あくまでも現実の人間を分析していくなかでこういった事を考えるようになる。
    予めある「何か」というのがハイデガーの現象学にとっては「実存」であって、構造言語哲学にとってはラングや規範になる。

    結論としてはハイデガー哲学は間違っているとしても、そこへいくまでにハイデガーが見ていたものは他の哲学者達が見ていたものと同じものがあるし、そういった人間の仕組みなり構造をどう考えどう表現し、どういう結論に持っていったかの違いだと思います。


    ハイデガーという人は、「存在とは何か」その意味への探究にとことんこだわった人であり、仮にその哲学が間違っていたとしても、それは哲学者としての一つの結果だと思う。
  • [150] mixiユーザー

    2009年02月20日 15:23

    紙媒体で普段本を読むのが苦手で・・。
    このイベントに興味を持ったので参加させて頂きます。
    よろしくおねがいしますあっかんべー
  • [151] mixiユーザー

    2009年10月11日 08:09

    映画の「エヴァンゲリヲン:破」と「しんぼる」を見てハイデガーの現象学との類似性を考えていました。

    そもそも何事もその姿・形とは異なる目に見えない本質のようなものがあり、その本質こそが物事の真の実体である、と捉える考え方はよくあちこちで見掛けます。


    スピノザの用語ですが「共通概念」という言葉がある。この共通とは普遍で誰もに共通するという意味でです。難しい定義はあるけど、共通な概念という結果をもたらす共通な原因による概念の事を共通概念と呼べるように思います。

    身体を構成する諸部分・諸細胞の構成は普遍的に一致する。
    原理として人間はその本性上、人間に一致する。

    ハイデガーで言うなら、現存在(世界内存在)たる目に見えない実存こそが実体であり、人間の実体は本質的に大きな一であり共有・共通する。


    ある一人の人間であるおっちゃんが居る。
    天使達の部屋に閉じ込められている。
    そのおっちゃんの面白おかしさ。
    同じ人間である観客はおっちゃんと本性上共通する原因によって、おっちゃんと共通した同じ感情・面白おかしさ・悟ったような境地を得る事が可能。

    どこまでおっちゃんになれるかはその人次第。
    笑いの芸術性。その芸術的な笑いは共通概念でもあり、人々にはそれをもたらす共通原因がある。
    同じように笑える、同じ気持ちになれる、筈だと信じているのかも知れないと思いました。



    世界の創造主、命の創造主。
    創造主は霊的な存在であり肉を持たない。創造主はその力により世界を創造し、その無限の霊的な力により世界に秩序を与え諸法則を敷き、霊的な生命を創造した。
    創造主の造り出した物体、この世界の実体は物理的な延長。
    創造主の造り出した精神・生命は創造主の霊的な思惟に属する霊的実体を持つ。

    人ならざるものと人の強い想いとが、その存在の極限を超えた時、全てを構成した根元の力に到達し、その遥かなる巨大な力に同化し消失されそうになった。

    根元的な力。その力によって構成される世界。存在するもの。

    エヴァンゲリヲンの世界の背景的な設定にそういうのがあったと思った。

    ハイデガーの目に見えない本質たる実存と、物理的に存在する実在。

    形而上学的実体。

    目に見えない無形の実体と、それが物理的な形をとった様態としての現実世界。
  • [152] mixiユーザー

    2015年02月07日 05:32

    >>[147]

    >『存在と時間』が難解な主な原因として、文章の文法的な拙さがあると言えると思います。岩波文庫以外のもので中央公論社のものを図書館で少し見てみましたが、少しは分かり易いように気遣ってあるようだけど、そんなには変わらなさそうと思いました(その少しの気遣いが大きいかも知れませんが)。訳者のせいだけでないとして、そもそも現象学自体がそんな感じなのかどうかはハイデガーしか知らない僕には分かりません。それでもやはりハイデガーの人間性の問題は大きな原因ではないかと思います。何が主語なのかがはっきりしない文。つまり言っている事の内容や意味ではなく、何の事について言っているのか自体が解らない。かなり独りよがりな他者の理解を無視した文章だと思う。


    確かになかなかに読みづらいものですね。翻訳する方々もおそらく苦労されているのではないでしょうか。
    でもそれにもかかわらず、そうであってもなお認めざるをえない面白さがあるように思います。
  • [153] mixiユーザー

    2016年10月27日 19:53

    >>[16]

    >読みにくくて10年位経っても上巻を読了していなかったりします。


    それはまた随分、漬け込んだもんですね。
  • [154] mixiユーザー

    2016年12月15日 17:57

    >>[144]

    >原則的に実存は非物質、実在は物質。実存(現存在)は存在を了解しながら存在する存在である。この実存を解き明かす事が、存在の意味への問いであり、そのために実存の存在構え、諸性質、諸構造、実存カテゴリーに迫る。「実存の存在了解」という事を『起点』(定言命題)にした演繹論理の結果のある段階で(『存在と時間』の最後)、実存=精神=時間としてそれらは同存在だという事(結論)になる。


    実存とは精神のことだとおっしゃっているのでしょうか。
    実存と現存在とは同じこと、ということもおっしゃっているのでしょうか。
  • [155] mixiユーザー

    2016年12月15日 19:11

    >>[154]

    ハイデガーにとって実存とは現存在のことで、その現存在とは世界内存在と言われる非物質的な領域の世界の存在です。
    その世界内存在には全ての存在の全ての過去も未来も同時に存在していて、その現在の一点を捉えることで実存は現存在たり得る。

    随分前に呼んだ本なのでうろ覚えですが、そういった内容だったと思います。
    なので、実存は精神と同一というより、精神を含めて実存も所謂形而上的な存在として同一で、実存と現存在はただの定義として同一、だと思います。
  • [156] mixiユーザー

    2016年12月15日 20:13

    >>[155]

    >ハイデガーにとって実存とは現存在のことで、その現存在とは世界内存在と言われる非物質的な領域の世界の存在です。その世界内存在には全ての存在の全ての過去も未来も同時に存在していて、その現在の一点を捉えることで実存は現存在たり得る。(中略)実存と現存在はただの定義として同一、だと思います。


    僕も『存在と時間』は何度か始めのほうを読んでも、基本的な言葉にハイデガーが与えている細かい意味合いをどうも忘れがちなので、もう一度、開いてみたところ、岩波文庫旧訳の訳者、桑木さんは冒頭の「訳者のことば」で、およそ次のようなことを書かれています。

    存在への問いにはすでに何らかの意味で存在がつかまえられている。ということは、この問いを発するわれわれには存在(ザイン、Sein)というものがある意味でわかっているのだ。その点、こうした問いを発することさえできない存在者(存在するもの、ザイエンデス、Seiendes)とわれわれ人間は区別されなくてはならない。
    そこでわれわれ人間のことはザイエンデス(Seiendes、存在するもの)ではなくダーザイン(Dasein、現存在)と呼ぶ。また、ダーザインのあり方のことをエクシステンツ(Existenz、実存)と呼ぶ。
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