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開催終了撮るものと撮られるものの関係性 −事実と物語の生成的関係をめぐって

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2008年10月07日 11:18 更新

(映像ナラティヴ・ワークショップ第2回)
撮るものと撮られるものの関係性
    −事実と物語の生成的関係をめぐって

企画 やまだようこ(京都大学大学院 教育学研究科)
主催:京都大学グローバルCOE「心が活きる教育のための国際拠点」
ユニットCプロジェクト「心が活きるフィールド教育と生涯発達のサポートとシステム」
共催:科学研究費プロジェクト「多文化横断ナラティヴ・フィールドワークによる臨床支援と対話教育法の開発」

日 時: 2008年11月5日(水) 13時−18時
場 所: 京都大学芝蘭会館 研修室(〒606-8302 京都市左京区吉田牛ノ宮町11-1)http://www.shirankai.or.jp/facilities/access/index.html

■参加無料。参加希望者は予約して下さい。先着30名で締め切ります。
予約先:develop〔at〕www.educ.kyoto-u.ac.jp(※〔at〕はアットマーク)

■映像作品上映と討論
○第1部 13時-14時30分 発表者 新井一寛 氏(映像人類学)
(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究科博士課程修了)
・エジプト青年の『Young Shaykh and Followers in the Jazuliya Sufi Order』、および同居者を撮った『同居とカメラ』、二つの映像作品をもとに、フィールドの撮影者と被撮影者の関係性、映像実践、映像作品、それらとの相互反照的かつ相互侵食的な変容過程をおもなテーマとして討論する。『同居とカメラ』は、撮影者と被撮影者の関係だけではなく、日常生活に舞い込んできた撮影・編集・上映によるコミュニケーションによる影響過程も含んだ、「おわりなき作品」である。

○第2部 15時-16時30分  発表者 大石高典 氏(生態人類学)
(京都大学こころの未来研究センター 研究員)
・映像実践は、撮る、撮られる、上映する、見る、という相互に関連した行為の連なりであるが、本発表では、発表者がフィールドワークの調査地(カメルーン)で、5年間の間に撮りためた非意図的・意図的映像を「切り刻んで」つくった映像作品『採る、捕る、獲る、ドンゴを撮る!』を上映し、調査地で感じた、撮る/撮られる関係のコミュニケーション性やそれを村落社会の中で上映する/見ることの政治性について現地での経験をもとに議論する。
  
■総合討論 17時-18時  


■□■ワークショップ概要■□■
○第1部 発表者 新井一寛 氏

1.『Young Shaykh and Followers in the Jazuliya Sufi Order』
(約8分、エジプト、2006特別編集版)
同作品のおもなテーマは、エジプトのスーフィー教団、ジャーズーリーヤ・シャーズィリーヤ教団の次期教団トップ(Shaykh:シャイフ)となる青年の「カリスマとしての成長過程の姿」である。
 上記教団の次期教団トップによる地方支部視察の旅を扱った作品の特別編集版。同教団の宗教儀礼の様子も記録。同作品は次の出版物に添付されており、同作品については同書が詳しい。『見る、撮る、魅せるアジア・アフリカ−映像人類学の新地平−』(新宿書房、北村皆雄、新井一寛、川瀬慈編、2006年)。
2.『同居とカメラ』(約38分、京都、2007−)
同作品は、撮影者と被撮影者、および両者の関係性(「現実」)と映像実践、映像作品との相互反照的かつ相互侵食的な変容過程をおもなテーマとしている。また、撮影者の思いつきとそれに応じた被撮影者の日常生活における「ミクロ」なやりとりが、学術的な場でどのように装飾・加工され、研究上意義のあるものとして、「マクロ」な理論生成空間に参与するのかについても、同作品のテーマである。
2007年4月から7月末まで同居していた友人を被撮影者とした映像作品。同作品は、作品への出演依頼交渉からはじまる。撮影者と被撮影者の関係は、日常生活に舞い込んできた(埋め込ませた)撮影・編集・上映によるコミュニケーションに、次第に影響を受けていく。また、同作品は、「おわりなき作品」の手法を採用しており、作品の上映風景を撮影しそれを被撮影者にみせ、その被撮影者の様子もまた撮影して作品に取り込んでいる。さらに、同作品を上映した研究会の様子も撮影し、作品に取り込んでいる。
本報告では、『同居とカメラ』の「物語」の生成過程における撮影者と被撮影者の語り、行為、関係性や、「物語」生成と「現実」との相互侵食過程などについて討論したい。また、『同居とカメラ』とYoung Shaykh and Followers in the Jazuliya Sufi Orderとを比較するかたちで、上記の諸事項について討論したい。

○第2部 発表者 大石高典 氏

(仮題)「撮ることと撮られること:フィールドの映像記録に見る調査者と被調査社会の相互作用」
『採る、捕る、獲る、ドンゴを撮る! "Bisso na Bisso (Among us)": Gathering, Catching, Hunting, Filming and Beyond in Ndongo village."』(約15分、East Province of Cameroon、2007)

人類学的なフィールドワークでは、特定の小さな社会に数か月から1年近くにわたる長期の住み込み調査を行うことは珍しくない。そこでは、生活と調査・研究の相補的ないし相互浸食的な関係が「調査者」を悩ませ、楽しませ、そして時には「被調査者」の側にも葛藤を与える。『「科学研究調査」を名乗っていったいこの男は何をしているのだろうか?』そんな問いや疑問を本人も周囲も内包しながら、研究は進んでゆく。「フィールドワーク」とは、膨大な物語(学術的な成果に乗らないものがほとんどである)を調査者と調査に巻き込まれた人々の周辺に生成する。
映像実践は、撮る、撮られる、上映する、見る、という相互に関連した行為の連なりであるが、本発表では、発表者が調査地で5年間の間に撮りためた非意図的・意図的映像を「切り刻んで」つくった上記の映像作品を上映し、調査地で感じた、撮る/撮られる関係のコミュニケーション性やそれを村落社会の中で上映する/見ることの政治性について現地での経験をもとに議論する。映像手段は、言語化されにくい現象を拾い上げ、「調査者と被調査者」という枠を超えたコミュニケーション・ツールとして有望である反面、映像は見る主体や見るシチュエーションによって、多様なイメージや意味を「勝手に」生成させずにはおかない饒舌性をもつので、(たとえば、「ゴシップ」としての映像、ローカル・プロパガンダの問題など)、対象社会や調査者と非調査者の関係にとって常にポジティブな結果をもたらすとは限らない。本報告では、発表者による非意図的映像資料をめぐる経験を材料に、調査者、被調査者双方で様々な物語を生みださずにはおかないフィールドワークや「参与観察」の進行プロセスそのものを見直す手がかりを探る。

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  • 2008年11月05日 (水)
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