DJとクラブの世界では、ジュニアは神である。繰り出される奇才なビートは激しく強力で、ダンス・フロアーの“モハメド・アリ”とも言われる。毎週のイベントで彼はそれを“放出”している。ニューヨーク・アンダーグラウンドでは“放出、生産”という専門語はあまり親しみがない言葉。だが踊り疲れた身体は、自分が疲れたことを知っているのにも関わらず彼がブースで“放出”される音は幸せなバイブとなって疲労困憊している体をも自ら忠誠を誓ったように彼の音楽に支配されてしまう。
20年間以上、現在も彼はダンスミュージックの最先端であるが、80年代前半に彼は、今現在多くの若手DJたちがしているように友人やパーティのためにMIXテープを送ることから始めた。ある時に、かの有名芸術家キース・へーリングのカーマイン通りのプール・パーティに招待されることになる。
その日々の中で彼は永久的な聖地を求め続け、その結果、唯一の手段として、彼自身の始めての箱をダウンタウンのトライベッカに開く。事実、2年も経たないうちに彼の音楽を求める人はその箱に収まりきらず、彼は新しい箱を築き上げた。それが伝説的なクラブ「サウンド・ファクトリー」だ。そこでかれの思い描いた答えは「アフター・アワー」としてのイベント。その箱は「トワイロ」としてその後活動したが、今は完全なる聖霊となっている。
サウンド・ファクトリーに集まる大群衆は、ただのクラブ・ミュージック・ファンではなくあくまでも彼の参拝客だった。その箱が自由に活動できたすばらしい時間はわずか1年以上だったが、そこは誰もが聖地として足を運んだクラブだった。
その後、サウンド・ファクトリーでのDJ活動以外、ショー・ビジネスで活動。有名アーティストであるマイケル・ジャクソン、マドンナ、プリンスおよびシンディー・ローパーとの音楽活動も手がけることになる。当時ヒップホップの名高いM.C.ハマーとの“Pray”ビデオや、1992年にはジョン・メレン・キャンプがジュニア・バージョンの“Love and Happiness”でワールド・ツアーをすることになる。
そしてジュニアがサウンド・ファクトリーをクラブ「トンネル」のため去ったが、彼の力は衰えることなく、彼を崇める崇拝者達は彼の後を追いかけた。白人、黒人、ゲイ、ストレートたちはそこで彼とひとつになるために集まった。それは紛れもない彼の事実である。クラブ・トンネルからパラディウム、トワイロからアース、そしてディスコテックとあらゆる開催地でそのイベント自体がすべて伝説的となり、それがすべて彼の音自身の定義と言われ続けている。
「アリーナ」としてポピュラーに知られるクラブ「パラディウム」ではホイットニー・ヒューストンの“Step By Step”、トニー・ブラクストンの“Unbreak My Heart”, マドンナの“Don’t Cry For Me Argentina”が最も記憶に残るピースであり、トワイロではメリー・J・ブライジの“Your Child”そしてネリー・ファルタードの“I’m Like A Bird”。クラブ「アース」の時期にはニューヨーク9・11のテロ事件のためにデボラ・コックスとケヴィン・アビアンスの“Alive“を聖歌として捧げた。
ジュニアの長くて顕著なキャリアの秘密は、彼の変化し続ける音楽風景と鋭い認識、そして最先端を捉える彼の不思議な能力だろう。
アンダーグラウンド愛好家へのダイレクトアウトレットをこれからの新しいアーティストたちに与え、彼らとプロデューサーとの関係を伸ばしていくことに焦点を合わせたレコード・レーベル「JVM - Junior Vasquez Music」を4年前に設立した。そこではスウェーデンのポップバンド、アルカサルやピアノ・センセーションのケーシー・ストラットン、男性ボーカリストのジェイソン・ウォーカーなど数多くのアーティストがる。
今日も数多くの有名若手DJ、アーティストがインスピレーションでジュニアに憧れることも不思議なことではない。ジュニアはひとつの象徴であり指導的人物であり、一人のパイオニアである。そして彼の終わりなき活動はこれからも続いていく。
ジュニアは現在ニューヨークの大箱「スピリット」、「ロキシィー」、「クローバー」にてDJ活動を続けている。