初めて自分の企画をすることになったのでシルクで大きなポスターを刷った。当時は宣伝というとそうするものだと思っていた。ポスターを貼らせてくれそうな店は高円寺のブラックプールと国分寺のほら貝くらいしか思いつかなかった。ヒッピーたちの早い時期からのニューヨークパンクの受容がまだ高円寺と国分寺を繋いでいた。そういう訳でほら貝に行った。店内が賑やかで、サンセイは屋久島に移住することになってね、と「もっきん」と呼ばれていた前髪を垂らした男が説明してくれた。山尾三省のことだと後で知った。背中合わせに座る赤紫の妊婦を真中に配したマイナーのコンサートのポスターはその後何年か貼られたままになっていて、ラフトレードの天井にテレビジョンの最初のポスターが貼ってあるのを見た時はほら貝を思い出した。初めてネオンボーイズやマースを聴いたのも国分寺の文化住宅の、ひとびとが正座して合掌して食べはじめる席でのことだった。1978までの暫くの間はロンドンもニューヨークも車座になって兼松講堂の屋上で回し呑みされていたのだ。さらに言えば、諏訪瀬から帰ってきて葡萄園周辺に住んでいた6人くらいのヒッピーを軸にその6年後のマヘルも構想されることになる。屋久島に行ったとき、三省が「自分の木」を縄文杉から裏庭のヒメシャラに変えたことを知った。歌い継がれている「二月の空」は、西東京のブルース・トラディションを集団即興に応用するというblues du jourのフォーマットを通して自分の木になった気がする。 [tori kudo]