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開催終了2/25木pm7半 第八回文芸部勉強会活動 「(小説)の『冒頭』に注目する」

詳細

2016年02月06日 12:45 更新


第八回文芸部活動 (小説の)「冒頭」に注目する

時間:19:30〜(21:00終了予定)定刻にお出で願います。恐れ入りますが、開始10分前以前のご到着はご遠慮ください。

司会:無味無臭改めエディーさん

主題としましては、
1. 小説の冒頭に注目しましょう。
2. 冒頭部分のサンプル用意します。
3. 手ぶらでも大丈夫です。
といった内容で話し合いましょう。

他に、
参加者の方、興味だけある方もどんな冒頭が小説にはあるのか考えてみてください。そして下記のように関わってもらうとさらに刺激的です。
1. コメント欄に (サンプルを) アップする
2. (サンプルを) 持ち寄る
3. (サンプルを) 真似る

À±£±裏のテーマとしては、優れた小説の冒頭には何かの共通点があるかということです。探してみましょうÀ±£±

というわけで、今回は課題本や決まった課題はありません。

A. 以前の勉強会でやった内容をぶり返したり、ムリヤリ関連付けるのは大歓迎です。B. その際に過去の回の参加者は時を経て得られました着想を発表できます 。

それではご参加のみなさま、当日よろしくお願いいたします
楽しみにしています

日時 2月25日(木)pm7:30開始 pm9:00 終了予定

※ 開催場所、形式は「半蔵門でゆるい読書会」と同じで 下記の通りです 。
参加費
 1000円(紅茶またはワイン1杯付き)
 お食事をご希望の方はコメント欄でお申し込みください(別途500円。内容はお任せ願います)。
 また、確認の意味で、お食事不要の方は、お手数ですが、「食事不要」とご記入ください。
お土産について:読書会中に皆でつまめる菓子、果物などのお土産は歓迎です。なお飲み物のお土産はご遠慮ください。(CafeBarKIYONOは飲食店です。お食事の持ち込みはできません。飲物の持込は1000mlまで/ごと500円の持込料を申し受けます)

定員:8名 ( JONYさん、司会を合わせて8名とさせていただきます)

会場: 千代田区平河町2-2-5カフェバーKIYONO 電話5212-4146
地図:googleマップで「カフェバーきよの」で検索
http://bit.ly/p15SIR

参加申込 : 下記のコメント欄にお食事の要否を記載して、このイベントの参加クリックボタンを押してください。

コメント(52)

  • [15] mixiユーザー

    2016年02月17日 01:12



     野間宏 『泥沼』


     昼の風呂で、頭を洗ったのがやはりよくなかったなと、粉川講師は、左の耳に小指を押し入れて考えていた。別に熱があるわけでもなかったが、身体全体に、強張りと弛緩の両方が生じているのが、自分でもはっきりとわかった。そして左手の小指は、いつの間にか、左の耳に差し込まれている。
     はげしい臭気が鼻孔をつきつづける。それは吐気をもよおさせるだけではなく、時には呼吸困難に陥れられるかと思われた。この臭気は、養豚場から発するものでもなく、養鶏場から流れてくるものともことなり、潮気を含んでいてそのために身体全体に、臭気液とでもいうようなものを、ぬたくる、特別な醜い匂いをたたえているものだった。
    「この臭気というやつがどうもいかん。匂いというやつは、まったく始末におえんところがあるよ、……第一、ものを考える力を、薄れさせる……薄れさせるなどというどころではない、その大もとから、そぎ取られてしまう。……まあ、その考える力というものが、頭に備わっていて、その上での話だが。」
     臭気はやがて、消えていくものと思えていたが、そのような気配は見られなかった。臭気は一日一日とはげしくなり、その濃度をましていった。粉川講師も一緒に連れてきた学生たちもまず食欲を失い、たちまち弱り込んで、その日ごろの動作を鈍らせてしまった。
     臭気はこの南方の小さな町の内海が、つづく干天のために乾き切って白い泥土の原野と化したところから立ち昇り、町全体をつつみ込み、隣村何カ村かをおびやかしているのである。
     このような泥土の海ができあがるなどということは、町の人が誰一人として予測することのできないところであったという。この町の安旅館の若主人の話では、町の漁民でさえも全然このような海の異変に対する備えがなく、海面がぐっと落ち込み、二、三日、まるで引き潮時のように、遠浅続きになり、やがて海底を少しばかりのぞかせるようになりはじめた時にも、海が今日のような状態になるなどと考えたものはいなかったという。誰もが、あと一、二日もすれば満潮時の海が元通りにかえってくると思い込んでいたのである。
     しかし、その二日後には、海水は海底に大穴でも掘られて、一挙にそこに吸い込まれていったかのように水嵩は減り、海面がそのまま、海底になってしまうという事態が起こったのである。遠浅の海などというものはなくなり、行方知れずになってしまっていた。
  • [16] mixiユーザー

    2016年02月17日 01:15


    * メモ

    ただよう ”臭気” と感覚器官としての ”鼻孔”

    ”身体全体に” の繰り返し

    ”強張りと弛緩”

    ”粉川講師” の読み分からず

    泥 → 粉
    海 → 川

    ”左の耳” と ”小指”

    ”臭気” が消えず、終わらぬ冒頭部

    名作に手垢を付ける
  • [17] mixiユーザー

    2016年02月17日 08:12

     

     田久保英夫 『髪の環』


     その部屋には、鍵がかかっていなかった。
     私が古びた真鍮のノブをまわすと、寄木の扉が蝶番を軋ませて開き、ひっそりと湿った空気が鼻にきた。草の青臭いにおいを含んだ湿気は、春の雑草が猛々しく繁茂するこの屋敷の崖ぎわから、まるで留守を狙うように屋内へしのびこんでくる。
     狭い沓脱ぎの白タイルの上に、踵が履きつぶれた臙脂のロウ・ヒールがころがっている。私がひと足廊下へあがると、壁のかけ釘に、二三個鍵を束ねた小さな輪が肩にふれた。いつもは鍵を必ずかけて出るのに、そんな束ごと抛ってあるのは少しどうかしている。
     私は部屋へ入りながら、誰もいないのに、自分が弱い草食獣のように用心深くなっているのを意識した。八畳の洋間で、庭へむけて三方ガラスの出窓がつき、以前の住人からの厚いドオブ織のカーテンが垂れている。その隙間から洩れる光のなかに、卓袱台と座机が浮かんでみえる。部屋につくりつけの洋箪笥と戸棚のほか、家具といえばこれきりだ。私はそこに坐ろうとして、間近な壁にさがった薄緑色の服から、日向の藺草のような若い女の体臭を嗅いだ。運動着らしい白ブラウスと、黒いブルーマも吊り下がっている。ブラウスの端には「皆子」と墨で名が入っている。
     私は湿っぽい畳に腰を下ろすと、所在ないまま、もっと意地悪い眼であたりを見まわした。実際、皆子が短大の寮を出る時は、舎監の女先生に、私は「保護者」の欄へ印を押させられたのだから、つとめてそんな役割に立ちかえる。それは肉身と似た感覚もどこかでする。
     そうした眼で見ると、この部屋はいかにも貧相だ。座机の上には、小型の英語とドイツ語の辞書のほか、「電気治療法の実際」とか看護学講座「外科」「皮膚科」「眼科」といった教科書らしい本が並んでいるきりで、しかも不勉強の証拠に、辞書などは少しも汚れてない。またその上には、真新しい籐で編んだ蠅タタキが、ぽつんと置かれている。何より机の端に、不相応に大きな青磁色の花瓶があって、そこに長い孔雀の羽根が十本あまり挿しこんであるのが眼につく。

  • [18] mixiユーザー

    2016年02月18日 00:21


    * メモ

    ”その部屋” であって、ただの ”部屋” ではない。

    ”私が” と行為の主体を強調。

    ”草の青臭いにおい” ”くさのあおくさいにおい”
    草 → 臭い → におい

    何の部屋かわからない → 緻密な描写 → やはり何の部屋かわからない → 日向の藺草のような若い女の体臭 → ブラウスの端には「皆子」 → 私は「保護者」の欄へ印を押させられた
    ミステリー仕立ての描写?

    英語、ドイツ語、辞書、「電気治療法の実際」、「外科」、「皮膚科」、「眼科」、教科書、汚れていない、真新しい籐、青磁色の花瓶、のイメージの重なり合い
  • [19] mixiユーザー

    2016年02月18日 01:31



     レイモン・ラディゲ 『肉体の悪魔』

     
     僕は多くの非難をわが身に受けることだろう。だが、それをどうすることができよう? 宣戦布告の数カ月前に十二歳になったとしても、それが僕のせいだろうか? たしかに、あの異常な時期に僕が経験した不安は、同じ年ごろの少年が決して感ずることのないものだった。だが、見かけはともかくとして、いきなり年を取らせるほどに強力なものなどはないのだから、大人でも当惑を感じたような恋愛事件の中では、僕はやはり子供っぽく振舞ったに違いない。僕ばかりではない。僕の友人たちにしても、この時期のついては、先輩たちのそれとは違った思い出を持ちつづけることであろう。すでに僕を責めにかかっている人たちは、あの多くの年若い少年たちにとって戦争がなんであったかを思い出してみるがいい。それは四年間の長い休暇だったのだ。

     僕たちはマルヌ川のほとりのF……町に住んでいた。
     僕の両親は男の子と女の子が一緒に遊ぶことには、むしろ不賛成だった。だが、生れ落ちたときから僕たちのうちにあって、まだ盲目の状態にある官能は、こうした遊びによって失うところよりは、得るところの方がむしろ多かった。
     僕は決して夢想家ではなかった。僕よりも信じやすい性質を持った他の人たちに夢と思えることも、僕には、たといガラス蓋があってもチーズは猫にとって現実であるのと同じように、やはり現実に見えた。だが、蓋はあるにはあるのだ。
     蓋がこわれると、猫はそれにつきこむ。たとい、飼い主が蓋をこわして、そのために手を怪我したとしても。

     僕は十二の年まで色事などしたことはなかった。ただ一度、年下の男の子を使って、カルメンという名の少女に、胸のうちを述べた手紙を渡したことがある。僕は自分の愛情にかこつけて、逢引をせがんだ。手紙は、朝、彼女が学校に行く前に渡されていた。僕は自分に似たこの少女だけに目をつけていた……

  • [20] mixiユーザー

    2016年02月18日 18:08

    レイモン・ラディゲ 『肉体の悪魔』 新庄嘉章訳

    * メモ

    僕は誰?
    僕の何に関しての非難?
    もうどうすることもできない?
    すでに多くの非難?
    僕は、十二歳!?
    宣戦布告の状況?

    開きなおって居座る潔さがただよう。
    異常、不安に対比させられた僕の動じない心境。そして、十二歳にも。この僕からの主観によって物語が貫かれされるような始まり。
    もう弱くはないだろうが、強くなりきっていない危うさがある。

    いきなり年を取った? それでもやはり子供っぽい? 僕の友人たちにしても。年若い少年たちにとっての戦争。四年間の回想場面へと移る。
  • [21] mixiユーザー

    2016年02月18日 18:36

    食事の要 不要 未記入の方は 記載にご協力ください
  • [25] mixiユーザー

    2016年02月19日 01:12

    レイモン・ラディゲ『肉体の悪魔』 新庄嘉章訳


     第一段落 最後


     子供たちの利己主義は僕たちの利己主義とそんなに違っているだろうか? 夏、田舎で、僕らは雨を呪うけれど、農夫たちは雨を求めている。


     第二段落 冒頭

     大異変が前兆なしで勃発することは稀である。オーストリア皇太子の暗殺事件や、カイヨー裁判の嵐は、途方もないことが起こるには好適な、息苦しいような雰囲気を漂わせていた。だから、戦争についての僕の本当の思い出は、戦争以前にさかのぼるのだ。 
     こんなことがあった。
     うちの隣にマレーショーという町会議員で、白い頤髯をはやして頭巾をかぶった、ちんちくりんの不格好な老人が住んでいたが、僕たち­­­というのは弟たちと僕だが­­­は、彼を小馬鹿にしていた。みんなは彼のことをマレーショー爺さんと呼んでいた。隣同士なのに僕たちが挨拶しないので、彼はそれを憤慨していたが、ある日、堪忍袋の緒を切らして、道で僕たちに近づいて来て言った。「これこれ! 町会議員に挨拶しないのかね!」僕たちは逃げ出した。こうした無礼をきっかけとして、戦端が開かれた。だが一町会議員が僕たちに何ができたであろう? 学校の行き帰りに、弟たちは彼の家の呼鈴の紐を引っぱった。彼の家の犬はおそらく僕と同じくらいの年で、こわがる必要は全然なかったので、このいたずらはますます大胆になった。
     一九一四年七月一四日の前日のことだった。弟たちを迎えを行くときに、マレーショー家の柵の前に人が大勢集まっているのを見て、僕はどんなに驚いたことだろう……


     第二段階 結び

     帰り道に、あの柵の後ろに白い影が見えたような気がした。すわ女中の幽霊! だがそれは、木綿の帽子をかぶったマレーショー爺さんだった。疵、瓦、芝生、木立、血にまみれた石段、まるつぶれになった面目、などの被害を調べて回っているのだった。
     僕が根気よくこうした挿話を書くのは他のどんなことよりも、これが戦争という異常な時期を理解させ、また、ものごとの絵画的な光景よりもその詩情の方がどんなに僕の胸を打ったかを理解させてくれるからである。


     第三段落 冒頭

     砲声が聞こえてきた。モーの付近で戦闘が行われていた。うちから一五キロばかりのラニーの付近で、ドイツの槍騎兵が捕虜になったという噂さえあった。戦争がはじまるや柱時計や鰯の罐詰を庭に埋めて逃げ出したという友達のことを叔母が話しているあいだに、僕は、父に、うちの古本を運ぶ方法を尋ねた。これを失うのは、僕にとって一番の苦痛だった。
     結局、いざ避難しようというときになって、その必要のないことを新聞が教えてくれた。
     そのころ、妹たちは傷病兵にお見舞の梨の籠を持ってJ……に通っていた。彼女たちはこうして、おじゃんになったあらゆるすばらしい計画の埋合せ­­­全くそれは平凡な埋合せだったが­­­を見つけ出したのだった。彼女たちがJ­­­に着いたときには、籠はほとんどからになっていた!

     僕はアンリ四世校に入ることになっていた。だが父は、もう一年僕を田舎に引止めておきたかったが。その陰鬱な冬の僕のただ一つの楽しみは新聞屋に走って行って、『言葉(ル・モ)』紙を一部確実に手に入れることだった。これは僕の大好きな新聞で、土曜日に発行されていた。この日は、僕は決して朝寝しなかった。
     だが、春が訪れてきた。僕の生まれてはじめての経験の、気紛れな遊びで陽気にされた春である……


     第三段落 結び

     こうして三年は過ぎて行ったが、ほかに友達もできず、また、木曜日に少女たちとふざけて遊ぶことのほかには別に楽しい期待もなかった。­­­この日には、木曜日に少女たちとふざけて遊ぶことのほかには別に楽しい期待もなかった。­­­この日には、ルネの両親たちは息子の友達と娘の友達とを一緒にお茶に招待してくれて、別にそのつもりはないのだが、彼女らを僕たちにあてがってくれるようなことになった。­­­僕たちは賭遊びを口実にして、お互いに、ささやかな愛の贈物を盗み合ったものだった。

  • [26] mixiユーザー

    2016年02月19日 01:16



     第四段落 冒頭

     美しい季節になると、父は僕や弟たちを遠足に連れて行くのを楽しみにしていた。僕たちの大好きな目的地の一つは、オルメソンで、モルブラ川に沿って歩くのだった。幅一メートルほどのこの小川は、牧場を横切って流れ、この牧場には、名前は忘れたが、どこにも見られない花が咲いていた。水菜(クレソン)や薄荷(ハッカ)が茂っても足もとを隠しているので、水になっているところに踏み込むことがあった。この小川は、春には、数知れぬ白やばら色の花びらを下流に運んでいた。それを山査子だった。
     一九一七年の四月のある日曜日、いつものように、僕たちはラ・ヴァレンヌ行の汽車に乗った。


     第四段落 結び

     父も弟たちも退屈していた。かもうものか! 幸福というものは大体利己的なものなのだ。


     第五段落 冒頭

     ルネにはこれまでなんでも打明けていたが、翌日学校に行ったとき、僕はこの日曜日のことを彼に語りたい気持にならなかった。だがそれは、マルトにこっそり接吻しなかったことを笑われるのが我慢できなかったのだ。もう一つ不思議でならなかったのは、この日は、ルネが他の級友たちとそう違って見えなかった。

     マルトに恋を抱いていた僕は、ルネや、両親や妹たちのことは愛さなくなっていた。

     じっと我慢して、約束の日より前には会いに行くまいと僕は決心していた。だが、火曜日の夕方になると、もう矢も楯もたまらなくなって、意気地もなくも、夕食後にほんと新聞紙が持って行けるような巧い口実を見つけだした。僕がこんなにも待ちかねていらいらしているのを見たら、マルトはそれを僕の愛情の証拠と思ってくれるだろう、もしも彼女がそう思ってくれないなら、無理にもそう思わせてやることもできるだろうと、僕は胸の中で言っていた。


     第五段落 中盤

     学校をさぼることは、僕の考えでは、マルトを愛していることを意味していた。だがこれは僕の考え違いだった。マルトは、僕にとって、学校をふけることの口実にすぎなかったのだ。その証拠には、マルトと一緒に自由の魅力を味わってからというもの、僕は自分一人でもそれを味わいたかったし、そのうちには仲間もつくりたくなったのだった。この自由はたちまちにして、僕には麻薬となってしまった。

     学年も終りに近づきつつあった。僕は放校処分にあうことを、つまり一場の悲劇によってこの時期の決算をすることを望んでいたのに、僕の怠情が罰も受けずに済みそうなのを見て、内心びくびくしていた。

     人が何か一つのことを熱望して、いつも同じことばかり思い詰めて日を暮し、それしか眼中にないと、その欲望が罪であることにもはや気づかなくなるものだ。もちろん、僕は父を苦しめようとしていたのではない。だが、僕が望んでいたものは、父を一番苦しめることになるものだった。授業は僕にとってはつねに苦痛の種だった。マルトと自由のために、それが我慢できないものになってしまったのだった。ルネが以前ほど好きでなくなったのは、単に、彼が何か学校のことを思い出させるせいにすぎないことを、僕をよく承知していた。僕は苦しんでいた。来年もまたこんな馬鹿な級友たちと付き合わねばならないのかと思うと、この恐怖は肉体的にも僕を病気にした。

     ルネにとっては気の毒なことだが、僕は自分の悪癖を彼にすっかり観戦させていた。だから、僕ほどうまく立ち回れない彼が、アンリ四世校を放逐されたと彼の口から聞いたときには、てっきり自分もやられたものと思い込んだ。これは父に知らさねばならなかった。なぜなら、生徒監からの手紙、途中でごまかすにはあまりにも重大な手紙が来る前に、僕自身の口から知らせる方を父は喜ぶであろうか。


  • [27] mixiユーザー

    2016年02月19日 01:20



     最後の段落から三番目

     ほんとうの予感というものは、われわれの精神が入って行けないような、奥深いところでつくられる。だから、時として、予感がわれわれにさせる行為を、われわれは誤って解釈することがある。
     僕は幸福なので、前より優しくなったような気がした。そして僕たちの幸福な思い出によって神聖化された家にマルトがいるのかと思うとうれしかった。
     死期の近づいた自堕落な人間が、自分ではそうとは気がつかず、急に身の回りを片づけはじめる。彼の生活は一変する。書類を整理する。朝は早く起き、夜も早くから寝る。悪いことをしなくなる。まわりの人々はそれを喜ぶ。だから、それだけに、彼の残酷な死は一層不当に思われる。《彼はこれから幸福に生きようとしていたのに》
     それと同じように、僕の生活の新たに静けさは、罪人の粧い(よそおい)だった。自分に子供ができたので、自分が前よりいい子供になったような気がした。さて、僕の愛情は、僕を父と母に近づけた。僕のうちの何かしらが、近々に彼らの愛情が僕に必要になることを知っていたのだ。

     ある日の正午、弟たちが、マルトが死んだと叫びながら学校から帰ってきた。


     最後の段落から二番目

     雷は一瞬にして落ちてくるので、打たれた人は苦しまない。だが、一緒にいる人にとってはそれは痛ましい光景である。僕は何らかの感動も示していなかったが、父の顔はひきつっていた。父は弟たちを押しのけた。「さあ、出て行った、馬鹿者め、馬鹿者め!」と父は口ごもりながら言った。僕は体がこわばり、冷たくなり、石になって行くような気がした。それから、瀕死の者の目に、一生のあらゆる思い出が一瞬のうちにくりひろげられるように、マルトが死んだという確実な事実は、僕の恋愛を、それが持っているあらゆる恐ろしさと一緒に、僕の目にはっきりと見せた。父が泣いているので、僕もむせび泣いた。すると母が僕を抱き取った。母は涙一つこぼさず、落ちついて、だが優しく,まるで猩紅熱患者でも扱うように僕をいたわってくれた。
     初めの数日は、弟たちは、僕が卒倒したので家じゅうが静かなのだと思っていた、だが、それからのちになると、彼らにはさっぱり訳がわからなくなった。別に騒がしい遊びを止められていなかったが、彼らは黙っていた。だが、正午に、彼らの足音が玄関の敷石の上に聞えると、まるでそのたびにマルトの死が告げられるような気がして、僕は意識を失うのだった。

     マルト! 僕の嫉妬は墓のかなたにまで彼女を追いかけ、死後は無であることを僕はねがっていた。実際、愛する人が、われわれの加わっていない饗宴の席に、大勢の人に取囲まれてつらなっているのは、耐えがたいことである。ぼくの心は、まだ未来のことなどは考えない年ごろであった。そうだ、僕がマルトのためにねがっていたものは、いつの日か彼女にめぐりあえる新しい世界ではなくて、むしろ無であった。


     最後の段落

     僕はたった一度だけジャックを見かけたが、それは数カ月のちのことであった。僕の父がマルトの水彩画を幾枚か持っていることを知っていたので、彼はそれを見たいと思ったのだった。われわれは、自分の愛している事と関係のあるものは、なんでも見たくなるのが常である。僕は、マルトが結婚を承知した男はどんな男か見たかった。
     息を殺し、爪先立って、半ば開かれた扉の方へ歩いて行った。扉まで行ったとき、ちょうどこんな声が聞えた。
    「妻はあの子の名前を呼びながら死んで行きました。かわいそうな子供です! ですが、あの子がいればこそ、わたしも生きていけるというものではないでしょうか」
     絶望的な気持をじっと押えているこんなにも立派な鰥夫を見て、僕は、世の中の物事は、長いうちにはおのずとまるく納まって行くものだと覚った。だって、マルトが僕の名前を呼びながら死んで行ったことも、僕の子供が合法的に立派な生活をしていけるであろうことも、今わかったではないか。


  • [28] mixiユーザー

    2016年02月19日 01:22

    参加者のみなさま、
    食事の有無を書き込みください。
    よろしくお願いします。
  • [29] mixiユーザー

    2016年02月19日 01:59

    ジャン・コクトー 『恐るべき子供たち』 中条省平/中条志穂訳

     モンティエ広場は、アムステルダム通りとクリシー通りに挟まれている。そこに入るには、クリシー通りからは鉄柵を押しあけ、アムステルダム通りからは正面と建物のアーチをくぐっていく。建物の中庭がモンティエ広場というわけで、この細長い閉ざされた中庭には、家々の寄り集まった高い平坦な壁の下に、小さいが立派な一群の邸が隠れている。これらの邸は、天辺が写真屋によくある暗幕のかかったガラス張りになっていて、画家たちが住んでいるらしい。こんな邸には、武器や、金糸銀糸の織物や、籠に入った猫やボリヴィアの大臣一家を描いたキャンバスがいっぱいにあふれ、そこに人知れず住む高名な主人は、絵の注文や政府の勲章に追いまくられながらも、この田舎町を思わせる静寂によって不安から守られているのだろう。

     だが、一日に二度、朝の十時半と午後の四時に、静寂は暴動に破られる。というのも、アムステルダム通り七十二番地二号の向かい側のコンドルセ中学が扉を開き、生徒たちが、モンティエ広場を戦闘司令部と定めるからだ。ここが彼らのグレーヴ広場なのだ。それはいわば中世の広場、愛の法廷、競技場、足なえの乞食が立ちあがって詐欺師の本性を表す奇跡の小路、切手とビー玉による証券取引所、盗賊に首を掻っ切られるやもしれぬ危険地帯であり、そこでは裁判官が罪人を裁き、処刑し、同級生いじめがじっくりと準備される。そして、教師たちも驚嘆する用意周到さで、いじめはクラスで花開くのだ。じっさい、中学二年の少年たちは恐るべき存在だった。次の年になれば、彼らはコーマルタン通りにある中学三、四年の校舎に移り、アムステルダム通りを馬鹿にし、いっぱいの兄貴気どりで、鞄(ランドセル型)を捨てて、数冊の教科書をベルトと四角い布で包むようにする。











  • [30] mixiユーザー

    2016年02月20日 12:47



     フローベール 『ボヴァリー夫人』 芳川泰久訳


     僕たちが自習室にいると、校長が入ってきて、後ろから私服を着た新入生と大きな机を抱えてきた用務員が付いてきた。眠っていた連中は目を覚まし、一同は勉強中の不意を突かれたかっこうで起立した。
     校長は僕たちに合図して着席させ、それから自習監督のほうを向きながら、
    「ロジェ君」と小声で言った。「この生徒をひとつよろしく、二年に編入だな。学業と操行(おこない)が立派ならば、年からいっても上級に上げるとしよう」
     部屋の隅にいて、ドアの陰に隠れ、ほとんど見えなかったが、新入生は田舎の子で、十五歳くらい、僕たちのだれよりも背が高そうだった。髪を額でまっすぐ切りそろえていて、まるで村の聖歌隊の一員みたいで、聞き分けのよさそうな、ひどく当惑した様子だった。肩幅は広くないのに、黒いボタンをつけた緑のラシャ地の裾の短い上着は袖ぐりが窮屈そうで、袖の折り返しの隙間から、むきだしに慣れっこになっている赤い手首がのぞいていた。青い靴下をはいた足が、ズボン吊りにぴんと引っ張られた黄色っぽいズボンの裾からはみ出ていた。ごつい靴を履いていて、それはよく磨かれていない上に、鋲が打ってあった。
     課題(レッスン)の暗唱がはじまった……
  • [31] mixiユーザー

    2016年02月20日 12:54



     バルザック 『毬打つ猫の店』 芳川訳


     ついこの間まで、サン=ドニ街の中ほど、プチ=リオン通りと交わる角近くにあった一軒の家は、昔のパリをたやすく歴史家たちに類推させる貴重な家の一つだった。そのあばら家の、いまにも崩れ落ちそうな壁には、まるでヒエログリフがでたらめに塗り込まれているように見えた。そぞろ歩く人の目には、そうとしか映らなかったのではないか。というのも、漆喰に平行して入った小さな亀裂によって、横や斜めの梁材の輪郭が浮き出ていて、建物の正面(ファサード)にはいくつもXやらVの字が描かれていたからだった。どんなに軽い馬車が通っても、当然のことながら、梁という梁がほぞ穴のなかでぎしぎしと揺れた。この敬うべき建物には、三角形の屋根が乗っかっていたが、そうした型の屋根は、パリでは間もなくひとつもお目にかかれなくなるだろう。パリの不順な天候のせいで歪んだこの屋根は、通りのほうへ三ピエほど突き出ていたので、玄関の敷居に雨水がかからず、屋根裏部屋の壁と下枠なしの小窓を風雨から守っていた。この最上階は、板を一枚一枚釘で打ち付けてストレートぶきのようにしていたが、それはおそらく、この華奢な家に過重な負担をかけないためであったろう。
     三月のある雨の朝方、入念に外套に身を包んだ青年が、この古い住居の向かいの商店の庇の下にたたずみ、まるで考古学者のような熱心さでその住まいを観察していた。じつのところ、この一六世紀の中産階級の遺物は、観察者に、解決すべき問題をいくつも差しだしていた。それぞれの階には一風変わったところがあった……

  • [32] mixiユーザー

    2016年02月20日 12:57

    まだ食事の有無を書かれていない方は、
    よろしくお願いします。
  • [33] mixiユーザー

    2016年02月20日 18:21



     増田みずこ 「独身病」


     体が透き通ってゆく夢を見ていた。外気にひかれて、細胞の一個ずつが、じわじわと体表へ浮き出し、空気に触れると光の粒子に変化した。どうやら人間の輪郭が保たれているのは、血管らしい赤い網目状の管が、内臓や皮膚のあった場所にくっきりと残っているせいだった。
     福江は自分の体の突然の変化について、ぶつぶつと文句を言っていた。体の内側も外側も同じ明るさになってしまっては、まぶしくて外を歩くことも出来ない。そのくせ風通しは一向に良くならず、むっとするばかりだ。第一、内部をもっと暗くしなくては、人間とは言えないではないか。血管は日光浴が出来ただけで満足かもしれないが、かつて何個もの内臓を持っていた私としては、こんなあけすけの状態では困る。
     福江は怒った自分の声で眼を覚ました。十時を過ぎていた。慌てて飛び起きた拍子に、うしろへ引き倒されるような感じを受け、しまったと思った時には、再び頭を枕につけていた。低血圧体質者が起きぬけによく経験する一過性の脳貧血である。数秒眼を閉じてじっとしていれば、頭の中の黒い固まりは収縮する。だが平衡感覚が戻った時には、起きる気持をすっかり失くしていた。辞表を書いた翌朝にまで、何も律儀に帝国を気にする必要はない。寝坊も、もともと気持の底にそんな居直りがあったからに違いない。
     カーテンの緑で染められた光が、夜具といわず壁といわず部屋一杯に詰まっている。緑の光模様が目蓋を貫いて福江の眠りの中へ入りこみ、補色の赤い網目を織り上げたようだった。窓へ向けてかざした掌にも、せわしく波が走った。緑色の皮膚と緑の血液を持った、人間そっくりの宇宙人が地球侵略を企てるSFがあったなどとぼんやりと考えているうちに、光の揺らめきはやがて福江の体に船酔いに似た感覚を呼びさました。畳と同じ高さにある自分の体をそろそろと持ちあげるだけで額にうっすらと冷汗をかいた。
     カーテンを開くと、顔をそむけたくなる程の大量の陽光がなだれ込んできた。ゆうべ置いたままの場所に、ハンドバッグと辞表が並んでいる。福江はゆっくりした動作で、夜具をベランダに運び出し、陽に干した。
     窓の下を足もとのおぼつかない幼児がたった一人で歩いていく。ようやく歩き始めたばかりらしく、つんのめりそうになったり、尻もちをつきかけたりしながら、すんでのところで何とかバランスをとり、母親らしい人影も見えないのに歩道のない道路を黙々と進む。時間帯によってはかなり頻繁に車が走りぬける道なので、福江は身を乗り出して前後を守っていたが、幸い一台も車が来ないうちに幼児は角を曲がり終えた。しばらくの間耳を澄ませt鳴き声を待ったが、全身に直接日光を浴びているせいか降りてゆく気にもならず、次第にどうでもよくなり、道路に背を向けるとふくらみ始めたふとんにもたれた。福江がいつもの時刻に出勤していたとしても、幼児はやはり、歩くことだけに没頭しながら、たった一人でこの危険な道を歩いていたに違いいない。
     光を吸って、時間が眼の前でどんどん膨張してゆくようだった。幼児から、三十三歳の自分へと運んできた時間の帯は、いつしか風化されてぼろぼろに崩れ、今では微細な破片が光の中を泳ぐ程度にしか残っていない。幼児の道の先に何があるか心配してみても、その心配は持続しようがなく、関係づけようと思いたっても無駄なことだった。部屋に戻りかけた福江の眼に、シーツについた髪の毛が飛びこんできた。一本つまみとると、すぐ横に今まで気づかなかったもう一本がある。眼につくままにふとんから室内へと拾ってゆくと、思いがけなく掌を黒くおおってしまうほどに集まった。福江はパジャマ姿ではいつっくばってなお眼を凝らした。自分の頭から抜けおちた一本一本の髪の毛には、白っぽい塵がからみついており、光の中で、いかにも不潔に見えた。

  • [34] mixiユーザー

    2016年02月20日 19:06

    こんばんは
    食事は必要ありません
    よろしくお願いします
  • [35] mixiユーザー

    2016年02月22日 18:08



     増田みずこ 「独身病」 続き
     

    「辞表ですか」
     上司はあっさりと福江の手から封筒を受け取ると、微笑を浮かべた。福江も「はい」と簡単に答えただけで笑ってみせた。十年勤めた職場を辞める実感がなかった。それよりも福江はひさしぶりに入った教授室が物珍しく、きょろきょろ見回した。上司が何か言おうと努力している際に、福江は勝手に応接用のソファに腰をおろした。
    「辞めるのは、君にその事情があるためだろうから、僕には、引きとめる権利はないと思いますよ」
    「そうですね」と福江は答えた。
    「辞めるに当って、何か僕に言いたいことはありますか?」
     間近で微笑をこしらえながら慎重に言葉を選んでいる肥満した小男が、十年の上司であったという実感も、福江は持てなかった。歳月が何ら影響を及ぼさない人間関係があるとしたら、まさしくこれがその実例だと他人事のように考えている。
    「いいえ、何も」
     彼が退職の理由を聞かない以上、ゆうべ福江が、退職理由をいろいろ考えた末に何ひとつ具体的には思いつかなかったことなども、報告する必要はなかった。
     松木という実験手が、福江のやめたあと、助手のポストを貰う筈である。松木はあいにく彼にふさわしいポストがあいていない時期に、ここに来た。「最初の面接の時、近くあなたを辞めさせて僕にそのポストをくれると、約束したんですがね、その後は触れてきませんよ」しばらく後に、事情を呑みこんだ松木が苦笑しながら福江に打ち明けたのだった。それから三年たつが、松木はいまだに実験手の身分のまま、毎日多忙そうである。
    「出来れば、おめでとうと言って送り出したい、と常々思っていたのですがね」
     話がとだえた、と思った時、上司は立ちあがって、福江に退出を促す素振りを見せた。
    「どういう意味でしょうか?」
    福江は立たなかった。
    「辞めて、お嫁にいくわけでもないらしいじゃないか。もし先のことが不安なら、次の就職口が見つかるまで待ってあげてもいいよ」
     思いがけなく辞表を手に入れることがかなってはしゃいでいる様子がありありと見えた。上司の無邪気な性格を羨ましいと思えないこともなかった。何だか損をしたような気分だった。福江は、人を小馬鹿にした眼つきを、作って見せた。
    「結婚がおめでたいとは、私、知りませんでした」
     研究室には戻らずに、福江はその足で屋上へあがった。
     
  • [37] mixiユーザー

    2016年02月22日 18:29



     古井由吉 『杳子』


     杳子は深い谷底に一人で坐っていた。
     十月もなかば近く、峰には明日にでも雪の来ようという時期だった。
     彼は午後の一時頃、K岳の頂上から西の空に黒雲のひろがりを認めて、追い立てられるような気持で尾根を下り、尾根の途中から谷に入ってきた。道はまずO沢にむかってまっすぐに下り、それから沢にそって陰気な灌木の間を下るともなく続き、一時間半ほどしてようやく谷底に降り着いた。ちょうどN沢の出会いが近くて、谷は沢音に重く轟いていた。
     谷底から見上げる空はすでに雲に低く覆われ、両側に迫る斜面に密生した灌木が、黒く枯れはじめた葉の中から、ところどころ燃え残った紅を、薄暗く閉ざされた谷の空間にむかってぽうっと滲ませていた。河原には岩屑が流れにそって累々と横たわって静まりかえり、重くのしかかる暗さの底に、灰色の明るさを漂わせていた。その明るさの中で、杳子は平たい岩の上に躰を小さくこごめて坐り、すぐ目の前の、誰かが戯れに積んでいった低いケルンを見つめていた。
     岩ばかりの河原をゆっくり下ってきた彼の視野の中に、杳子の姿はもっと早くから入っていたはずだった……


  • [38] mixiユーザー

    2016年02月22日 18:32

     

     古井由吉 「妻隠」


     アパートの裏手の林の、夏草の繁みを掻き分けて老婆は出てきた。
     林といっても、クヌギの木が十二、三本も伐り残されたわずか五十坪たらずの空地にすぎず、秋になって葉が落ちると視線はたちまちむこう側へつきぬけてしまう。そして石を投げれば届きそうなところに細い砂利道が通り、その道にそって小さな建売りの二階家が、階下も階上も広さの変わらぬ窮屈な恰好ながら、それぞれ一戸建ての尊厳を精いっぱいに示してひしめいているのが見える。その間にはさまれて、空き地は明日にでも同じような安普請の家にあっさり塞がれてしまう運命を待っているというふうである。それでも夏の盛りともなれば、自然はいかに包囲されていてもやはり自然だけあって、ことさらに旺盛に、ことさらに淫らがましく生い繁って、すぐ目と鼻の先の新興住宅地の眺めをすっかり覆い隠してしまい、アパートの側からは、一見、すこしばかり奥行きのありそうな林に見えた。
     夏には誰も踏みこまない繁みの中から白い姿が浮かび上がり、夏草に着物の裾を絡み取られてか、立ち止まって足もとに目を落した。躰を軽くよじって裾のうしろを眺める姿の、襟元からのぞいた肌がやさしかった。それから、片手で裾をからげ、もう片手で草を押し分け、すこし及び腰で出てくるのを見ると、老婆だった。皺くちゃに老いさらばえた感じではなく、色白の小太りですこぶる健康そうだが、足の運びのたどたどしさはやはり年寄りだった。
     寿夫はアパートの横手に共同の流し場の近くに立って、正午の陽光を白く照り返す、埃の中から、この一週間寝こんだおかげで鈍くふやけた目で繁みの奥をのぞきこんでいた。夏草の中から着物姿の女が出てきたという最初の訝りは、見まちがえからというよりも、炎天下にポツンとひとり立つ病み上がりの男の立ち暗みのようなもの,なかば自分から抱き寄せた錯覚、ほとんど幻想に近いものだった。なにか大事なものを汚されたような、自分で汚してしまったような気持で、彼は渋面をつくって老婆を見まもった。内股の歩みで近づいてくる老婆の、腰のあたりにまだなんとなく漂う女臭さが、彼の不快感を静かに掻き立てつづけた。
     寿夫の視線を受けて老婆はかるい脅えの表情を見せて立ち止まった。そしてにわかに年寄り臭く腰をこごめ、目の前に立ちはだかるような具合にたつ寿夫にむかって、卑屈な媚をふくんだ目つきで笑いかけた。寿夫は右へ一歩動いて老婆のために道を明けてやった。そして相変わらず渋面を守っていた。すると老婆は上目づかいに彼の顔をしげしげとのぞきこみ、そのまま、まるで若い男の依怙地さを自分の善意で有無を言わせず、包みこんでしまおうとするように、ためらいのない足取りで真っ直ぐに近づいてきた。そして彼のまん前に立つと、あらためて近くからにこやかに笑いかけ、ぞっとするような若々しい声でたずねた。
    「ヒロシ君、家にいる」
     年寄りのくせに、どこで習い覚えてきたのか、若い仲間どうしのような、馴々しい物の言い方である。
    「さあね、この家のもんじゃないから……」
     素気なく答えたつもりで、寿夫の口調も思わず相手の馴々しさに染まっていた。ここは、《隣のアパートの者なので、わかりかねますが》といんぎんに答えておけば済むことだった。
    「ああ、そう。そうなの……」と老婆は何のつもりか空とぼけた顔でしきりにうなずきながら、アパートの隣の一戸建ての平屋のほうへ、ちらりちらりとあてつけがましい流し目をやった。
     

  • [39] mixiユーザー

    2016年02月23日 01:40

     

     古井由吉 「妻隠」 続き


     老婆のたずねているのは、そこに住みこんでいる若い職人たちの一人のことである。職人というよりも、建築工事のどこか小部分だけをもっぱら請負ってやってる小さな工務店の若い者たちで、どれも地方の出らしく、求人に苦しむ親方がわざわざ高い家賃を払ってここに一軒小さな家を借りて寮がわりに六、七人住まわせている。この一週間、会社を休んで床についている間に、寿夫ははじめて隣家の若い男たちの暮しに耳を傾けるようになった。毎朝、アパートの夫婦たちがまだ床についている時刻におもてが騒がしくなり、畑のへりにつくられた共同の流し場で口をすすぐ音、東北なまりの大きな話し声、突拍子もなく始まる流行歌などが賑やかに入り乱れ、やがてガランガランと工具を小型トラックの荷台に放りこむ音がしたかと思うとエンジンがかかって、毎朝きまってヒェーッという奇声とともに、男たちをのせた車が走り去る。それからアパートの勤め人たちの家庭の一日の暮しが始まる。夕方になると朝の騒々しさがまた車に乗って戻ってきて、流し場で水を浴びる音、互いに罵りどづきあう声、賄の小母さんの声などが近所の取り澄ました静かさを揺り、一時間もすると旺盛な食欲の音がアパートの二階まで手に取るように伝わってくる。食事が済むとテレビの音がボリュームいっぱいにふくらんで寿夫の眉をひそめさせるが、有難いことに長くは続かない。戸外の重労働で疲れもし荒みもした若い躰にはテレビの娯楽さえ理屈が多くてまどろっこしすぎるのか、三十分もすると男たちはもう飽きてしまってどやどやと外に出ていく。畑にそって荒っぽい話し声が遠ざかってゆき、新開地の夜の静かさの中に消えると、入れかわりにアパートの部屋部屋から、いままで隣の賑やかさに掻き消されていたテレビの音が聞えてくる。アパートの居住者らしく遠慮深く音量をしぼっているのだが、そのかわり隣の男たちのテレビよりもはるかにしつこく、低い音ながら深夜まで切れることなく続いて、慣れない病気のあとでいくらか過敏になっている寿夫の神経を悩ませる。それから二時間もすると、また畑にそって男たちの酔声が戻ってくる。その声は上機嫌なのか、激しく言い争っているのか、遠くからは聞き分けがつかず、段々に近づいてきてそのまま歓談の声になったり、喧嘩の叫びになったりする。畑のほとりの暗がりに立ち止まって長いことどなり合っていることもあり、揃って鼻歌まじりに家の中に入ったかと思うまもなくドタンバタンと取組みあいが始まることもあり、取組みあいのそばから唐突として卑猥な合唱が沸き起こることもある。しかしいずれにしても、ものの十五分ぐらいで男たちの声はぱったりやんでしまう。騒ぐだけ騒いで、ヒューズが飛んだみたいに寝てしまうらしい。
    「あんたたち、仕事、休みなんでしょう。それと今日は日曜でも出なのかい」
     黙ってそっぽを向いている寿夫の顔を老婆はさぐるようにのぞきこんだ。なんだか鍵をかけているような具合である。
    「この家のもんじゃないって、言ってたでしょう」
     と突っ撥ねたものの、いったん付いてしまった馴々しさを剝ぎ取ることができず、かえってそれらしい口調になってしまった。
    「ああ、そうだったけね」と老婆は彼の困惑をなだめるみたいにまた何度もうなずいてみせた。





  • [40] mixiユーザー

    2016年02月23日 02:18



    島尾敏雄 『湾内の入江で』


     私たち第一期魚雷艇学生二百十余名が突然のように横須賀田浦の海軍水雷学校から長崎県大村湾沿いの川棚町にある川棚臨時魚雷艇訓練所に移されたのは昭和十九年四月末のことであった。はじめそこは水雷学校の分校の性格を持たされていたが、のちに魚雷艇だけでなく震洋、回転、伏龍など特攻兵器の訓練場所にも当てられたために人員の増加をきたし規模がふくれあがって川棚警備隊となった所だ。しかしわれわれが入所した当座は、専ら魚雷艇学生のための施設だけが目立つ急ごしらえの寂しい魚雷艇専用の訓練場であった。大小の岬や島に囲まれて海外線の入り組んだ小串浦の、更に奥まった入江の周辺が敷地に当てられ、学生舎はその入江に突き出た片方の高台の上に設けられていた。つまり学生舎のある高台からは、それほど広くはないコの字型の入江とそれを囲む低地がいつも見おろせていて、本庁舎とも言うべき建物の幾楝かと、簡単な急ごしらえの桟橋に十隻ばかりの魚雷艇や内火艇が繁留されているのが認められるだけであった。まさかそこがあとでは空き地が見られぬ程も多くの兵舎が立ち並んだ場所になるなどとは想像もつかなかった。それ自体小さな岬であった高台に設けられた学生舎は、われわれがはいった時はおがくずなども片づけられぬまま木の香もなまなましい出来たばかりの建て物であった。と言うよりもまだ工事が完全に終わってはいなかった。学生たちは、その完成が待てぬ程にせかされて移って来たわけだが、入舎後もなおしばらくは仕上げの工事がつづけられていた。施設全体が間に合わせの甚だお粗末なものとして目に写り、ふと期待はずれの気分が湧かなかったわけではないが、すべてに手さぐりの状態が横たわっていて、それはむしろ私には気が楽であった。伝統ある海軍の威圧のようなものを全く感ぜずにすんだのだから。そもそも魚雷艇なるものがそれまで海軍にはなかった新設の部門であって、教官たちでさえ速成訓練を受けたばかりというその状況には、試行に伴なうどことないゆるやかさが漂っていて、私は甚だ気に入っていた。横須賀の水雷学校は気風にも施設にも重層の伝統が沈殿していて呼吸もできない環境にひしと取り巻かれていた。
  • [41] mixiユーザー

    2016年02月23日 18:19



    本谷有希子 『異類婚姻譚』
     

     ある日、自分の顔が旦那の顔とそっくりになっていることに気が付いた。
     誰に言われたのでもない。偶然、パソコンに溜まった写真を整理していて、ふと、そう思ったのである。まだ結婚していなかった五年前と、ここ最近の写真を見比べて、なんとなくそう感じただけで、どこがどういうふうにと説明できるほどのものでもない。が、見れば見るほど旦那が私に、私が旦那に近づいているようで、なんだか薄気味悪かった。
    「うーん、二人が? 俺は別に思ったことないけどなあ。」
     パソコンのことで分からないことがあって電話したついでに聞いてみると、弟のセンタはいつもの、水辺で休んでいる動物のようなのんびりした口調で答えた。
    「あれじゃない? いつも二人でいるうちに、表情がお互い似てきたとか。」
    「だってその理屈で言ったらさ、あんたとハコネちゃんのほうがもっと似てないとおかしいじゃないの。」
     私はセンタに教えられた通り、パソコンのフォルダを開きながら言い返した。
     センタと彼女のハコネちゃんは十代から付き合っているので、知り合って一年半で結婚した私たちよりも、一緒にいる時間は倍長い。
    「同棲と結婚はやっぱり違うんじゃない?」
    「違うって、何が?」
    「なんやろう。密度とか?」
     センタは写真の入ったフォルダを、カメラのイラストのある場所までドラッグするよう指示した。
    「これ、私苦手。すぐびよーんってなって、元の場所に戻っちゃうのよね。」
     案の定、二度ほどびよーんに苦戦したものの、どうにか写真をバックアップすることができた。近々、うちの冷蔵庫をネットオークションで売りたいがどうすればいいかと相談した後、私は電話を切った。似てると思ったことはない、と言われて安心したのだろう。それきり、写真のことは忘れていた。

  • [42] mixiユーザー

    2016年02月23日 23:21

     

     本谷有希子 『異類婚姻譚』 続き


     旦那に頼まれた小包を郵便局に出しに行った帰り、ドッグランのベンチに座っているキタエさんを見かけた。私が窓ガラスをコンコンと叩くと、振り返ったキタエさんが手招きするので、少し寄って行くことにした。
     うちのマンションには住人専用ドッグランがある。エントランスの張り出した屋根部分の上部にウッドデッキを敷いた、小さな公園のようなスペースだ。出入り口は二階の共用廊下に面している。
     重い鉄の防火扉を押してドッグランに出ると、
    「サンちゃん、こっちこっち。」
     キタエさんが、ベンチの空いたスペースをぽんぽんと叩いた。
    「ちょうどいい。相手をしてよ相手。どうせ暇してんでしょ。」
     キタエさんはそう言うと、自分で改良したカートを引き寄せ、背中のポケットから缶コーヒーを取り出した。紐でつながれたサンショが、いつものようにカートの上に敷かれた座布団に置物然として丸まっている。キタエさんは、犬を飼っている家と同じ家賃を払っているんだから遊ばせないと不公平だと言って、毎日昼過ぎに愛猫のサンショを、このドッグランに日なたぼっこさせにやってくるのだ。私とは三十歳近く穴れているのだが、見るからに元気で、いつも背筋がしゃんと伸びている。髪が白くなければ、五十代と間違われてもおかしくないほど肌もつやつやだ。真っ白のジーンズが私よりよっぽど似合っている。
     キタエさんとは、うちの猫を診てもらっている動物病院の待合室で、サンショの粗相を延々と相談されたのがきっかけで知り合った。うちのマンションはW楝とE楝の二楝からなるこの辺りでは珍しい大型のマンションで、そのぶん人の出入りも激しく、住人どうしの繋がりも希薄だ。私に知り合いと呼べる人は、キタエさんくらいしかいない。初めこそ、猫を無理矢理外に連れ出す怪しげなふるまいに、やや距離を置いていたのだが、お地蔵さんのように座布団の上で微動だにしないサンショガむしろ気にかかって、何度となく声をかけられるうちに、段々と話をするようになったのだ。
     私は隣に座ると、「いい天気ですね。」と言って、缶コーヒーのプルタブを引き上げた。
  • [43] mixiユーザー

    2016年02月24日 00:56


     

     本谷有希子 『異類婚姻譚』 続き


     蒸し暑さのせいで、少し歩いただけなのに、Tシャツが肌にじっとりと張りついている。
    「本当にじめじめして嫌になる、日本の夏って。」
     キタエさんは、陽の当たるウッドデッキのほうを見ながらおおげさに顔をしかめてみせた。ここに越してくる前は、ご主人とサンフランシスコのアパートに住んでいたという。若い頃購入したアパートの価格が高騰したまではよかったが、お陰で年間に支払わなければいけない税金まではね上がって、泣く泣く手放し、日本に戻ることにしたのだと、ついこのあいだ教えてもらった。
     だってねぇ、サンちゃん。買ったアパートに一年で五百万だよ、五百万。ばっかばっかしくてやってらんねぇよ。キタエさんのご主人を一度だけ見かけたことがあるが、にこにこと笑って静かに相槌を打つ、サンショによく似たお地蔵さんみたいな印象の人だった。
    「旦那と、顔が一緒になってきました。」
     サンちゃん、なんかおもしろい話ないの、と聞かれ、私はすっかり忘れていたあの写真のことをなんとなく口にした。つまらないと一蹴されるかと思ったが、キタエさんはぱたぱた団扇がわりにしていた手を止めて、「やだ。」と予想外の食いつきを示した。
    「サンちゃんとこ、結婚して何年だっけ?」
    「もうすぐ四年です。」
    「私さあ、サンちゃんとは知り合ってそんな経ってないから分かんないけど、気を付けたほうがいいよ。サンちゃんみたいな、なんでもかんでも受け入れちゃうような子は、あっという間に……かれちゃうんだから。」
     ウッドデッキを走り回っていたコーギー犬が蝶に吠えたせいで、「……」のところで聞きとれなかった。言い直してくれないかと期待したが、キタエさんは前髪を持ち上げ、またぱたぱたとせわしなく手団扇をしている。
    「写真、今度見せてくれる?」
    「あ、はい」
     それから、キタエさんはその話にはもうすっかり興味がなくなったようにカートを引き寄せ、サンショの顎をくすぐり始めた。そろそろ頃合いかと、私が立ち上がるタイミングを計っていると、キタエさんはカートの背中のポケットから、今度は小分けされたビスケットの袋を取り出した。
    「私の知り合いの夫婦にさあ、」
     はい。相槌を打って、私は慌てて浮かしかけていた腰をベンチに戻した。キタエさんがビスケットを砕きながら教えてくれたのは、こんな話だった。


  • [46] mixiユーザー

    2016年02月24日 01:01



     滝口悠生 「死んでいないもの」


     押し寄せてきては引き、また押し寄せてくるそれぞれの悲しみも、一日繰り返されていくうち、どれも徐々に小さく、静まっていき、斎場で通夜の準備が進む頃には、その人を故人と呼び、また他人からその人が故人と呼ばれることに、誰も彼も慣れていた。
     人は誰でも死ぬのだから自分もいつかは死ぬし、次の葬式はあの人か、それともこちらのこの人かと、まさか口にはしないけれども、そう考えることをとめられない。むしろそうやってお互いにお互いの死をゆるやかに思い合っている連帯感が、今日この時の空気をわずかばかり穏やかなものにして、みんなちょっと気持ちが明るくなっているようにも思えるのだ。
     よしなさいよ、縁起でもない。
     などと思ったところで、誰かがその言葉尻を捕まえて、親戚など縁起そのものじゃないか、それ以外の意味などあるのだろうか、などと言い出し話を複雑にする。縁起、縁起、とどこかから呟く声がさっきからしている。
     大方、おしゃべり好きの春寿が酒に酔ってそういうことを言う。人の揚げ足をとったり、言葉の端々に小さな皮肉を混ぜがちなのは、隙あらば人にものを教えてやろうとするいかにも元教員らしい悪癖といっていい。
     それにしても春寿とはおもでたい名前で、こういう葬式の場にはそぐわない。
     馬鹿言え。俺だって好きでこんな和菓子みたいな名ァ名乗ってるわけじゃないんだよ。
    しかも彼は、喪主なのだった。他に代わりはいなかったのか。しかし彼こそが、故人と、これもすでに十年以上前になくなった故人の妻との長子であり、葬儀には似合わぬその名も、他ならぬ故人がつけたものだった。自らの葬儀の喪主を、自ら名づけたおめでたい名の息子が務めるという。上空でか、あるいは地下でか、故人は、どう思うのだろうか。
    そんなことは分からない。その人は死んだのだ。
    子どものはしゃぐ声がどこかから聞こえ、廊下やホールに響いた。
    こんな時でも無邪気でいられ、人間の生老病死の深刻さになどふれ得ない、いやしかし、と思い直す。子どもだからといって、死者の体にみっちりと詰まって固まったような死を、感じないわけがない。いや、むしろ子どものほうこそそれを直感しているじゃないか。
    自分が子どもの頃を思っても、死者を目の当たりにした時、いやおうなしに思い知らされたものだ。
    それが誰の死だったのか、死んだ誰の体だったのか。誰であれ親戚の人間なのであれば、今お盆やポットを持ってそのへんをせわしなく行ったり来たりしている喪服姿の誰か彼かにとっても、近く遠くの親戚筋ということになる。
    縁起、縁起、とまた聞こえてくる。
    見習いの坊主が説法をさらいながら、寺に迎えにやった車でこちらに向かっていた。後部座席のかたわらに置かれた、袈裟姿にそぐわないスポーツブランドのナイロン製ミニバッグの中の携帯電話が誤作動し、さっきから葬儀会場の電話に何度も無言電話をかけていた。受話器を取った者がよく聞けば、雑音のなかにくぐもった説法の練習が聞えた。これから試験でもあるみたいだ、と運転手の男は思った。ていうか、車で迎えに行くような距離かよ。歩けよ。
    たとえば故人は、あそこで重なった寿司桶の数を数えている吉美の父であり、その横で携帯電話を耳に当て、おそらくまだ実家にいる弟の保雄に数珠をもってきてくれるよう頼んでいる多恵の父でもある。もちろんその電話を受けている保雄や、彼らの兄にあたる喪主春寿の父でもある。故人には五人子がいた。
    また子どもの声が響いた。
    小さい子どもは今年三歳になる秀斗しかいないからあの声は彼の声だ。吉美の娘の紗重の息子、だから故人のひ孫ということになり、秀斗から見れば故人は曾祖父、ひいおじいさんということになる。
    この日の朝、鎌倉から、紗重と紗重の夫のダニエルとともに車でやって来た秀斗は、実家で故人に対面し、人生ではじめて死んだ人間を見た。見たと言うより、それは出会ったと言う方が近かったろうか。秀斗は、目の前にいるのがこれまで数度会ったことがあり、ぼんやりとながらばあばのお父さん、と認識もしていた曾祖父のことだとわかっていたが、同時に自分の知っていた彼と今目の前にいる彼とは決定的に違う、ということもはっきりと感じていた。ゆうべなくなった、つまり死んだ、と聞かされたその意味を分かってはいたが、こうして目の当たりにしてみると死ぬとはどういうことなのかやっぱりわからなくなり混乱していた。とはいえ彼にとってその程度の混乱は日常茶飯事だったので、取り乱すことはなく、むしろ自分のお父さんがこんなふうになってしまった状況にある祖母吉美のことを案じていた。


  • [47] mixiユーザー

    2016年02月24日 21:21



     モーリス・メルロ=ポンティー『知覚の現象学』(竹内・小木訳)


     現象学とは何か。フッサールの最初期の諸著作から半世紀も経ったなおこんな問いを発せねばならぬとは、いかにも奇妙に思えるかもしれない。だが、やはりこの問いはいっこうに解決されてはいないのだ。現象学とはエサンス(本質)の研究であり、いっさいの問題は、現象学によれば、結局は本質を定義することに帰着する。たとえば、知覚の本質とか、意識の本質とか、といった具合である。だが現象学は同時にまた、本質をエグジスタンス(存在)のうちにそえつけなおす哲学でもあり、人間と世界とはその<事実性>から出発する以外には了解のしようのないものだ、と考える哲学でもあるのだ。それは一方では、人間と世界とを了解するために自然的態度の諸断定を停止せしめる超越論哲学であるが、だがまた他方では、世界は反省に先立って、ゆるがしがたい現存として<すでにそこに>在るとする哲学でもあり、その努力のすべては世界とのこの素朴な接触をとりもどし、結局はこの接触に一つの哲学的な規約を与えようとするものである。それは一方では、一つの<厳密学>としての哲学足らんとする野心であるが、他方ではまた、<生きられる>空間や時間や世界についての報告でもある。一方ではそれは、現にあるがままのわれわれの経験の直接的記述の試みであって、その経験の心理学的発生過程とか、自然科学者や歴史家や社会学者がこの経験について提供しうる因果的説明とかには、いっさい顧慮を払わない。だが他方ではフッサールは、その後期の著作のなかで、<発生的現象学>だの、さらには<構成的現象学>だのとさえ言い出しているのである。……性急な読者なら、こんなすべてを言いつくしたような一つの学説を限定することなど諦めてしまうことだろうし、それに、いったいみずからを定義するまでにもいたっていない哲学が、果たしてこれほど騒ぎ立てられるだけの価値があるものなのか、むしろ神話か流行のようなものではないかと、いぶかることであろう。
  • [48] mixiユーザー

    2016年02月24日 21:26



     蓮實重彦 『夏目漱石論』


     漱石をやり過ごすこと

     漱石をそしらぬ顔でやりすごすこと。誰もが夏目漱石として知っている何やら仔細ありげな人影のかたわらを、まるで、そんな男の記憶などさっぱりどこかに置き忘れてきたといわんばかりに振舞ながら、そっとすりぬけること。何よりむつかしいのは、その記憶喪失の演技をいかにもさりげなく演じきってみせることだ。顔色ひとつ変えてはならない。無理に記憶をおし殺そうとするそぶりが透けてみえてもいけない。ただ、素知らぬ顔でやりすごすのだ。それには、首をすくめてその影の通過をじっと待つ。肝腎なのは、漱石と呼ばれる人影との遭遇をひたすら回避することである。人影との出逢いなど、いずれは愚にもつかないメロドラマ。郷愁が捏造する虚構の抒情劇にすぎない。だが、やみくもの遭遇を避けていればそれでよいというわけのものでもない。漱石と呼ばれる人影のかたわらをそっとすりぬけようとするのには、それなりの理由がそなわっている。それは、ほかでもない。その漱石とやらに不意撃ちをくらわせてやるためだ。漱石を不意撃ちすること。それも、ほどよく湿った感傷の風土を離れ、人影が妙に薄れる曖昧な領域で不意撃ちすること。だが、なぜ不意撃ちが必要なのか。誰もが夏目漱石として知っている何やら仔細ありげな人影から、自分が漱石であった記憶を奪ってやらねばならぬからである。人影は、いかにもそれらしく夏目漱石などと呼ばれてしまう自分にいいかげんうんざりしている。

  • [49] mixiユーザー

    2016年02月25日 00:50



     カフカ 『変身(へんしん)』 高橋義孝訳


     ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目を醒ますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した。彼は鎧のように堅い背を下にして、あおむけに横たわっていた。頭をすこし持ちあげると、アーチのようにふくらんだ褐色の腹が見える。腹の上には横に幾本かの筋がついていて、筋の部分はくぼんでいる。腹のふくらんでいるところにかかっている布団はいまにもずり落ちそうになっていた。たくさんの足が彼の目の前に頼りなげにぴくぴく動いていた。胴体の大きさにくらべて、足はひどくか細かった。
    「これはいったいどういうことだ」と彼は思った。夢ではない。見まわす周囲は、小さすぎるとはいえ、とにかく人間が住む普通の部屋、自分のいつもの部屋である。四方の壁も見なれたいつもの壁である。テーブルの上には、布地のサンプルが紐をほどいたまま雑然と散らばっている。――ザムザは外交販売員であった。――テーブルの上方の壁には絵がかかっている。ついこのあいだ、絵入り雑誌にあったのを切りとって、こぎれいな金箔の額に入れかけておいた絵だ。毛布の帽子をかぶり、毛布の襟巻をまいた夫人がひとり、きちんと椅子にかけて、大きな毛布のマフの中にすっぽりさしいれた両腕を前にさしだしている絵である。
     それからグレーゴルは窓の外を見た。陰気な天気は気持ちをひどくめいらせた。――窓の下のブリキ板を打つ雨の音が聞える。――「もう少々眠って、こういう途方もないことをすべて忘れてしまったらどうだろうか」と考えてもみたが、しかしそれはぜんぜん実行不可能だった。なぜかというと、グレーゴルには右を下にして寝る習慣があったが、現在のような体の状態ではそれはできない相談であった。どんなに一所懸命になって右を下にしようとしても、そのたびごとにぐらりぐらりと身体が揺れて結局もとのあおむけの姿勢にもどってしまう。百回もそうしようと試みただろうか。そのあいだも目をつぶったままであった。目をあけていると、もぞもぞ動いているたくさんの足がいやでも見えてしまうからだ。しかしそのうちに脇腹のあたりに、これまでに経験したことのないような軽い鈍痛を感じはじめた。そこでしかたなく右を下にして寝ようという努力を中止した。
     グレーゴルは思った。「やれやれおれはなんという辛気くさい商売をえらんでしまったんだろう。年がら年じゅう、旅、旅だ。店勤めだっていろいろ面倒なことはあるのだが、外交販売につきまとう苦労はまた格別なのだ。そのうえ、旅の苦労というやつがあって、そればかりはどうにもならない。列車連絡の心配、不規則でお粗末な食事。それに、人づきあいだってそうだ。相手が年じゅう変って、ひとつのついあいが長つづきしたためしなしで、本当に親しくなるようなことなんかぜったいにありはしない。なんといういまいましいことだ」腹の上がなんだか少々かゆい。頭をもっと高くもたらげられるように、あおむけになったまますこしずつ体を上のほうへ、寝台の前枠のほうへずらせてみると、そのむずがゆい場所が見えた。そこにはただもう小さな白い点々がいっぱいくっついていた。それがなんであるかはわからなかった。一本の足を使ってその場所にさわってみようとしたが、すぐまたその足を引っこめた。ちょっとさわってみたら、ぞうっと寒気がしたからである。


  • [50] mixiユーザー

    2016年02月25日 00:56



    カフカ 『変身(かわりみ)』 多和田訳


     グレゴール・ザムザがある朝のこと、複数の夢の反乱の果てに目を醒ますと、寝台の中で自分がばけもののようなウンゲツィーファー(生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫)に姿を変えてしまっていることに気がついた。鎧のように硬い背中を下にしてあおむけに横たわっていて、頭を持ち上げてみると、腹部は弓なりにこわばってできた幾筋もの茶色い帯に分かれていて、その上に乗った掛け布団を滑り落ちる寸前で引き留めておくのは無理そうだった。脚は全部で何本あるのか、身体全体の寸法と比べると泣きたくなるくらい細くて、それが目の前で頼りなさそうにきらきら震えている。
    「僕の身にいったい何が起こったんだろう」とザムザは考えた。夢ではなかった。いささか小さめとは言え、れっきとした人間様の住む部屋が、見慣れた壁に四方を囲まれて、平然としてそこにある。机の上には、包みをほどいた布の商品見本が広げてあった。ザムザは外回りのセールスマンだった。机の上方の壁には、この間雑誌から切り抜いて金箔の綺麗な額縁に入れた絵がかかっている。絵の中の女性は毛布の帽子を被り、毛布の襟巻をして、背筋をすっと伸ばし、下腕を肘まですっぽり包んだ重たい毛布の腕巻きを鑑賞者に向かって突き出すように持ち上げている。
     グレゴールの視線は、窓の方に移動していった。窓枠のブリキを雨粒が打つ音が聞こえ、どんよりした曇り空のせいでメランコリックな気分になってきた。「もう少し眠って、道下の馬鹿騒ぎみたいなことは忘れてしまおう」とも思ったが、また眠るなんてほとんど実行不可能だった。ザムザは右を下にして寝ることに慣れていたが、今の位置から右を下にした姿勢にもっていくことなどとてもできそうになかった。どんなに力を入れて身体を右に振ってみても、すぐ仰向けに振り戻されてしまう。ばたばたとあがいている脚を見たくないので目をつぶって、百回は同じことを繰り返しただろうか、脇腹にこれまで感じたことのない鈍い痛みを感じ始めたので、向きを変えるのは諦めた。
    「あああ、神様」とグレゴールは心の中でつぶやいた。「なんて酷な職業を選んでしまったんだろう。あけても暮れても旅旅旅。出張先でのストレスが会社での本来の仕事をはるかに上まわっている。旅が害虫の群れみたいに襲いかかってくる。列車の乗り継ぎがうまくいくか毎回心配しなきゃならないし、食事は不規則でまずいし、つきあう友人はどんどん入れ替わって、お互い温かく心が通じ合うことなんかない。こんな生活は悪魔が持っていけばいいんだ。」上になっているお腹にかすかなかゆみを感じた。背中を少しずつ、寝台のヘッドボードの方に寄せていき、頭を持ち上げやすいようにした。かゆいところは、びっしり小さな白い点に覆われていたが、それが何なのか見当がつかなかった。脚でさわって確かめてみようと思ったが、脚が触れた瞬間、ぞぞっと寒けがしたので、すぐに脚を引っ込めてしまった。


  • [51] mixiユーザー

    2016年02月25日 18:18



     カフカ 『訴訟』 丘沢静也=訳


     誰かがヨーゼフ・Kを中傷したにちがいなかった


     誰かがヨーゼフ・Kを中傷したにちがいなかった。悪いこともしていないのに、ある朝、逮捕されたのだ。Kはグルーバハ夫人に部屋を借りていた。毎朝8時ごろには朝食をもってきてくれる料理女が、この朝は来なかった。そんなことはこれまで一度もなかった。Kはもうちょっと待った。枕に頭をのせたまま、年寄りの女を見ていた。向かい側の建物に住んでいる女で、異常な好奇心をもってKのことを観察している。だがKは、おかしいなと思い、腹もㇸっていたので、ベルを鳴らした。すぐにノックの音がして、男が入ってきた。この家でこれまで見たことのない顔だ。やせているが、がっしりしている。細身の黒い服を着ていた。旅行用スーツに似ていて、いろんなひだや、ポケットや、留め金や、ボタンや、ベルトがついていたので、どういう用途の服なのかわからなかったけれど、特別に実用的な服に見えた。「どなたですか?」とたずね、Kはすぐにベッドのうえで上半身を起こした。男は、じぶんがやってきたのは当然だというような顔をして、Kの質問を無視し、「ベルを鳴らしただろ?」と、ぶっきらぼうに言った。「アンナに朝食をもってきてもらおうと思って」と、Kは言った。そしてそれ以上はなにも言わずに、この男が何者なのか、じっくり注意深く確かめようとした。だが男は、そのままじっとKの視線にさらされることはせず、向きを変えて、ドアをちょっと開けた。そして、ドアの陰にくっつくように立っていたらしい誰かにむかって、言った。「アンナに朝食をもってきてもらうんだってさ」。小さな笑い声が隣の部屋でした。笑い声だけでは、そこに何人いるのか、はっきりしない。見知らぬ男は、あいかわらずなにも確認できないまま、報告口調でKに、「駄目ですね」と言った。「こんなこと、はじめてだ」と言って、Kはベッドからとびだし、急いでズボンをはいた。「どんなやつが隣の部屋にいるのか、見てやろう。こんな邪魔が入ったことに、グルーバハさんがどんな責任をとってくれるのか、も」。Kはすぐに気づいた。声に出して言う必要はなかったな。おれの発言によって、見知らぬ男に、いわば見張りの権利を認めてしまったぞ。だがそれも、いまは重要なことには思えなかった。どっちにしても見知らぬ男はそう解釈したわけで、こう言ったのだ。「ここにいてもらいましょうか」。「ここにいる気はないぞ。それに、話しかけられたくもない。自己紹介もしないような人間からは」。「親切で言ってやったのに」と言って、見知らぬ男は、こんどは自分からドアを開けた。隣の部屋にKは、自分で考えていたスピードよりゆっくり入った。見たところ、きのうの晩とほとんど変わりがない。グルーバハ夫人の居間だ。家具やテーブル掛けや陶器や写真がぎっしり置かれている。その部屋は、今日もしかしたら、いつもよりちょっと広かったかもしれないが、すぐには気がつかなかった。なにしろそこには、ひとりの男がいたのだ。そんな変化があったせいで、よけい気がつかなかった。男は開いた窓のところにすわっていたが、もっていた本から目を上げた。「自分の部屋にいるべきだった! フランツにそう言われなかったかね?」。「ああ、でもなんの用です?」と言って、Kは、新顔の男を見ていた目を、フランツと呼ばれた男のほうにむけてから、また目をもとに戻した。開いた窓から、またあの年寄りの女の姿が見えた。老人特有の好奇心で、ちょうど向かい側の窓のところに移動していた。これから起きることも全部見るつもりなのだ。「やっぱりグルーバハさんにこのことを――」と言って、Kは、二人の男が離れたところにいたにもかかわらず、身をもぎ離すような動きをして、前に進もうとした。「駄目だ」と言って、窓のところにいた男が本を小さなテーブルに投げつけ、立ち上がった。「出ていっちゃいけない。君は捕まってるんだ」。「そうらしいな」と、Kが言った。「でも、なぜなんだ?」と、さらにたずねた。「わけを話せとは言われていない。部屋に戻って、待つんだ。手続きはもう開始されている。そのうちすべてを知ることになるだろう。こんなに親切に話をすると、私は任務を逸脱したことになる。フランツ以外に聞いてるやつがいないといいが。フランツだって規定に違反して君に親切だろ。われわれが君の監視をすることになったように、これからも君が幸運に恵まれるなら、大丈夫だ」。Kはすわりたかったが、どこを見てもこの部屋には、窓のところの椅子のほかにすわる場所がなかった。「本当だってことが、いまにわかるさ」と、フランツは言って、もうひとりの男と同様に、Kのほうに近づいてきた……


  • [52] mixiユーザー

    2016年02月25日 19:29

    こんばんは。今駅に着きました。35分くらいに着きます。すみません
mixiユーザー
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  • 2016年02月25日 (木)
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