mixiで趣味の話をしよう

mixiコミュニティには270万を超える趣味コミュニティがあるよ
ログインもしくは登録をして同じ趣味の人と出会おう♪

開催終了特集「五世紀のヤマト政権を探る」(後編)

詳細

2009年08月12日 09:42 更新

文化講演会09
-豊中歴史同好会設立20周年・『つどい』250号記念
特集「五世紀のヤマト政権を探る」(後編)

↓ダウンロードサイト
http://toyoreki.cocolog-nifty.com/tudoi/2009/07/post-e1c6.html

■基調講演2
五世紀のヤマト政権と大王  堺女子短期大学 学長 塚口義信氏
【講演要旨】
1. 『古事記』『日本書紀』の陵墓記事と『延喜式』の陵墓記事
2. 原帝紀と大王陵の伝承
3. 百舌鳥古墳群の大王と古市古墳群の大王
4. 原帝紀のイデオロギーと二王統の確執
5. 二王統の確執と『宋書』


■岩橋千塚古墳群と紀伊風土記の丘    (会員) 草川英昭

■塚口先生と訪ねる 出雲の古代遺跡を訪ねる旅(3) (会員) 古高邦子

ククルの日記(八雲たつ国)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=975360665&owner_id=3459340

コメント(17)

  • [1] mixiユーザー

    2009年07月13日 04:27

    「五世紀のヤマト政権」という呼び方に疑問を感じます。五世紀というのは大部分はカワチ政権ではなかったでしょうか?私は河内湖と大阪湾を結ぶ堀の建設と河内の開発を基本にする河内王朝が他の地方王権に対して優位に立っていた時代が五世紀という認識なのですが、いかがでしょう?
  • [2] mixiユーザー

    2009年07月13日 22:55

    やすいゆたかさま

    コメントありがとうございます

    ここでいう「ヤマト」とはひろく「九州」や「出雲」との対比にて「ヤマト」が使われています
    毎月発行している会報『つどい』は今月で258号となり、20年間にわたるいろんな先生方
    の文献史学と考古学の論考が集積されてきたなかでのエポックとして今回のシンポジウム
    の表題が選択されました。

    畿内の古墳時代は三輪山麓の大倭・柳本古墳群にはじまって平城京北の狭紀盾列古墳
    西群から河内の古市・百舌古墳群へと変遷します。その後継体天皇の淀川水系の陵墓
    をへて飛鳥・奈良へと都がうつりました。

    その間畿内「ヤマト」と韓半島、九州、出雲、吉備の勢力との係わりが「豊中歴史同好会」
    の探求するテーマのひとつです。一方、やすいゆたかさまの御説のとおり「ヤマト」のなか
    でも勢力の盛衰があって大和(三輪山麓→狭紀盾列)→河内に移行します。
    今回の論者である塚口先生はその要因のひとつを4世紀末のヤマト政権の内部分裂に
    求められていて神功・応神伝承がキーワードのひとつです。

    この度ためしに会誌『つどい』のwebでの公開をはじめましたがご期待にそうようにコンテ
    ンツを充実していきたいと考えています。今後ともよろしくお願い申し上げます。

                                         豊中歴史同好会 ククル拝
  • [3] mixiユーザー

    2009年07月14日 14:13

     河内政権を広義の大和政権の中に位置づけるのなら、ヤマトタケル伝説とオキナガタラシヒメ伝説をつなげる必要があります。もちろん伝承ですから歴史的事実として受け止める必要はないでしょうが、ヤマトタケルの息子のヨメがオキナガタラシヒメですが白鳥の霊が葛城高額媛に入って、誕生したのがオキナガタラシヒメで、白鳥に導かれて、帯中日子命に嫁入りしたします。帯中日子命は大王から警戒されて謀反の疑いをかけられ、筑紫国で亡命政権を作ります。ところが熊襲征伐にこだわって、新羅侵略派のオキナガタラシヒメの呪いの言葉で死んでしまい、オキナガタラシヒメが新羅侵略に成功し、その勢いで大和政権を併合しました。

     戯曲化していますのでご笑読くだされば幸甚です。
    http://www7a.biglobe.ne.jp/~yasui_yutaka/okinagatarashihime/mokuji.htm



     そして息子応神天皇と仁徳天皇の時代に河内湖の治水を中心に河内政権になるわけです。ただ大和政権と河内政権のつながりは歴史的にはあいまいで、神功皇后や応神天皇は半島から渡ってきた渡来人の可能性もありえます。それは八幡神信仰にまつわる伝承からもうかがえます。
  • [4] mixiユーザー

    2009年07月15日 21:24

    パチパチパチ(拍手のつもりです)
    白鳥に託すやすいゆたかワールド楽しませていただきました
    戯曲作家の天分うらやましいです

    息長氏の本貫地は奈良と京都の境ちょうど同志社大学田辺校地あたりかも知れず、
    また近くに忍熊という地名も残っていますが
    一方、高句麗に従属した百済辰斯王を殺害した阿花王派という百済王家内部の対立
    が発端となってヤマト王権(狭紀盾列古墳群西群に属する勢力)に深刻な対立が生ま
    れ、ヤマト王家の正当な血筋であった忍熊王に対抗した神功・応神派のクーデターが
    成功して王権を奪ったということでしょうか

    >神功皇后や応神天皇は半島から渡ってきた渡来人の可能性もありえます。

    といわれるやすいゆたか様の論拠を語っていただければ嬉しいです

    写真は「白鳥埴輪」
  • [5] mixiユーザー

    2009年07月15日 22:08

    上記に関連しますが
    日時  7月25日(土)
    佐紀盾列(さきたたなみ)古墳を訪ねます

    昨年立ち入り調査の行われた五社神古墳(神功皇后)から佐紀盾列(さきたてなみ)
    古墳群を西から東に辿ります。
    いつものように中司照世先生(元福井県埋蔵文化財センター所長)にご同行を願い
    ますので暑い時期の濃くて熱い現地見学が期待できます

    http://mixi.jp/view_event.pl?id=44025798&comm_id=508139
  • [6] mixiユーザー

    2009年07月16日 05:44

    八幡神が渡来神だというのは、つい口を滑らしましたが、これから資料を集めないといけないところです。
    とりあえず、徳丸一守氏の『神仏習合』(文芸社)「第三篇 神仏習合の魁 八幡神」を読みまして、そういう可能性もあるかなということです。

    大国主が国譲りさせられたのが第一期東征、神武が第二期東征としますと、神功皇后は第三期東征ですね。北九州から来たわけですが、新羅侵略の勢いを借りているわけです。この新羅侵略を逆読みすれば、半島で新羅を征した勢力がその勢いで筑紫、大和まで征したという仮説も考えられます。騎馬民族説の影響か、そういう仮説を立てる人がいるようですね。それはだれだといわれるとまた調べるのは面倒ですが。
  • [7] mixiユーザー

    2009年07月16日 09:07

    >大国主が国譲りさせられたのが第一期東征、神武が第二期東征としますと、神功皇后は第三期東征ですね。

    神武東征と神功皇后の東征は構造的にほぼ同じであって神功皇后伝承を下敷きに
    神武東征説話がつくられたとするのが塚口義信説です
    図をみていただくとなるほどと思ってしましまいます。
    つぎに大国主の国譲り説話、建御名方の諏訪逃亡も神功皇后伝承に包含されるので
    はないかと疑っています。
    建御名方=品夜和気 としたらいかがでしょう。これは文献史料の裏づけがないので
    塚口説ではありませんが
  • [8] mixiユーザー

    2009年07月16日 09:31

    やすいゆたか様

    伊都国細石神社は此花咲耶姫、磐長姫を祀っています

    大山祗一家を鎮魂するこの歌で戯曲ひとつできると思います


    禰宜二良(櫓を執る)
       君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで
       あれはやあれこそは我君のめしのみふねかや
       うつつらがせ身骸に命千歳とゆう花こそ咲いたり
       沖の御津の汐早にはえたらん釣尾にくわざらん
       鯛は沖のむれんだいほや
    別当一良
       志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん
       香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代まで
       今宵夜半につき給う御船こそ、たが御船なりけるよ
       あれはやあれこそは安曇の君のめしたまう御船になりけるよ
       ゆるかよゆるか 汐早のゆるか 磯良が崎に鯛つるおきな
  • [9] mixiユーザー

    2009年07月16日 23:59

     歴史は繰り返すといいますから、構造が同じというだけで同一視するのはどうでしょう。それに私は、大和政権内部の対立から九州に行って、新羅侵略の勢いで大和を陥落したという方が史実に近いかもしれないという立場です。−物語的にはその方が説得力がありますね。
  • [10] mixiユーザー

    2009年07月17日 00:19

    応神天皇の時代には文化的に何の変革もありません。
    古墳を見ても分かるように前政権から引き継いでる文化です。
  • [11] mixiユーザー

    2009年07月17日 14:19

     古市古墳群と百舌鳥古墳群があって一応ヤマトタケル、仲哀天皇、応神天皇の墓は古市古墳群にあて、仁徳天皇以降を百舌鳥古墳群にあてていますが、比定にあまり科学的根拠があるわけではありません。大切なことは、河内湖の治水それにともなう堀江(大川)築造と難波津の整備、それに河内平野の開拓に大きな力が注がれたということで、堀が重要なウェイトを占める巨大古墳の建造もそのことと関連しているかもしれません。

     ただそういうインフラ整備は伝承としては仁徳天皇以降の話になっていて、そのために応神天皇と仁徳天皇を同一視する意見もあるようですね。河内王朝の創始者を軍神としての応神天皇とインフラ整備及び民生の充実面の仁徳天皇の親子に分けて表現したかもしれません。

    もちろん応神天皇の時期はまだ河内での覇権や熊襲や蝦夷に対する支配の確立に手間取って、インフラ整備が進まなかったことも考えられます。

    ではオキナガタラシヒメ(神功皇后)は?大和制覇後、正式に即位したかは別にして、大和で大王として政治をしていたと思われます。なぜならオキナガタラシヒメの死後応神天皇が即位したことになっていますから、大王になっていないのなら、応神天皇が即位していたはずだからです。ともかくオキナガタラシヒメの治世の時期に河内に宮を遷す準備をしていたのでしょう。
  • [12] mixiユーザー

    2009年07月19日 17:47

    >9
    確かに、高句麗に従属した百済辰斯王と辰斯王を殺害した阿花王派の背後にそれ
    ぞれ大和政権のシンパがいて大和政権内部で対立していた。
    とういうのが正確ですね。
    辰斯王の高句麗への降伏が391年、辰斯王の薨去(殺害)が391年。
    まさに阿花王派を押す神功・応神の名で語られる勢力が半島へ渡海した時期と
    符合します。

    写真 神功皇后遠征の旗印「三光紋」
  • [13] mixiユーザー

    2009年07月19日 17:59

    ミヤーンさんはじめまして

    >古墳を見ても分かるように前政権から引き継いでる文化です。

    大和の古墳と河内の古墳では副葬品の種類が劇的に変わると思うのですが
    ことに陪冢の副葬品に大きな変化がありますが、政治的・軍事的な支配層が
    変わったとは見ないのでしょうか。

    よろしくお願いします
  • [14] mixiユーザー

    2009年07月19日 18:34

    >>13 ククルカンさん

    >大和の古墳と河内の古墳では副葬品の種類が劇的に変わると思うのですが

    具体的に何がどう劇的に変わるのでしょうか?
    甲冑類が増えますが倭固有の物です。
  • [15] mixiユーザー

    2009年07月19日 18:40

    >11
    古市古墳群と百舌古墳群のことですが

    古事記、日本書紀の元ねたである『原帝紀』は欽明のグループによって編纂された
    『原帝紀』は欽明系王統の正統性を説くことにその目的があったため

    百舌古墳群に属する
    ・ 欽明系王統につながる仁徳・履中系の人々を是とした。
    ・ 仁徳・履中系の王統は葛城集団(のちの葛城氏)や日向、吉備の政治集団と
        深い関わりを有していた。

    古市古墳群に陵墓がある
    ・   允恭・雄略・清寧と允恭系につらなる継体・安閑・宣化(・敏達)の王統を批難した。
    ・   允恭系の王族は湖北の政治集団や三嶋の中臣氏と深い関わりを有していた。

    このように『原帝紀』のイデオロギーは、はっきり百舌と古市の勢力を色分けして語って
    いるのではないかと推測されます。

    いずれにしても大和政権内部で「忍熊王」でかたられるヤマト政権体制派を「神功・応神」
    の名で語られる反体制派が打倒して大和軽島で即位したあと(古市古墳群の)河内誉田
    地域に進出して地方河内政権の基礎を築いたと言えそうです。
  • [16] mixiユーザー

    2009年07月19日 19:02

    >14 ミヤーンさん

    5世紀はまさに甲冑類が畿内政権から一元的に供給された時代です
    百舌鳥・古市古墳群では陪冢被葬者に職掌を委ねた武器・武具集中管理体制が見ら
    れます。
    まさにこれらは倭の文化ですが、ミヤーンさんが言っておられる観点をもう少しご説明
    いただければ論点がかみ合ってくると思います。
  • [17] mixiユーザー

    2009年07月20日 09:58

    >>ククルカンさん

    5世紀は大和朝廷が積極的に大陸に出て行った時代ですから、
    副葬品にも武具が多くなるようですね。
    ただ前期古墳からも武具が出ますから、
    さほど劇的な変化という感じはしませんし、
    時代を表してるなぁという感じです。
mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!
  • 2009年12月31日 (木) 会誌webつどい258号(09.7.1)
  • 大阪府 豊中市
  • 2009年12月31日 (木) 締切
  • イベントに参加する
  • 気になる!
参加者
1人