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2009年06月26日 07:58 更新

デイサービス みんなの家〜野に咲くすみれ
http://blogs.yahoo.co.jp/minnnanoienonisakusumire

「宅老所寄り合い」、「このゆびとーまれ」等々が
20世紀末に日本に出現して20年たちます。
いまだ20年しかったっていないと
言うべきなのかは問わないとしても、
世界に誇るべき施設であることは
たしかであって、
ゆくゆくは自分はもちろん身内も、
お世話になりたいものだ、と思っています。

この浜松でもこの20年の間にそういった施設が
できているのかどうかは、
わからないのですが
気になる施設のひとつではあるのです。
それが上記のデイサービスです。

ここを知ったいきさつは省きますが
ここの雰囲気、もてなしの心を
味わいに行きませんか。
一人で行ってもいいのですが
なにぶん遠いので。

コメント(6)

  • [1] mixiユーザー

    2009年06月21日 19:00

    以下は「野に咲くすみれ」さんとのお話です。



    名前で呼ばねばならないのか?

    利用者に聞いてみればいいんじゃないの。

    痴呆を持った老人に対する家族または介護者の見方の違い、老人を此岸の人と見るのか・彼岸の人と見るのか、
    呼び方の問題等を質問しようとしたところ、
    痴呆のおじいちゃん・おばあちゃん、好きなんです。
    私たちがお世話すると言うより私たちがお世話されている・いやされているという気がする。
    純な人多いし、すぐに仲良くなれるし

    酒は飲めるのか?

    病院ではなく生活する場だから。

    心の交流を実感できるのが基本。

    あらかじめ組まれたプログラムにそってレクをするのはは好きではない。その日みんなの顔を見て決める。
    農作業をやりたい人は農作業をやればいい、食事を作りたい人は作ればいい。だから仕事が減っちゃって。自分たちが遊んでいるようなものだ。

    刺繍が好きな人は刺繍をすればいい、時間を忘れて出来るのなら、そしてそれで落ち着くのならやればいい。針が危ないと言う管理者的な発想は二義的な問題だ。

    痴呆の回帰現象みたいなもので出歩いていったらどうします?(GWの宅老所寄り合いのTVのことを話して)
    最初はついていったが今は帰ってくるのがわかっているから、閉じ込めることはまったくない。



    福祉の仕事ついてます、っていった構えがない。最初に行ったHに比べると段違い!二番目に行ったDも構えたところが少ないほうだが、ここは構えそのものがない感じがする。解体されているんだろうなあ。だって元ナースだったんだから。
    素?
    解体されて素が出てきたとはいえるのかもしれない。

    「総じてもて存知せざるなり」
    念仏をとりて信じたてまつらんとも、また捨てんとも、
    面々のお計らいなり」

    共同性はどう組まれているんだろう?
    太宰の「駆け込み訴え」のイエスとユダの関係があるのか?
    いや違うだろうな
    初期天皇制の兄弟ー姉妹の形に似ているようだ。母系制下の夫と妻の関係こちらのほうが当たっているような
    と以上ご主人を交えた楽しい2時間でした。
    (感じたまま書いたもので、記録的な性格はまったくありません)

  • [2] mixiユーザー

    2009年06月22日 22:18

    僕とTさんと2人で6/25に行くことにしました。
    Tさんは2人目の内定者で有玉のショー規模多機能施設だそうです。
    当分浜松にいられそうでうれしい限りです。
  • [3] mixiユーザー

    2009年06月26日 18:49

    昨日はびっくりしました。
    えーこんなとこがあるんだー!

    帰りの車の中ではうまく言葉に表せないもどかしさと
    しかし、体験したんだよねと言う確認をTさんと共有しながら家路に着いたのでした。
    堅苦しい・息苦しい「福祉」は解体されてるよ、これ意識的にしない限り無理だよね。
    看護師にして介護師そしてケアマネの資格獲得
    の過程で、がんじがらめに刻み込まれ理念化されている
    硬い小奇麗な福祉のイメージを解体しないかぎり、
    こんな「あけすけな気持ちよさ」は
    絶対に現れないからね。

    それ以上に驚いたのが生活相談員のSさん、
    画一性ではなく個別性・その人にあった具体性が言葉でも介護の仕方でも絶対必要とされている。
    足腰立たなくなって呆けても他の施設に行くなら自分ひとりでいる方がいい。ここならまあ合格かな・・・
    Oさんと同様理念の解体を
    いろいろな介護体験・生活体験に裏打ちされている言葉として聞くことが出来た。

    ぼくは来週も行くつもりです。
    それとオカリナの音色、とこのリズム感は自分の体の波長に合うように感じてわるくない、いいです。
    少し前に「仰げば尊し」の物悲しいメロディを口ずさんでいたことがあったが、これをオカリナでやればいいのになあ。スピーカーの近くで聞くと転がるようなリズミカルな感じがする。
  • [4] mixiユーザー

    2009年06月26日 18:51

    昨日の感想


    言葉と交流の深さ(相手をどこで受け止めようとするのか)の問題。
    上の後半の問題、「残存機能」をひきだすとは?
    この二点を考えさせられました。

    <脳梗塞後数ヶ月ぶりのおばあさんに対して>
    死んじゃったかと思ったよー。よかったねえ、元気になって。
    あの世に行っちゃったかと思った。
    話そうという意欲はあるから治っていくよ。(翻訳しようという意欲はあるよ、精一杯理解してあげる)
    右麻痺だけど手をたたこうという意欲はあるからなおるよ。
    <常時歌っているおじいさん>
    伴奏をつけてみんなで歌ったり、輪唱のようになったり。
    歌う歌のレパートリーが少なくなってきたねえ、前と比べて。

    <画一的に取り扱われるならお客さんの方がいい。
    しかし
    お客さんより生活者として付き合ってもらいたいね>

    規制の在る家庭から、規制のない「みんなの家」にやってきた。
    画一的な流れ作業で介護を受けるなら一人でいる方がいい。
    生活者としての自分を解放していいんだよ、それを支える場所だから。
    やりたいのならやって下さい。やりたいのにやれないのならあなたを基準にサポートしますよ
    それぞれ意欲行動をもった姿として現れるのは当然だ。
    具体的個別的な顔をもち別々の意欲を持った人

    画一的な流れ作業だと相手の個性を問題にしない。画一的な対応、画一的な言葉。(名前をちゃんと呼ぶこと)

    相手の存在をまず前提にして心の交流を目指す。

    自分を持ちながら、自分の違う領域を持ちながら
    Aさんは病気、Sさんはミュージシャンであり、さんは
    蚕・機織である。
    二人のおばあちゃんたち
    飯の準備、洗い上げ、洗濯・物干し・たたむ、自発的にやっている。

    職員が楽になる。
    「過剰労働をしていない。利用者の残存能力の活用・引き出し」
    もともと利用者の生活サポートのためにここはある。
    Xさんの生活能力を引き出しそれを支える。

    危ないからやらなくていい、私がかわりにやるから。
    これは年寄りにとっては苦痛である。
    「あなたがやってくれるの、助かる。ありがとう。とのほほんとしていられる老人は少ない。」
    出来ることは自分でしたいと思っている。出来る上で、やる・やらないと言う選択肢があるのが自由ということだ。ここでやってもらえばありがとうと言える。
    しかし
    自分で出来なくなった、が自分でしたい、
    何とかやりたいものだと思っている段階で
    「やってあげる」といわれやってもらったとする。
    そしてありがとうと言う言葉が自然に出るかと言うと
    なかなかでないものだ。負担に感じる、心苦しい。


    やってくれる家族は自分の役目とは思ってなくて「やってやった」としか思わない。それも察して無限に無限に両方で気を使ってと言うことも有り得るのでそれは決して自由ではありません。やってやる・面倒だな・わずらわしいと思うだろうしそう思うほうが当たり前だ(隆明さんラスト8行参照)
  • [5] mixiユーザー

    2009年06月26日 19:05

    周りの風景
  • [6] mixiユーザー

    2009年06月26日 19:07

    記念写真
mixiユーザー
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