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開催終了ジュディス・バトラー講演 予習の会

詳細

2005年12月15日 20:50 更新

17日の予定でしたが18日14時からに変更します。
(読書会は17日のままです。)

また、場所は、新宿二丁目のジョナサン新宿御苑前店
にいたします。

現在考えてる内容は、
1.バトラーってどんな人
2.30分でわかる「ジェンダー・トラブル」
3.「Undoing Gender」
です。

発表したい人、募集です。

コメント(28)

  • [2] mixiユーザー

    2005年11月30日 23:57

    大変申し訳ありませんが、日時・場所を変更いたします。
    18日14:00より、新宿2丁目のジョナサンで行います。
  • [3] mixiユーザー

    2005年12月01日 02:45

    どうもお手数をお掛けしました.
    どうぞよろしくお願いします.
  • [4] mixiユーザー

    2005年12月01日 03:18

    30分でわかる「ジェンダー・トラブル」!? それはすごい企画ですね! 参加させてください。
  • [7] mixiユーザー

    2005年12月01日 08:02

    是非参加させて頂きたいと思います。宜しくお願い致します。
  • [9] mixiユーザー

    2005年12月02日 21:43

    参加の意思表示ってPCからするんですね。すいません、何かまだmixiによくなれていなくって...
    改めて宜しくお願いします。
  • [11] mixiユーザー

    2005年12月09日 01:13

    参考資料
    ・別冊アイデンティティ研究会創刊予告・上期 (クイアとは何かについて知り上で、大変よい本です。アカーが出しています。前に紀伊国屋書店新宿本店でもみましたが、今あるかはわかりません。アカーから入手できるかもしれません。)

    ・平凡社 上野千鶴子対談集 「ラディカルに語れば」
    竹村和子先生との対談部分。バトラーの「ジェンダートラブル」のたぶん一番わかりやすい解説。
    勉強会の前にこれだけは読んだほうがいいかも。

    ・現代思想 2000年12月号 特集 ジュディス・バトラー 
     竹村和子+冨山一郎「バトラーがつなぐもの」

    ・Undoing Genderのレビュー
    http://www.genderforum.uni-koeln.de/illuminating/review_schulz.html
    で読めます。短くまとまっています。

    以上のどれかにつき、レジュメとか作ってくださる方がいらしたらとてもうれしいです。
    ご連絡ください。
  • [12] mixiユーザー

    2005年12月11日 00:28

    一応,すべて落手しました.
     最後のレヴューだけは英文ですし,一月の講演内容と密接に関係するものだと思われますので,最低限これのレジュメの準備だけは必要ですかね.
     17日の研究会の予習との兼ね合いもありますので,絶対に作成してくるとは確約できませんが,可能であれば,自分が作ってきます.もちろん,他にやってくださる方がいらっしゃるのであれば,お任せしますが.
  • [13] mixiユーザー

    2005年12月11日 01:24

    おや痔@('A`)さま
    >7日の研究会の予習との兼ね合いもありますので,絶対に作成して>くるとは確約できませんが,可能であれば,自分が作ってきます.

    ぜひぜひお願いします。
  • [15] mixiユーザー

    2005年12月14日 20:59

    >各位
    レジュメ形式で報告するのはどうも苦手ですので,
    レヴュー全文ををシコシコと試訳しております.
    現在までで約四分の一訳し終わりました.
    最後まで訳し切れるかは微妙ですが,
    あんまり期待をせずにお待ちください.

    >悶吉さん
    残念ですが,しようがありませんよね.
    後日,担当分の試訳を送らせていただきます.
  • [16] mixiユーザー

    2005年12月14日 21:47

    >おや痔@('A`) さま
    うれしい!

    >悶吉さん
    残念ですね。読書会でお会いしましょう。

    >Botchさん
    ご都合大丈夫ですか。

    >けっちさん
    予習の会にこられるご予定でしょうか。
    もし、この書き込みご覧になってたら、ご確認いただけますか?

    他の方々も、是非ご参加下さい。
    当日参加もOK です!

  • [18] mixiユーザー

    2005年12月14日 23:35

    >各位
    どうやら,この勉強会に間に合うように,サリーさんの研究書の邦訳が刊行されたようですね.

     http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4791762258/qid=1134570836/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-5853156-0641815
  • [19] mixiユーザー

    2005年12月15日 19:50

    >ぱちぱちさん
    十八日ですよね?大丈夫です。宜しくお願いします。
  • [20] mixiユーザー

    2005年12月15日 20:47

    18日14時からです。

    そして場所は、ジョナサン新宿御苑前店
    (場所は新宿二丁目ですが、正式名は「新宿御苑前店」だそうです。

    http://r.gnavi.co.jp/brand/jonathan/2004744m.htm
    で地図が見えます。
  • [21] mixiユーザー

    2005年12月17日 11:59

    すごーい。ありがとうございます。
    サリーちゃんの本、買いました。
    とりあえず、訳者(竹村和子先生)のあとがきだけ、読みました。ナイスです。みなさんもできればお読みください。
  • [22] mixiユーザー

    2005年12月18日 01:59

    今日はジョナサンの外にいればいいのですか?それとも中に?
  • [23] mixiユーザー

    2005年12月18日 11:05

    中にいてください。
    私は2時には中にいるつもりです。
    バトラーの本とかテーブルに置いておくので、すぐわかると思います。

    それでは、お待ちしてまーす。
  • [24] mixiユーザー

    2005年12月18日 11:14

    了解しました。
    宜しくお願いします。
  • [25] mixiユーザー

    2005年12月20日 19:53

     こんばんわ.先日のオフ会の際に,ご指摘いただいた点を踏まえて,訂正してみました.どうぞよろしくお願いします.

    1.『Undoing Gender』とは,ジェンダーとセクシュアリティとについて,彼女自身の言葉で言えば,「性的でジェンダー化された生を厳しく規範化する観念を緩やか[不能]にする(undo)とは,いったいどんなことを意味しているのか,という問いについて」(本書1頁)の,バトラーによる最近の11本の投稿論文を集めたものである.本書のタイトルにおいて,以後におけるバトラーのパースペクティヴ内部での僅かな変化を見て取ることができる.彼女の記念碑的な研究である『ジェンダー・トラブル』(原著1990年)が,ほとんどの箇所で,いかにしてジェンダーがパフォーマティヴ(行為遂行的)に反復されているのかということについて研究しているのだとしたら,本書ではむしろ,いかにしてジェンダーがつねに不可能なものとされているのかということに焦点を当てている.ジェンダーについての二項的な観念を破壊しようするあり得べき企てを説明するために,彼女が採り上げる争点は,トランスジェンダー・アイデンティティやトランスセクシュアリティ,ゲイの婚姻,親族関係の新たなる配置から生じる諸問題といったものが孕んでいる社会的・政治的な含意,さらにはフェミニズム/クィアの精神分析と哲学の枠組みの内部についてのそれらの立場と,について関係している.これらの論文のほとんどにおいて,彼女は,個人の自律と社会的規範を御すこととの間にある,継続的でしばしばアンビヴァレントなやり取りについての問題点を説明している.彼女が説明しているように,その考察はつねに「何が生きられる生の可能性を最大化するのか,耐えがたき生,すなわち,実際には社会的な,あるいは文字通りの死の可能性を最小化するものは何であるのか,という疑問によって導かれている」(8頁).バトラーが本書において強調しているのは,「人権」というものが,いかにして排除の危険性,さらに悪いことには,(それに)服従し損ねた人々を劣位に置くことになるという危険性,をしばしばもたらすことになるのか,ということである.

    2.序論のタイトルは,「朋に活動すること」であり,集団的な政治的アクティヴィズムを願うことと,以下の四つのカレント・トピックスをめぐる続章の主要な関心をまとめようする試みと,を示唆している.それらのトピックスとは,以下の通りである.?近時のトランスジェンダー/トランスセクシュアル・ポリティクスがジェンダーの観念について及ぼす影響,?多くの西欧国家において,ゲイの婚姻を立法化することがもたらす論争的な帰結,?〈象徴界〉のヘテロノーマティヴな構造がもたらすと言われている不可避性に対して向けられている,セクシュアリティとジェンダーとついての新しい精神分析的アプロウチ,?ジェンダー・ポリティクスの内部での最近の発展がアカデミズムに対して有している関係.バトラーにとって,これらの争点を結び付けているのは,「人間」として考慮されるのは誰なのかということについて,我々が考えていることに対して,これらの争点が有している関係なのである.彼女が述べているように,「人間というものは,ハッキリとは把握されていない.そのカテゴリーがやがては組成されるのだということ,それが広い領域のマイノリティを排除することを通じて機能しているということは,その再分節化がまさに,排除された存在がそうしたカテゴリーへと,そして,そこから話しかけるという点において始まるだろうということを意味している」(13頁).これこそがまさに,彼女が本書を通じて引き受けようとする企てなのである.

    3.第二章「自分自身を離れて:性的自律の限界について」では,バトラーは「包摂的変容」という自らの観念について説明している.それは,本書において繰り返し示されている概念であり,彼女はその観念を以って,以下のことをつねに批判的に混乱させるものについて理解しているのである.それは,「固定化された知や知り得る現実になってしまうものであり,遍くノルムにたんに同化されてしまうこと以外の何かが起こり得るようにし,こうしなければ不可能で理解できない主張をなすために,人の非現実性(unreality)をあたかも用いるのだ」(27頁).バトラーはここで,統合の倫理というものに断固として賛同する.そこでは,個人の自律と社会的承認との主張が,自我と他者との間の生産的で変容的な対話を終わらせるのではなくて,永続させるのである.彼女は,そうした統合的プロセスが可能なのは,「人が他者に囚われることで,自分自身から離れるということの価値を受け容れ,欲望の軌道に自らを見出し,そこで人が自らの外部に立ち,推定上の中心とはならない他者の領域の中に不可逆的に再配置される時である」(25頁).人間の社会性のこうした構造に気付くことが,それがしばしば有している限定的なキャパシティを注意深く再考するための必要条件となるのである.

    4.それに続く章である「ジェンダーの規制」において,以下のように指摘することで,バトラーはジェンダーとセクシュアリティとに関する文化的な分析と心理学的なそれとの間の,いかなるクリアー・カットな区別に対しても反対するのである.すなわち,どのようにして,ラカン的な〈象徴界〉がむしろ「社会的実践の澱(おり)」(44頁)だと看做し得るのか,そして,それがオイディプス化された家族構造を主張することを通じて,文化上のヘテロノーマティヴィティを永続させるのだ,と指摘することによって.「換言すれば,〈象徴界〉の〈法〉にはあがらい得ないのだということを支えている権威的な力とは,それ自体が〈象徴界〉の〈法〉,すなわち,あたかも明白で逆らいようのないような〈父〉の〈場〉という高次の審級なのである」
    (46頁).親族体系のオルターナティヴな形態を理論化することをなるべく考慮しないことで,精神分析は,それ自体が記述していると主張する〈法〉を(再)生産することに寄与することになる.徹底した社会批判のために,欲望のトライアングル化といった,精神分析が提供する道具の内のいくつかを受け容れる一方で,バトラーは「精神のクィア・ポスト構造主義」(44頁),および以下の「クィア・ポスト構造主義」に賛同する.すなわち,ジェンダーとセクシュアリティとを認識上分離することを含んでいるジェンダー(そこでは一方は他方に従わない)だけではなく,クィア・セクシュアリティにおける,その脱文脈化を通じて,ジェンダーに想定されているヘテロノーマティヴで二項的なありようを侵食するということである.

    5.続く二つの論考である「他者に正義をなすこと」および「ジェンダーの脱診療化」は,朋にトランス・ポリティクスの問題に向けられている.医療言説だけなく,法言説においても存在している,トランスの当事者たちを病理化し,ヘテロノーマティヴィティに同化しようとする治療法について立証する二つの事例を示すことで,バトラーはトランスジェンダーが関係していることについての様々に異なった概念化から生じている,互いに対立する衝動の存在を,説得的に強調し目立たせるのである.二項的なジェンダーという観念を複雑化し混乱させることよりもむしろ,その者たちの人生や要求が,生まれつきで一貫したジェンダー・アイデンティティということの「証拠」として,しばしば採用されている.バトラーが描き出す一つの問題は,「性転換手術(ママ)」のための費用を受け取るために,個人の「所与の」ジェンダーに身体を適合させるための手術によって治療され得る,精神病理的な疾患としての「トランスジェンダー化されたアイデンティティ」という見方に,人が文字通り同意してしまうのだ,ということである.ゆえに,個人の自律は,さもなければ身体とジェンダーとの間に存在すると思われている一貫性に対置させられた,その人自身の「変則性(abnormalcy)」に賛成することを要求することになる.

    6.「親族体系とは,つねにヘテロセクシュアルなものなのか?」という章において,バトラーは「結婚」したカポーに法的権利を付与することが,オルターナティヴな家族形態に生きる人々に対して及ぼすことになる帰結について考察するための出発点として,ゲイの婚姻の立法化のことを採り上げている.一方でホモセクシュアルのカポーに対する社会的承認と法的平等とを達成することと,他方では他の性的布置を不可視化することなしに,そうすることとの間にあるディレンマが,ここでのバトラーの主な問題関心である.彼女の議論は,深く考えられたやり方でこの問題を強調しているし,彼女の指摘の内のいくつかは,退けることができないものである一方,私見によれば,ゲイの婚姻に関する議論は,こうした(制度の)進展が個人に課すことになると言われている想像上の非制度的な性質に,しばしばあまりにも焦点を合わせ過ぎている.バトラーの見解では,「セクシュアリティがつねに婚姻の観点から考えられている,というようなやり方で,性の領域が制限されているのだ」(106頁).評者は,制度化された婚姻が,本当に個人のセクシュアリティについての観念に対する権力を有しているのかということについて,疑問に感じている.ゲイの婚姻が,さらに想像し得る親族体系や家族形態について考えてみるための新たな可能性を,本当に予め閉ざしてしまうことになるのか.あるいは,そのことがむしろ,親密さを構成することについての更なる概念化を切り拓くということになるのだろうか.たしかに,より包摂的で偏りの無いポリティクスに賛同することは,重要ではあるが,(その主張と)ヘテロセクシュアルではない(家族)形態に対しての立法上の新たな選択肢に反対することとは異なるのである.

    7.続く章では,バトラーは,その記念碑的な研究である『ジェンダー・トラブル』において,自らがすでに示していた諸問題について,さらに詳述している.彼女は,その公刊以来,生じてきた批判的な対話に対して,ときどき驚くべきでかつ個人的なやり方で関わっているのであるし,そのことは,彼女が没政治的な哲学者だとつねに攻撃されることに対しての応答として用いられる,(彼女の)伝記的記述に基づいた,新たなレトリックの一部であるように思われる.ゆえに,バトラーの批判的研究の主なポイント,すなわち,ヘテロノーマティヴィティと,それがそれ自体の成したことを自然化しようとする方法のみならず,人間の社会性を構築する効果とを理論的に最新のものとすることに加えて,わたしたちはここで,より伝記的記述に基づいた議論を見出すことができる.いくつかの章における焦点や想定されている名宛人は変化している一方で,諸章の主題を互いに区別することは,つねに容易いことではない.なぜならば,前景化された言説とは,批判的な同盟者(の存在)を通じて,改善されるのであるし、いずれにしても分割するのは困難であるからだというだけではない.各々の論考は異なる事態に向けて書かれたものであるし,したがって,いくつかの鍵となる問題関心が,本書を通じて繰り返されているからでもある.

    8.本書の前半部分で論じられている「新しい争点」に頼るだけではなく,自分自身の著作への批判に応答することで,「承認を求めること」,「インセスト・タブーの困惑」,「性的差異の終焉」,「肉の告白」,「社会変革の問題」(の各章)は,以下の項目についての言説の交錯と断絶と(いう問題)に取り組んでいる.すなわち,精神分析と哲学や,パフォーマティヴィティ(行為遂行性),表象=代表と解読不可能性(illegibility),身体と言語,フェミニズム,セクシュアリティとジェンダー,である.自らに対する批判者たちに直接向けて,彼女は,自分にとって,ジェンダー,フェミニスト/クィア研究における中心的な問題だと思われるものについて述べている.すなわち,

     フェミニズムの探求を引き起こす問いとしての性的差異とは,完全に述べられていたり,言述(statement)の文法を乱したり,多かれ少なかれ永久に問いを続ける何かのことである.もしも人がそうした言葉を問うのだとすると,このことは,そうした言葉をもうこれ以上は用いることができないのだ,ということを意味しているのか.そのことが意味しているのは,こうした言葉が我々の直面する困難,すなわち,政治的議論のための,いまだ調べ尽くされてはいない前提にしか過ぎないのではない,ということでしかないのだ(178-9頁 原文の省略記号は省略).

    バトラーの主要な関心は,ヘテロノーマティヴなジェンダーとセクシュアリティとについての観念を動揺させる,ということに止まっている.しかし,彼女の著作に対する多くの批判者たちが信じていることに反して,彼女の主題に対するアプロウチの仕方が,没政治的な主意主義を導くのではなくて,むしろ彼女の脱構築的な起動力が,以下の言説の文脈を考慮することになる.その文脈において,フェミニズムの探求が位置付けられ,またそれと同時に,これらの言葉が突き詰められる必要があるのだ.


    9.本書を締め括る論考である「哲学の『他者』は語ることができるのか?」は,本集成の中では,ジェンダーに関してもっとも関連していないものである.バトラーの見解によれば,哲学という学術部門の外部で次第に起こりつつあるのは,批判的・哲学的探求の変容しつつある輪郭についての個人的な省察なのだ.彼女自身だけではなく,その著作もまた哲学アカデミズム・プロパーの内部での場所をしばしば拒絶されているので,そして,こうした事態は彼女がフェミニズム研究における他のビック・ネームたちと共有している運命なのであるが,彼女は人文学の諸学の内部において増えつつある繋がりを喜んで受け容れる.この繋がりは,「陰にいる人々のための極めて重要な問いを提出することで,(学問の)孤立化の壁を越える特別な思考の運動というような,学問の領域間を跨る,非常に多くの予期せぬ対話を生じさせるのだ」(250頁).ここでもう一度,バトラーは排除された人々の立場から語っているように見えるが,このことは,批判的な距離,さらには人を感動させる態度を取るための余地をもたらすことで,構造的制約を過去のものとする可能性を,皮肉にも彼女に対して与えている.

    10.本書に収められた諸論稿は,これまで述べてきた批判にもかかわらず,バトラーが(フェミニズム)哲学内部において,影響力が強く,論争的な位置をなぜ保っているのか,ということをもう一度明らかにしている.彼女は,人権がかかわる数多くの領域に協力し,政治的にも精力を注いでいるように思われる.どこかで妥協してしまうということに彼女が抵抗していること,人自身の立場についてつねに再考し続けることを彼女が主張することが,彼女を貶めることを難しくし続けている.けれども,彼女の哲学的・政治的な(理論)枠組みについて考え抜いてみれば,このことは明らかにただただ一貫している.評者が本書に見出した,大して重大では無い不備とは,(内容の)繰り返しが多いということであるが,それはきっと,(本書が)単行書(a singular book)だというよりは,むしろ論文集であることによるのであるし,しばしば不釣合いなほどに織り込まれた自伝的記述にもよる.バトラーの個人的な状況は,たしかに興味深いし,しばしば感動的ですらある.そして,この状況が彼女の議論の明晰さや真摯さを損なうものではないという一方で,この文脈においては,彼女が他の場所では壊そうとしていた神話を創り出すことになる.しかし,本書の一章を真似て言えば,本書評において,「バトラーに正義をなすこと」はほとんど不可能であるし,『ジェンダー・トラブル』と『問題=物質となる身体』といったような以前の著作において,すでに示されている問題関心についての,社会的に重大で,さらに解り易い(研究の)継続的な試みとしての本書は,強く薦められるべき書物である.
  • [27] mixiユーザー

    2005年12月20日 20:56

    >けっちさん
    ちょwwwww,そんなの当たり前wwwww!
  • [28] mixiユーザー

    2005年12月20日 21:14

    18日はありがとうございました! 勉強になりましたぁ
    そうだった ぱちぱちさんにメールするお約束でした あのあといきなり仕事でバタバタしてしまって も〜しわけない。m(_ _)m
    ともあれ 今後ともよろしくお願いします。
mixiユーザー
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