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開催終了罪と罰 

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2010年07月21日 18:47 更新

あらすじ

ドストエフスキーの代表作のひとつ。日本をはじめ、世界の文学に決定的な影響を与えた犯罪小説の雄。歩いて七百三十歩のアパートに住む金貸しの老女を、主人公ラスコーリニコフはなぜ殺さねばならないのか。ひとつの命とひきかえに、何千もの命を救えるから。
「善」のために人を殺すことの罪が問われる作品。主人公ラスコーリニコフは、一方では、貧しい人々には親しい感情を抱いているのだが、もう一方で、「天才は凡人の権利を奪う権利がある」という傲慢さを抱いている。そこで、金貸しの老婆を殺しても罪の意識を感じない。

『罪と罰』亀山邦夫翻訳者による解説

老婆アリョーナは弱者か?という問題である。下町に巣くうみずぼらしい金貸しとはいえ、貧しい大学生達を食い物にする「強者」ではないか。
強欲で意地が悪く、「誰の役にも立たないばかりか、かえってみんなの害」である。「あの金貸し老婆を殺せば、みんな救われる」というラスコーリフニコフの理屈はまさに「ある種の肯定されるべき「善」があれば、人を殺すことは許される」独善的な観念からきている。私はそこに、ドストエフスキーの原点を見る思いがする。すなわち、ドストエフスキーが10歳のときに観て衝撃を受けたシラーの映画「群盗」のテーマである。
「群盗」の主人公カールもまた、?正義のため、領民の幸福のために?との思いから領主を襲い、死に至らしめる。
しかし、物語は一筋縄ではいかない展開をみせる。老婆の義理の妹のリザヴエベータをも、行きがかり上殺してしまうのである。リザヴエベータは「神がかり」(従来、聖痴愚等と呼ばれてきたのを、私はこう訳した)であった。「神がかり」とは社会のルールや通念にとらわれず、ときおり常軌を逸した言動を示し、ロシアの民家から「神に近い者」として深く敬われてきた存在である。
従来の解釈には、ラスコーリニコフは「みんなの害」になる金貸し老婆を殺したことに「罪の意識」を感じていないが、「神がかり」を殺したことには感じている筈だ。という見方がかなりある。つまり、聖なる女性を殺すことでラスコーリニコフは、法的な「犯罪」よりも、神に対する「罪」を自覚するようになったはずだ、というのである。しかしそれは必ずしも正しいとはいえない。意地の悪い金貸しであろうと、聖なる(神がかり)であろうと一個の命の重さという点からは同等であって、そもそも他人の生命を脅かす行為そのものが問題なのである。反抗の現場でのラスコーリニコフは、殺した相手を選別していない。二人を殺した後でも、罪を罪とも感じるような、あるいは犯罪を罪として内在化させる動機は生まれてこない根本の所で何か大切なものを欠落させているという、ひどく病的な印象を受ける。
中略
ラスコーリニコフは、自分が殺した事実を正しく認識しながら、それによって受けるべき「罰」について根源的な実感を持つことも、経験することもない。
中略
?みんなのために?老婆を殺したラスコーリニコフと、罪を罪として自覚できないラスコーリニコフには随分落差があるように感じられるだろう。実際彼は完全に二つに分かれているのである。一方に庶民や周囲の貧しい人々に対して、人間的な優しい感情を抱き、他人に対する無関心に塗り固められたラスコーリニコフがいる。その意味で、ラスコーリニコフという名前は象徴的である。直接的には17世紀のロシアでロシア正統派の決議に反対し、分離させられた人々(これをラスコーリニキ・分離派という)に由来するが、もともとは「叩き割る」「分裂」という同源である。つまり、名前そのものからして、ラスコーリニコフが二つに分かれた人間であることを表しているわけである。

『罪と罰』と人殺しの悪夢・亀山邦夫談(悲劇のロシア)より

蛇足となることをおそれず、ひとこと書き添えておきたい。
だれでもあることなのかもしれないが、私は夢の中で自分はかつて人を殺したことがあるという記憶をずっと引きずってきた。最近でもひと月かふた月に、一度は必ずそうした類の夢を見る。この夢の源になるのは何なのかとしばしば考える。
小説の経験を通して読者が主人公に乗っ取られる、端的にラスコーリニコフに成り代わるという経験は、ひょっとすると現実に人を殺すということと同じくらいの意味の深さを持ち始めてしまうのではないだろうか。あの『罪と罰』の老婆殺しを読んだ中学2年の夏の朝、周囲に警察が張りこんでいまいかとびくびく見渡したときに、私は、自分が人を殺したのと同じくらいのレベルにまで、ラスコーリニコフに同一化していたのかもしれないと思う。読書を通しての殺人の経験が意識の奥に蓄積され、人を殺したいという遠い記憶として、今もしばしば夢の中で反芻されるのではないかと考える。

仮に『罪と罰』という小説に、大きな犯罪抑止効果があるとしよう。
この物語は、人を殺したり、あるいは人を殺すことによって世界から切り離されることの孤独を、このうえない迫真性をもって教えてくれる。だから、『罪と罰』はできるだけ早く若いうちによんだほうがいい、と私はいいたい。しかしひるがえって、人間が人を殺さずに生きることが、『罪と罰』のような本を読む経験を通じてしか保障されないのだとしたら、我々はなんと恐ろしい瀬戸際を歩きつづけていることになるのか。ラスコーリニコフがまたぎ越した一線は、いや、人を殺すという経験と、人を殺す夢の間に横たわる一線は、われわれとは無縁の遠い地平線ではない。それは恐ろしいほどの近さにある。逆にある意味で、かつて人を殺したことがあるという悪夢は人間が人を殺さずに生きていくための一つの試練であり、それに耐え切ることこそが人間としての証とはいえないだろうか。




http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E5%B1%B1%E9%83%81%E5%A4%AB



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