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2011年08月12日 15:59 更新

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コメント(3)

  • [1] mixiユーザー

    2011年11月11日 21:38

    ・日野富子の墓

    ・所在→京都府京都市上京区行衛町440(華開院)


    〜コメント〜

    日野富子の墓。富子は室町幕府第八代将軍足利義政の正室で16歳で義政に嫁し、

    女子2人を生んだが義政の後継者となるべき男子の誕生をみなかった。このため

    義政は出家して浄土寺門跡となっていた弟の義尋を還俗させ、名を義視と改めて

    継嗣とした。しかし翌年になるとはからずも富子に義尚が生まれたため、将軍継嗣を

    めぐる富子と義視との対立確執が生じ、富子は後援者として山名持豊(宗全)を頼り、

    義視は細川勝元を頼ることになった。さらに斯波・畠山の管領家の家督争いもからみ、

    これが原因となって応仁元(1467)年に応仁の乱が勃発した。乱の最中に義視が

    西軍に出奔したため、義尚が正式に継嗣と定められ、ついで文明5(1474)年に

    義政の跡を継いで義尚が九代将軍に就任した。しかし義尚は当時わずか9歳に

    すぎず、義政は現実から逃避してもっぱら遊興にふけり、政務に対する興味と情熱を

    失っていたため、富子が義尚の後見人として直接政治に関与するようになった。

    このため、当時天下の政治はすべて御台(富子)の意のままであるといわれるほど

    であった。富子はまた政治に関与するばかりではなく、蓄財にも積極的に励み、

    打ち続く戦乱で窮乏した諸大名に高利で金銭を貸し付けたり、米相場に介入して

    暴利を得たり、京都七口などに関所を設けて関銭を徴収するなど、さまざまな

    手段を用いて莫大な財貨を蓄積していった。こうして富子は将軍義尚の後見人

    として絶大な権勢をふるったが、あまりにも政治に介入しすぎるため、文明15

    (1483)年頃からは頼みの義尚とも次第に不和となっていった。延徳元(1489)年に

    義尚が近江の陣中で没し、翌年に義政も没すると、かつて将軍継嗣をめぐって

    争った義視の子の義材(のち義稙と改名)を迎えて第十代将軍としたが、義視・

    義材親子との対立はこれで終止するようなものではなく、明応2(1493)年には管領

    細川政元とはかってこれを退け、かわりに義政の末弟である堀越公方足利政知

    の子・清晃(のち義澄と改名)を還俗させて第十一代将軍とした。明応5(1496)年に

    57歳で没したあとには「七珍万宝」といわれる多くの遺産が残されたという。しかし

    ながらその晩年は必ずしも幸福であったとはいえず、家族的には孤独で不遇

    であり、ときの将軍足利義澄は葬礼にも臨まなかったという。
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