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開催終了第13回月イチ金曜会(2008.6月度)

詳細

2008年06月18日 12:45 更新

この文面は「月イチ金曜会」世話役(顔役)神農了愛さんのものだと推測して転載致します。『背骨のパトス』というドキュメンタリー映画の監督である松岡奈緒美さんがゲストでお見えになります。今、聞いているこのワークショップ関連の方のドキュメンタリーは他者を追うということをしているようですが、その困難さを各々の現場で各々がかなり実感した上で、一人称のドキュメンタリーである『背骨のパトス』をご覧になってみられたら如何でしょう。観てから監督に遭うというのが私と致しましてはよろしいのですが、後の方にスケジュールがあるのでご覧の通りに、監督をとっ捕まえて質問攻めにする機会はありますから、その前にいろいろと、今の自分の抱えている問題なども考え合わせて尋ねてみられたら如何でしょう。






参加者の皆様へ

皆様いかがお過ごしでしょうか?
来月からPLANET+1にて公開の「背骨のパトス」に先駆け、監督の松岡奈緒美さんが急遽、今月の「月イチ金曜会」にお越しいただけることになりました。
ドキュメンタリー監督であり、現在は2児の母でもある監督ご自身に、これまでの経緯や、新作についてをお話して頂きます。



問い合わせ:(mail)tukiichi-kinyoukai@ab.auone-net.jp.(担当:かみの)

特別ゲスト:松岡奈緒美監督

※参加費はございませんが、1ドリンクの注文をお願い致します。



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松岡奈緒美監督作品「背骨のパトス」
2008年7月5日(土)〜18日(金)@Planet+1
2008/DV/60分/ドキュメンタリー 


―私はこれからも、“生み”続ける―


前作『花の鼓』が海外映画祭でも高く評価された松岡奈緒美の最新作がいよいよ完成した。前作での苦難を越え、妻として母としての作者がよりおおらかに成長した証がこの作品に結実した。在日である夫の帰化、そして第二子の出産をクライマックスに「私=松岡」は優しい視線で日常にちりばめられた生を捉えてゆく。

第一子の出産を経験した「私」は一見幸福な主婦としての日常を生きている。そんな中、夫が失職し帰化を決意する。夫や子供との対話を通しいつのまにか「私」は新しい家族としての自分を意識し、受け入れていた。医師のいない助産院での第二子の出産に挑む「私」は再び自らの生きる意味を問いかける。出産後「姉」としての自覚を待ち始める娘。人生のささやかな体験を通してゆるやかに変化してゆくのは「私」だけでは、ない。「私」の情熱は心の奥底に静かに横たわっているのだろう…

※「パトス」とはギリシャ語で「感情的・情熱的な精神」の意味で「ロゴス=論理」と対立する。



【併映作品】

『花の鼓』2003/DV/48分/ドキュメンタリー

自らの流産、そして夫の祖母の死を経て、「私」は内側の死と外側の死を同時体験し家族との絆を知る。





《松岡奈緒美プロフィール》

大阪芸術大学出身。山下敦弘(『天然コケッコー』)、柴田剛(『おそいひと』『青空ポンチ』)らと同期で、映画製作を志し数本の短編を監督。在学中より、河瀬直美(『殯の森』)のスタッフとして参加。『火垂』では助監督・音楽を担当。結婚を経て、03年には初のドキュメンタリー『花の鼓』を完成させた。『花の鼓』はタイや台湾などアジアのドキュメンタリー映画祭をはじめ、スイス・ニヨン国際ドキュメンタリー映画祭にも招待され世界的に注目された。
http://www3.ocn.ne.jp/~buvieart/index2.html




★上映スケジュール★



7/5(土)〜11(金)モーニング上映
11:00『花の鼓』+『背骨のパトス』

※7/9(水)のみトークのため『背骨のパトス』のみ上映。
トークゲスト:渡辺和香(NPO法人女性と子育て支援グループpakkapoka主催・助産師)



7/11(金)
18:00『背骨のパトス』+松岡ゆりなライブ
20:00松岡ゆりなライブ+『背骨のパトス』



7/12(土)〜18(金)レイト上映 
20:00『花の鼓』+『背骨のパトス』

※7/18(金)トーク有り。トークゲスト:山崎都世子(映画監督)



*入場料金*
当日:一般●¥1200 会員/学生/妊婦●¥1000
※7/11(金)松岡ゆりなライブ付チケット●¥1500
メール予約可/chinema-planet1@y2.dion.ne.jp



〜『月イチ金曜会』って?〜

毎月第3金曜日はパイロットビル“月イチ金曜会”

インデペンデント映画の制作者と俳優の出会う場所、制作・宣伝・上映に至るまで映画を作る上で必要な人材、知識をサポートする場所としてPLANET+1が提案。映画制作に携わる人、興味のある人の憩いの場として毎月、ゆる〜く開催。
どなたでも参加自由なので、是非覗きに来て下さい!


主催:PLANET+1 共催:カフェ太陽ノ塔 協賛:コミュニティシネマ大阪

コメント(9)

  • [1] mixiユーザー

    2008年06月21日 08:27

    「桃まつり」の際に観た予告編CM、ちょっとひっかかっていることもあったので、その辺りをお尋ねしようとは思っていたのですが、その前に先に回答らしいことを仰ったので特に質問はしませんでした。つまり予告編は、かなり興味を引かない可能性があるということです。対象とする観客を限定しているようなところがあるために、一般的な、あるいは特異な(「シネフィル」というような)映画ファンに向けられていないということがあると思うのですが(「生む性」としての「女性」に向けられていると申しましょうか)、そのせいか、綺麗過ぎるのですね、いろいろと、と思っていたのですが、どうやら演出上、フィクションとノンフィクションの境界を曖昧にするというようなことを考えて、あえて作り込んだというようなところがあるらしい(ですからその「作り込んだ」ところがどう出るのかがここで非常に気になるわけですね)、ああなるほど、どうりであまりドキュメンタリー映画には見えないはずだ、といったところです。個人的にはかなり記憶に残ったCMなのですが(「桃まつり」のほとんどを忘れても妙に覚えていた)危惧を持っていたところも正直ありました。もしも私と同じように「綺麗過ぎる」というようなことを感じられたとしたら、それでも観ようよと申し上げたいのです。この監督は、この1本を撮ったら映画をやめようといつも思う、が、止められないで来た、そういうようなことを仰るのですね。そこが私はとても関心しました。何故に「パトス」なのか?そのことの回答でもあるだろうと思います。人生の中で、撮らなければならないなどということは一切ないはずですが、時に撮らなければならないのではないか?という言わば勘違いを「ロゴス」と呼んでみることも出来るでしょうが、同じ勘違いならば「パトス」と呼ぶべき「勘違い」の方が、「勘違い」も「本当」になるのだと思います。そのようなヒリヒリと焼けるような「勘違い」は貴重なものです。ということで観ましょう。
  • [2] mixiユーザー

    2008年06月23日 17:08

    >テツさん

    『背骨のパトス』について、新しいトピックを立てて書いて下さい。
    それを踏まえて表にトピックへのリンクを貼りますので。
  • [3] mixiユーザー

    2008年06月23日 18:06

    了解しました
  • [4] mixiユーザー

    2008年07月13日 22:11

    >テツさん

    新トピック、出来ませんでしたか。まあ仕方ない。

    『背骨のパトス』はつまらないことをいきなりやっているのですが、そんなことを何故やったのか?が途中で分かる仕組みになっています。わざわざやっているわけですね。そこから予想外のやり方で「母たる私」を見せてくれましてね、なかなかスリリングな映画でした。つまり二人目の子を生む「私」はすでに「母」なわけですね。「母になる私」を撮り損ねてしまったわけです。その上で「母になる私」をどうやって撮ったら良いのか?みたいなことを考えた結果、ああなったかと思った次第です。それから『背骨のパトス』というタイトルですが、「パトスとは?」みたいなことを書いているチラシのために「パトス」に拘ってしまう観客たる私がいたのですが、むしろ重要なのは「背骨」でした。それは1作目との関連で見ればそう思うしかない。まあ観て下さい。

    それからこれ、作品とは関係ないのですが、監督さんはとても美人ですよ。何故、美人と知っているか?上映の際にトークのあるなしに関係なくいらしてるからです。まあその前に「金曜会」でお目にかかりましたが。宣伝屋さんが来てないというのにご本人はいらしてる。毎夜、いらしてるそうです。そして上映終了時に「太陽の塔」の前に立ってお礼を一人一人に伝えているわけです。それだけ観て欲しいわけですね。そんな情熱も顔に出ているから美しいのですよ。断言しますが、この監督は美人です。思えば松江哲明さんもそうでした。私の周辺は皆、覚えています。年長者達が「とってもかわいかった」などと言いますからね。
  • [5] mixiユーザー

    2008年07月20日 12:35

    『背骨のパトス』の上映はかなりの成功をおさめたように聞いています。
    宣伝のテツさん、おめでとうございます。

    さていつも以上に簡単な「雑感」を書いておきます。

    チラシの裏面に“「パトス」とは・・・・・”というような解説が書いてありますので、そのことについてどうしても考えてしまうというようなことに私は陥ってしまいまして、観る前にはそのことばかりを考えていたのですが、興味はむしろ「背骨」の方に行きました。これは『花の鼓』の方にむしろ顕著なのですが、部分に対する愛着、あるいは疎み、そういうものが松岡奈緒美さんにはあるではないか?と思うのですね。よく分かるのは『花の鼓』の「クローズアップ」の多用なのですが、それもとりあえず「クローズアップ」と呼びますけれども、「寄る」というよりはむしろ「切り取る」に近い感覚であると思います。もちろんそんな考えは映画史上にあるので別に目新しいわけではありません(例えばゴダールの『恋人のいる時間』などにはよく言われますね)。宿した子の「命」を実感している「私」が流産の後の母体への処置の過程で、膣内を「掃除する」という想像を超えた言葉を聞いたためにあくまでも「私」にとって「命」であるものと社会的な通念とのあまりの違いを知り、その上で全身麻酔によって感覚が麻痺しているにも関わらず「塊」が二回掻き取られる感覚を感じ取ってしまった「私」はいわば「部分の死」の体験をし、そこから次々と「部分」に対する喪の作業としての「接写」をしているのだと私は理解しているのですが、そのように理解をすると反対に、夫の母を母国の済州島に埋葬するところからそのような「接写」の連続は見られなくなることを、済州島では「土葬」という全体の死を全体を保ったまま埋葬する儀式を行うことになるわけで(「火葬」は体験のある方ならお分かりでしょうが、バラバラの白骨を拾い上げるので、断片化するわけです)、するといわばこの世の「部分」である一人の人間の命を、大地への埋葬によって「全体」である「命」へと帰すという喪の作業によって、自覚した「部分の死」を「全体の生」へと、つまり「命を産む」ということへと変化させていった、そういうようなことをキャメラの対象への距離が表しているというような映画だと理解出来るかと思います。というような「部分」への松岡さんの愛着、愛憎を次作のタイトルに関連付けても仕方がないことなのですが、そのようなことを考えていました。
  • [6] mixiユーザー

    2008年07月20日 12:36

    それで、そのことは一旦、置いておいて(というのはもう一回は観ないと『背骨のパトス』)における「背骨」については何も言えないので)『背骨のパトス』をどう体験したかということを明らかにするということで、この文章を終えたいのですが、まず、『花の鼓』を観て即、『背骨のパトス』を観るということによって、とにかく味気ない作品を観ているという感想として表れて来ることになりました。小川作品でも土本作品でも、ドキュメンタリー映画には何本も一つのテーマを延々と追っていくということがよくあるのですが、その時に絶対に注意しなければならないのは、時系列で作品を撮っているからといって、前作と次作を原因と結果の関係にしてしまってはならないということだと思うのですね。『背骨のパトス』は三パートからなっていると一応は言って良いのですが、とにかく観始めるとあらゆることが『花の鼓』との対応関係になっていて、ということは『花の鼓』で起こっていたことは、こうなりましたと言われて、こちらは「ああ良かったね」とか「ああ大変だね」とか言うしかないようなことになっているわけです。一例を挙げますと、『花の鼓』では流産して、今や我が子を体内に宿してはいないにも関わらず「私」は乳房から母乳をまるで涙のように流していたのですが、『背骨のパトス』では乳房に吸い付く乳飲み子を持ち、母乳を「血」と呼んで、それを今は与えているというような「私」自身のナレーションが入ったりするわけですね。あるいは『花の鼓』ではまるで喪の作業のように川に七夕の笹を流していたのが、『背骨のパトス』では親子三人で流していたりしている。他にもいろいろとあるわけですが、『花の鼓』の人々がどうなったか?についての「結果」を示すばかりの「映像」を観ているのみと感じられ、かなり興味深いことが起こっているのにも関わらず、こちらは何も感じることが出来ないわけですね。『花の鼓』に親しんだばかりの私自身が、頼むからこの余韻を壊すことはやめてくれと祈ることになる、まあこれは連続して観るという上映上の問題も含んでいるわけではありますが、しかしこちらの印象はそうも間違ってはいないことに、ここら辺りから面白い映画になっていくのですが、「私」とある女性が対面で話をする(それも『花の鼓』でやっていて、正確な対応関係を持っているわけですが)、するとその中で相手の女性が「ホームビデオ」に見えるというようなことを言うわけですね。まあそういうことなのです。どう見ても「映画」はここにはなくて、わざわざスクリーンで観る必要などはないわけです。そう言われた「私」も「そうなんだよね」と言うわけですが、別に編集された順番に映画を撮ったとは限らないわけで、この対話など、三つのパートの内、二つ目のパートの終わりに出てくるものなので、この対話を受けて第三パートが始まるのですけれども、この第三パートの素材を確認してから撮っていたとしても何の不思議もない、それはそうなのですが、とにかく最初の2パートはつまらないと思いますし、反対に「映画」はここから始まったと言えると思います。
  • [7] mixiユーザー

    2008年07月20日 12:36

    さてその三つのパートのことなのですが、第一パートが「女としての私」、第二パートが「妻としての私」、第三パートが「母としての私」となっていて、それも文字で表されます。実は第一パートが「女としての私」だったということについて、私は確固たる自信がないのですが(違っていたらどなたか指摘を)一応そういうことで話を進めますと、この「文字」というのも非常に微妙な問題を孕んでいて、私はそれを見た瞬間に「妻」で次は「母」となるのだな、とそのテーマの凡庸さにうんざりすることになって、もう帰りたい、『花の鼓』だけを観たことにしたいと思ったぐらいなのですが、実はこの「文字」が重要な役割を果たすことに第三パートでなるのです。というのは第三パートは、「私」が娘に出産を見せようと決意し、医者のいない助産院での出産を決意して、そして産み、親子四人の生活がスタートしていく過程を描くものなのですが、これまでの映画の進展状況からして「母としての私」を撮るについても被写体は基本的には「私」であるだろうと思うわけですけれども、撮っているのは「娘」ばかり。「娘」が兄弟の誕生を自覚して変化していくところを撮っているわけです。そんなことをしても「母としての私」は捉えられないだろうと思うわけです。ところが弟が産まれてからが私はなるほどと唸ったのですが、まず兄弟の誕生を知って、その心の準備を明らかにはじめている「娘」が、それでも赤子の誕生を目の当たりにして、赤子に負けないぐらいの大きな声で泣いています。しかし時間の経過と共に泣き止み、やがて世話をするようになり、家に戻ってからは、将来は「お母さんになる」と言って嬉しそうに食事をするわけです。自分が吸っていた母の乳首を弟に譲り渡して食事をするわけですが、これを私は「娘」の顔のショットの印象から、「姉」としての自覚というよりは、「母になること」への自覚の芽生えだと感じて、まあ揺り動かされ、ただの食事を泣きながら観るということになったのですけれども、つまり女は母になる準備をしているという事実ですね、この小さい子がそれを自覚しはじめつつ食事をしているのだという事実であって、やがては「母」になるばかりか、ここでは「母」のような顔を「娘」がもうしてしまっていると思うのですよ。ですからこれは最初の子、ここでの「娘」の出産を撮ることが叶わず、結果的に「私」が「母」になる瞬間の「私」の顔を撮り損ねた「私」が、「娘」が「母」になっていくところを撮ることで、反射として、「母になる私」を、さらには「母としての私」を撮るということをやっている映画なのだと思いました。それを私は非常に大胆なものだと思うのですが、それを率直に松岡奈緒美監督に申し上げたところ、夫の谷山星雄さんは、「当たり前なんです」と仰るわけですね。母親ならば当たり前なのだと、男には分からないけれども母親には当たり前なのだと仰る。それを「男」には分からないけれども「夫」としては「当たり前だ」と分かるというのが独身の私には分からないことなのでしょうから、嫉妬するしかないようなことなので、なるほどなあと思いながら帰ってきたのですが、しかし後々から考えておりまして、私の立場からはこれを「当たり前」と取るわけにはいかないのだと気付きました。ここで最初のパートが果たして「女としての私」だったかどうかが問題になるのですが、つまり「文字」になっていないもう一つの「私」つまり「映画作家としての私」ということについて考えないといけないわけで、もちろん全素材を観た上で構成を考えて「文字」や対談を入れたのかもしれないけれども、「娘」を撮ることで「私」を撮り得ると確信し、その演出を選ぶのは他ならぬ映画作家としての松岡奈緒美さんであるわけで、それが「母ならば当たり前」であるならば、では映画作家としてのものはないのか?と問わなければならない。そのとき、特に第一、第二パートに意味ありげに挿入されていた数々の画面やナレーションや文字を「わざとらしい」と評価して、厳しい意見を言うことにならざるを得ないと思うのですね。容易く想像出来るのですが、この映画には批判が多いはずです。私の知人達のシネフィル達が観たら、嫌いだという可能性が極めて高い(恐らく、誰も観てはいないように思われますが)。けれども私は第三パートを可能にすることが出来るという判断を母ゆえに出来たのだというのはその通りだとして、それを映画として完成させ得たのはあくまでも映画作家の松岡奈緒美故にだと思うと申し上げて、『背骨のパトス』と松岡奈緒美をやはり「大胆な」として高く評価したいと思います。本当は転がり込む「弟」など、他にも触れておかなければならないことがたくさんあると思いますが、それは私の力量不足によって触れ得ません。再見してからにします。
  • [8] mixiユーザー

    2008年09月05日 22:14

    ここに書き込んで良きものやら?

    松岡奈緒美監督からお手紙を頂戴致しましたので、応援メッセというわけでもありませんが、だからね、こうなって参りますと、応援したくなるものですよ。
    是非。


    9/7(日)・14(日)・21(日)・28(日)・10/5(日) 13:00〜

    『花の鼓』『背骨のパトス』再上映は貴方の私の「PLANET+1」にて
    一般1,200円 会員/学生/妊婦さん1,000円
  • [9] mixiユーザー

    2008年09月07日 01:24

    警部、ありがとうございます!告知忘れておりました(汗)
mixiユーザー
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  • 2008年06月20日 (金) 金曜日 19:00頃〜
  • 大阪府 大阪市北区中崎町2丁目3-12 カフェ太陽ノ塔(パイロットビル1F)
  • 2008年06月20日 (金) 締切
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