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開催終了 ハイデガーに挑むネット読書会 『存在と時間』 `本を手に街へ出よう!' 

詳細

2012年03月04日 14:17 更新

 

ハイデガー自身は思索の迷宮に陥いることを望んだ行動の人でしたが、晩年の隠遁・厭世ぶりを知っておくことを念頭に置きましょう。
なるべく深刻に引きずらない方針で接近できれば、平易に分かりやすくなるでしょう。
 
彼は、戦後ニーチェを教えていましたが、彼自身が正当に批判の哲学に晒されることはなかった。
 
現在、なぜ、ハイデガーなのか?
 
まず、ヘーゲルから、キルケゴールの神学、フッサールの現象学、、ニーチェの批判の哲学の奔流が現れた中で、総まとめをした時代の人であったことがあげられます。
彼自身が当時、手探りで思索に進むためには、あまりにも乏しい手法と評価分析しかなかった。
 
われわれも実際のところ、そんなに有効な手法を見つけられないでいます。
 
ハイデガーは、ヘーゲルから、ニーチェに主観哲学の完成を見て、「存在」の探求に移ることが出来たのではないかと思います。
彼の哲学は、主観哲学のスコープに入らなかったものを取り上げ始めました。
 
彼の特にナチズムへの関与など、行動・言動の試行錯誤と成功と失敗は思想家に、くびきとなる教訓を示しています。
思想家が誤った行動・言動は、野蛮・非情な行為でも平然とやってのけるのことの根拠にされることを、重要な事実として歴史に記したのです。
そのため着手には少し慎重さが必要です。
右傾化や民族主義の復活が言われ、国内では派遣低賃金労働者・ネット難民・生活保護打ち切りで餓死者をだしている状況と、経済・技術・資源など国力の変動が予想される、この現在では特に大切なことです。
 
東西ドイツが統合し、イデオロギー対立も終息し、EUが安定形成された今、そろそろ失敗の罪の遡及から移り、正当に思想的な批判・評価の光を当ててみましょう。
ハイデガーの、人となりについての乏しい情報も登場しています。
 
彼は膨大な思想という粒の入った「砂時計」の「ハチの腰」に当たり、過去の哲学と現代思想の繋ぎ目に位置すると見当付けられます。
そして、どうやら、肝心なことに難解な現代思想の解法の糸口に相当するかもしれない重要な「鍵」を仕舞い込んでいるのです。
「謎」を解くにはやはり解読の「鍵」が必要です。
 
半分は薬、もう半分は毒薬になってしまった著作『存在と時間』に、是非、読み解きを施してみませんか。もしかしたら、99%が毒かも知れません。
だとしたら、免疫は一番つきやすいのではと思います。
 
アンチョコ本ももちろん、水先案内人にして傍らに。
 
( BETA )
 




(2007/09/12↑
 
added sentence & picture: w a r m a r t ;ID1098147↓
 
軽めのしか手を出さなくなりつつある現代人の皆様、ネット上で楽しみながら・助けあって、ひとつ哲学書を読みはじめませんか?
 
長大ですが、ゆるめにペース・メイク しますから、私生活への負担は少ない、かと。
 
<参加ボタン> を押し、分割された章節を期間内に読んでいただき、以下主題などをコメントしあう、という企画。
何が書かれてたか、の解釈。
解釈に対して、何を感じたか、の感想。
〔トピック参加者の多くが第1〜23節を読了するまで、進行を一時停止。
解釈と感想を必須とせず、任意にし、読了記録だけは書きこむ。
小節を飛びこえて解釈や感想を書きこんでもいいし、誰かの書きこみについて書きこみ可、むしろ企画に有意義なので推奨。〕
 
今、各社から文庫や新書が出てますし、月1くらいで図書館に通うのもいいですよね。
都度、各書と訳語照合します。
 
以下サイトを参考として中途参加も歓迎、既読の方なら再読なしでも可。
 
いくつかのコミュニティで共催され、横のつながりも面白いかと。
http://mixi.jp/view_album.pl?id=4213676&mode=comment
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AC%E3%83%BC
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%A8%E6%99%82%E9%96%93
 
http://youtube.com/watch?v=0Ui3v8LV5jw)
 

コメント(125)

  • [87] mixiユーザー

    2008年02月07日 21:43

     
     溜池清六サン、すみません書きこみに気づきませんでした。
    ご提案、僕のよりずっといい気がしますよ。
    BETA(masato)さんのご提案とも重ねれますし、この2案を混ぜたものを提案しましょう。
    異論なければ、他トピックへも採用したいと思います。
    他トピックでも提案はないし、同様に停滞してます。
     
     BETA(masato)さん、第19節、週末に読んでみます。
    面白そだ。 ^_^
     
  • [88] mixiユーザー

    2008年02月10日 20:15

    >BETA(masatoさん

    >興味を惹いた節の引用を載せ、行きつ戻りつして、
    >途中をすっ飛ばしても良しとしませんか。

    そうですね。本来私はすっ飛ばし派なのでそちらの方が性にあいます。

    >warmartさん

    >BETA(masato)さんのご提案とも重ねれますし、
    >この2案を混ぜたものを提案しましょう。

    それでよろしくお願いします。
  • [90] mixiユーザー

    2008年02月11日 20:29

     
     溜池サン。
    では明日辺り、他すべてのトピックにもそう提案して即、実施してみますよ。
     
     BETAさん、僕は第44(c) 『真理の在り方と真理の前提』 がやっぱり気になりますね。
    これほどの人が、どう規定するのか。
     
  • [99] mixiユーザー

    2009年07月14日 06:24

    こんにちは エラスムス(溜池清六)です。

    『存在と時間』、もう1度最初から読み返しております。
    17節まで来たらまた読書会に復帰するつもりです。
  • [101] mixiユーザー

    2009年07月18日 10:17

    第17節、第18節がどうしても苦手意識があるので、すっとばして19節に。

    <解釈>

    第19節

    ・デカルトの「エゴ・コギト」(我思考ス)と「レス・コルポレア」(物体的ナモノ)の区別が、その後の「自然と精神」という区別の元となった。

    ・自然と精神という2つの対立項が明瞭にされていないのは、このデカルトにより行われた区別に起因する。

    ・デカルトによれば物体的な存在に固有なものとは「拡がり」である。形態は「拡がり」の一つの様態であり、運動も同様である。

    ・われわれが「世界」と名づける物体的実体は「拡がり」によって構成されている。

    ・「硬さ」「重さ」「色」などは、物質から取り除かれるゆえに、物質の本質的な諸規定ではない。



    ぱっと見ですが、第20節,第21節はある程度はわかりそうな気がします。
  • [102] mixiユーザー

    2009年07月18日 10:20

    >BETAさん

    >ちょっとペース配分がおかしいと思いますが、とりあえずご要望はないでしょうか。

    とりあえず第23節まで読み通せるかどうかやってみて考えてみます。
  • [107] mixiユーザー

    2009年07月25日 09:11

    <解釈>

    第20節

    ・「実体」とは存在するために他のいかなるものも必要としない存在者である。

    ・神とそれ以外の実体(思惟と延長)には無限の差異がある。

    ・これら3つの実体に共通な「存在」とは何かを明確にすることをデカルトは回避し、各々の実体を規定する属性(「思惟する」「延長する」など)を表現するのみでお茶をにごしてきた。

    ・「実体」という表現がこれまであいまいに用いられてきたのは、実は「存在」という大きな問題をもてあまし正面からあつかってこなかったからだという事情がある。
  • [108] mixiユーザー

    2009年08月02日 19:42

    <解釈>

    第21節

    ・デカルトが「拡がり」としてとらえようとした存在者は、それ以前に「身近に道具的に存在している」存在者を通過してはじめて見いだされる。

    ・デカルトは数学における数のように「常住的に存在している」ものを存在の基準にした。

    ・感覚を通じてあらわれてくるものを、そのままの形で「どんな存在なのか」と規定することは、デカルトは良くなしえなかった。

    ・デカルトは存在が「道具的」であることは見落としていたが、「内世界的存在者は空間の内で存在する」という点は理解していた。

    ・現存在の空間の内で存在するという特有のあり方を内在性と名付ける。
  • [109] mixiユーザー

    2009年08月08日 19:39

    <解釈>

    第22節

    ・道具的存在者とは、ほかのものより先に出会われると同時に「身近にある」存在者である。

    ・道具的存在者にとっての「近さ」とは、距離の測定によって確定するような性質のものではない。

    ・道具的存在者は自分にとって適当な場所におさまっているか、さもなければ散在している。これは任意の空間的位置に出現したり消えたりしているという意味ではない。

    ・方域というものは本来的には目立たないが、あるものがあるべき場所に見あたらないときにはじめて表だったものとして知られる。

    ・空間があらかじめ与えられていて、そこに道具が配列され環境世界が作られると考えてはならない。
  • [111] mixiユーザー

    2009年09月04日 06:39

    >BETAさん

    >質問なのですが、一週間一節ペースでは、どんな感じでしょうか。

    ひっかからないと行けるんですが、ひっかかると難しいかなと。
    第23節は読んでみて書いてあることは何となくわかるんですが、それを自分の言葉になおすのが難しいといったところです。

    結局のところ1節1節は目安にすぎず、概念理解ができるかどうかなので、むしろ後半に近付くほどにスムーズになっていくのではないかと予想しています。
  • [112] mixiユーザー

    2009年09月04日 06:51

    >BETAさん

    それとこれはお詫びですが、BETAさんのコメントがついているのに全く気がついていませんでした。返事が遅れて申し訳ありません。
  • [113] mixiユーザー

    2009年09月13日 12:55

    <解釈>

    第23節

    ・空間性とは、現存在が宇宙空間のどこに存在しているとかそういうことではなく、現存在の「世界」内部で存在者が出会うための様式である。

    ・その空間性は、遠ざかりの奪取(開離)と方向の切り開き(布置)という性格を示す。

    ・遠ざかりは、単なる数学的な距離とか物理的な間隔と言ったものではない。

    ・「遠い気がする」「近い気がする」のような数学的には不正確で不安定に思われる「主観的」な認識こそ、むしろ「客観的」に測量された空間に先行する本質的なものである。

    ・例えば「身近にある」とは我々から最小間隔にあるもののことではない。我々のかけている眼鏡は、向こう側の壁にかかっている絵よりも、我々の本質的な空間認識にとっては遠くにある。

    ・現存在は遠ざかりの奪取と同時に、方向の切り開きという性格を持っている。何かを近づけるに際しても。それらの何かは現存在に対してあらかじめある方向性を帯びている。

    ・左右という方向性は現存在が常に帯びているものである。それは主観によって感じ分けられる「主観的なもの」ではなく、現前している世界に本質的に存在しているものである。
  • [114] mixiユーザー

    2009年09月13日 13:04

    <感想>

    第23節

    ハイデガーはデカルト的な「数学的に正確な客観的空間こそ本質的」という空間認識をずっと批判しており、それに対して独自の空間認識を打ち立てようとしているように思えます。
  • [115] mixiユーザー

    2009年09月13日 13:23

    <感想>

    第23節

    それとハイデガーの空間認識は私にはひどく触覚的に感じられますね。
  • [117] mixiユーザー

    2009年09月21日 20:58

    >BETA@エポケーさん

    >触覚的に感じましたか。僕は時間的に感じました。

    そうですか。私はデカルト的な空間は視覚的かなと思っています。ハイデガーは視覚的な空間が先験的にあると考えることを批判しているのではないかと思います。

    現存在は世界内存在であり、「世界」は内部に「存在者」を配置するために必ず「空間」化されているが、その「空間」は必ずしもきちんと幾何学化(視覚的な空間)されたものとは限らないと。

    差し支えなければ第24節以降に進みます。

  • [119] mixiユーザー

    2009年09月22日 18:47

    <解釈>

    第24節

    ・現存在は世界=内=存在であり、いつでもすでにひとつの「世界」とともにある。

    ・現存在がその内部にある「世界」は空間的であるが、位置や位相が測定されるような純粋な幾何学的な場としてあらわれるわけではない。

    ・空間は主観の中にあるのではなく、世界は空間の中にあるのではない。

    ・我々が空間の中で道具的存在者を出会わせる「配慮的な配視」から解放されると。純粋な次元(方向性)と距離だけの空間を注視することが可能になる。このときはじめて「世界」は延長する事物の連関、中性的で同質的な空間になる。

    ・空間の存在を単に「主観的」なものと結論づけるわけにはいかない。

    ・空間の存在に関する学的解釈の混乱は、存在一般の諸々の可能性を見通して把握する学的解釈の欠如にある。
  • [120] mixiユーザー

    2009年09月23日 11:00

     
    > BETA@エポケーさん ; 118
     
    2008/01/31以来、11節で止まってます。
    ごめんなさい。
    また読みはじめてみたいと思います。
     
  • [121] mixiユーザー

    2009年09月27日 16:56

    <解釈>

    第25節

    ・「自己」「主体」は現存在の根底にある。

    ・しかし現存在は客体的なものではないから、日常的な現存在が必ずしも「自己」「主体」を持つとはいえない。

    ・現存在は実存であるから「自己」という存在様態を示すことも「自己喪失」といった存在様態を示すこともある。

    ・世界のない「主観」や他者のない「主観」があらかじめ与えられているということはありえない。

    ・「自己」は現存在の特定の存在様相ととらえるべきである。

    ・人間の「実体」は、心と身体の総合としての精神ではなく、実存である。
  • [122] mixiユーザー

    2009年10月12日 17:50

    <解釈>

    第26節

    ・「ほかの人々」とは、私以外の人々の残余全体ではない。私自身もその中に加わっているような人々である。

    ・現存在が本質的に、共同存在であるのは、ほかの人が現実に存在しているということを確認するものではない。共同存在とは実存論的性格であって、たとえば事実上ほかの人が存在しない場合や知覚されないような場合でも変わりはない。

    ・現存在が共同存在というありさまで関わり合う存在者は、それ自身が現存在である。この存在者は道具的存在者のように配慮されるのではなく、「待遇」される。

    ・「待遇」は2つの極端な場合がある。1つは飛び入りをして相手を支配する待遇、1つは率先して相手を解放する待遇。

    ・現存在の存在了解はほかの人々についての了解が最初から含まれている。この了解は認識から生じた知識ではなく、実存論的な存在様相である。ほかの人々についての了解があって、はじめて他の認識や知識が可能になる。

    ・まず単独に与えられている主観から、他者主観へと通う橋を渡すというような考えは適切ではない。

    ・共同存在は「感情移入」によってはじめて構成されるのではなく、むしろ「感情移入」の方が、共同存在にもとづいてはじめて可能である。

    ・現存在はそもそも存在している限りは、相互存在というありかたをしている。
  • [123] mixiユーザー

    2009年10月12日 18:00

    <感想>

    第26節

    このあたりは伝統的な「他者の心」問題についてのハイデガーなりの解答ですね。

  • [124] mixiユーザー

    2015年10月21日 14:52

    第26節 日常的な現存在というのは何者かという問題に答えるには、現存在がたいていどのようなあり方をしているかということの分析から着手されねばならない。
    この分析は世界‐内‐存在という形で考えられ、現存在が世界‐内‐存在という根本的な体制を持っているのだということに基づいて、現存在というものの存在のすべての様相がこれによって規定されていることが知られる。
    最初に世界というものを解明することから始まって、世界‐内‐存在の他の構成要素も次第に明らかになってくるというのが間違いなければ、「日常的な現存在とは何者であるか」という問いへの答えも明らかになってくるはずだ。
    (中略)
    このようにして身近な環境世界の道具連関において私たちが出会う他者は、ただ単に目の前にある事物に付け加えられて想像された者というのではなしに、この環境世界にあってこれらの事物が他者においても手元にあるものとして、すでにいつも私のものである世界のほうからやってくる。 
  • [125] mixiユーザー

    2015年10月21日 15:04

    ここまでの分析においては、内世界的に出会うものはさしあたり手元の道具とか目の前の自然とか、すなわち現存在とは性格を異にするものに限られてきた。
    これは説明を単純化するために必要だったと同時に、内世界的に出会う他者という現存在のあり方は、手元にあることとか目の前にあることとははっきりと性格が異なるからである。
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