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2006年12月12日 07:11 更新

お題以外での作品等を発表する場があればいいなと思い作成しました。
みなさんの自己啓発の場に少しでもなれれば、と思います。

コメント(20)

  • [1] mixiユーザー

    2006年12月17日 07:46

     「ジャングル! バラエティクルーズ」

     飲み会の席で僕がその悩みを口にすると、お前らしいと先輩が笑った。
    「じゃあ、高田先輩にとって自分らしさってなんなんですか?」
     大きな体を豪快に揺らして笑う先輩に、半ばムキになって僕が言うと、高田先輩は笑ったまま答えた。
    「お前さ、一度あれに乗ってみろよ。ジャングルクルーズ」
    「ジャングルクルーズ?」
    「俺が昔バイトしてたところのアトラクションなんだけどな。あれに乗れば、お前の悩みなんて一発で解決だよ」
    「自分らしさ、ですか?」
    「そう、自分らしく生きること。その答えが、ジャングルクルーズにはある」
     ビールを浴びるほど飲んでいるから、先輩はところどころろれつが怪しい。けれど、本当にそれを薦めるのが楽しくてしょうがないと全身で表している先輩の態度に感化されて、なんとなく、行ってみても良いかなと僕は思い始めていた。
     ジャングルクルーズ。
     自分らしさって、なんですか?

     次の日曜日に、僕は電車に乗って東京のはずれのその巨大アミューズメントパークに来ていた。
     日本でその名を知らないものはいないほど有名なアミューズメントパーク。ここは千葉なのにな、なんて誰もが一度は口にしただろう苦情を頭の中で思い浮かべる。なんとなく、そうでもしないと独りでここに入場する気恥ずかしさというか、疎外感を感じずにはいられなかったからだ。
     真っ白い巨大なお城を中心とした、広大なアミューズメントパークに、僕は入る前から萎縮してしまっていた。
     ……先輩、こんなところでバイトしてたんだな。
     一人身には入りづらい夢と魔法の国。わかってはいたけれど、男が独りで入るのはちょっと、と思わせるようなファンシーな世界だった。
     それでも、せっかく初めて入るのだからと奮発し、一日パスの入場券を購入してアミューズメントパークに入ると、僕は時間を忘れてさまざまなアトラクションを楽しむことができた。
     宇宙だの雷だの大仰な名前がつけられたジェットコースターも、水上を走るジェットコースターも、もちろん、お化け屋敷やトリックルームも、そのどれもが……その、あまりこういうところに馴染みのない僕には、とても刺激的だった。
     だから、僕がその当初の目的であるところのジャングルクルーズに乗るときには、もう陽が落ちかけてしまっていたのだった。
     15分待ちです。と書かれた看板を見て、ほっと胸をなでおろす。
     ここに来て最初に驚いたことといったら、なにより待ち時間の長さだったから。15分なら、待つうちにも入らない。
     あまり、人気がないのだろうか?
     先輩がどうしてこのアトラクションを薦めたのか意図はちっともわからなかったけれど、あのときの先輩は妙に確信的に僕にジャングルクルーズを薦めていたと思う。
     待ち時間を利用して、パンフレットに書いてあったジャングルクルーズの説明書きを思い出す。
     たしか、スキッパーと呼ばれる案内人の乗るボートに6人位の少数で乗り込んでジャングルを模した川を遊覧する、ジャングル探検ごっこみたいなアトラクションだったと思う。
     面白そうだとは思うけど……これまでに体験した刺激的なアトラクションに比べたら物足りなさを感じそうな、そんな印象を受けたのをよく覚えてる。
     子供だましっていうのか……そんな感覚。
     
     順番が回ってきたので、桟橋からボートに乗り移って案内された席に座ると、緑色の軍服にも似た、一見するとボーイスカウトの人にも見えるかもしれない制服を着たスキッパーのお姉さんは大げさに辺りを見渡して声を張り上げた。「これから私たちはジャングルを探検します! 途中、創造もしなかった危険が私たちの身に降りかかるかもしれません」
     演出だろう、悲壮感を漂わせて、案内人であるところのスキッパーは叫ぶ。
    「でも、新人スキッパーのこの私、坂東風香が皆さんの安全をしっかりきっちり老後までサポートしますから! 皆さんはボートの上でパニックになったり、立ち上がったりしないようお願いします!!」
     勢いに押されてこくこくとうなづく乗客たち。
     僕はというと、なぜだか非常に不安な気持ちにさせられて、早くもジャングル探検の先行き不安さに心細くなっていた。
     ……なんか勢いに任せて無茶苦茶言ってなかったか、この人。
     「出発しましょう! もう日も落ちてきましたし。夜のジャングルはそれはもう危険なんですよ!」
     不安をあおる言葉をBGMに、ボートはゆっくりと動き出す。
     最初は暗くなってきたのもあいまって、何が出てくるのかとおっかなびっくり辺りを見渡していたのだけれど、驚かすように川の中からかばが大きく口を開け、ライオンが威嚇するようにうなっているのを見て趣旨がわかってきた。
     つまり、ジャングル版お化け屋敷みたいなもんなわけだ、これは。
     最初に感じた子供だましって言う感想、あながち間違ってなかった。
     そう考えてしまうと、興味を失って、なぜ先輩がこれに乗ることを薦めたのか考えてしまう。
     あのときの先輩は酔っていたし深い意味はなかったのかも、なんて考えているときだった。
    「うひゃあ!」
     とあられもない声を上げて、新人スキッパーこと坂東風香が陸の一角を指差した。
     つられてそちらに眼をやると、槍をもった半裸の集団がこちらに向けてなにやら騒ぎ立てていた。
    「あれはあれですよあれ!!」
     あまりにも職務を放棄した説明にあきれるより先につい怒鳴ってしまう。
    「あれってなんだあれって!」
    「だって危機的状況ですよ!? とっさに言葉が出てこなくてもしょうがないじゃないですか!? そんなことより大声を出してあれを刺激しないでください!」
     思わず声を張り上げてしまってから、しまった。と思ったのだけれど、周りのお客さんもなぜか応援するように僕を見ていることだし、気を取り直して続けることにする。
    「あれはあれだ! パンフでいう所の首狩族だ!」
    「そう、それです! それを言えってマニュアルに書いてあったんです!! ……お客さん、もしかして高名なスキッパーですか?」
    「もしそうなら今頃胃痛でどうにかなってるよ! 夢と魔法の国でマニュアルとか言っちゃダメだろ!」
     指摘すると新人スキッパーはあからさまにうろたえて。
    「あ、あのあれです。首狩族が出てくるエリアには気をつけろって先輩が」
     大げさに手を振って身振り手振りで言い訳をしている、けど……
     ……いまさらそんな言い訳でなんとかなるとでも本当に思ってるのかこの人……
     白々しい沈黙が漂うボートの横を、ぽちゃん、と物悲しげな音を立てて一本の槍が落ちた。

    「えーと、この滝は工費が300万円、毎日の水道料金が5桁を超える滝です。ジャングルには私たちの想像もつかないブルジョアな滝があります」
     開き直ってしまった新人スキッパーこと坂東風香はすごかった。
     最初はドン引きだったお客さんも、あまりにいさぎの良い開き直りっぷりに不自然な笑みを浮かべてさえいた。
     はっきり言ってしまうと、僕を含めたお客さんの興味はジャングルの探検よりも、次にこの娘が何をしでかすのかに移っていた。
     そのくらい、坂東風香は異常だった。そして、僕たちを楽しませていた。
     首狩族の次は間欠泉だった。
     不意にあがった水柱に驚いた拍子に足を滑らせて、こともあろうに坂東風香は川の中に落ちた。
     さすがにまずいだろ、と乗客はあわてて腰を浮かせかけたのだけれど、坂東風香は自力でボートに這い上がると、足に引っ付いてる魚を高々と持ち上げて言った。
    「このように、ジャングルには危険がいっぱいです。今私が持っているこの魚は、かの有名なピラニアです。人を襲うこともあるって言われてますので注意してください」
    「注意してって……今、噛まれてなかった?」
    「大丈夫です! 落ちなければ良いだけのことですから」
     ……あなたが一番注意してください。
     一事が万事そんな様子で、坂東風香はジャングル以上に僕たちをはらはらさせていた。
     夢と魔法の国の建設工事費らしきものを長々と語る新人スキッパーを眺めて、このアトラクションは本当に大丈夫なのだろうか? と僕は要らない心配をしていた。
     
     ジャングルの探索は思いのほか長かった。
    終盤に差し掛かる頃には陽はすでに落ちてしまっていて、ジャングルを見学するのも無理が出てきていた。
    「じゃーん」
     などと妙な効果音を出して坂東風香は懐中電灯を取り出したけれど、照らすタイミングが微妙にずれている所為か、あまり意味があるようには思えなかった。
     それは坂東風香も感じているのだろう、時折、眉をひそめてどうしよう? とつぶやいていた。
     程なくして、坂東風香は「あ、そうだ!」と声を上げた。
    「お客さんお客さん、実は蝋燭を持ってきているんですけど、みんなで持ちませんか? 蝋燭台もありますし夜のジャングルってきれいですよー。あ、でも、火には十分注意してください。危ないと思ったらすぐ私に言ってくださいね」
     言って、坂東風香はみなに蝋燭を一本ずつ渡して、申し訳なさそうに尋ねた。
    「さっき落ちちゃったときにマッチだめにしちゃったんですけど……どなたかライターかマッチをお持ちの方は居られませんか?」
     あまりといえばあまりな理由に、皆が一様に苦笑する。
     一人のお客さんが、どうぞ、とライターを差し出すと皆でまわしあって、ひとつずつ、蝋燭に火がともっていった。
     すべての火が灯されると、坂東風香は満足げに笑って言った。
    「皆さん、お疲れ様でした。今日のクルーズはここでおしまいです」
     言葉に合わせて、坂東風香は船首の先を懐中電灯で照らした。
     照らすまでもなくそこには最初にこの船に乗った桟橋が、ジャングルクルーズと派手に照らされた看板とともに、冒険者たちを迎えていた。
     偽者のジャングルを、暖かい蝋燭の光に包まれて一艘のボートがゆっくりと泳いでいる。
     冒険が終わる。
     なぜだか、僕にはそれがとても名残惜しかった。
     見渡すまでもない、それはこのボートに乗り合わせた六名の共通した気持ちなんだと、僕にはわかっていた。
     桟橋に着くと、坂東風香は一人ずつ声をかけながらお客さんを誘導していく。
     皆が降りてしまって、最後に残った僕に声をかけた。
    「お客様、今宵のクルーズは如何でしたか?」
    「面白かった。先輩に言われてこれに乗ったんだけど、こんなに面白いと思ってなかった」
    「その先輩はなんて仰っていたんですか?」
    「自分らしさに迷ったら、ジャングルクルーズに乗ればいいって。そうすれば、そんなの一発で解決だって」
    「解決しました?」
    「わからない。なんか悩むのがばかばかしくはなったけど。坂東さんにとって、自分らしさってなんですか?」
     僕の質問に、坂東さんは笑って答えた。
    「もしも、今日のこのクルーズが、全部マニュアル通りに進んでいたとしたらどう思います? この旅には坂東風香らしさなんてどこにもなくて、私が川に落ちることも、首狩族の名前がわからないことも、全部予定通りだったとしたら」
     言葉が出てこない僕に向かって、坂東風香はいたずらっぽく笑うと、あのピラニアを取り出した。
    「これ、よくできたおもちゃですよね。私がこれを用意してる時点で、おかしいと思いませんでした?」
     川から落ちでもしない限り、あんなもの用意している意味がない。
    「蝋燭もそうですよね、どうして都合よくあんなものが用意してあったんでしょう?」
     あのボートでの何もかもがマニュアル通りだった。
     急に言われて、僕は何も言うことができずにいた。
     そんな僕の手を引っ張って出口まで連れて行くと、坂東風香は本当にいたずらっぽく、これ以上面白いことなんてないって顔をして、僕を送り出した。
    「また、お越しくださいませ」

     入り口で、僕は呆然としていた。
     僕には、彼女は誰よりも自分らしく、マニュアルなんて関係なく、自分の言葉で僕たちに語りかけていたような気がしていた。
     それは、このアミューズメントパークの趣旨と大きく外れることもあったと思う。ちっとも夢と魔法の国じゃない言葉だってあった。
     だけど、だから、僕たちは大いに彼女の語りを楽しんだ。
     彼女が巻き起こすすべての波乱を楽しんだんだ。
     でも、それは最初から計算されていたことだったのかもしれない。
     それが、なんだか、僕にはとても味気ない、許せないものに思えた。
     立ち尽くしていると、後ろから声をかけられた。
    「あれ? さっきのお客さんですよね」
     振り返って、驚いた。新人スキッパーが目の前に立っていた。
    「あの後怒られちゃいました。やっぱりいろいろトチっちゃいましたから」
     僕の困惑にかまわずに、彼女は続けた。
    「あ、高田先輩にピラニアのおもちゃ返しておいてもらえませんか? まさか本当に使う日が来ると思わなかったってつたえておいてください」
    「あの、なにを……」
    「なんていうか、からかい甲斐のある人ですよね。高田先輩の言ってたとおりです」
    「僕のことを、知ってたの?」
    「聞いてましたから、高田先輩に。あんまり言われてたとおりだったんで、動揺して今日のクルーズは散々でした。どうしてくれるんですか?」
     ……知らないよ、そんなこと。
    「とりあえず、折角ですから出口までご一緒しませんか?」
     成り行きのままに、彼女について歩く。
    「どんなときでも、自分らしくない行動を取れる人なんていません。悩むだけ馬鹿馬鹿しいですよ」
     あんなマニュアル、あるわけないじゃないですか。
     そう呟いて、彼女は頭を抱える。
    「いつになったら仕事をうまくこなせるようになるんだろう?」
     まさか彼女がそんなことで悩んでるなんて思わなくって、僕はつい言っていた。
    「今日乗ったアトラクションで、ジャングルクルーズが一番面白かったと思う」
     ドタバタしてて。その上最後は謎かけまであって。
     気を取り直したのか、彼女はもう一度だけ僕に尋ねた。
    「自分らしさって、見つかりました?」
     
     わからない。
     そう答えると、彼女は心底面白そうに
    「ほんと、聞いてたとおりですね」と笑った。
  • [2] mixiユーザー

    2007年01月04日 02:02

    短編小説『ディアブラウンカフェ』
    【第三話 不釣り合いなカップルの話】

    ==========================

    ▼1B
     夕方5時をまわった。あと1時間でバイトを上がれる。俺は張り切っていた。
    「シノブくん、スモールラテ2つ入ったよ」
    「あ、はい」
     エリカさんに呼ばれ、食器などを洗う部屋から"バーポジション"へと移動した。
     "バーポジション"とは、カフェラテなどのドリンクを作るところだ。幅1mちょっとある大きさのエスプレッソマシンを使い、エスプレッソやミルクを加えてあらゆるドリンクを作るのだ。
    「あ、失敗した」
    「落ち着いて」
     レジで見ていたエリカさんが声をかけた。冷静になりもう一度"ラテ"を作り始めた。
     エスプレッソマシンで温めたミルクの泡。ふわふわしてミルキーな泡を、ようやく作れるようにまで上達した。
    「お待たせしました。スモールラテ二つです」
    「え?何?ラテ?」
    「あ、はい、そうです」
    「私のラテね、はい、どうも」
    「ありがとうございます」
     "カフェラテ"を手にしたおばあちゃんが席へゆっくりと歩いて行った。
    「シノブくん。スモールラテじゃお客様には伝わらないよ。ちゃんとカフェラテのスモールサイズって言ってあげないと」
    「す、すみません」
    「まぁ、かわいいから許そう」
    「ありがとうございます」
    「謝るのか感謝するのか、どっちよ」
    「そんな、エリカさんが言ったんでしょ?俺で遊ばないでくださいよー、もう」
     エリカさんは困る俺を前に、小悪魔的に笑った。

    「こんにちはー」
     店に入ってきたのは、制服を来た高校生カップルだった。席清掃に行ったエリカさんの代わりに、俺がレジで応対した。
    「こちらでお召し上がりですか?」
    「はい」
     彼氏が冷静に返事をした。
    「ではあちらのレジでご注文をどうぞ」
    「はーい」
     彼女はだらけて返事した。
     見るからに不釣り合いなカップルだった。
     彼氏は制服のネクタイをきちっと締めていて黒髪。身なりも清潔だ。見た目だけで判断するのも何だが、典型的な"マジメ君"の格好だ。
     一方の彼女は分かりやすく言えば"ギャル系"。茶色を通り越し金髪。メイクはキツめ、というかキツい。特に目元はパンダのように黒い。
     ネクタイを思いっきりゆるめ、シャツはミニスカートから出し、だらしがない。さらに、クツのかかとを踏んでいる。だらしがない。
     二人がどのように"遭遇"して付き合い始めたかは知らないが、誰が見ても不釣り合いなカップルだった。
    【続く。】

    =================================================

    ▼2B
     俺がそっと差し出したメニューを、彼女が奪った。
    「ねぇ、決まった?」
    「今メニュー渡されたのに、決まるわけないでしょ?」
    「アタシもう決まってんもん」
    「僕はどうしよっかな。アイスラテでいいかな」
    「えー、普通じゃん。つまんないオトコ」
    「悪かったね、それは」
    「だってさぁー、アタシがおごってあげるって言ってんだからさぁー、もっとおごり甲斐のあるヤツにしなよー」
    「僕は普通のアイスラテが好きなんだよ」
    「だから、それはナシでしょう」
    「じ、じゃあ……、カラメルプディングシェイクのエクストララージで」
    「はぁ?高すぎだしっ!」
    「お前がおごり甲斐のあるヤツにしろって言ったんじゃん」
    「アタシだってそんな高いヤツ飲んだことないしっ!」
    「なら、スモールでいいよ」
    「スモールのアイスコーヒーね?決まりぃー」
    「アイスコーヒーなんて言ってないよ」
    「気遣ってよ、アタシだってカネ無いんだからさぁー」
    「最初と言ってることが違うじゃないか」
    「おっけー、じゃあアタシおごってもらうわ」
    「結局そうなるんじゃん……」
     俺はキレそうだった。どっちが金を出そうが構いはしないし、品物も何だっていいが、メニューを決めないのが腹立った。
    「あ、すいません、店員さん」
    「いえ、いいんですよー」
     俺は一気にやる気を無くし、間延びした返事をした。
    「じゃあですね、アイスラテのスモールと……、クミちゃんは?」
    「やべぇ、アタシねぇ、迷ってんだよねー」
     俺の怒りゲージは彼女のその一言で一気に上昇した。
    「……じゃあ、カラメルプディングシェイクのエクストララージ」
    「店員さんすいません、それ1つ」
    「以上でいいですね?」
    「あ、はい……」
    「よろしいですか?」
    「はい。千円札出します」
     その返事を聞いてから、俺は息をゆっくり吸った。ここからはハイスピードで言った。
    「……合計で830円です。千円お預かりしまーす。お返し170円です。ありがとうございます。飲み物二点はあちら、黄色いランプの下で出しますねー。お待ちくださーい」
     これまでに無いくらいの早口に、してやったりの顔をした俺だった。
    「……カンジ悪っ」
     ゲバゲバメイクの彼女が吐き捨てるように言った。 カンジ悪いのはお前だよ、と突っ込まずにはいられなかった。
     もちろん心の中でね。
    【続く。】

    =================================================

    ▼3B
     不釣り合いな高校生カップルを見送ってから、俺はバイトをあがった。
     フロアチェックのため客席に向かうと、あのイライラカップルがいた。
     彼女はぶすっとした顔をしていて、一方の彼氏は困り果てた顔をしている。ケンカしているらしい。
    「仲のいい奴らだな」
     すると彼女が立ち上がった。
    「トイレ行ってくるわ」
     早歩きであっという間に俺の横を通り過ぎ、トイレへと向かった。残された彼氏はぼやいていた。
    「はぁ……。まったく、何なんだよ」
     俺は放っておけず、彼氏に話し掛けた。
    「あのさ、君らケンカしてんの?」
    「えっ?あぁ、はい。まぁ、そんなかんじです」
    「何で?」
    「『アタシがトイレ行ってるすきにシェイク飲んだでしょー!』って。自分でガブ飲みしてたくせに……」
    「で、君はちゃんと言い訳したのか?」
    「しましたよ、そりゃ。けどヒステリックになると、あいつ、他人の声が聞こえなくなっちゃうんですよ」
    「何て言ったの?」
    「『僕は飲んでないよ』って。一言そう言いました」
     俺はあきれて言葉が無かった。
    「君さぁー、彼氏なんだからもっとパンチのある言葉のひとつも言ってやれないのか?負けてるんじゃねぇよ」
    「そ、そんなこと言われたって……。パンチなんて、そんな乱暴こと出来ませんよ」
    「ら、乱暴って、そうじゃなくてさ。言葉でもってパンチ力のあることを言えないのかってことだよ」
     彼氏はうつむき直して言った。
    「……暴力は嫌いです」
     再び俺の怒りゲージが上がり始めた。
    「だぁー、もうっ!彼女の思うようにされて、それでいいのか?」
    「よくないです」
    「じゃあ、やれよ」
    「僕ほら、温和な人間だから」
    「僕ほらー、って知るかよ。ガツンと言うだけだって。ずっとこのままで本当にいいのか?」
     しばらく黙った彼氏はやがて、うつむいていた顔を俺に向けた。精悍な顔付きだ。
    「……何て言えばいいんですか?僕……、いや、オレに教えてください」

     恋に悩める人間には親切な俺の意外な一面に"遭遇"した。
     彼女はトイレから戻ってきた。
     彼氏はすくっと立ち上がり、彼女に一喝した。
     彼女は彼氏に平手打ちした。
     彼氏はその反動で倒れこんだ。
     彼女は平手打ちしたせいで乱れた髪を直した。
     彼氏は倒れこんだまま男泣きしていた
     客は見て見ぬ振りをしていた。
     彼氏に助言した俺は彼らを別の席で見守っていたが、心配する必要が無いことを確認し、一回ため息をついて店の裏へと歩いていった。

     20分くらいして、店を出る時に彼らの様子を見に行った。
     彼らは隣同士のソファをくっつけ、ひじ掛けごしに手を繋ぎ眠っていた。
     あんなんでも互いに愛し合っているらしい。
     それも恋かと呟いた俺は、レジで注文に迷っているカップルの間を引き裂くように歩き、店を後にした。


    −第三話『不釣り合いなカップルの話』終わり−


    ※ラジオドラマ向け脚本のため、会話が多くなっています。ご了承ください。
  • [4] mixiユーザー

    2007年01月14日 02:22

     年が明けても、霧の朝は霧の朝だ。
     何かの比喩ではなく心残りの霧が村を覆う朝になると、心を躍らせてあの橋に向う。
     たいしたことじゃない。
     夏、そうは見えないかもしれないけど、勇気を出して彼女に話しかけてから、僕は村の人たちが何かをやり残すのを心待ちにしている。
     この村の住人として許されないことだ。毎日、やり残したことなんて無いほうがいいに決まっているのだから。
     この村では住人達に何かやり残した事があると、翌朝、濃い霧に村が覆われる。そうして、人々が前日にやり残したことを終わらせるまで、この村を曖昧で覆ってしまうのだ。
     でも、心残りの霧の朝、僕は彼女との逢瀬に弾む気持ちを抑えられないでいた。
     村の皆には申し訳ないけど、僕は彼女と共有するこの朝霧をとても気に入っている。
     
    「朝霧の予感」

     元旦だと言うのに、今日も濃い霧が村を覆っていた。
     と、いうよりも元旦の朝はいつも濃い霧が村を覆っている。
     年寄りに言わせれば元旦の霧はいつもよりずっと特別で、昨日やりのこしたことではなく、前年の心残りを晴らすまで村を覆うらしい。もちろん、朝の限られた時間にそんなものをすべて無くしてしまえる訳もなく、村の人たちがやり残したことを探して右往左往しているうちに、霧は晴れてしまうのだけど。
     でも、年寄り達の言うことはあながち世迷言ではないみたいで、この村に生まれてもう20年にもなる僕の知る限り、元旦の朝に霧が出なかったことなんて無いのだ。
    「次は、霧の元旦に会いましょう?」
     なんて彼女が言い出しても何の違和感も感じなかったくらいに。
     今にして思えば、彼女からそう切り出すことなんてそうめったにあることじゃないのに。

     橋に着くと、彼女は先に来て欄干から霧をぼうっと眺めていた。
     いつもの光景だった。
     や、と短く声をかけると、彼女はやっぱりいつものように気だるそうに僕を見やる。
    「別に元旦だからって、霧が特別何かを見せてくれるわけじゃないのよね」
     あいさつすらすっとばして、彼女はまた霧に包まれた何処か遠くをに思いをはせる。
     それも、いつものこと。
     元旦だからって、愛想が良くなったりしないのは彼女も同じだ。
     彼女の名前は飯野小枝子。
     小枝子さんは肌が弱いようで、日差しがきつい日には外に出たくないと言っていた。
     だから、というだけではないのだろうけど、もうすぐ三ヶ月もすると卒業だっていうのにいつも一人で家に篭っているのだそうだ。
     友達が居ないわけではないと思う。篭っていると言っても家からまったく外に出ないわけではないし、そこは同じ村に住む住人だから、彼女が友人らしき女の子と一緒に歩いているのを見た事だってたくさんある。
     それでも、朝霧の中に居る彼女は特別だった。
     何処か儚げで、曖昧で。
     もし彼女は霧の日にしか現れない幽霊みたいなものだと誰かに教えられたなら、それをそのまま信じてしまえそうなほどに。
     思わず、僕は彼女が本当は幽霊であるかもしれない可能性について考えているときだった。
    「悪い予感がする」
     不意に、物思いを打ち破って彼女が告げた。
    「悪い予感?」
     元旦に聞く言葉としては、最低に縁起の悪い言葉だった。
    「そう、たまにあるの。妙な胸騒ぎに襲われる事が」
     そのわりに彼女は特に不安そうな様子でもなく、平然としたものだった。
     あの夏からお気に入りになったらしいスプライトを軽く傾けて、「川にもおすそ分け」などと理解できない事をつぶやいている。
    「ぜんぜんそうは見えないけど……。まあ、でも一年の計は元旦にありっていうよ。余計な事なんて起こらなきゃいいね」
     そうね、と彼女は頷いた。
    「私ね、この時間、好き」
     やっぱりちょっと後ろめたいけどね。と、彼女は笑う。
     でも、それは僕も同じだった。
     何も、彼女と話しているからだけじゃない。
     この村の霧は特別だった。
     村人の心残りが作る霧だって言われているこの霧は、夏の朝は涼しくて快適だし、冬は……どうしようもないくらい寒いけれど、霜で覆われたこの村をやさしく包みこんでくれている。……気がする。
     それに、ずっと昔に父さんが言っていた。
     ……明日は霧が村を覆わないようにって、そんな些細な事のために、お母さんはわたしに親切にしてくれた。
     だから、お母さんと結婚したんだよって。
     心残りや後悔、遣り残した事を、霧は僕達に突きつける。
     それでも、村の皆がここを離れないのは、そんな霧に愛着を感じているからでもある。
    20年も住んでいれば、それくらいの愛着だって沸く。
    「僕も、朝霧の時間は結構好きだな。なんか、こうして昨日遣り残した事を村の皆で捜して回るのは、ちょっとしたお祭り騒ぎみたいだし」
    「私は探さないけどね、気兼ねなく外を歩ける貴重な時間だし」
    「それも含めて、ね」
     問いかけに、まあね、と頷いて彼女は空を見た。
     つられて僕も空に目を向けると、霧に覆われた空の中で、太陽が切なげに自己主張しているのが見えた。
     そう言えば、小枝子さんの事を意識し始めたのも、一人だけ橋の上で霧を眺めていたからだった。
     あれから、半年。
     僕達は橋の上のこの舞台でいろいろな事を話した。
     意味のない事や、或いは各々にとってだけしか意味のない事がほとんどだったけれど。 
    「そういえば、前、あと少しで卒業って言ってたけど、高校でたら小枝子さんはどうするつもり?」
     僕の言葉に小枝子さんはうんざりしたように、頭を垂れた。
     無理やり夢から引き剥がされたような、そんな表情で僕をにらむ。
    「みんなそれを聞くのよね。別に同じ。この村から大学に通うだけ」
    「って、英大?」
    「ここから通うって、そこしかないじゃない」
     それは僕にとってはとても嬉しいことのような気がしたのに、僕ときたらまるでとぼけた事しか口に出せやしなかった。「じゃ、僕は先輩だ」だってさ。なんだそりゃ。
     そんな僕の葛藤を他所に、彼女は何故か後ろを向くと「そういうことになるかも」とまるで独り言のように言った。

     僕達はしばらく欄干から白く曖昧に揺れる霧を眺めていた。
     ここにくるといつも聞こえるせせらぎの音。
     霧に包まれてしまって川がまったく見えないから、僕はその音がとても好きだった。
     音だけのせせらぎは、どうしてだかこの橋で会話をするのにとても似合ったBGMのように思えた。
    「4月から、あなたが先輩になるとして」
     せせらぎの音に混ざるように、彼女の声が聞こえる。
    「今は、誰かに説明するなら、私たちはどんな関係なのかしら?」
    「お友達ってところじゃないかな? それか話し相手」
    「ちょっと違う気がする。おつきあいしている仲?」
    「それは違う、と思う」
     僕に否定させるなよ。
    「……そうよね。霧の日に橋の上で話すだけの人だもんね」
    「じゃあ、ご近所さんとか」
     彼女は考え込んで、うーん、などとわかりやすくうなっている。
    「村の仲間?」
     その後も、村民とか霧同盟とか思いつく限り口にしていると、彼女は唐突に「わかった」と声を上げた。
    「……おとなりさんだ」
    「……僕達は別に隣人じゃないよ」
    「隣人じゃなくて、おとなりさん」
    「お隣さん?」
    「そう、おとなりさん。あ、ひらがなで書いて。おとなりさん」
    「それでもやっぱり隣に住んでないことには変わらないけど?」
    「住んでいるところの問題じゃないの。……おとなりさんって感じがする。わたし達の関係って」
    「じゃ、もうそれでいいや」
     今ここに誰かが通りかかったら是非聞きたいんだけど、スタート地点として、『おとなりさん』はどうなんだろう?
     何のスタート地点かどうかは察してほしいんだけど。

     小枝子さんとの会話はいつもどおり、霧が晴れるまで続いた。
     さっきまで、あれほど切なげに自己主張していた太陽も、晴れてしまえばいつもどおり、冬だというのに盛大に僕達を照らしつける。
     じゃあね、また霧の朝に。とでも言い合って、それぞれ岐路につこうかとでもいう時、小枝子さんは思い出したかのように口を開いた。
    「起こらないよ」
     いったい何のことだかさっぱりわからなくて、「何が?」と聞き返すと、小枝子さんはいつものとおり気だるげに口を開いた。
    「悪い事」
     小枝子さんの頭の上の帽子が、冷たい風に吹かれてそっと揺れる。
    「だって、当たった事がないの。悪い予感って」
     そこまで言われてようやく彼女の言ってる事がわかった。と、いうよりも忘れてしまっていた。小枝子さんの感じた、悪い予感のこと。
    「なんかそういうの、小枝子さんらしいかも」
    「私らしい?」
     彼女が本当に不思議そうに僕を見るから、僕はなんだか可笑しくなってしまった。
    「小枝子さんらしいよ。それにこの霧の村らしい。今年一年、どうか悪い予感が外れ続けますように。って」
     ヤッホー、と、遠くから無邪気な叫び声がする。
     
     後悔した事を探し回ってるっていうのに、やり残した事を探し回っているはずなのに。
     僕達ときたら、暢気なもんだ。
     気だるげに彼女が僕を見る。
     僕も、思わず彼女を見やった。
     それから、示し合わせたように僕達は大きく息を吸い込んだ。

     最後に、遅くなってしまったけれど、あけましておめでとう。と、控えめに彼女が笑った。
     そうして、これからの一年に思いをはせる。
     
     今年一年。どうか、悪い予感が外れ続けますように。
  • [5] mixiユーザー

    2007年01月19日 02:03

    『飛び越えろカーテンコール』
     
     舞台の幕が閉じて、私たちはとりあえずほっと一息つくことが出来た。
     本当は今この瞬間でさえ、私たちは舞台に立っている限り気を抜いてはいけないのだけど、お客様の目がなくなると、否応なしに気持ちが弛緩するのがわかる。
     さて、舞台が終わって、いよいよカーテンコールの幕が開く。
     観衆の惜しみない拍手が鳴り止まない内に、興奮が冷めてしまわない間に、私たちはもうひとつの物語を始めないといけない。
     カーテンコール。
     役者と観衆と、この場に居合わせた全ての人たちに、物語をもうひとつだけ。
      
     
     私が練習場に足を踏み入れると、練習場には、とうに慣れっこになってしまった喧騒と気まずい空気が充満していた。
     何人かの親しい劇団員が、何とかしてくれと目配せをしてくるのを見て、少しだけ憤慨する。
     私は、あの二人の保護者じゃないんだから。
     険悪な雰囲気を撒き散らす二人にちらと目をやって、私は関わらないために仲間の視線を黙殺して練習場に座り込む。
     大切に使い込まれた年季のある練習場の床板の感触に、体が少しずつ高揚していくのを感じる。
     そうして、まずはこの環境に軽く体を慣らしてから、ゆっくりと、入念にストレッチを始めた。
     ストレッチの合間に、個人練習の合間におさらいしておかないといけない台詞とダンスを思い浮かべると、ようやく周囲の雑音が気にならない程度に集中出来たのがわかった。
     前回の舞台では、あの二人の勢いに呑まれて自分の演技ができなかった。
     思い出すだけで恥ずかしくなる。
     お客さんは気づいただろうか? と私は思う。今にも泣き出しそうになってしまった私を、こともあろうにあの二人がフォローしてくれていたことに。
     私にだって、役者としての意地がある。
     もう二度と、あんな情けない気持ちで舞台に立ちたくない。
     ストレッチの合間に、台詞に節をつけて口ずさむ。
     姿勢が姿勢だから、本格的に声を出すことはしない。
     ただひたすら、シーンの最初の言葉に重点を置いて、シミュレーションを繰り返す。
     そうして、ようやく満足のいくイメージを捉え始めたとき、練習場にヒステリックな声が響いた。
    「あのねえ!! いくら同じ団員だからって、あなたが私の生活態度にまで口出しする権利はないでしょ!!」
     唐突、と言えば唐突だったが、夕にとってもほかの団員にとっても予期していたことなので、何事もなかったかのように個人練習を再開する。
     関わらないのが、一番安全だ。舞台の合間のこの時間にしか、失敗を矯正する時間はないのだから。 
     先ほどの要領で、今度はイメージを具体的に形にしていく。
     シミュレーションを念頭において、体を動かす。
     そうそう、私はこの舞台の語り手なんだから、もっと落ち着いて、観衆の気持ちを代弁しないと。
     そう、この感じ。
     もっと集中して、もっと舞台を思い浮かべて……
    「橘! お前も何とかいってやってくれ。 最近の美坂の素行はとても劇団員のはしくれとは思えん」
    「夕! この堅物をどうにかして!」
     怒鳴り声にたたき起こされるようにして、顔を上げると、あの二人がまっすぐに私を見つめていた。
     ……練習場には私のほかにもたくさん人がいるのに。まして、私はちゃんとあなたたちと距離を開けて置いたのに……
    「どうして揃いも揃って私を呼ぶのよ!!」
     私が思わず叫ぶと、さっきまで険悪に口論していたはずの二人が、このときばかりは示し合わせたように大げさに肩をすくめた。
    「そう言うな」
    「夕ってそういう役割じゃない」
     いい加減溜まりかねて、夕は二人に怒鳴ってしまっていた。
    「本番前に何をやっているの!! 練習場は練習をするところなの!! 喧嘩をするところじゃないの!!」
    「まるでだだっこだな」
    「練習場で怒鳴らないでよ、みっともない」
    「みっともないのはあなた達のほうでしょ!! 佳奈美! 藤吾! 私のことはほっといて二人で防音室でけんかをしてきてよ!」
    「だけどこいつが……」
    「……藤吾の馬鹿がわるいのよ」
     わかってる、わかってるけど言わせてほしい。
    「もういいからほっといて!」
     言うだけ、無駄だって思い知ってる。
     だって、こんな小競り合いはしょっちゅうなんだから。
     要するに、佳奈美と藤吾は犬猿の仲なわけだ。
     大キライだ、二人とも。
     

     カーテンコールの幕が、ゆっくりと上がる。
     私たち劇団員は、それぞれの立ち居地で、幕が上がるのを待っている。
     その顔に、緊張は無い。一仕事を終えたという達成感も無い。
     そんなもの、舞台の上に持ち込んでいいものではない。
     ここにあっていいものは、私たちがプロだっていう、確かな確信だけ。
     さあ、心のそこからの感謝の気持ちを胸に、嘘みたいに飛び切りの笑顔で。
     鳴り止まないお客様の拍手の元、カーテンコールが始まった。

     舞台の上に作られた町の片隅に、役者たちが、あるものは腕を組んで、あるものは立っているのも億劫そうに、あるものはセットの建物の二階で、それぞれの生活をしている。
     そんな中最初にスポットが当たったのは端役の一人、こじき役の男だった。彼は自分にスポットが当たると、すかさず舞台の中央に歩き始めた。
     私は、こじき役の彼が、どれだけの覚悟でこの役に打ち込んでいるかを知っている。
     でも、そんなものは、お客様には関係が無い。
     舞台の上では、とりわけカーテンコールのそのさなかには、この劇場には、役者とお客様だけ。
     こじきの歩みは、芝居中の弱弱しい歩みそのものだったけれど、舞台の中心に立ったときだけ、彼は堂々と背筋を伸ばしてお客様に一礼した。
     彼は拍手に対して一度だけ、手を振って、懐に手を入れる。
     それから、彼はまるで手品か何かをしているのかのように大仰に、一切れのパンを取り出した。そして、そのパンを舞台の片隅で偉そうにふんぞり返ってる貴族の男に放った。
     今度は、受け止めきれなかったパンを今にも落としそうにしている貴族の男にスポットが浴びせられた。
     貴族だなんてとんでもない。
     彼の競馬の誘いに乗って、何人の仲間が大損させられたことか。
     でも、憎めない笑顔で「楽しかっただろ?」なんて嘯かれちゃうと、私たちは何もいえなくなってしまうんだ。
     貴族は、ようやく受け止めたパンを人かじりすると、こじきに軽く手を振った。
     それからパンを大事そうに懐にしまうと、一枚のコインを取り出した。
     舞台の中で怪人が追い詰められるきっかけになった、大事な大事なコインだ。
     貴族はそれをめでるように眺めた後、舞台袖から現われた執事にコインを預けた。
     それを受け取った執事は、恭しく、ゆっくりと舞台を横切る。
     貴族を照らすのに飽きた光が、執事を追いかけて照らす。なのに執事はそのコインをいきなり落としてしまうのだ。
     偶然居合わせた警察官が、不思議そうにコインを拾った。
     役者から役者へ、スポットライトのバトンが手渡されていく。
     役も現実も一足飛びに飛び越えて、今この瞬間しかありえないバトンをつなぐ。
     こじきから、貴族へ、貴族から執事へ、執事から警察官へ、そして警察官から、次の役者へ。
     スポットライトとめいめいのバトンを受け取った役者たちは、お客様に感謝の一礼。
     そうやって、ありえないバトンは続く。
     ひいきの芸人には、色づくような拍手をひとつ。おいしい役には、一際大きな拍手をひとつ。
     怪人の藤吾がひとつの鍵を受け取ると、彼は舞台中央に立つ女探偵に目を向けた。
     佳奈美はその視線に答えるように藤吾を睨む。
     私はその二人を、鍵のかかった建物の二階のベランダから見つめている。
     カーテンコールの舞台の上に、ひと時の静寂が舞い降りた。
     拍手が、とまる。
     この舞台を見慣れた観衆には、当たり前の静寂だけど、初めての人は戸惑うようにあたりを見渡している。
     タイミングをうかがっていた藤吾が、小さな鍵を遊ばすように宙に放りながら勿体をつけるように舞台に向かって歩んでいく。
    「この鍵を賭けて、最後にひとつだけ勝負をしようか、探偵君」
     藤吾の挑戦に、佳奈美は不敵な笑みを返すだけ。
    「勝負は何がいい? なんならじゃんけんででも決着をつけるべきだろうかね?」
    「何でもいいよ、私が、あなた程度に負けるわけが無い」
     佳奈美がひょいと鍵を奪い取った。
    「本編では決着がつかなかったからね、低脳な君がそういう間違った認識をするのもわからなくも無い」
     薄い笑みを浮かべた藤吾が、懐からもうひとつ鍵を取り出すと、見せびらかすように佳奈美の前に鍵をちらつかせた。
     内心、次の展開に気が気じゃないくせに……。本当に、この二人は……。舞台の上でまで、なんて生き生きと喧嘩をしてみせるのだろう。
     だから私は、この二人が大キライだ。
     二人が今にも殴り合いを始めそうになった瞬間。
     この時だけはお客さんのことを一瞬忘れて。
     二人に向かって、私は思いっきり飛び降りた。
     二階の窓から。
     お客様の悲鳴と喝采が聞こえる。
     それから、滝のような拍手の音が聞こえる。
     
     協力して令嬢を受け止めた探偵と怪人に、惜しみない拍手が送られている。
     たとえどんな筋書きの物語でも、カーテンコールの間だけは、自分たちの役も、現実のいさかいも飛び越えて。
     劇場には、観衆と役者だけ。
     嘘みたいに迫力のある笑顔で。
     心からの感謝を胸に抱いて。
     かけがえの無い仲間たちとつないだ手を高らかに空に掲げて、私たち役者は深々と頭を下げた。
     カーテンコールの幕も下りる。


    「藤吾、あんたさっきどさくさにまぎれて夕の胸触ったでしょ?」
    「あのシーンでそんなこと考えるやつがいるか!?」
    「あー、やだやだ。舞台じゃ夕を殺そうとする役のくせして、あざといんだから」
    「誤解だ。お前だって今度こそ本気で俺を殴ろうとしただろ!?」
    「はあ!? 何で私がそんなことをするわけ!?」
    「芝居じゃ勝てないからって実力行使は感心しないな」
    「……言ったわね」
    「事実だからな……」

     練習場に、いつもの喧騒の声が響く。
     知らずにため息をついている自分に気がついて、今度は意識して盛大にため息をつく。
    「夕! この馬鹿言っちゃいけないこと言ったわよ! もう容赦しないわ……」
    「橘! こいつに身の程を教えてやってくれないか」
     ことさら意識して何事も無かったようにストレッチを続けながら。
     私は次のカーテンコールに思いを馳せた。
     
     生き生きと喧嘩を続ける二人を視界の端に捕らえて、いつになったらこの二人は自分の気持ちに気がつくんだろう? なんて、私はガラにも無いことを考えてしまっていた。
     ……私たちは役者だから。
     演技も素顔も、なんだかいっしょくたになっちゃったってしょうがないよね?
     
  • [6] mixiユーザー

    2007年02月05日 02:43

     名探偵コナン二次創作「教師」

     先生、と声をかけられて振り向くと、咲さんが手を振っていた。駅から学校に向かう途中にある花屋の店員である咲さんは、どうやら朝の仕入れを行っているようだった。
    「おはようございます。咲さん。仕入れですか?」
     かわいらしい花柄のエプロンを揺らして咲さんは大げさに頷く。
    「そういう先生は、これから出勤ですよね」
     がんばって、と笑顔を向ける咲さんに申し訳ない気持ちになりながら、それでも私は自分が癒されているのがわかった。何も、今日だけのことじゃない。私はいつも元気付けられている。
     私は、もう教師を辞めてしまいたいと思っているんです。
     一瞬、胸のうちを全て吐き出してしまいたい気持ちになってしまって、あわてて自制した。
     馬鹿馬鹿しいじゃないか、咲さんに話していったい何になる?
     困らせるだけだ。それに、私にだって年上としてのプライドがある。つまらないプライドだが、今日まで教師としてやってこれたのは、このプライドのおかげだという自覚だってある。
     だから、一方的な好意で甘えてしまうわけにはいかない。
     私は、十も年下の娘に、いったい何を話してしまおうとしているんだ? と自分を無理やりに納得させて、「頑張って下さい」の一言だけを胸に刻んで、小学校へと歩き始めた。
     幾分か歩いてから笑顔と激励のお礼に、少しだけ振り返って頭を下げると、咲さんは大きく手を振って何かをしきりに叫んでいた。
     「いってらっしゃい」とそういっているような気がした。
     
     授業が始まると、動から、静へ。教室の空気は一変する。この空気の入れ替えが出来ているかどうかが、すなわち教師としての資質だと、私は思っている。もちろん、授業というのは何も教師一人が作っているものじゃない。教室に綿ボコリが舞っていないか、授業に関係の無いものが机に出ていないか、生徒たちの授業に対する興味はどのくらいだろうか。環境と人と内容。それがある程度整って、初めていい授業が出来る。私は10年を超える教師生活で、そう学習していた。
     授業のやりやすいクラスと、やりにくいクラスがある。当たり前のことだと、私は思う。そしてその当たり前のことが、とても難しい。
     何度教師をやめようと思ったか。
     今日はテストをする。と告げたときの生徒の反応は悪かった。これも当たり前のことだ。だが、授業が出来なくなるほどではない。
     生徒のご機嫌を取って、体育に変えてやるほどではない。
     神楽坂先生が担当するこのクラスは、比較的やりやすいクラスと言えた。問題が無いとはいわない。むしろ、私に言わせればどのクラスよりも問題のあるクラスだ。勉強をする、物覚えもいい、むやみに先生に突っかかってくる生徒もいない。普通に考えたら、優秀な暮らすだろう。
     だが、このクラスには少年探偵団がいる。
     無意識に、目が彼らを探しているのがわかった。
     小嶋元太、吉田歩美、円谷光彦、灰原哀、そして、江戸川コナン。
     彼らは、特に問題を起こすような生徒ではない。
     それゆえに、私は彼らに危惧を抱いてしまう。
     彼らは、事件に「遭いすぎている」
     誘拐、失踪、窃盗、果ては殺人に至るまで。
     担任の先生の話を聞いて、私は驚きを隠せなかった。
     今はいい、そのことに何の違和感も感じないかもしれない。
     まだ年端もいかない小学生だというのに、彼らは、人が刺されるのを見たことがあるのだ。
     ……それだけじゃない、死体さえも。
     試験を監督する目が、必然、江戸川に吸いつけられる。
     大きな目立つめがねをかけた、一見するだけならどこにでもいそうな小学生。彼は、小学生らしく一問ごとに躓きながら、頭を抱えてテストに挑んでいる。
     どこで引っかかっているのかだろう、と興味を持って除いてみると、江戸川は私を見てやりにくそうに笑った。
     どこにも、不自然なことは無い。はた目には。
     ただ、私は何度もこのテストをしてきたからわかる。……私にしかわからないかもしれない。
     彼の理解力なら、そして、それまでの問題の傾向から『江戸川コナンが躓くような要素が、この問題には無い』ということを。
     少年探偵団の彼らには、どこか、小学生らしくない違和感がある。
     これはただの、私の教師としての勘にすぎない。
     だが、このクラスを見に来るたびに、彼らに授業するたびに違和感だけが広がっていく。
     もしかしたら、私は、小学生の皮をかぶった何か得体の知れないものと対峙しているのじゃないか、と。
     ……良くないな。タバコを切らすと、いつも余計なことを考えてしまう。胸ポケットに入ってるはずのマルボロにそっと手を添えて、私はこのテストの間、どうにか平静を保っていられることを祈った。
     教師なんて、やるものじゃない。

     職員室に答案を置くと、私はすぐに屋上に向かった。
     立ち入り禁止の看板をまたぎ、屋上の扉を開けると教室にまでは届かなかった暖かい日の光が私を迎えてくれているような気がした。
     少し、風が強いが、タバコに火をつけるのに難儀するほどではない。
     肺に煙が充満していくのがわかると、私はすぐに江戸川のあの答案について思考をめぐらせていた。
     一言で言うなら、彼の失点は全てケアレスミスによるものだ。言い方を変えるなら、彼は今行っている授業のレベルなら完璧に理解しているはずだ。
     彼は普段、進んで自分の理解度を周囲に自慢するようなタイプの人間ではない。それは授業中の態度からも伺える。名指しで指さない限りは授業中は外ばかりを見ている、かといってその授業を聞いていないというわけでもなさそうだ。それは、彼の成績を見ればわかる。最近は塾に通わせる親も多いからあながち当てにならない指標ではあるが、彼が塾に通っていると聞いたことは無い。もちろん、把握していないだけかもしれないが。
     そういえば、授業が終わった時に聞いた見たことがある。「学校の外に何か見えるか?」と。
     あの時江戸川はたしか、「高校が見えるから」と言っていた。
     小学生にはあまりしてほしくない顔をしていた。冷めてるわけじゃない、決していじけているような顔でもない。
     何かに置き去りにされたような顔。
    「蘭姉ちゃんが居るから」
     ごまかすように笑うと、彼は興味をなくしたようにまた外の風景に目をやった。
     確か、そのときから私は江戸川に興味を持ったのだ。
     小学生には、あんな顔をしていてほしくは無い。
     場違いな場所にうんざりする様な顔も。
     ごまかすように取り繕って見せる笑いも。
     余計なことを考えているな、最近の私はいつもそうだ。らしくない。
     思考をさえぎるように、バタンと扉が閉まる音がした。
     驚いて見ると、江戸川のクラスの担任が歩いてくるところだった。
    「先生、良いんですか? 採点しないで」
     めがねをかけた理知的な、悪く言えば御堅いとでもいえそうな容姿をした先生だが、生徒からは慕われている。以前は生徒と自然に接することが出来なかったようで心配していたが……それも杞憂だったようだ。
     むしろ私のほうがよほど……彼らを気味悪く思っているのだから、そんな心配をするほうが小林先生には失礼だろう。
    「いえ、すぐに戻ります。すこし、気晴らしに来ただけですから。小林先生こそ、どうしてこちらに?」
     ここは立ち入り禁止のはずでは? と私が問いかけると、小林先生は心外そうに眉をひそめた。
    「それは私の台詞です。屋上でタバコを吸うなんて、生徒に示しがつかないじゃないですか」
    「ああ、申し訳ない。ここ、落ち着くんですよ……どうも人が多いところは苦手で」
    「鞍馬先生も教師なんですから、もう少し自覚してください。生徒は見ているんですよ」
    「いや、誰にも見られないように注意していたはずですが……」
     私だって教師だ、隠れてタバコを吸っているところを小学生に見せたくは無い。
     江戸川が?
    「いや、参りました……子供の目ってのは侮れないものですね」
     いいながら、ポケットの携帯灰皿を取り出して、タバコを押し付ける。
    「もう戻りますよ、ずっとここでタバコを吸っているわけにもいきませんから」
     私がいうと小林先生は当然とばかりに大きくうなずいた。……なるほど、生徒から見たらこういう教師なわけだ。と少し納得する。

     職員室に向かう階段で、小林先生に聞いてみることにした。
     彼女のほうが私よりずっと彼らについて詳しいだろう。なにせ子供の視点で彼らと接することの出来る教師だ。なにより、彼らの担任でもある。
    「確か、小林先生は非公式とはいえ少年探偵団の顧問をされているんですよね?」
     彼女が職員室でそんなことをいっているのを聞いたことがある。
     そのときはくだらないと思ったが、今はそれが少しでも心強い。
     私にとっては、得体の知れない何かではあっても、彼女にとっては生徒なのだ。それも、ごく親しい生徒。
     私のくだらない疑念くらいなら、解決してくれるかもしれない。
    「ええ、あの子達は突っ走るところがありますから、やっぱりどこかで大人が見守っていないといけないと思うんです。しっかりしているけど、まだ小学一年生なんですから」
    「でも、そんなに危険なことをしているわけではないのでしょう? 少し過保護なのでは?」
     少年探偵団がどんな事件に遭遇してきたのか、その一部なら私も知っている。小林先生の感覚は過保護なんてものじゃない。まったく認識が足りないといってもいいくらいだ。
     だが、小林先生の口から実際に彼らがどれほどの問題に直面しているのか、聞きたかった。
     そのためには、あえて何も知らない振りだってする。
    「そんなことありませんよ! 実際、殺人事件に巻き込まれた事だってありますし、犯人として疑われた事だってあるんですから!」
     彼女のいう事件は私も知っている……と、いうよりどの事件を指してそれをいっているのかわからないほどに、彼らはそういう事態に遭遇している。
    「……そんなに大変だったんですか。そこまでひどいなら一度議題に取り上げたほうがいいかもしれませんね。ただでさえ、最近この町は犯罪が増えていますから」
     私の言葉に、彼女は消極的にうなずいた。彼らのために大事にしたくないのだろう。……気持ちはわからなくも無い。
     もしも、このまま少年探偵団が事件に遭遇し続けたら、いったい彼らはどういう人間になるのだろう?
     何度も何度も人が人を殺すと言う事実を突きつけられたら、彼らがいつか人を殺さないと、誰が言えるのだろう。
     気味が悪い、得体の知れない、などという私の感覚すらくだらないと言えるほどに、それは切実な恐怖だった。
     私は教師だ。
     彼らを見るたびに、私は揺れる。
     教師として、彼らに何をするべきなのだろうか。
     ……何かに取り残されたような、江戸川コナンの顔。
     あんな無力感に打ちのめされるくらいなら教師を辞めてしまいたい。何度そう思ったことか。
     だが、辞めてしまうことも出来ずに、私はまだ、彼らを気にし続けている。
     もうずっと前から突きつけられてきた、問いだ。
     教師として、私は彼らに何をしてやれる?
    「鞍馬先生、どうしたんですか?」
     考え込んでしまっていた私に、小林先生が心配そうに声をかけてきた。
     いえ、とだけ声を返して、職員室の扉を開ける。
     自分の机に向かいながら、私は必死に考えていた。
     私は、江戸川や少年探偵団達に恥じない、教師としての答えを見つけなければならない、と。
     彼らがたとえどんな人間であれ、今はまだ彼らは私の生徒に違いないのだから。
  • [7] mixiユーザー

    2007年02月08日 14:37


    名探偵コナン二次創作「教師」

     その日の午後、事件が起きた。
     ある六年生が屋上から転落したのだ。
     事後の状況から、警察は他殺の可能性も考えて行動を開始したようだった。
     なぜ、私がそんなことまで知っているのかというと、馬鹿馬鹿しい事だが、私が最有力の容疑者だったからに他ならない。
     そもそも屋上は立ち入りが禁止されている。生徒どころか、教師ですらめったに近づかない場所なのだ。変わり者のある一人の教師、つまり私を除いては。
     もっとも、動機が無い点や、自分がよく行く場所で犯罪を犯す馬鹿がいるだろうかといった至極真っ当な理由で、最有力とはいえいきなり犯罪者扱いをされたわけではない。
     一番の問題は、ここが学校という点だった。あの先生が怪しい、などと生徒が騒ぎ出したら手のつけられないことになる。
     だから私は、明日から謹慎を受けることになっていた。私がルールを頻繁に破っていたのが原因なのだから、反論の余地はない。謹慎などしたらかえって生徒をたきつけるだけなのでは? とも思ったが、それが学校の判断なら従うまでだ。
     警察の事情聴取を終え、廊下を歩いていると、あろうことか今一番見たくない連中が揃って私を待っていた。
     少年探偵団だ。
    「授業はどうした」
     多少自制したつもりだが、それでもうんざりした声でたずねる。
    「僕たちおなかが痛くて」
     少年探偵団のメンバーだけ揃って腹痛だと? ふざけてるのか? 
     一瞬、自制が効かなくなるくらい激昂しかけたが、小学生ならそんなもんかもなと無理やり納得させて気を落ち着かせる。
     十くらい数えたほうが効果的かとも考えて、これだけ余裕があるならこいつらの茶番に付き合ってやるのも大丈夫だろう、と判断した。
    「それは大変だな。保健室は一階だ、この階にはないぞ」
     と真面目ぶって応えてやる。
     すると、彼らは思いのほか真剣に私を見た。
     一番後ろでなにやらいいたそうにしていた吉田が、こらえ切れないとばかりに叫んだ。
    「私たちわかってるんです! 鞍馬先生が犯人じゃないって」
     そんなことは、私が一番良く知っている。
    「先生は、そんなことをする人じゃないんです!」
     吉田が感極まったように私を見た。……私はその視線に、なぜだか妙な居心地の悪さを感じていた。
     違和感、そして気持ち悪さ。
    「先生、本当は生徒のことを大好きだって、私知っているんです!」
     ……やめろ。
     吉田歩美の言葉に勢いづいたように、円谷が口を開く。
    「先生が、授業に来た時間を逆算すると殺せるわけがないんです」
     ……小学生が、偉そうに推理を語るんじゃない。
     小嶋が胸をたたいて誇らしげに言う。
    「先生、俺たち信じてるぜ! だから大船に乗ったつもりで居てくれよ」
     ……人が死んでいるんだぞ。これはお前らが関わっていいようなものじゃない。
     江戸川がこれ以上無いという真剣な目で、私にいう。
    「鞍馬先生、屋上で何か不思議なことはなかった?」
     気がついたら、私は彼らに怒鳴っていた。ふざけるな! と。
     大人気ないことはわかっている。教師のとる態度じゃないことも。だがそれ以上に、私は気味が悪かったのだ。
     同じ学校の生徒が死んでいるというのに、彼らはまず私のことを案じた。優しい生徒だと感動することも出来たのに、それ以上に私は、彼らが人が死ぬことに慣れきってしまっていることに耐えられなかった。
    「とっとと教室にもどれ! 二度と事件のことを口にするな! 良いな!」
     怒りのままに命じると、不満そうに彼らは教室に戻っていった。
     ……彼らが居なくなっても、気持ち悪さは抜けそうに無かった。

     情けない話だが、私は少しもどしてしまっていた。
     洗面台の鏡に、四十近い冴えない男の顔が映っている。
     教師としての答えは見つからない、だが、ひとつだけはっきりとわかったことがある。
     もう、二度と、あいつらを事件に関わらせてはいけない。
     少年探偵団を、少年探偵団ごっこにしてやらなければならない。
     あいつらをただのガキどもに戻してやらないとならない。
     自分にかかった疑惑なんてものは、時間が立てば警察が解決してくれるだろう。
     だが、それでは遅すぎるのかもしれない。
     あいつらが関わるより早く、こんな事件終わらせてやる。
     そのためなら、探偵の真似事だってしてやる。
     勢いよく水が流れる音に正気に戻され、もう一度鏡を見ると、冴えない顔をした男が、冴えないなりになにか吹っ切れた顔をしているように見えた。
     
     二時間後。視聴覚室には今回の事件に関わった全ての人間が集まっていた。
     もちろん、生徒を除いて。
     集めた証拠に基づいた真相に間違いがないことを何度も何度も頭の中でシミュレートしながら、私はもったいぶってゆっくりと口を開いた。
     大丈夫、講義と同じだ。
     推理なんて特別に考える必要はない。これは授業だ。
    「問題は全て出揃いました。皆さんの答案も見させていただきました」
     突然何を言い出すのかと、視線が私に集まる。
    「この案件の真相は全てわかりました」
     私の言葉に、視聴覚室が揺れる。
    「それでは、答え合わせを始めましょう」
     言って、関係者一人ずつに眼を合わせていく。
     目暮という刑事が居る。佐藤と名乗った女刑事も。
     私の同僚である教師たちにも、うなずいてみせる。安心してほしいと。
     そして、生徒に手をかけた犯人にも目を向ける。
     視界の端に、江戸川がいるのが見えた。
     性懲りもなく、首を突っ込もうとしているのだろう。
     時計を構えるようにして私を見つめている。
     それを最後に、私は何故か猛烈な眠気に襲われた。

     それからのことは良く覚えていない。
     ふとわれに返ると、犯人と目星をつけていた男がなにやら身の上話を始めていて、同情するように周りの人間が涙を浮かべていた。
     私はそのことには心底興味がなかったので、そっと視聴覚室を後にした。
     あの男は、生徒を手にかけた男だ。それで十分だ。
     
     屋上には、生々しい捜査のあとが無数に残っていた。そのことが、ここから一人の生徒がおちたことを如実に物語っていた。
     犯人が捕まったところで、気持ちは何も晴れなかった。
    「鞍馬先生」
     声をかけられて後ろを見ると、江戸川が立っていた。
    「帰れ、ガキはとっとと帰ってゲームでもしてろ」
     それがお前らの仕事だろ。
     人が死ぬとか、犯罪とか、そういうのとは一切無関係に暢気にしてるのが、お前らの仕事だろ。
    「ゲームなんて持ってません」
    「じゃあ、仮面ヤイバーごっこでも、仮面ヤイバー電王ごっこでもしてろ」
     少年探偵団なんて、ガキに似つかわしくないことをやってないで。
     あくまでそっけなく私が突っぱねていると、江戸川が苦笑したように見えた。
     ガキらしくない、嫌な表情だ。
     私も大概大人気ないが。
    「とっとと帰って、子供らしく外で遊んできます」
     それがいい。
     今のが小学生らしいリアクションかどうかは、今回は不問にしておいてやる。
     江戸川が屋上から走り去っていくのを見ながら、胸ポケットからマルボロを取り出す。
     嫌な気分だ。何にもちっとも変わりやしない。
     あいつらにしてやれることなんて、何もありやしない。
     だというのに。
     だというのに、タバコが最高に美味かった。
     空には、悠然と雲が流れ。こうしてタバコをふかしている今も、この灰戸市のどこかで何かの事件が起こっている。
     二度とあいつらを事件に関わらせない。それだけを胸に、最低の気分を抱えたまま、私はタバコをふかしている。


      「蛇足・名探偵コナン的なエピローグの手続き」

    「先生が事件を解決したんでしょう? なのに何でそんな顔をしてるの」
     急かされるままに事情を説明すると、咲さんは困ったように私に聞いた。
     学校の帰り道、計ったように咲さんと出くわした私は、学校で起きた事件がすでに町内で話題になっていることをようやく知った。
     この市では特に珍しいことではないが、事件がスピード解決したので関係者の口もゆるくなっていたのだろう。
     ただし、噂話には尾ひれがつくもので、咲さんの耳に届くころには被害者は私ということになっていたようだった。
     そんな事情もあって、さすがに何も言わないわけにもいかず、私は洗いざらいを咲さんにしゃべってしまっていた。
     教師にはあるまじきことだ、今後の反省課題として覚えておこう。
    「解決したって言っても……推理をしたときのことなんて何も覚えちゃ居ないんですよ。気がついたら犯人がおいおい泣いてたってくらいで」
    「よっぽどテンパってたんですね……でも、最初はそういうものかもしれませんね」
     フォローするように咲さんが言う。
    「最初は、って次があったら困りますよ」
     ですね、と咲さんが笑っているのを見て、ようやく私はささくれ立っていた気持ちを慰めることが出来た気がした。
    「でも、それだけじゃないんですよね。なんとなく、私は何かをしくじったんじゃないかってそんな気がするんです」
     本当は何もできていなかったんじゃないか、そんな気がしてならない。
     脳裏には、時計を構えた江戸川の姿がちらついていた。
    「犯人は捕まったじゃないですか。……そりゃ、亡くなった生徒さんはかわいそうだったけど」
    「そういうことじゃないんです。……今、この灰戸市で年間どのくらいの事件が起こっているかって、聞いた事がありますか?」
     問いかけに、咲さんは真剣な面持ちでうなずいた。
    「ざっと、漫画にすると56冊分くらいですよね」
     ……何で漫画?
    「一冊三事件で計算すると、ざっと百六十八件です。」
    「……ま、まあそうです」
     うそ臭い咳き込みなんかしてみて、間をつなぐ。
    「真面目な話、その百六十八件のうち何件に少年探偵団が絡んでいるのかは知りません。でも……あいつらをそんなことに巻き込みたくないんですよ。小学生らしい生活をさせてやりたいんですよ。……死体になんか、慣れてほしくないんです」
    「本当に彼らを事件から遠ざけることが出来たのか……自信が持てないんです」
    「先生、先生はまだ決めたばかりじゃないですか。これからです、今日からですよ。探偵の真似事だけじゃなくて、教師として生徒を事件から遠ざけるのは、今日始まったばかりなんです」
     これからが、大変なんだと思いますよ。そう言って、咲さんは私の肩をたたいた。
     私が彼らにしてやれること。それはまだ始まったばかりだ。

     暗転
  • [9] mixiユーザー

    2007年03月01日 09:29

    【鏡鬼】


     少し遅めの夏休みをケイコとマナミは取っていた。まだ紅葉には早すぎるし、海には遅すぎる。とても微妙な季節ではあったが、久しぶりの2人だけの旅行を楽しんでいた。
    「ねぇ、ここが仲居さんが言ってた洞窟かな?」
     マナミは、ケイコの腕を掴みながらそう言った。2人は泊まっている旅館の仲居から、面白い話を聞いたのだ。


    「お客さんも、鏡鬼が目的ですか?」
     2人が出かけようとした時、仲居がそう声をかけてきたのだ。名前は『高橋 亮子』というらしい。名札がついているので、この旅館の仲居の名前は全て一目瞭然。しかし、ケイコとマナミは、その仲居の言葉の意味が分からずに、互いの顔を見合わせた。この時、ケイコは嫌な予感を感じていた。マナミという子は昔からとても好奇心が旺盛で、面白そうな事があればすぐに顔を突っ込む。そして案の定、マナミは目を輝かせて仲居に聞き返した。
    「何ですかそれ?」
    「え、知らなかったんですか。私は、女性2人だし、夏でも秋でもない季節だったので、それが目的だと思っ―」
     その間でも、マナミ待ちきれずに仲居を急かす。
    「そんなことはどうでもいいです。鏡鬼って何ですか?」
    「コラ、マナミ。人の話は最後まで聞くようにって、昔から言ってるでしょ」
    「え〜、でも〜」
    「いいですよ。私はそんな事気にしませんから。鏡鬼というのは、この旅館の近くにある洞窟に住むといわれている、人の真実の姿を見せる鬼の事です」
    「真実の姿を、ですか……」"何だか、随分胡散臭い話だな……"
     そうケイコは思ったようだが、マナミの目は輝いていた。


     そして、2人は今、その洞窟の前まで来ている。
    「ねぇ、入ろうよ」
     マナミは怖がりながらも入ろうと言っているが、格好は完全に逃げ腰になっている。
    「マナミ。入ってもいいけど、それならせめて前に出ようよ」
     洞窟から隠れるようにケイコの後ろにマナミはいた。
    「だって……。怖いんだもん」
    「あのね。さっきの話なんて所詮作り話で、そんな鬼いないに決まってるでしょ。まったく、怖がりも治ってないんだから」
    「いいよ、分かったよ。入ればいいんでしょ」
     そう言ってマナミは1人で洞窟に入いった。
    「コラ。一人で行ったら危ないでしょ」
     ケイコは、まるで子供をあやす母親のようだ、と心の中で思いつつも、心配なのでマナミを追いかけて洞窟に入った。




     洞窟の中は、先程の仲居が言っていたように、数メートル先も見えないくらい真っ暗だった。壁に手を付いてでないと進めないので、仕方なくそうして進む。マナミは、結局ケイコの後ろにくっついていた。
    「や、やっぱり、怖いよ〜」
    「あのね、マナミ。せめて自分の分の懐中電灯くらい持ちなさい」
    「え〜、だって―」
    「あ!」
     マナミが駄々をこね始めようとした時、道が二手に分かれている所に着いた。
    「ここが仲居さんが言ってた分かれ道ね」
     ケイコは平然と喋っているが、マナミは完全に怯えていた。
    「な、何か、ここ寒くない?」
    「それは洞窟だからでしょ。それでマナミ、どうするの? ここまで来て、何もしないで帰るの?」
     先程までとは違い、ケイコがなぜか積極的に行きたい素振りを見せる。
    「私は行ってみたいんだけど? この分かれ道を、1人ずつ行かないと鏡鬼には会えないんでしょ?」
    「そ、そう言ってたけど……」
     「それじゃあ」と言って、ケイコはマナミの手を引き離した。「私は右の方を行くから、マナミは左ね」と、ケイコが進もうとしたが、マナミが心配そうにケイコに話す。
    「ケイコ、ホントに大丈夫かな?」
    「心配ないよ。怖いんだったら、そこに残ってて。私だけどんなのかを見てくるから」
     ケイコは、そう言い残して闇の中に消えていった。それを見送ったマナミも、仕方が無いといった感じで、左の道に進んだ。


    「失敗したかな? ちょっと怖がらせすぎたかも」
     ケイコは少しだけ後悔をしていた。いつもなら、マナミを怖がらせるような事はしないのだが、相変わらずの性格だったので、反省させる意味でも進みたい様な素振りをしてみたのだ。本当は、大して鏡鬼になど興味はなかった。ただ、洞窟の1番奥に、鏡鬼の腰掛があると言っていたのを思い出して、どんな物を腰掛けと言っているのかを見て、ただの石なら、仲居に「くだらない石があっただけ」と言ってやろうと決めていたのだ。そんなことを考えていると、洞窟の一番奥らしき広い空間に出たその瞬間に、何者かの気配を感じた。
     "こんなところに人がいるの? まさか、わざわざ怖がらすために人を仕込んでいるの?"
     などが頭を巡っていると、暗く広い空間に声が響いた。
    『お前さんがケイコかい?』
     いきなり、聞いたことも無い、低く背筋が凍りつくそうな声で、自分の名前を呼ばれ、少しだけ怯んだケイコだが、すぐに平常心に戻ると気の強い声が暗い空間に木霊する。
    「あなた、旅館の人から雇われたんですか?」
     ケイコは質問をしながらも、声の主を懐中電灯の光で探していた。
    『俺様が雇われた? それはちょっと違うな? どちらかと言うと、俺様があいつらを雇ったって方が正しいだろうな』
     その声を聞いているのか、いないのか。ケイコの頭の中は、相手の姿を見つけることに必死になっていた。それを悟ってか、声の主が喋りかける。
    『おいおい。お前さん、俺様を探すのに必死かい? なら、教えてやるよ。腰掛のような、丁度いい石があるだろ? そこに俺様はいるぞ』
     ケイコは、心臓の音がこの空間中に響いているように感じた。声の主が言ったところは、既に見ていたのだ。しかし、そのことを理解したくなかったのか、見なかったようにしていた。その腰掛のような石の上に、もう一度光を当てた。そこには、光を吸い込むような影と、人のものではない、鋭く獲物を定めたような鬼の目が浮いていた。
    『そうだ。これが俺様だ。お前さんが来て、すぐに目が合ったんだがな。まあいい、そんなこと。それよりも―』
     ケイコの目は、影の中から現れる、声が聞えるたびに見える口の中と鋭い牙に釘付けだった。そして確信できていた、いるはずも無い鬼が存在していたのだと。
    『お前さんも、自分の真実の姿が知りたいんだろ? だったらまず、お前さんと一緒に入ってきたマナミの姿も知らなくちゃいけない』
     その言葉に我に返ったケイコは、大きな声を出した。
    「ちょっと、マナミには手を出さないで! あの子は、本当にいい子なのよ!!」
     影は大声で笑う。
    『はーっはははは!!! お前さんは、何も分かってないな。人間にいい奴なんていないんだよ。その証拠に、お前さんがいい子だと言った、マナミの真実の姿を見せてやるよ』




     ケイコの目の前には、マナミの死体があった。ケイコが首を絞めた後が、くっきりと残っている死体が。
    「アンタが、アンタがいけないのよ、マナミ!! 私達結婚の約束もしてたのに、私の誕生日に約束してたのに!! 最近冷たくなったのは、アンタのせいだったのね!! 何でアンタは、いつも私の邪魔をするの? ねぇ、マナミ? あの人は、ケイスケは私の1番大事な人なの! だから、誰にも渡さない、例えそれが私の1番の親友でも」




    「気を落とすなよ、ケイコ」
     マナミの葬儀を終えて、ケイコはケイスケと2人でレストランで食事をしていた。マナミの死因は絞殺。その犯人は、既に捕まったという。
    「けど、酷いよな。ケイコと旅行を終えた次の日だったんだろ? マナミちゃん殺されたのって?」
     そう聞いて、ケイスケは心の中で「しまった」と思った。その言葉と同時に、ケイコが目の前で泣き崩れたから。それを宥めるのに、相当の時間が必要なのは分かっていた。だから、家につれて帰り、ベットに寝かせつける方法を取ったのだ。もちろん、手を繋いだままケイコは寝付いたので、起こさない様に手を解くのにも時間が掛かった。
     "けど、随分と情緒不安定だな。親友とはいえ、ケイコらしくない"
     そんなことを考えながら、ケイスケそっとケイコの家を後にして、自分の家に帰った。


     家に着くと、すぐに冷蔵庫から飲み物を持って、ベットに向かった。部屋に明かりも点けず、ベットに腰を掛けるて先程の事を考えていると、どこからともなく今までに聞いた事も無い声が聞えてきた。
    『いい事を教えてやろうか?』
     その声に反応して、ケイスケは辺りを見回した。そして、台所に、影のようなものが居ることに気づいた。
     「誰だ!」"泥棒じゃなさそうだなが"
     影は喋る。楽しげに。
    『お前さん、似てるなケイコに』
     "な、何なんだ? ケイコの知り合いか? それにしては―"
     影は喋り続ける。
    『お前さんの大事な女。ケイコの真実の姿を見せてやろうか?』
     ケイスケはその言葉に警戒しながらも、少し気になって同意した。
    「真実の姿? 見てやってもいいが、もしケイコを侮辱するような事を言ったら承知しないぞ。それに、お前には後で警察に行ってもらう」
     影は少しだけ不思議に感じたようだった。
    『随分と落ち着いてるな、お前さん』
    「一応、空手をやってるんで」
     影は「そうかい」と言って、真実の姿を見せた。その内容はケイスケにとって、とても信じる事が出来るものではなかった。
    「ケ、イコ、ケイコが、マナミちゃんを殺したって言うのか? そんなことある筈ないだろ! ケイコはマナミちゃんのことを―」
    『殺したのさ』




    「話って何?」
     ケイスケは次の日の朝早く、ケイコを公園のベンチに呼び出していた。2人とも、朝には似合わない昨日と同じ喪服姿のまま。
    「話、聞いたんだ」
    「何の話?」
     ケイコの声からは、生気を感じられなかった。だが、そんな事とは関係なくケイスケは続ける。
    「ケイコが、お前がマナミちゃんを殺したって話」
     ケイスケは、そう言った時のケイコの反応を見て判断しようと決めていた。まだ信じてはいなかったから。
     "落ち着いてるな。昨日の影の言った事は、嘘だったんだな。それとも、単なる夢だっ―"
    「何だ―」
     ケイスケの頭の中では、もう既に答えは決まったようだったが、ケイコが力なく続けた。
    「知ってたんだ」
     その言葉を、ケイスケはすぐに理解する事が出来なかった。
    「し、知ってた? え、どういう―」
    「もう知ってるんでしょ? 私がマナミを殺した事。……何でそんなに驚いた顔をしているの?」
    「そ、んな……。なあ、ケイコ! 嘘だろ?」
     ケイコはベンチから立ち上がりながら、「嘘じゃない」と言った。そしてケイコは、立ち去る前に最後になるであろうケイスケの顔を見ようと振り返った。その時、自分の首に手があることに気づいた。ケイスケが首を絞めていたのだ。そしてその時、自分がマナミの首を絞めている時のマナミの顔が恐怖に歪んでいった事を思い出していた。
     "あぁ、マナミも同じものを見たんだ"
     ケイスケの後ろには鬼がいた。こちらを満面の笑みで見ている暗い光を吸い込む影の鬼が。


    「はぁ、はぁ、はぁ、」
     ケイスケはベットから起き上がった。汗が体から溢れる様に流れ、体中は震えている。
     "さっきのは、夢? そ、そうだよな、俺が―"
     外はまだ暗かったが、時計を見ると朝だった。ケイスケがベランダが騒がしい事に気づきそちらに目をやると、そこにカラスが群がっているのが分かった。ケイスケには何に群がっているのかは確認できなかったが、確認をしなければならないような感情になった。ゆっくりと、ゆっくりと近づくベランダに近づく。そして、思い切り窓を開くと、そこにはケイコの死体が転がっていた。それを見て、ケイスケは崩れ落ちた。
     "そんな……。まさか、さっき見たのは、夢じゃ、ないのか? だったら、だったら俺がケイコを―"
    『殺したのさ』
     その声とその言葉に聞き覚えがあったケイスケは、恐る恐る声のした方に振り返ると、壁にもたれかかっている影がいた。
    『何泣いているんだ? ケイスケ、お前さんが殺したんだぞ、その女』
    「違う! 違う!! 俺が、俺がケイコを殺すはずが無い!!」
     影は牙を剥き出しにして、笑顔を作った。
    『お前さんが殺したんだよ。ケイコがマナミを殺した理由も知らないままに』
    「理由?」
     ケイスケはゆっくりと思い出していた。影が昨日言った事を。
    「お前が、言ってたじゃないか、ケイコが、マナミちゃんを殺したって!」
    『で、何でお前さんがケイコを殺さないといけない?』
     その言葉に、ケイスケは固まった。
     "そうだ。俺がケイコを殺さないといけない理由って、何だ?"
     影は存分に楽しむ。この、何よりも1番好きな時間を。
    『その前に、ケイコがマナミを殺した理由を教えてやろう。それは、お前さんがマナミを孕ませたっていう真実を教えてやったのさ』
     ケイスケには、何の事だか分からなかった。
    「何言ってるんだ? 俺がマナミちゃん妊娠させたって言うのか? そんなわけないだろ! 俺はマナミちゃんに、指1本触れた事なんて無いぞ!」
     影は、声を出して笑う。
    『そうだよな。お前は、何もしちゃいない。けど、それでマナミを殺したんだよ、ケイコは。俺がケイコに見せたのは、マナミを殺したいと思う、ケイコ自信のココロだったのさ。ケイコは、昔っからマナミのことが、心のどこかで嫌いだった。嫉ましかった。そう、いつか殺してやりたいと思うほどにな。それを見せてやったのさ、ケイコにな。すると、簡単に信じて殺したってワケだ、マナミを』
     そのことを聞いて、ケイスケの震えが、恐怖から怒りに変わっていた。
    「だったら、だったらお前が殺させたってワケか!」
    『ああ、そうだ。けど、お前もケイコをどうにかしたかったんだろ? 何せ、その女さえいなければ、お前さんは社長の娘と結婚できたんだからな。けど、どうする事も出来なかった。別れる適当な理由が見つからなかった。そう、じゃまなその女を捨てる理由が見つから―』
    「違う! 違う!! 俺はケイコを愛してた!」
    『そう。マナミじゃなく、本当はケイコの腹にガキがいたか。だから仕方なく、結婚の約束をしたんだろ?』
    「貴様!!」
     ケイスケが影に殴りかかろうとした時、カラスの鳴き声以外聞こえなかった部屋の中に、玄関の呼び鈴の音が響き渡った。
    『あぁ、そういえば昨日、ケイコを侮辱したら、俺を警察に連れて行くって言ってたよな? そんなのは面倒だから、ここに呼んでおいたぜ、警察を』
     ケイスケの顔が急激な勢いで歪んでいく。それを楽しげに見ながら影は近づき、ケイスケの耳元で囁いた。
    『死体は不味いよな。今から隠すわけにもいかねぇよな。だった、死体なんて食っちまえばいいんだ。なぁに心配いらねぇよ、俺様も手伝ってやる。俺様が解体と調理をして、お前さんが食う。ただそれだけでいい。そうすれば、この部屋からは何も出ないし、誰にも死体なんか見つかるわけがない。そしてお前さんは、晴れて社長の娘と結婚して幸せを手にする。どうだ? いい事しか無いだろ』
    「ほ、本当か? 本当なんだな? 本当にそれだけでいいんだな?」
    『ああ、もちろんだ』


     呼び鈴がなり続ける中、ケイスケは一心不乱に出される料理を食べ続けた。
    『さぁ、次の料理は親子の生みそ丼だよ』
     影は、とても楽しげに調理を続けた。全ての肉片を食べ終わるまでにどれくらいの時間を費やしたか分からなかったが、ケイコの肉片が無くなった事で、緊張の糸が切れたケイスケは、いつの間にか眠りに落ちていた。そしてケイスケが次に目を覚ますと、そこはベットの上だった。全身からは、汗が噴出していた。時計を見ると、どうやら今は朝らしい。この日の朝も、昨日と同じように外は暗かった。そして、ベランダから昨日と同じような羽音が聞えている。
     "何だ、カラスがベランダに群がってるな?"




    「あの、番頭さん?」
     女性2人の旅行客のようだ。
    「はい、何でしょうか?」
    「ここの旅館の人には、全員に名札が付いているんですね」
     ここの旅館では、そういう決まりなのだ。
    「えぇ」
    「あなたは、"篠崎 慶介"さんって言うお名前なんですか」
    「そうです。何かあれば、名前で呼びつけてくださいね」
     田舎の旅館の番頭にしては、随分と男前だった。
    「は〜い」
    「アンタ、ほっとに男前に弱いわね」
     番頭は2人の前から去ろうとしたが、少し歩いたところで立ち止まると、2人に振り返りこんな話をし始めた。
    「あの。やっぱりここには、鏡鬼が目当てでいらしたんですか?」


    ―終わり―
  • [10] mixiユーザー

    2007年03月28日 01:44

    「勢いあまって」

     男の子との正しい付き合い方、なんてのが教科書にあったら是非参考にしたいと思う。STEP1「手のつなぎ方」なんてね。……でも実際、そんな教科書はどこにも無いわけで。
     バレンタインデイのあの日から、私は孝太と付き合うことになった。……クラス公認で。ただでさえ私は孝太と付き合ったら何をしようとか、どんな風に付き合おうとか、あまり具体的に考えてはいなかったから、いざ付き合ってみると面食らうことばかりだった。
     思い返してみると、この二ヶ月間、私は空回りばかりしている気がする。
     校庭の隅の散り始めた桜を眺めながら、私はそんなことを考えていた。
     暇があればそんなことを考えているから、もう慣れっこになってしまった。ささやかな悩み。
     すぐに部活が始まるからしょうがないことだけど、校庭は、小学生のころに見たあの大騒ぎとは違って、閑散としていた。トラックに線を書いてドッヂボールをしている男子もいないし、縄跳びに興じる女の子も居ない。そういう遊びは、年を経るにつれて卒業してしまった。
     子供だったからなあ。と思う。あのころは目に付くものや、やることすべてが楽しくてしょうがなかった。男子が不意に叫んだうんこーって言葉にさえ、クラス全員で笑い転げてしまったほどに。
     今は、単にめんどくさい。体を動かすのも、人の目を気にせずにただやりたいことをするのも。
     窓の向こう側で、一瞬強い風が吹くのがわかった。大きくあおられた桃色の葉が、盛大に風に巻き上げられていく。
     もう桜の季節も終わりかなあ。
     一瞬、心に芽生えた寂しさに戸惑って、それでもそれがどうしようもなく大事なものに思えて、私は戸惑っていた。
    「亜紀さん?」
     二年生になったとはいえ、あまりにも残りすぎた幼さを湛えた声色で、孝太が私を呼んだ。
    「亜紀さん、最近ずっと外ばっかみてるけど、どうしたの?」
     まだ少し丈の方が長い制服を無理やり着させられたような、似合ってないガクランを着た、私より少し背の低い男の子。どうしてこんなのを好きになったんだっけ? と今でも不思議に思うことがあるけれど、それを考えるたびに、なんだかにやけてしまう事もあるのだから、私は彼のことを本気で好きなんだと思う。たまに、自分がそう自覚してることにすら驚かされるけど。我ながら支離滅裂だ。
    「なんかね、春はアンニュイになるの。私はガキだから」
    「それ、何かの皮肉?」
     不満げに孝太が言う。付き合い始めてからわかったんだけど、自分の幼さを一番気にしてるのは、やっぱり当の本人みたいだ。
    「そういうんじゃなくてさ」
     伝えてしまっていいものか? と逡巡した。私の悩みだとかもどかしさなんて、要は孝太に関することなんだから。
     そんな私の気持ちなんてお構いなしに「じゃ、なに?」と孝太は無邪気に聞いてくる。
    「ま、いいか」と口に出して、私はもう一度だけ盛大に舞う桜の葉に目を移した。
     あれだけの花を散らしたと言うのに、桜はさっきと同じように校庭にたたずんでいるように見えた。意外に揺らがないものなんだな、と少し感心する。
    「恋愛ってこういうのだっけ? ってちょっと考えちゃってさ」
    「……こんなの恋愛じゃない、って言われたらちょっと傷つくかも」
     自信なさ気に、孝太が笑った。一目でわかる、傷ついてる傷ついてる。
    「あ、ごめん。そうじゃなくってさ。バレンタインデイのときもどたばたしてたから、今までよく考えもしなかったけど。私って孝太とどういう風に付き合って生きたいのかとか、よく考えてなかったんだよね。なんか、付き合うことになればいきなり夢見たいな毎日が始まるみたいなこと考えてた」
     それって、普通じゃん。と孝太がすねたように言った。と言うか、実際すねてるのだと思う。
    「亜紀さんは、大人だよね。普通、付き合い方とかって考えないと思うよ」
    「ううん。だから私は自分がガキだと思うんだよね。みんなそんなこと自然にやってるものだと思うし」
     孝太にこうして自分の気持ちを話したり、孝太の悩みを聞いたり、私たちはうまく付き合っていると言うのに(これは余計だけどクラスの公認ですらあるのに)私は、孝太と一緒に居ることをもっと……もっと特別な事にしたいと思っているのだから。
    「亜紀さんの言うことって、たまに難しい」
     あいまいに笑って、孝太はうーん、とうなる。そういうしぐさを見ると、本当に子供っぽい。
     ガキ同士お似合いかぁ。なんて失礼なことを考えて、少しだけ悦に浸った。あまりよくない。圭介がいたらまたきっとバカップルだ何だとはやし立てるに決まってる。
    「亜紀さんは、駆け引きしたり、どきどきしたり、振り回されたりっていうドラマみたいな恋愛がしたいの? それならそれで努力してみるけど」
     努力しなくちゃいけない時点で孝太には向かないと思うけど、そこは言わないでおく。なんとなく、それはそれで楽しそうだなあとか思うし。
    「それはちょっと面白そうかも。恋愛って感じがする」
     私がうなずいたので気を良くしたのか、グッと孝太が身を乗り出した。顔に、心底楽しそうな笑みを浮かべている。
    「じゃ、さ、今度の日曜日缶蹴りをやらない?」
     え?
     ちょっと顔を近づければおでこだってあたりそうな距離。
     そんなことにもお構いなしで、孝太がまくし立てる。
    「きっとどきどきするし、駆け引きだってあるし、鬼に振り回されたりするよ!」
     ええ、確かに今少しどきどきしてますけど。
     自分史上最大の間抜け面をしているのを自覚しているのに、私はそれをつくろうことも出来ずに苦笑した。
    「それは、ちょっと……ちがわない?」というか全然違わない?
     私が言うと、孝太は笑う「似たようなものだよ。亜紀さんきっと缶蹴りに興味ないから、誘うのは悪いかなあと思ってたけど、なんか俄然楽しみになってきた!」だってさ。一人で盛り上がっちゃってる。でも、孝太が楽しそうにしてると私も少しだけうれしいから、やっぱりいつものとおり「まあ、いいか」とため息をつくんだ。
    「圭介も誘ったし、亜紀さんも来るからきっとすごく楽しいよ」
     無防備に笑う孝太を見ながら、不意に、せめて『亜紀』って呼んでくれたらなあ。と思った。

     缶を蹴る軽快な音が公園に響き渡った。嘘みたいに高く、缶が空に沈んでいく。これ以上無いくらい澄んだ青をした空に、まるでデコレーションか何かのように雲がちりばめられていた。絶好の缶蹴り美よりなんてものがあるとしたら、まさに今日、この日曜日のことなんじゃないかと思うような、すがすがしく晴れた日曜日。
    「それじゃ、孝太がまた鬼だね」
     孝太の姉の宇美さんが、のんびりとした声で宣言するのを聞いて、私と圭介はまた一目散に公園に散っていく。
     日曜日、私は孝太に誘われるままに缶蹴りに興じていた。
     やってみると、缶蹴りは思いのほか面白かった。孝太が数えている間にどこか隠れられそうな場所を探す。あまり離れすぎると缶が蹴れないし、却って近すぎるとすぐに見つかってしまう。私は孝太の家の近くのこの公園には来たことが無かったから、最初は土地勘のある他の三人にすぐに見つかってしまったけど、何度か繰り返すうちにこの場所にも慣れてきた。
     缶から少しはなれた、蹴るには向かないけれどなかなかここまでは探しに来ないだろうっていう壁の裏に隠れて、ジーンズを少しだけたくし上げる。すそが長くて走りにくかったからだ。
     集まったときに感じた孝太のお姉さんに対する遠慮だとか、緊張だとかも、缶蹴りに興じている間にどこかに行ってしまった。今はただ、さっきの宇美さんみたいに気持ちよく缶を蹴りたいなあっておもうだけだ。もっとも、「大学四年生って暇なんだよねー」とのんびり笑う宇美さん相手に緊張しろっていうのも、それはそれで難しい気がするけど。
    「あら、亜紀ちゃんもここに隠れたんだ? 失敗したなあ」
     のんびりした声が聞こえて顔を上げると、私と同じように壁を背にした宇美さんが手を振った。
     缶けりのセオリーみたいなものはまだよくわからないけれど、同じ場所に二人の人間が隠れていたら、一気に見つかってしまう可能性があるし、どちらかがひきつけている間に隙を衝いて缶を蹴りに行くなんてこともなかなかやりにくい。
     宇美さんは「どうしよっかな」なんてつぶやきながら、缶蹴りをするためだろう、一つに束ねた長い髪を指でいじっていた。
    「あ、私移動しましょうか?」
     別に隠れる場所に優先権があるわけでもないのに、私は口に出していた。遠慮したわけじゃなくて、そのほうが缶を蹴りやすいから。
    「あ、別に良いよ。これならこれでやりようはあるし」
     のんびりとした声とはうらはらに、宇美さんはきびきびとした印象の人だった。
     女性にしては高い身長、多分……175センチくらいあるんじゃないかな。走るのも早くて、履いている赤いジャージなんかもさまになってる。
     みんなが集まって紹介してくれたとき、圭介が「孝太に行くはずだった身長が宇美にとられちまったんだ」って笑ってた。孝太は複雑な顔をしてたなあ。あれは、身長の話をするのが嫌だったのか、それとも親友が自分の姉のことを呼び捨てにしているのがいやだったのか。
    「亜紀ちゃん、今日はありがとね」
     唐突に宇美さんが言った。それから、端まで歩いて、そっと孝太を伺っている。私もつられて宇美さんの背に乗るようにして壁から顔だけ出して、孝太が守る缶の様子を探った。孝太は、缶の周囲から離れようとしないで、まずは様子を見るようにぐるりと周囲を見渡していた。
    「ありがとうって、私何かしましたっけ?」
    「缶蹴りしに来てくれた」
     それでどうしてお礼を言われるのかさっぱりわからない。
     だから、「……はあ」と気の抜けた相槌だけを返した。
    「なかなかねー、大学生にもなると缶蹴りったって人が集まらなくて、亜紀ちゃん来なかったらきっとやらなかったと思うんだよねえ。四人でも結構ぎりぎりだし」
     そんなつもりはこれっぽっちも無かったけど、私の参加って意外と重要だったみたい。理由を説明してもらって、ちょっと納得。
    「結構面白いですね、缶蹴り。孝太君に誘われたから来てみたけど、来て良かったです」
     「でしょー?」と満面の笑みで宇美さんが笑った。
    「こういう単純な遊びが結構面白いんだよね。忘れがちだけど。ただ走ってもスカッとするでしょ?」
     ついさっき、宇美さんが気持ちよさそうに缶を蹴り上げたのを思い出しながら、そうですね、とうなずいた。
    「よーいどんって走ったらもっとスカッとする。それでね、テープを切ったり缶を蹴ったりしたらもっともっとスカッとするのよ。だから、たまにこうやって遊ぶのはすごく良いのよ」
     一瞬、だからかな、と思った。
     だから、孝太は私を誘ったのかなって。
     実のお姉さんにいきなりそんなことを聞くのもはばかられたけど、勇気を出して聞いてみると「考えすぎじゃない?」とのこと。
    「普通さ、元気になってほしいから缶蹴りに誘う人なんていないでしょ?」
    「……ですよね」
     孝太が私のことを元気付けようとして缶蹴りに誘ってくれたって考えるなんて、自意識過剰だなあ。反省。
    「亜紀ちゃん、あの子と付き合ってるんだって?」
    「私は……そのつもりですけど」
     はっきりと頷けないのはなんでだろう? そうです、って言っちゃえばいいのに。
    「自信ないんだ?」
     私の言葉を受けて、宇美さんがクスリと笑った。それから宇美さんは、缶の周りをぐるぐると回ってる孝太に目を向けた
    「案外似たもの同士なのねー。あなたたち」
     初めて言われた、似たもの同士なんて。私と孝太のことだよね?
    「似たもの同士、ですか?」
    「うん、よく似てる。なんか親近感もっちゃうなー。妹が出来たみたいで」
     似てると言われて、なんだか不思議な気持ちになった。嬉しいのか、それとも戸惑っちゃうのか、私自身もわからない。
     宇美さんの背中越しに、孝太の様子を伺った。ようやく、缶の周りをうろついているだけじゃ埒が明かないとでも思ったのか、少しずつ孝太は捜索範囲を広げている。
    「……どんなところが、似てますか?」
     まさかガキっぽいところ、じゃないよね。
    「自信が無いところ、それに、押しが弱いところ」
    「押し、ですか?」
    「前に孝太が洩らしてたんだよねー、好きって言われたことがないって」
     あまりと言えばあまりに直球な宇美さんの言葉に、思わず黙り込んでしまう。今、私真っ赤になっていないだろうか? 顔が熱を持ってるのがわかって、くやしい。
     私、言ったことがなかったっけ?
     混乱する私をよそに、宇美さんがそっとつぶやいた。
    「きっと、孝太も言ったことが無いんだろうなあ」
     その言葉で、ハッとした。
     どうしてだろう、考えもしなかった。
     どたばたとチョコレートを渡して、付き合うことになった二月。
     それから、クラスのみんなに揶揄されるようにして行くようになった映画館とか喫茶店。
     恋愛ってどういうのだっけ? と孝太に洩らしたあの日。
     いっつも、孝太とどうなりたいのか? なんて考えていたのに。私ときたら、……私たちときたら。
     いまだに、お互いの気持ちを確認することすらしてなかった。
    「ば、ばかっぷるだ。しょうしんしょうめいのばかっぷるだ」
    「あ、動揺してる動揺してる」
     私たちは、今まで何をしてきたんだか。
     孝太が、私たちと逆の方向、近くの森の方向に向かって走り出した。
     程なくして、「圭介!」と叫ぶ孝太の声が聞こえた。
     二人が競り合うようにして、缶に向かって走っていく。
     孝太のほうが少しだけ早いかな。缶を踏んで、孝太が軽くガッツポーズをするのが見えた。
    「あー、今行くんだったね」
     動揺してる私をよそに、宇美さんがのんきに言った。
     それどころじゃないです。と言いたい。というか、言った。
    「それどころじゃないです」
    「そうだよー、私たちが同じ場所に居るからねー」
     いやそっちじゃないです。
    「私、まだ孝太君にちゃんと告白してない。だから、亜紀さんって他人みたいに」
     思わず口にしてしまったら、もう止まれなかった。
     何を言ってるんだ私は。……孝太にならともかく、そのお姉さんに。
     でも、情けないくらいに動揺して、上擦った私の言葉を聴きながら、宇美さんはにっこりと笑った。大人の余裕、なのかな。
    「来月、孝太の誕生日だよ。だから、そのときに言ってあげて」
     なんか、情けない。
     私は、自分のことしか考えてなかった。
     恋愛らしい恋愛がしたいとか、亜紀って呼んでほしいとか。
     来月の孝太の誕生日に、ちゃんと言おう。好きですって。
     それから、亜紀さんっていうその他人行儀な呼び方をやめてって。
     孝太のほしいものをそれとなく聞いて、今から準備しよう。
    「亜紀ちゃん、ちょっとどいて」
     言われて、宇美さんの背から離れて壁の後ろに隠れる。
    「亜紀ちゃんはちょっと考えすぎだよ。少し走ろう、ね?」
     私の肩をそっとたたいて、宇美さんが言った。
    「私が合図するから、思いっきり走ろう。で、缶を蹴っちゃおう。ここに隠れて落ち込んでたっていいこと無いよ」
     いいながら、遮蔽物の無い位置に私を立たせた。
     丸見えって程ではないけど、いつ見つかってもおかしくない位置。
     缶までの距離は、……ざっと二十五メートルってところ。
     わずかずつ小さくなっていく孝太の背中が見える。圭介が居た森に向かって、後ろを警戒しながら孝太が歩いていく。
    「今!」
     小さな、だけど確かな合図が聞こえて、私は思い切り地面を蹴った。
     砂利がはねる音が聞こえる。
     手が大きく振れるたびに、スピードが上がっている気がする。
     ぐんぐんと近づいてくる缶が見える。
     不意に飛び出してきた私に驚いた孝太の顔。
     蹴れる!
     孝太の位置からじゃもう走ったって間に合わない。
     もう、缶は目の前だ。
     思い切り良く足を振りかぶって……
    「……亜紀!!」
     孝太が叫んだ。
     さん付けじゃない、呼び捨ての私の名前。
     不意に力が抜けた。
     ぶん、と大きく缶を外れたところを足が通過するのがわかる。
     高々と振り上げられた足から、靴が飛び出していった。
     それから、しりもちをつく。
     馬鹿みたいに晴れた空を、私の靴がこれまた馬鹿みたいに飛んでいく。
     空には一面の青。それから、まるで何かをデコレートするみたいに散りばめられた白い雲。
     その空を、それが当然のように勢い良く飛んでいく私の運動靴。
     突然、こらえきれない笑いが噴出してきた。
    「ぷ……あはははははははは!」
     なにこれ! なにこれ!?
     亜紀だって! こんな簡単に。
     いきなり笑い出した私につられるようにして、孝太がおなかを抱えて笑っているのが見えた。
     早々につかまっていた圭介も笑っている。
     転んだ私を見てあわてて駆け寄ってきた宇美さんも、今は目に涙をためて笑っていた。
    「あははははははははは、く、くつが、くつがあんなに」
     もう何が可笑しいんだかわからなくなるくらい、でも、何もかもがおかしくておかしくて。
    「こ、こうた! 次はちゃんと蹴るからね!」
     本当に可笑しい。何でこんなことに気づかなかったのか。何でこんな簡単なことが出来ないのか。
     勢い余って好きって言っちゃいそうになって、それが可笑しくて可笑しくて、私は笑い続けていた。
     少しして、笑いの余韻から覚めた孝太が、靴底を下に落ちた私の靴を指差して
    「あ、明日は晴れみたいだ」
     なんて暢気につぶやいている。
     あははははは、関係ねー。
  • [11] mixiユーザー

    2007年04月17日 00:33

     「いつか失くした思い出に」

     机の上に並んだ、場の盛り上がりと反比例して勢いよく減っていくビールを眺めながら、僕は「くだらない」とつぶやいた。
     周りには、高校の後半の二年間、同じクラスで苦楽をともにしたクラスメイト達が、何故かお互いをけん制しあうようにしてぼそぼそと近況を話し合っていた。かと思えば、僕らにとっての空白の七年間でいかに成長したかを朗々と語っているクラスメイトもいる。僕はそのどちらの空気にも馴染めずにいた。それで、くだらないなんてつぶやいてしまったわけだから、僕はまだまだだ。なんだっけ? こういうのは、なんとかじゃない。って、昔はよく話していたんだけど。
     七年ぶりの高校の同窓会にさほど期待をしていたわけじゃなかったから、僕はその同窓会の盛り上がらなさにそれほど落胆したわけじゃなかった。ただ、やっぱり少しだけ期待していたもう一人の自分を暖かい目で見守ってやるだけだ。にやにやっと。
     大人になるっていうのはつまり、自分を励ます方法を知る事だ。と、僕は高校を卒業してからの7年間ですっかり悟ってしまったわけだ。くだらないなあ、と今度は子供の僕が軽蔑するように吐き捨てたのが聞こえた気がした。
     場の盛り上がりに今度は比例して、同窓会の最中はそんなことばかり考えていたから、会計を済ませ「二次会行く人!」なんて、そのときだけは妙に勢いよく、これまでの失態を取り戻すかのようにはしゃぎ声を上げているクラスメイトの誘いに乗る気にもならなかったので、一人寂しく帰路に着いた。
     赤々と夜を照らす飲み屋街の街灯が、煌々と汚い路地を照らしている。
     高校生活の三年間で培ってきたものって、こんなものだったか?
     振り返ると、半ばやけくそになってはしゃいでいる同級生達の後姿が見えた。その後姿と、記憶に残る彼らの後姿を重ね合わせてみても、僕には共通点らしいものを見つけることが出来なかった。
     吐瀉物と、アルコールのにおいがつんと鼻についた。
    「あ、お前も帰るのか」
     不意に声をかけられて慌てて振り向くと、いつの間にか後ろに見知った友人の姿があった。
     あのころ、よく一緒につるんで遊んでいた友人だった。
    「ん、なんか、乗り切れなくてさ」
    「お前って昔からそういうところあったよな」
     そいつは懐かしさと呆れが半々といった表情を浮かべる。
    「くだらねえ、とか言っちゃってさ」
    「別に、良いだろ。今日の同窓会は本当にくだらなかったんだから」
    「もうちょっと大人になれよな。お前の周囲、最高に空気悪かったからなあ。今頃みんなほっとしてるんじゃねえの? お前が二次会に来なくて良かったって」
    「うっさい」
     そんな事言われたって、実際、何を楽しめって言うんだ。七年たって、みんながみんな自分はこんなに立派になりました。なんて自慢しあうだけの同窓会なんて。
    「なんかさ、ぜんぜん懐かしくなかったんだよな。変だけどさ。知らない人たちの知らない会合に紛れ込んだかと思った」
    「なんだよそれ? 相変わらず、意味わかんねえなあ、お前」
     たぶん……僕は僕が思っていたほどには、あのクラスに居場所なんてなかったのかもしれない。あのクラスには溶け込んでなかったのかもしれない。
     だから、時間がたって一度輪から出てしまえば、僕が彼らの輪に戻ることなんて、もう出来ないのだろう。と、思う。
    「まあ、お前高校のころから浮いてたもんな」
     自覚しかけてるとはいえ、直接言われるとそれはそれで結構クルものがあった。だから、もう一度だけ「うっさい」特技をさしておく。
    「高校のころかあ……どんなんだったっけ?」
     聞いてみて、ふと気がつく。これが今日初めて口にする高校のころの話だってことに。
     僕のそんな感慨なんてお構いなしに、そいつは言う。
    「馬鹿だったよなあ、俺ら」
    「俺ら?」
    「俺と、お前」
    「言わなくてもわかるよ」
    「じゃ、聞くなよ」
     こうして他愛のない意味のない話をしているこの頃になってようやく、あの頃の自分に立ち返れた気がした。
     高校を卒業して七年、僕だって、ただだらだらと過ごしていたわけじゃない。今にして思えば同窓会のあの居酒屋で、みなに混じって僕はこんなやつになったとか、今はこれをやってるとか、そういうことを言うことだって出来たんだと思う。
     でも、それだけじゃあ……じゃない。
     思い出せない無音の言葉だけが頭に浮かんで、消えていく。
     僕はその無音に向かって、深く共感する。
     意味なんてない。意味なんてわからない。
     ただ、あの頃。高校生だった僕達にとって宝物のように輝いていた、そんな言葉が確かにあったような気がした。
    「なあ、翔太。もう一軒いかねえ?」
    「二人で?」
    「いまさら戻って二次会に参加するわけには行かないだろ? かといって、このままイヤーな気分で家に帰るのもなんか違う気がするんだよな」
     ……じゃない、だろ?
     そいつが言ってもいないその言葉が聞こえた気がして僕は頷くと、そいつは悪戯っぽく笑った。
     懐かしい笑顔だった。
     ただ笑っているんじゃなくて、この方が面白いだろ? と言わんばかりの笑顔。何かを吹っ切ったみたいな、迫力のある笑顔だった。
     僕が良く知っている。そいつの、三道克の笑顔だ。
    「だよな、そっちのほうがジェリクルだもんな」
     それだ! 
    「それだよ! ジェリクルだ!!」
    「はあ?」
    「なんかずっと出てこなかったんだよな、ジェリクルだジェリクル!」
     興奮して叫ぶ僕に気がそがれたのか、毒気の抜けた顔で、それから呆れた顔で。
    「なんだよ、忘れるか普通? そんなんじゃ、ジェリクルじゃ……」
    「ジェリクルじゃねえなあ!」
     きめ台詞を言うように、もったいぶってしゃべる克の言葉を遮って言ってやる。
    「懐かしいなあ、なんか。浮いてた浮いてた。確かに僕らは浮いてたっけ、何せジェリクルジェリクル言ってたから」
    「まるで俺の所為みたいに言うなよ」
    「半分は克の所為だろ」
    「半分はお前の所為だ」
     ひとしきり言い合って、今度は克が「くだらない」と笑う。
     もちろん、僕はそれには何も言わない。悔しい顔だってしてやらない。だって今度は克の番だ。
     そうやって、決まりごとを順番にこなしていきながら、僕達は高校生の頃の思い出とようやく対面していく。
     振ったコーラとしょうゆまみれのお弁当の話。初めてあったときの話。お互いが一日にどれだけ「くだらない」「ジェリクルな」ことが出来るか競った日々。
     飲み屋からの帰路を、わざと遠回りして思い出話に花を咲かせながら。
     ふと訪れた、ささやかな沈黙をかみ締めるように、歩く。
     その頃には歓楽街の喧騒もとっくに消えて、しんと、音が吸い込まれるように静まった住宅街の道を、僕と克は歩いていた。
     暗闇にささやかな抵抗をするように、街灯がわずかな範囲を明るく照らしている。
    「克、まだ言ってたんだな」
     ジェリクルと言葉にするたびに高校生活の一場面がよみがえってくるような気がした。
     だから、ジェリクルと口にする克に感謝するような気持ちで、聞いた。
    「まさか」
     たったの一言だったけど、その言葉は静まり返った夜の闇に波紋のように広がっていく。
    「……久々に、思い出したんだ」
     七年間。
     卒業して、それなりに目標に向かって努力して。
     それから、社会にもまれて。挫折して。
     それぞれ皆が、たくさんの物を手に入れて、そしてたくさんのことを忘れて。
    「これから何年かしたら、今日のことだってまた忘れちまうんだろうなあ」
     浮いてたけど、確かに浮いちゃいたけど。楽しかった三年間の事ですら、多忙な毎日に塗り重ねられていく。
     でも。
    「そしたら、また久々に思い出すんだよ。どうせ、さ」
     で、今日みたいに笑い合うんだ。
     僕や、もしかしたら、そのときに隣にいる誰かと。
     いつか失くした思い出を話題に、会話に花を咲かせるんだ。どうせ。
    「そう思うだろ?」
  • [13] mixiユーザー

    2007年07月14日 17:43

     「その一冊だけ」

    「うわ、あの本もうあんな値段になってる」
     二百円とラベルの貼られた、同僚が指差したその本を手に取るとラベルに小さく「汚損あり」と書かれているのが目に付いた。
     近々映画公開も控えている最近話題になっている作品だ。
     汚損ありと書かれている割にはしっかりと帯まで残っていて、派手な文字ででかでかと「泣ける」なんて、顔をしかめたくなる広告が踊っていた。
    「私さ、この泣けるっての嫌いなんだよね」
     そう言うと、同僚は「良いじゃん、この年になると泣きたくなることもあるでしょ。うってつけじゃない」と笑った。
    「なにも小説に泣かせていただかなくても」泣き事なんてどうせその辺にいくらでも転がってるんだし。
    「なら買わなきゃいいのよ」
     同僚の言う事はいちいちもっともだったけど、私は結局その本を購入していた。なんのかんの言っても、話題作なのに安かったからだ。

     露出が多いから、読んだ事なんてないのにその本の大まかなストーリーはもう知っていた。
     一組の男女が、ロミオとジュリエットもかくやと言わんばかりの大仰な恋をして、甘かったり見ていられなかったりするささやかなエピソードを育んだ後に、唐突に片割れの女の子が死んでしまう話だ。
     恋人が死んでしまった後、男は恋人のいない世界に耐えられないなんて事を散々考えた挙句「彼女に会いに行きます」と書かれた手紙を残していなくなってしまう。概ねそんな話だったと思う。
     家に帰ると、冷蔵庫からビールを一本取り出してその小説に取り掛かった。しらふで読みきれるとは到底思えなかったから。
     安かったから、なんて理由で読み始めただけの、好きか嫌いかで言ったら断然嫌いな方に位置するその小説を投げ出さずに読む事が出来たのは、ひとえにアルコールのおかげだった。
     そうして読み進めて行く内に、私はだんだんとうとうとしてきて。
     気がついたら、私は崖の上に立っていた。

     ふわふわと現実感の無い霧が漂っている。どこか遠くから、波の音が聞こえてくるのがわかる。
     今ここで犯人を追い詰めたら間違いなく襲われる。なんて緊張感の無いことを考えてしまって、私は思わず辺りを見渡した。どこかに警察が隠れているんじゃないかと思ったからだった。そもそも犯人って何だ。
     残念ながら、警察官はいなかった。代わりといってはなんだけど、切り立った崖のさらに奥で、一人の男性が今まさに飛び降りようとしているのが見えた。
     って、え、ちょっと。
     思わず駆け寄って、その男性の手をつかんで引き寄せた。
     自分が何でこんな事をしているのか、何でこんなところにいるのか、なんてことはこれっぽっちも考えなかった。止めなくちゃ! と強く思っただけだ。
    「何をするんですか」
     抗議の言葉とは裏腹に、その男性の声はとても弱弱しかった。続く「邪魔しないでください」という言葉も。
    「やかましい!」
     それなのに、私はなんてはしたない言葉を使っているんだろう。今から自殺しようって言う男性ですら、私よりずっとおしとやかなのに。
    「後追い自殺なんてくだらない事やめなさい! 天国に一体何人の人がいると思ってるの!? 百億や二百億じゃきかないんだからね! 今更追いかけたって会えるわけじゃないじゃないの!」
     自分でも良くわかってない強引な理屈を一気にそこまでまくし立てて目の前の彼を見る。
     彼は、ぽかんとした顔で私を見返していた。
     そのときになって初めて、あ、私この人にどこかで会った事があると思った。

     いつの間にか、カーテンの隙間から明るい日差しが部屋に差し込んでいた。
     やば、寝ちゃったんだ。
     あわてて立ち上がると、ドサ、という音がして一冊の小説が足元に落ちた。
     拾い上げてから、時計を見る。幸い、眠気はもうどこかに行ってしまったし、出社まではまだ時間がある。
     残ったページをさっさと読んじゃおう。そう思って、私はまたその一冊のページをめくった。

    「なんか随分機嫌が良いじゃない?」
     会社に行くと、私に気がついた同僚が声をかけてくる。
    「うん、あの小説読み終わったんだ」
    「どうだった?」
    「それが見てよ。これ、さすが二百円だわ」
     小説の最後のページを同僚に見せるとニヤニヤと笑いながら「あーあ、こりゃ台無しだわ」と嘆いた。
    「でしょ?」と私ももっともらしい顔で頷く。
     主人公の遺書が書かれた最後の文章『彼女に会いに行って来ます』の後に、誰が書いたのかボールペンで次の一文が付け足されていた。
    『と思ったが、気が変わったので会いに行くのは止めた。』
     夢の中の青年が「台無しだ!!」と叫ぶのが聞こえた気がしたから、小さく「ざまーみろ」と呟いて、泣けると書かれた帯を破りゴミ箱に捨てた。
  • [14] mixiユーザー

    2007年07月16日 01:56

    「ドーナツ」 前編

     レジを待つ列には並ばずに、レジ下のショーケースに並ぶ色とりどりのドーナツを眺めた。
     やっぱりオーソドックスがいいか、それともイチゴにするべきか、決めかねて心の中で唸っていると「いつまでぐずぐずしてるのよ」と彼女の声が聞こえたような気がした。
     ミスドだけじゃない、こういう場所に来ると彼女は決まって煮え切らない僕に発破をかけた。
    「折角来たんだから今一番食べたいものを選びたいじゃないか」と僕が言うと。
    「考えたって意味ないじゃない、どうせ食べてみないとわからないんだから」と彼女は言う。
     僕たちにとっては、もう決まりきった定型句の趣さえある、何度となく繰り広げてきたやり取りだった。
     一人で来ているというのに、頭の中で繰り返される定型句。
     情けない。ほんの三時間前の決意にまるで意味がないじゃないか。

     少し距離を置こう。それを口にしたのは、僕からだった。
     彼女はとても驚いていたけれど、何も言わず黙って僕の言葉を聞いてくれた。
     七年。たぶん、一般的には長い部類に入るんだろう僕たちの付き合いは、これまで嘘みたいに順調だった。当然、盛大に喧嘩をすることもあったし盛大に仲直りすることもあった。馬鹿みたいにべたべた過ごす事もあったし、お互いに空気みたいに自然と寄り添っていた事もあった。
     七年間一緒だったカップルとしては、比較的平穏に過ごしてきたんじゃないかと思う。
     だからだろうか? 僕には彼女の事が本当に好きだと自覚できなくなっている気がしていた。付き合い始めたころの気持ちをなくしてしまっているような気がした。
     間違っても説明が上手とはいえないそうした僕の言葉を聞き終えて、それまで無言だった彼女は呆れたように嘆息した。それから思いの他早く結論を出した。
    「わかった。いいよ、少し距離を置こう」
    「え、いいの?」と思わず聞き返してしまったくらいの即決だった。
    「意味があるとは思えないけど」
     軽く付け足されたその言葉で、彼女がその見た目ほど怒っていない訳ではないのだとわかった。僕にしては聡明にも。

  • [15] mixiユーザー

    2007年07月16日 01:58

    「ドーナツ」中篇

     考え事をしている間にも、ドーナツはいくつも注文されて、その都度店員によって補充されていく。
     ドーナツ選びの参考にならないかと客席に目を向けると、多種多様といっていいお客さんが客席に座っていた。
     仕事の終わりに立ち寄ったのだろうスーツ姿の男性やら、競馬新聞を片手に何やらチェックをしている老人、ペチャクチャと他のどの世代の人間にもわからない謎の暗号をしゃべり続ける高校生たち。
     そうした何の一貫性もない客席の様子を見ていると、ホッと気が緩むのを感じた。七年も付き合ってきた彼女と自分でもうまく説明できない理由で距離を置くような二十七歳はお断りします、なんて来店を断られる事は無さそうだ。自分でもうまく説明できない理由で彼女と距離を置くような人間が居るのだから、お店側も説明できない理由で来店を拒否するドーナツショップが一軒くらいあったっておかしくない。それがたまたまこの店である可能性だって、零じゃない。
     辺りをきょろきょろと見回していると、なにやら話し込んでいる二人の男性が目に留まった。
     八十近い冴えないおじいさんが、身なりのこざっぱりした二十歳前後の青年に、熱心に話しかけている。
     どこか不思議な組み合わせで、興味深く聞き耳を立てていると、どうやら八十近いおじいさんのほうが青年にドーナツの説明を求めているようだった。
     あのドーナツは? ならあのドーナツは? と答えても答えても絶えない質問に嫌そうな顔ひとつせずに答えていく青年の姿を見て、もしかしたらあの青年はこの店のスタッフなのかもしれないなと思った。私服だからぱっと見はわからなかったけれど、帰り間際にお客さんに捕まってしまったのかもしれないなと。
     それにしても、ショーケースに並ぶドーナツに関する質問に淀みなく答えるその青年の知識量は凄まじかった。店員にもなるとやはりややこしい研修でもあるんだろうなと納得してしまう。
     ショーケースに並ぶ全てのドーナツについて聞くとさすがに聞く事が無くなったのか、おじいさんは考え込むように視線を上に向けた。
     何も無理に質問しなくてもいいだろうに。と自分が応対しているわけでもないのにげんなりしてしまう。
     やがていい質問が思いついたのか、おじいさんは目を煌かせて最後の質問をした。
    「のう? ドーナツには何で穴が開いてるんだ?」
     思いもかけない質問に、青年が目を丸くするのがわかった。
     何故か、がんばれ、と心の中で青年を応援する。
     青年は「わかりません」と口を動かした。その声は聞き取れなかった。
     おじいさんは、残念そうに肩を落とすと、青年に丁寧にお礼を言って店を後にした。
     おじいさんが去った後、僕は青年に声をかけていた。一言、その努力と知識をたたえたい気持ちになっていた。
    「あの、大変でしたね」
     唐突に声をかけられて青年は驚いていたようだったけれど、すぐに穏やかな顔をして快く僕に応じてくれた。
    「あのおじいさんには申し訳ない事をしました」
     本当にすまなそうに青年は言う。
    「えーと、あなたは良くやったと思います。商品の知識もすごかったし、あなたの説明があればメニューなんて要らないんじゃないかと思いました。……最後の質問には答えられませんでしけど、店員として完璧に近い対応をしていたと思います」
     余りにも残念そうに青年が言うので、思わず声を上げてしまう。そんな僕の気持ちが届いたのか、それとも僕に気を使ってくれたのか、青年は「ありがとうございます」とお礼を言うと。
    「でも僕は店員じゃないですから」と口にした。「ただのドーナツ好きです」
     なんとか「……そうですか」と頷く事だけは出来た。というかそれだけしか出来なかった。
  • [16] mixiユーザー

    2007年07月16日 01:59

    「ドーナツ」後編

     青年が店を出るのに連れ立って店を出た。なんとはなしの行動だった。
     青年はその僕に不思議そうに目を向ける。
    「ドーナツ買わないんですか?」
     言われるまで気がつかなかった。一体僕は何のためにミスドに入ったんだ?
    「……忘れてました。意味無ぇ……」
     青年はそんな僕にくすりと笑うと「もしかしたらそれが答えなのかもしれないですね」まるで独り言のように口にした。
    「答え?」と僕が聞き返すと。
    「ドーナツの穴に意味なんて無いのかも。ほら、今まで当たり前だったものが急になくなるとなんか気持ち悪いじゃないですか、だからなんとなく皆ドーナツに穴を空けてるのかもしれない。穴の無いドーナツって、なんか気持ち悪くないですか? だからですよ。」
     その青年が口にするにしては余りにも無責任な言葉にも思えたけど、その上余りにも無意味に強気だったけど。その言葉はとても印象深かった。見えていなかった当たり前のことを突きつけられた。そんな気がした。
     青年と別れてから、すぐに携帯に手を伸ばした。
     頭の中で青年の言った言葉がぐるぐると回っている。
     程なくして彼女が電話に出た。
    「ごめん。距離を置くの、意味が無かった」
     彼女が呆れたようにため息をつくのがわかった。それから「いくらなんでもちょっと早すぎるでしょ」という彼女の言葉を待った。
     僕がそうして、彼女に叱られるのを覚悟したって言うのに、予想に反して「でしょう? だから言ったのに」と彼女は明るい声をあげた。
    「でも、いつもぐずぐずしてるキミにしては早く気がついた。自己ベスト更新だね」と妙にハイテンションに彼女が声を張り上げる。
     僕は彼女に圧倒されて「はぁ……どうもありがとう」なんて蚊の鳴くような声を絞り出す。
    「第一さ、付き合い始めてもう七年だよ? 最初の気持ちなんて私も感じちゃいないって。私たちはさ、もう彼氏とか彼女とかそういうんじゃなくてさ、パートナーなんだよ。パートナー。ライフパートナー。ね? 今更別れても気持ち悪いだけに決まってるんだから」 
    「はぁ」と、戦場にたった一人取り残されて白旗を振り回してる気持ちで頷いた。余りに意味の無かった三時間程前の僕の決意。
     電話の最後に、彼女が「ドーナツ食べに行かない? キミ好きだったでしょ?」と言ったから、僕は一も二もなく快諾した。「ちょうど良かった。食べ損なったところだったんだ」
    「それは良かった」と彼女は満足げに答えた。

    「ところで、ドーナツに穴が開いてる理由知ってる?」
    「知ってるよ。熱の通りを良くする為でしょ」
     あ……そう。知らなくて良かった気がするよ。
  • [17] mixiユーザー

    2007年10月07日 15:35

    少し前からだった、不思議な物を見るようになったのは。
    もしかしたらもっと前からだったのかもしれない
    でも少なくともそれに恐怖を覚えたのは、ここ数年だったと思う。

    そして今年の夏、私はまた恐怖を味わったのだった。


    千尋シリーズ2
    【逃げそこなったサンダル】


    「千尋ー、お盆なんだから気をつけなさいよー!」

    「わーかってるって、そんな、お墓に肝試しに行くわけじゃないんだから。」


    夏の夕方といえばこのやり取りが定番だった。
    ガラガラと重たい黒の引き戸を開けると、少し涼しい風と、カナカナカナ…というひぐらしの鳴き声がする。
    私はそんな中を歩いて回るのが好きだった。


    「今日はもう暗いんだから、すぐに帰ってくるのよ。」

    「分かってるってば。母さん、ちょっとその辺を歩くだけなんだよ。」


    私同様に不思議な体験が絶えない母は、お盆の夕暮れに私が出歩くのを嫌う。
    それは一種民族的というか、「そういう」人たちの慣わし、風習だった。
    お盆の夕暮れに自ら入るなんて…そういうことらしい。

    私が黙って玄関の引き戸を閉めると、さっそくジャリを踏む音がする。
    一歩一歩進むたびにジャッ、ジャッと続くそれが、ひぐらしの鳴き声と共に辺りに響き渡った。
    それ以外は何も無い。人っ子ひとりいない静寂。


    「怖いもの見たさに暇があいまって、趣味がなされるという。なんて奇特な人間だ私は。」


    結局いつだったかは思い出せないが、私が不思議なものを見るようになってから
    それと同時進行で私の強いもの見たさは育っていった。
    それに加えてこの田舎独特のてもちぶたさと来たら、もう散歩しかないのだ。
    とりあえず日焼けも気になるし、灼熱の太陽の下歩き回るよりは、夕闇にまぎれて歩いたほうが心地よい。
    絶え間なく続く砂利道と、それを踏む足音だけが私の聴覚を刺激しながら
    私はサンダル履きでその微妙な道をただひたすら歩いていく。
    もう10何年かこの道を歩いてはいる物の、絶対に走ることなんて出来ない、やったら転ぶ。
    それくらい、ジャリ道というのは手入れの悪い物なのだ。

    しかも近年(といってももう何十年も)は車も導入され道はデコボコ。
    雨上がりには水溜りが都会とは比べ物にならないほどでかくなる。


    「…………帰りは多分暗くなるし、遠回りして帰ったほうがいいのかな?」


    誰にともなくポツリと呟く。人どころか車すら通らないこの道は、いろんな意味で私の「ひとり舞台」だ。
    返事など帰ってくるわけもなく、私は結局その後も黙って歩き続けた。
    サンダルの中に時々ジャリが入っては、払うようにして足を振り
    サンダルが脱げないように指に力を入れて押さえ込む。
    そしてまた舗装された墓までの道を目指すのだ。
    もちろん墓には入らない。なぜだかあの土地の地面は柔らかく(おそらく苅った草を放置しているからだろう)
    まるで死者が共に地の底に引きずり込まんとしているようで、とても夜に行く気にはなれない。

    旧家の家の前にある牛小屋(といってもビニールハウスを改造した物だ)で牛としばらく見詰め合ってから私は立ち上がった。
    草を食べているのだろうか、口を動かし、シッポをびたんびたんと振りながら
    牛は私を引き止めるようにして、一声鳴いた。
    モー、なんてものではない。牛は実際そんな簡単な鳴き声なんて上げない。
    各国の動物の鳴きまねが違うのと同じ感覚で、牛はとにかく鳴き声を上げた。
    どちらかというと、差し迫った声で。

    人間の私の受け取り方だ。
    牛にとっては違うのかもしれないが、せわしなく柵に体を押し付けて騒ぐ牛を見て
    私は「早く帰らなければならない」となぜだか焦燥感を覚える。
  • [18] mixiユーザー

    2007年10月07日 15:36

    〜続き〜

    「…見なきゃ大丈夫よね、見なきゃ。」


    去年の光景がありありと浮かび上がる。

    丁度T字路になったその砂利道は、墓から家まで帰るのには一番の近道だった。
    しかし問題はそのT字路、全てが田んぼになっているのだが、Tの字の丁度左下の角に、もう一本斜めに道が入っている。
    つまり、「下」の左右反対のような形になっているのだが、その小さな田んぼに問題があるのだ。


    「やっぱり今年もここだけ整備されてない…田んぼにしないんだ。」


    そう、何故か私が「それ」をみた去年から、その小さな一角だけがまったく手をつけられておらず
    草が伸び放題。私の身長近くまで伸びているのだから凄い。
    普通、水田というのは低い位置に作られていて、普通の物でも40センチほどは低く
    下手をすると小学生では落ちたら届かないくらい下に作られているものもある。
    この田んぼの場合、160センチはある私の太ももあたりまで掘り下げられているのだから
    草は2メートル近くあるのだろう。

    じっと頭を下げたまま、その田んぼとは反対の方向を見て歩く。
    自分が出せる最高の速度で、とにかくその前を通り過ぎてしまおうと…。
    ジャリがサンダルに入ろうがこの際気にしていられない。
    どんどんと道を進み、やっとその田んぼを通り過ぎたところで私は大きく息をついた。

    ひと段落




    ではなかった。




    ひゅぅっと冷たい空気が流れる。
    この時間に夏であろうと涼しい空気はおかしくない。
    しかし違う、これは違う風。誰しもがあるだろう、怖い話やホラー映画を見て感じるあの独特の感覚を。


    「……おい。」

    「!!」

    それはスタートの合図だった。
    何故という理由はない。とにかく合図だったのだ。
    誰にも分からない、私と「ヤツ」だけの合図。掴まれば負け、逃げ切れば勝ち
    そんな単純なルールの追いかけっこだが、負ければその先にあるものを、私はしらない。
    そもそも、負けたらもう「おしまい」なのだ。

    堰を切ったように私は走り出した。
    さっきも書いたように、到底サンダルで砂利道を走るのは不可能だ。
    ジャリにすべるか、中央を走る草に足を取られるか、はたまたサンダルが吹っ飛ぶか。
    下手をすると全部だ。
    そしてその先には負けが待っている。


    「…っあ!」


    本当に恐ろしい時というのは声も出なくなるものだ。
    これも私は痛感している。助けを呼ぼうなど、悲鳴を上げようなど無駄なあがき。
    それをするなら手足を動かせるうちに動かし、もがき抗うことをしなければならない。

    ひゅっとまた冷たい空気が頬を掠めたヤツはすぐ後ろにいる振り返ってはいけない!

    もつれる足で私は走るおかしい、視界が真っ暗になるなんて…
    暗闇だろうと月も民家の明かりもあるはず、なのにどうして先が見えない?
    後ろにはヤツがぴったりと着いてくるというのに!!

    一向に進まない足と見えない視界に苛立ちを覚えながらも私は走ろうと努力する。
    しかしどちらに進めばいい?下手な方向に進めば水路に落ちるか田んぼに落ちるか
    そしてヤツに掴まるか。

    「考えろ、考えるんだ…」


    心の中で何度も自分に言い聞かせる。
    何か手があるはずだ、ここで掴まれば大変なことになるに違いない。


    サクッ…サクッ……


    必死に考えを凝らす私。
    すると前方からオレンジ色の光…というか、古びた懐中電灯のような光が向かってきた。
    真っ黒な影であるヤツとは対照的な光は、人工的なものではなく、あんどんのような優しい光で私のほうへと向かってくる。
    サクッという小気味良い音は、どうやら草を踏む音らしい。


    「……そうだ、草…」


    そういえば祖父が言っていたことを思い出した。
    腰も曲がって足元もおぼつかずに大丈夫なのかと聞いたら、「真ん中の草の上を歩くから大丈夫なんだ」と返ってきた。
    真ん中の草の上を歩けば…。


    「…っあ!」
  • [19] mixiユーザー

    2007年10月07日 15:38

    〜続き〜
    再度加速する私の足が草に突っかかる。
    バランスを崩して倒れれば、サンダルが片方脱げるのが分かった。
    しまった…
    そう思った瞬間、ひゅっと頭上を掌ほどのあの丸い光が通り過ぎていく。
    慌ててその光とすれ違うように起き上がって駆け出せば、だんだんあの黒い影の気配は遠ざかっていった。
    あの光が、もしかしたらヤツを押しとどめてくれているのかもしれない。
    これはまたとないチャンスだった。
    私はマンガの主人公ではない、いつも助けられるわけでもなければ、奇跡が起こせるわけもないのだ。
    それが起こったから、これが奇跡と呼ぶべきものなのだろうが
    そうホイホイ訪れるものではない、そしてずっと続くわけもない。
    脱げてしまったサンダルを探す余地もなく、私は再び草の上を走り出した。
    カエルを踏みそうだとか、時々石を踏んで痛いと思っても決して止まれない。
    水分を含んだ草の冷たい感触を片足にだけ感じながら、私はひたすら駆け抜けた。
    草地を抜け、家の敷地内に入れば砂利しかない。
    しかし家の明かりはもう既に見えていた。
    かなりヤツと距離が開けたようだ。
    ジャリを踏んで痛む足を叱咤して、私は玄関へと勢いよく駆け込む。
    ダンッ!と鋭い音を立てて閉めれば、そこであの暗闇とも光の守りとも遮断されたようだ。
    帰ってきたのだ、本来の世界に。
    慌てて母が駆け寄ってくる。

    「千尋!やっぱりアンタ何かあったんでしょ!?」

    「母さんそんなこと言ってる場合じゃないよ、コレはヤバい。すごくヤバい」

    サンダルを片方失くし、挙句擦り傷だらけで息も荒い私を見て、母は悲鳴に近い声を上げた。
    私はといえば、よせば良いのにゆっくりと立ち上がると、再び黒い引き戸に手を掛ける。
    少しなら大丈夫、ゆっくり隙間を開けろ、そして様子を伺え。
    自分に言い聞かせながら私は手に力を込める。
    一瞬だけ、向こうからも誰かが覗いていた、なんてオチが頭を過ぎったが、そんなベタなことは現実にはない。

    「………。」

    押し黙ってドアに目を当てれば、暗闇の中に紅葉の木が見えた。
    木までの距離は6メートルほど。そこにポツリと黒いものが立っていた。
    ありえない形をしていたそれは、かろうじて人に見える。
    頭と思しき丸い物は胸の辺りまで下がり、つまり極度の猫背の状態なのだが
    それでももはや頂点になっている背中ですら、紅葉の枝葉に掛かっている。
    背を伸ばせば2メートルをゆうに超えるだろう。
    まぎれもなく私が去年にあの田んぼで見た「黒い影」だ。

    「…………。」

    私はヤツの動きに目を凝らす。
    あの光はもなくなってしまっていた。やはり奇跡というのは持続しないし連続もしないのだろう。
    しばらくの間影は右へ左へと、いっそ滑稽なほどに暗闇の中にその更に黒い体を揺らしていたが
    不意にその動きがぴたりと止まる。
    それに連動するかのように、今まで聞こえていた虫の音や風の音でさえ
    全ての音が一気に止んでしまったのだ。

    「しまった…!」

    そう思ったのと同時だった。ほんの3センチほどの扉を閉める際に、黒い影がもう目の前まで来ていたのは。
    寸前のところで扉は再び音を立てて閉まり、私はみんながいる居間まで駆け戻った。
    いまだ暴れ続ける心臓と、途端に痛み出した足と膝の擦り傷たち。

    「千尋、またあの黒い影とかいうやつじゃないでしょうね?」

    「ビンゴだよ母さん、どうしてそういう勘だけは鋭いのかね?うちの家系は。」

    「あそこはもう近寄るのは止めなさい。それからサンダルは明日取りに行くのね。昼間に。」

    昼間に、を強調して言う母に、私はしぶしぶ頷く。
    サンダルを取りに行って返り討ちなんてそんなのはゴメンだ。
    あの光だってたまたま助けてくれたのだろうし。もしかしたら全然関係なかったのかも知れないし。

    「分かってるよ、明日の明るいうちに取りに行くって。」

    細かいジャリを取り、傷口を消毒しながら、私はあの光に想いを馳せた。
    なんという色だったのだろう?あの温かみのある光は…たしか見たことがあるような……
  • [20] mixiユーザー

    2007年10月07日 15:40

    〜ラスト〜
    「あ、先祖…。」

    ふと目に入った仏壇に私はポツリと呟いた。
    この仏壇は祖母の物であって、祖父が教えてくれたあの「下半身だけの先祖」の仏壇は前の家にある。
    丁度、距離的に言えば私が転んだ辺りはその前の家の脇にある道だ。

    「あの光は…、あの人、だったのかな…。」

    白黒の写真でしか見たことのない先祖の顔を私は思い返す。
    まだ若く、20代前半の彼は勇ましく、男らしいイメージの青年だった。
    彼が助けてくれたのかは分からない。
    ただ一つの真実というのは、次の日私がサンダルを取りにいくと
    サンダルは何処にもなかったのだ。
    脇の水路は狭くサンダルが偶然落ちることなんて確率的に皆無。
    しかも万が一流れたとして、例のT字路で水路は一旦止まるのだ。
    そこから田んぼに流れ込むのだから、そこに引っかかっているはず。

    しかしサンダルは何処を探して回っても、その一本道には落ちていなかった。



    例の田んぼ?探せるわけがないじゃないか、あれだけ草が生えているのに。

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