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開催終了7月セレブ

詳細

2007年07月25日 09:41 更新

いつものセレブ・ドゥ・マイードにて
20:00スタートでっす

コメント(10)

  • [1] mixiユーザー

    2007年07月25日 09:43

    はーい。
    今回は電話じゃなくて来るんですよね??
    アノヒト電話やとすぐチェンジとか言うんで。
  • [2] mixiユーザー

    2007年07月25日 17:02

    >ありぽえ
    彼(テクノ理事)は参加です
    ってか彼の指示で動いてます
    ボウリングしたいって駄々こねてます
  • [4] mixiユーザー

    2007年07月26日 00:43

    一番乗りになれず…

    残念じゃ泣き顔
  • [5] mixiユーザー

    2007年07月30日 16:35

    やっぱり月末はキツイです。
    また訳のわからんネタ待ってまーす。
  • [6] mixiユーザー

    2007年07月31日 09:43

    マリオ早すぎ

    http://jp.youtube.com/watch?v=0zldvi6V0ms&mode=related&search=
  • [7] mixiユーザー

    2007年07月31日 09:50

    美和明宏

    1935年、長崎県生まれ。17歳でプロ歌手としてデビュー。1957年、「メケメケ」が大ヒット、その後シンガーソングライターとして「ヨイトマケの唄」など多くの曲をヒットさせる。俳優としても「毛皮のマリー」「黒蜥蝪」等に出演。

    http://www.o-miwa.co.jp/

    美和氏を使って『そうめんの人』などとボケるのは
    言語道断である
  • [8] mixiユーザー

    2007年08月01日 02:12

    牛島 和彦 その1

    (うしじま かずひこ、1961年4月13日 - )はプロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。大阪・大東市出身。現役時代は中日、ロッテでリリーフエース(晩年は先発)として活躍した。


    来歴・人物

    高校時代は浪商高(現・大阪体育大学浪商高等学校)でドカベンこと香川伸行とバッテリーを組み、春夏甲子園出場を果たし、高校3年の選抜高校野球で準優勝。
    1980年 - ドラフト1位指名で中日に入団。
    1981年 - 開幕一軍をつかみ取り、中継ぎとして一軍に定着。
    1982年 - 鈴木孝政、小松辰雄の後を継いで守護神となりチームのリーグ優勝に大きく貢献。
    1983年 - 2年間の酷使が響き自己最低の7セーブに終わる。
    1984年 - 自己最高の29セーブをあげ最多セーブ投手。
    1985年 - シーズン途中で先発に転向。精彩を欠く。
    1986年 - 突然の落合博満と1対4の電撃大型トレードが発表される。最後まで抵抗するが星野仙一新監督が自宅に出向き説得。交換相手は牛島のほか上川誠二・平沼定晴・桑田茂。
    1987年 - 前述のように落合とのトレードで上川・平沼らとともにロッテに移籍。87年は2勝24セーブを記録し最優秀救援投手のタイトルを獲得、88年は25セーブを記録し、最多セーブ投手となる。
    1989年 - 先発に転向し自己最高の12勝をあげる。
    1990年 - 長年の酷使により右肩がパンク、ほぼ一シーズンをリハビリに費やす。
    1993年 - 現役引退。
    1994年 - TBS・中部日本放送野球解説者(11年務める、理論派で且つさわやかな口調で人気があった)、スポーツニッポン野球評論家。
    2005年 - 横浜監督に就任。就任1年目にして3年連続最下位のチームをAクラスに導く。
    2006年 - 横浜のチーム不振に伴い2006年シーズンをもって引責辞任。オフよりTBS・中部日本放送野球解説者に復帰。




  • [9] mixiユーザー

    2007年08月01日 02:19

    牛島 和彦 その2

    エピソード

    今となっては想像が付かないが、浪商時代は「学校史上に残る不良生徒」で「酒・煙草・オンナの三拍子そろった生徒」だったとの説も残る。遊び呆けて練習に全く来ず、試合にひょっこり現れて完封してしまうということも一度や二度ではなかった。練習を取材に来たテレビのインタビューでも「俺が投げれば、チームは絶対勝ちますから」と豪語するなど、甘いマスクと独特なキャラクターで甲子園ギャルの間で人気を博した。しかし、1979年の春の選抜では準々決勝で延長15回221球を投げぬいた翌日、東洋大姫路高との準決勝も涼しい顔で完投勝利をマークするなど、タフネスぶりの片鱗は既に高校時代から見せていた。
    香川伸行とは高校時代バッテリーを組んでいたが、牛島と香川の仲については不和説も囁かれた。牛島は投球練習時には常に控え捕手を相手に投球練習を行っていた。
    因みに、中日入団発表時の彼の髪型はバリバリのリーゼントであった。ルーキーとしてのキャンプ初日にナインに挨拶をする牛島の頭髪を見た星野仙一は早速、厳しい指導を行ったとする説がある(一説には「ほとんどマンガのようなソリコミ」も原因だったとされる。互いに大人となってからは牛島に恥をかかせたくないためなのか星野発言は影を潜めた)。
    中日時代は小松辰雄と共に地元企業興和のミカロン(頭髪フケ止め薬)のCMに出演するなど高校時代のイメージそのままで、甘いマスクで高い人気を得た。
    中利夫監督時代のある日、ミーティングで稲尾和久投手コーチから投手陣全員に「9回二死満塁、カウント2-3からどんな球を投げるか?」という質問が出された。ほとんどの投手が自分の決め球を答える中、ただ一人「自分は分かりません」と答えたのがルーキーの牛島だった。怪訝そうな顔の稲尾に対して牛島は「どのような状況で2-3となったかによって、最後に投げる球も変わってくる。2-3となるまでの経緯がないと、最後の球も決められない。点差によっても投げる球は変わるし、一概に決められるものではない」と持論を述べた。奇しくもこれは稲尾が現役時代に実践していた考え、投球術と全く一致していた。この事からも、当時から卓越した投球術の持ち主であったことが分かる。このエピソードは現在でも野球関連の漫画に流用されるほど有名である。余談だが、牛島本人は後年この時のことについて「稲尾さんでなくもっと頭の固いコーチだったら、きっと嫌われて目をつけられていただろう」と語っている。
    現役時代から星野仙一に憧れ、星野も牛島を可愛がってきた。しかし星野は牛島を落合博満獲得の為1986年秋の中日監督就任直後、ロッテにトレードする。トレード決定後、気持ちの整理が付かぬまま移籍会見に臨むため東京に向かう牛島を、星野は名古屋駅の新幹線ホームで見送った。牛島は人目をはばからず号泣。星野は後年のインタビューで「牛島は、他のチームの野球を勉強させるつもりでトレードに出した。いずれは中日に復帰させるつもりだったが、実現しないまま故障し、引退してしまった」と語っている。
  • [10] mixiユーザー

    2007年08月01日 02:22

    篠塚 和典

    (しのづか かずのり、1957年7月16日 - )は東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市出身。血液型はA型。プロ野球選手。右投げ左打ち。ポジションは内野手(二塁手)。旧名「篠塚 利夫(しのづか としお)」(1992年シーズン途中まで)。


    来歴・人物

    銚子商業高校では三塁手として2年生の1974年に春・夏連続で甲子園に出場。夏の甲子園では優勝を果たし注目を集めるが、湿性肋膜炎を発症し入院。翌年のドラフト会議前に再発し指名は見送られると思われたが、読売ジャイアンツの長嶋茂雄監督の強い要望でドラフト1位指名。プロの壁は厚くレギュラー定着には至らず、チームも不振に喘いでいた1979年秋、今や語り草となっている地獄の「伊東キャンプ」で攻守に渡り徹底的に鍛え直される。また本人の弁によると、当時線の細い自分が生き残る道を探る上で阪神タイガースの安打製造機藤田平の技術に強く感化されたという。この甲斐あって翌1980年に二塁のレギュラーを奪取。

    しかし藤田元司新監督で臨んだ1981年、後に監督となる原辰徳の入団で内野陣の大幅なコンバートがあり、またもや控えに甘んじる。このときのコンバートは、上り調子の中畑清が三塁手にいたために、本業は三塁手である原を二塁手としてデビューさせ、遊撃手は河埜和正(固定)、王貞治が引退した一塁手に山本功児を起用するというものであった。しかし篠塚は落胆する事無く代打として少ないチャンスをモノにする。そして中畑の故障もあって、チームは内野の布陣を再検討。原を三塁にコンバート、正二塁手として篠塚が起用された(ちなみに故障から復帰した中畑は山本を追いやり一塁手に収まった)。そして、この年藤田平と首位打者争いし、最終的に逃しはするものの現役最高の成績を残した。

    その後も正確なバットコントロールと芸術的な二塁守備で鳴らし9年間で7回3割をマーク、2度の首位打者を獲得し、また、その間の読売ジャイアンツの各リーグ優勝・日本選手権制覇に貢献。その後、持病の腰痛もあり1990年代は出場機会を減らし、1994年に引退。この引退の年、同球団に落合博満が加入していたが、背番号は、60で、翌年から6になった。

    映画プロデューサーの故・三上訓利は岳父(夫人の父)で、大映の女優・折原啓子(三上訓利夫人)は岳母(夫人の母)で、俳優の三上博史は夫人のいとこにあたる。

    2007年6月13日、警視庁北沢警察署地域課の巡査長の個人パソコンからウィニーを通じて、 警察情報を含む約1万件分のデータがインターネットに流出した疑いがあることが分かった。この流出データに篠塚和典個人と指定暴力団との関係を示す情報が流出し、騒ぎとなった

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  • 2007年07月30日 (月)
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