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開催終了川越唐桟手織展示と着物トーク

詳細

2007年02月20日 18:39 更新

明治期に途絶えた幻の織物だった川越唐桟手織を復活させた筒井寛子さん(川越唐桟愛好会)に川越唐桟についてお話を聞く会です。(司会・藤井)
筒井さんと一緒に手織を復活させた故東村田鶴子さんの川越唐桟遺作展の一環です。

また、3月25日をもって閉館する田中屋美術館の最後の催しとなります。
参加費無料
3月20日〜25日「故東村田鶴子の平成の川越唐桟展」
反物14点、着物5点、唐桟の帯なども展示されます。

24日までは一番街小林家の蔵の見学会(蔵造り本舗奥の蔵)もあり、伊勢型紙が展示されます。織物市場の発起人でもあった木綿買い継ぎ商で、650枚もの伊勢型紙が昨年発見されました。川越で木綿の浴衣を染めていたという証だそうです。

素敵なたてもの、田中屋美術館にまだ行かれたことのないかたはどうぞこの機会にお越しください。

コメント(66)

  • [27] mixiユーザー

    2007年03月21日 22:05

    素敵な着物姿をご紹介!
    右より川越唐桟手織部会長の嶋田さん(ご自分で織られた鰹縞の着物!)
    中央・お話をしていただいた筒井寛子さん(東村田鶴子さんの120番双子の三筋縞)
    左・所沢絣の復元をされている田口さん(館山唐桟、60番)
  • [28] mixiユーザー

    2007年03月21日 22:46

    田口さんは、2年ほど前に所沢の井筒屋さんで、織物の展示をされていた方でしょうか?
    染料にするたまねぎの皮を集めるのが大変だとおっしゃっていました。あの方なのかな・・・。(記憶をたどる)
     館山唐桟は、明治維新で失業した武士が、政府が設けた職能研修所で川越唐桟の製法を学び、館山に移って作り始めたと読んだことがあります。『きもの知恵袋』という本だったと思います。
  • [29] mixiユーザー

    2007年03月21日 23:24

    大好きなあの空間で、興味深いお話をうかがうことができました。
    ナビゲーターのこえど紫さま、ありがとうございました&お疲れさまでした。

    着物ゆえの「思い入れ」や「こだわり」を、川唐のお話でも感じることができました。
    たずさわっている方達は、まさに「匠」なんだと思いながら聞いておりました。
    織りの世界って、本当に奥が深いのですね…。
  • [30] mixiユーザー

    2007年03月21日 23:51

    >>26 : こえど紫 さん
    今日は別イベント参加のため、こちらに参加できず残念でした…
    次回は是非!(`・ω・´)=3

    それと個人的に、行田の足袋蔵さんの足袋お誂えの件
    ひじょ〜〜〜に気になります!
    (足がデカいので柄足袋はいつも誂えなんです)
    詳細を教えていただけますでしょうか?
  • [31] mixiユーザー

    2007年03月21日 23:56

    <星菜さま
    そうです。とても素敵な展示会だったようです。今度山口公民館で月1回活動している所沢絣の見学にいきたいと思います。
    館山唐桟、斎藤さんの祖父がそこで織物を学んだそうです。すごいお詳しいですね。
  • [32] mixiユーザー

    2007年03月22日 07:59

    おはようございまーす。
    今朝、七時前のNHKニュースで、小林家の倉が紹介されていました!
    >フジイさま、着物ネットワークが広がっていきますね!
    そして私は、いぢられキャラからの脱却を図っております★
  • [33] mixiユーザー

    2007年03月22日 09:00

    <J姐さん
    イベントトピの行田足袋蔵めぐりをご覧下さい。
    当日のイベントに参加するかたへのサービスなのですが、個人的にWEBのNPOに問い合わせていただいて結構です。
    誂えで二千円はお安いですね。
  • [35] mixiユーザー

    2007年03月23日 17:31

    <さくらさま
    お友達も皆さん素敵な着物姿でしたね〜。
    笠間さんでみなさん、唐桟を選んでいるところに遭遇。ああゆう時間はほんと楽しいですよね。人それぞれ似合う反物がちがうのが面白いし。
    また機会がありましたらぜひご参加くださいませ。
  • [36] mixiユーザー

    2007年03月23日 17:42

    今日、筒井寛子さんの着物仲間の法政大学の田中優子先生(TVのコメンテーターもされていてよくお着物で出ている方)が見学に来て下さいました。法政大学の八王子キャンパスで八王子織物について調べています。八王子から横浜へ絹の道があり、遣水商人といって幕末の織物商たちの活躍のあとが少しだけ残っているようです。今後、川越と八王子の関連もどんどん発掘されると思います。

    田中優子さんのHP(江戸と樋口一葉に精通)
    http://lian.webup.co.jp/yuu/
  • [37] mixiユーザー

    2007年04月07日 12:54

    この日に教えていただいた京都・西陣の織成館の全国の手織の展示場に行って来ました。東村さんの「川越唐桟」が館山唐桟の隣に展示されていました。他は丹波、阿波、松坂、などで双糸の細い糸は東村さんのもののみでした。
  • [39] mixiユーザー

    2007年04月08日 23:09

    <cozyさん
    田中優子先生、織物市場にも来ていただきました。手織の川越唐桟、とても感激されていました。きもののお話がききたいですね!
  • [40] mixiユーザー

    2007年04月10日 22:59

     わたくしも、関西・着物展の旅をしてまいりました。
     滋賀県立美術館の、志村ふくみさんの作品展に最終日に駆けつけ・・・。著作を抱えながら、ご本に出てくる着物の実物を見つめておりました。
     そして、・・・西陣のあの素敵な空間にも。枝垂桜がきれいでした。正方形の畳が面白かったです。
    東山さんの川唐が、いっとういい場所にあるように思えてうれしかったです。
     しじら織りを眺めていましたら、二人連れのお客さんがやってきて、「川越唐桟」。
     耳をダンボにしましたら、「川唐は個人でやる人はいるけど、商品としてはないのよね」
     あれれー?西村さんのがまだありますたい!でも、お休み中はお休み中だし・・・・。
     結局悶々と黙っておりました。(倒)
     御所の蛤門の向かいに泊まり、自転車で四条河原を駆け巡り、某所で「浜松唐桟」をチェックしました。(笑)
    そして、評判の足袋屋さんで靴下を脱がされてベストフットの足袋をゲットし、人気の手ぬぐい屋さんで猫柄をごっそり入手。あほうのように散財してしまった京都の旅なのでした。
  • [41] mixiユーザー

    2007年04月11日 02:03

    私も織成館に4月5日に行きました。東村さんの川唐ありましたね!でも初期のものなのでまだ糸が太くて、京都の人にとってはいわゆる木綿の着物の概念の中にあるのがちょっと残念。晩年得意とされていた120番双糸の柔らかさ、しなやかさをぜひ知ってもらいたいところです。
    手織の帯の工場の見学もあり、帯が着物より高いということ、あの手間をみたら納得しますね〜。

    京都の織り元が友禅を購入したお客様に、川唐を1反おまけでつけていたという話しもあります。

    人気の手拭いやさんとは・・・。永楽屋さん?
  • [42] mixiユーザー

    2007年04月28日 21:41

    返答が遅れてすみませんです。(;;)手ぬぐい屋さんは、永楽屋さんなのですー!
    お店を見つけるのがなかなか大変でした。(笑)
    川唐が友禅のおまけになっていたのですね。手仕事が当たり前だった時代の、ある意味では豊かさなのでしょうか。
    「守貞漫稿」という本を見つけました。川唐のことが少し出てきてうれしい心地です。江戸の世界が垣間見えるようです。
  • [43] mixiユーザー

    2007年04月29日 18:06

    <星菜さま
    「守貞漫稿」の記載が幕末の川唐を知る唯一の手がかりだそうです。ぜひ研究成果を発表して下さいませ。
  • [44] mixiユーザー

    2007年05月02日 21:15

    こんばんわ〜。
    「守貞漫稿」は、江戸のガイドブック決定版とも言うべき本で、江戸時代の百科事典のようなものです。豊富にスケッチが入れられ、見ているだけで楽しい、江戸を散策しているような気分になってきます。
    「唐桟」の項目の中に川唐について記載があります。

    「近年日本にて唐桟模織甚だ多し、中でも武州川越にて専模製す。江戸人号てかわたうとす。川越唐桟の中略也。粗眞物を欺くものあり」

    最近日本で、唐桟の真似をしたものが盛んに織られている。中でも武州川越が中心になって類似品を作っている。江戸の人間はそれを川唐と呼び習わす。川越唐桟の中略である。本物の唐桟かと思うものもある。

    「守貞漫稿」にある川唐の記載は上のとおりです。「守貞漫稿」は岩波書店から出版されています。

    唐桟という言葉が記録で初めて見えるのは寛永19年に、オランダ人からの幕府への献上品に桟留島があります。享保17年には「萬金産業袋」に和桟留の項目があるそうです。この本には甲斐の織物のことなども載っているそうで、実物が見られたら面白そうです。

    桟留島がセント・モーリス島というのはよく言いますが、聖モーリスの名を冠した地名でオランダが拠点を持っていた地ということになるでしょう。インドにあったと言われますが、
    現在は、ニューカレドニアの「イル・ド・バン」という島に、「セント・モーリス湾」があるそうです。ニューカレドニアはイギリス人であるキャプテン・クックに「発見」され、フランスの植民地になった経緯があります。
    聖モーリスはローマ帝国時代の軍人で、キリスト教のために殉教して聖人に列せられた人です。どうも、フランスで人気のある聖人のようです。ニューカレドニアで湾の名前になっているのもそのためでしょう。
    オランダはプロテスタントの代表国であるので、聖人信仰は希薄と思われるので、このあたりはまだよくわかりません。

    まとまりませんが、まずはこのあたりで。筒井さん方のお話もまた伺えたらいいなあと思います♪
  • [45] mixiユーザー

    2007年05月02日 21:28

    サントメはセント・トーマスの訛りではないでしょうか。
    焼き物もそうらしいですが、輸出品は産地というより出荷
    された港の名前で呼ぶものだと聞いたことがあります。
    セント・トーマス港は当時インドに何ヶ所もあり、特定は
    できないらしいです。
    私の勘違いならすみません。
  • [47] mixiユーザー

    2007年05月02日 21:47

    ひろすけさん
    ご指摘ありがとうございます。島でなく港だ、という説は覚えがあります。
    今調べてみましたら、「インドの港町研究会」というものを見つけました。

    インドのコロマンデル地方にサントメという港町があったことが確認されているようですね。
    オランダの勢力が来る前はポルトガルの居留地があったそうです。聖人の名が使われているのはポルトガル所以ならわかりますね。

    川唐はヨーロッパの大航海時代に端を発しているのが目に見えそうです。
  • [48] mixiユーザー

    2007年05月02日 21:50

    チャチャ入れてすみません。
    面白い時代ですよね。「大航海時代」というのはあくまで
    ヨーロッパ人(当時は世界の片隅にいました)にとっての
    もので、アジアは交易ネットワークで栄えていたそうです。

    田中優子先生が翻訳されている「大航海時代の東南アジア」
    (法政大学出版局)を読むと、頭がクラクラするくらい、豊かで
    スリリングなアジアが味わえます。
    残念ながらサントメ縞のことはよくわからないんですけど・・・
  • [49] mixiユーザー

    2007年05月02日 21:55

    ローマ帝国は、インドと交易していたそうですね。
    十二使途である聖トマスはインドで殉教したといわれているので、「サントメ」はかなり古い名前かもしれないですね。
    修論はインドネシアだったんですけど、第二次大戦後がテーマだったので、侵略以前の世界は新鮮です。お勧めのご本、読んでみますね。
  • [50] mixiユーザー

    2007年05月04日 02:26

    浦野理一さんが昭和47年に出した「唐桟」という本では
    インド大使館に問い合わせて調べたところ、東南部マドラスの近くにサントームという地名があり、この地方は古くから縞の産地であるのでサントームが転化してサントメとなったのでは、と述べていました。

    田中優子先生は先日、織物市場にも来て下さり、今度「きものトーク」開催に出演了解をいただきました!大学のある八王子織物と横浜への絹の道も研究されています。
  • [51] mixiユーザー

    2007年05月04日 06:20

    >こえど紫さん

    サントームというところがあるのですか。
    勉強になります。

    「和漢三才図絵」(1712年刊かな)に「奥島」として「サントメ」「ジャガタラ」「セイラス」の3種類の輸入品が出ています。ジャガタラ・セイラスはチェックのようです。
    セイラスもインドっぽい名前ですね。
    ちなみに「最近のものは質が悪いので、アンティークものが珍重される」「日本で真似て作ったものは京奥島というが、全然ダメ」てなことが書かれています。

    このあたり、田中先生にお聞きすると面白そうですね。

    >星菜@夜学生さん

    私、インドネシアの戦後補償とデビ夫人の関係に興味あります・・・
  • [52] mixiユーザー

    2007年05月07日 22:52

    おかげさまで、いろいろと勉強になります。川唐の来た道を描きたいです。

    こんなサントメ情報を見つけました〜。元ネタは、1925年刊のアトラスだそうです。探してみるかな。

    『南インドの綿布はキャラコと呼ばれ、西洋諸国や東南アジア、そして日本にまで運ぱれ、もてはやされていた。キャラコに縦縞を入れたものは桟留縞と呼ばれ、江戸時代の人々に人気だったが、これは主にポルトガル人が日本にもたらしたものである。ボルトガル商館は、イギリス商鎗から南に五キロの地にあり、ここを彼等はサントメ地区(今のマイラボール地区)と呼んだ。ここは紀元一世紀に、キリスト十二使徒の一人、聖トーマスが殉死したと言われる地であり、聖トーマスはポルトガル語でサントメと言うのである。ここのサントメ教会で私は聖トーマスの骨なるものを見たが、恐らく眉唾物であろう。ともかくサントメが桟留になったのである。』「心は孤独な数学者」藤原正彦より

    「守貞漫稿」でも、「おくしま」の名称に触れています。
    「唐桟は必ず縦じまで、いろんな種類がある。(縞柄の名称をしばらく語り)将軍が大奥で唐桟の袴を着たので唐桟を奥縞とも呼ぶ。京阪では「奥縞」が「唐桟」を指す。古いものほど尊ばれ、古いものは富貴の者も着る。赤が入ったものが人気がある」
    この「守貞漫稿」が書かれたのは天保年間です。1837年(天保8年)に書き始め、以来30年にわたって加筆が続けられています。
    川唐の生みの親といわれる中島久平さんは1825年のお生まれですね。

    また「きもの知恵袋」では、「和物の代表であった川越唐桟は明治30年代に絶えたが、館林唐桟に技術が引き継がれた」との記載があります。元武士の方々の技術習得の話ですね。
    私の祖母は仏子に生まれ、川越女学校に通い、飯能にお嫁に行きましたが、川唐は見たことがないそうです。
    私が「川唐って昔着てた?」と聞きましたら、「あれは粋筋の人が着るもんだから、私なんかは見たこともないよ」と言っておりました。
    実際は途絶えていた時期だったからかなと思います。目にしない理由を、粋筋の人のものだ、ということにして納得していたのでしょうか。

  • [54] mixiユーザー

    2007年05月07日 23:13

    >ひろすけさん
     私は外交文書をあたっていたので、デビ夫人のことはそんなに詳しくないのですが、少し・・・・。
     戦後賠償交渉は、インドネシアはいち早く日本と交渉を開始しました。最初から総額でもめにもめ、当初はインドネシア側の要求額は70億ドル、日本側の提示額は1億2千5百万ドル。
     紆余曲折を経て、1951年12月の東京会談から始まった賠償交渉は、57年11月に、ジャカルタ訪問中の岸伸介首相と、スカルノ大統領によって合意に達し、翌58年1月に調印されます。賠償は2億3千万ドル相当額。これに加えて、インドネシア側の貿易赤字を棒引き。
     日本企業がインドネシアで仕事をしてお金は日本政府の賠償金から払ってもらう、というのが賠償のおおまかなシステムでした。ここで今で言う商社が案件発掘に動き回ります。デビ夫人の登場には、こうした商社がかかわっていることになります。
     日本企業がインドネシアで仕事を取る際に会社の決定に関して、デビ夫人からの影響がかなりあったようです。
     スハルト大統領夫人のティエン夫人は、ODA(政府開発援助。賠償ビジネスの後継事業も多い)からのお金の10%を自分のポケットマネーにしてしまうという評判で、「テンパーセント夫人」と呼ばれていましたが、大統領夫人がこうした開発案件に積極的に関わる前例をデビ夫人が作った面はあると思います。
  • [55] mixiユーザー

    2007年05月08日 00:43

    <ひろすけさま、星菜@夜学生さま
    唐桟から話がずれますが、こっちの話も好きなのです。「東京アンダーワールド」ロバート・ホワイティング著に
    赤坂コパカパーナの記事があり、そこのホステスをしていたデビィ夫人のことが少し記載されています。彼女は児玉誉士夫が指揮する貿易会社の秘書に仕立てられ、見事に使命を達成したということです。
    GHQの居残り組でヤミ市・ベトナム戦争物資輸送などで儲けたのが日本在住米国航空会社の幹部でいっぱいいました。私のかつての上司もそのひとりでCIA出身。仏像や日本の骨董品のコレクターでした。会社は赤坂山王ビルだったし。赤坂という町は占領軍の名残が多々ありました。「ビブロス」には一度いきたかった〜。すみません、話が脱線してる。
  • [56] mixiユーザー

    2007年05月08日 07:09

    おお〜、面白いですー!

    >星菜@夜学生さん
    「笠間」のおかみさんの話では、現在90歳くらいの仕立屋さんは「自分が若い頃、川唐は小僧(丁稚だったかも)さんの着るものだった」とおっしゃっていたそうです。
    星菜さんのお祖母さんが「粋筋の着物」とおっしゃったのは、縞のイメージからかもしれないし、川唐にもいろいろあったのかもしれませんね。

    戦後補償の話、ありがとうございます。
    補償ビジネスが日本企業の戦後復興の足がかりにもなったのですね。デビ夫人がテレビで「日本から洗濯機を輸入して売った」というようなことを語っているのを見ましたが、ここで商社選定していたんですね。

    >こえど紫さん
    CIA出身の上司!
    自分が生まれ育った頃は「もう戦後は終わった」なんていわれた時代だったけど、ほんとはそうじゃなかったんですね。
    デビ夫人には「人身御供」のイメージがあって、政府がどのくらい関わっていたのかなーと思っていました。児玉誉士夫関連だったのか・・・
    川唐にしてもそうですが、昭和時代ってわかっているようでわかってないなと思いました。
  • [57] mixiユーザー

    2007年05月08日 21:21

    90歳くらいの仕立て屋さんは、小杉先生のお父様でしょうか。
    唐桟は川唐の模倣品が各地で作られるようになってから、働き着の前掛けにまで使われるようになったと、「日本の織物 源流社刊」にありました。
    私が初めて和裁で縫った長着は、蓮馨寺の近くのイーハトーブで買った縞木綿の反物ですが、「みかさ唐桟」と書いてありました。秩父のものではないかと言われました。これも、模倣品のひとつなのでしょうね。
    模倣品が増えて働き着にも使われたのが、、古渡りを珍重する姿勢に拍車をかけたことでしょう。

  • [58] mixiユーザー

    2007年05月08日 21:22

    デビ夫人関連で
    税金である賠償金・援助事業に恣意的にかかわったことは確かですが、前任者(以前にスカルノ氏に、まあプレゼントされた女性)が自殺し、引き取り手がなくて遺骨はいまだに埋葬されずに置かれているそうです。その中でよくぞ生きのびたと、それだけでたいしたものだと思ってしまいます。
    児玉誉士夫は「右翼のドン」とか言われているそうですが、どうも右左という感覚は実感としてわかりません。
    児玉誉士夫という人に関して印象的な話をひとつ。

    インドネシア賠償案件をめぐって喧々諤々のころ。

    国会でインドネシア賠償をめぐる賄賂が追及されました。
    追及した議員は貿易会社の賠償プロジェクトの資料や、大臣に運転手ごとプレゼントされた高級車のことなど具体的に追及。
    その後、追及した議員は児玉誉士夫に呼び出されました。
    「君、儒教というものがある。先輩である岸先生を困らせてはいけないよ」
    といって議員に示したのは、議員のここ数ヶ月のあらゆる行動を記したノート。
    議員はそれ以上の追及を断念しました。
    デビ夫人を主人公にした小説でも児玉誉士夫はひどい黒幕として出てきますね。
    日本のいやな部分が煮詰まった印象です。
  • [59] mixiユーザー

    2007年05月09日 11:36

    笠間さんの話に出てきたのは、おばあさんでした。
    そのかたが仕立てを始めた頃のことなので、昭和の初めくらいでしょうか。

    「和漢三才図絵」にはサントメは藍色と褐色の縞、と出ています。江戸中期で文化の中心が上方の時代ですから、「守貞漫稿」の頃とは流通も感覚も違うかもしれないですね。でも、いつの世にも「古渡りがいい」と言い続けているのがおかしいです。

    デビ夫人は賢い人なんでしょうね。20歳くらいで外国にいって、正妻の身分を勝ち取り、政変をくぐり抜けて、インドネシアとの縁を切ったのかなと思っていたら、メガワティの選挙の応援にもちゃんといっていたし(まだ利権があるのかしらん)。
    子どもの頃、デビ夫人がマスコミに報道されるたび、なんだか微妙な雰囲気で変だなと思ってました。今考えると日本という国がデビ夫人に後ろめたさを持っていたんでしょうね。

    児玉誉士夫というとロッキード事件でしか知りませんが、当時も「右翼でフィクサー」という肩書き(?)が理解不能でした。
  • [60] mixiユーザー

    2007年05月24日 23:33

    ひろすけさんの日記におじゃましまして、「奈良時代の機織の絵」を探してらっしゃったので、気になって私も探していました。
    今日ようやく、ネタを発見!「図説 手織機の研究 日本篇 前田亮著 京都書院 」にありました。九州の宗像大社に、9世紀ごろ奉納された金属製の模型があるそうです。WEBサイトにもその模型の写真がありました。
    機織の模型として、世界最古のものらしいです。
    もうご存知でしたらごめんなさい〜。

    http://www.munakata-taisha.or.jp/sinpoukan.html
  • [61] mixiユーザー

    2007年05月25日 00:39

    探してくださっていたんですか。ありがとうございます。
    宗像の奉納品については「高機」としているのと、「地機」としているサイトがあり、私は地機なのではと思ったのです。
    どう違うのか、私もよくわからないのですが・・・
    「図説 手織機の研究」ではどういう説明になっているでしょうか。アップしていただいた右の図は地機ですね。

    探していたのは高機で、なんだかわからないまま、テキトーに仕事してしまいました(笑)。でもまだ気になっています。
  • [62] mixiユーザー

    2007年06月02日 15:10

    中央公論新書にまさしく探していた本がありました。
    著者は京大卒、インド・マドラスに留学。インドのカーストを研究していて現代インドについての講演も多い追手門学院大学教授です。

    マドラス物語―海道のインド文化誌 (-)
    重松 伸司 (著)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    商品の説明

    内容(「BOOK」データベースより)
    十二使徒のひとり、聖トーマスに由来する地名サントメは世界各地にある。南インドのマドラス市にもある。サントメの名に欧米人は殉教の聖者を連想し、江戸中期の日本人は、粋な縦縞「さんとめ」を思う。十二使徒の名が、なぜ南インドの地名に変身し、近世日本の「粋文化」を飾る木綿縞に転じたのか。舞台を江戸日本と、近世初期の南インドに求め、英蘭両海洋帝国の盛衰のドラマに、マドラスの歴史文化を探り、「さんとめ」縞の日本伝播を見る。

    アマゾンブックストアーより。
  • [63] mixiユーザー

    2007年06月02日 15:18

    ひろすけさま
    「手織り」には腰機になってました。地機を腰機と呼んでいるそうです。神社のサイトでは高機ですね。本では、神社は糸のかけ方を間違えて飾るとこぼしていました。
    世界各地の手織り機が載ってて面白いです。

    フジイさま
    わーその本すごいー!私は聖トマス伝など見ていました。
    浦野さんの本を買おうかと迷ってましたが、新書ならすぐ買えそうですね!
  • [64] mixiユーザー

    2007年06月02日 18:10

    >星菜@夜学生さん

    やはり地機なんですね。ありがとうございます。伊勢神宮には高機のミニチュアが奉納されているのですが、かなり時代が下るもののような気がして参考にしませんでした。
    喜多院の職人尽くし絵には近世初期の高機と、空引機の絵があって面白いです。空引機は人が機の上に乗って、そうこうを操るんですが、明治時代にジャガード式織機が輸入されるまで、そんな人力で複雑な布を織っていたなんて驚きです。


    >こえど紫さん

    そのものズバリの本ですね。勉強していつか研究発表会とかやりましょうか(笑)。
    今、渋谷の「たばこと塩の博物館」で近世風俗画展をやっているのですが(おすすめです!入場料も100円!)、18世紀の後半になると急に縦縞の着物を着る人が多くなります。特に男性はほとんど縞です。
    でも、サントメ縞は桃山時代から入っているわけで、日本でも江戸初期から縞木綿が織られているようです。それなのに風俗画に描かれないのはなぜなんでしょう。
    桃山時代には茶道具に使ったり、洋服を作って着たのかもしれませんが・・・ちょっと勉強すると、その何倍も謎が増えてきます。
  • [65] mixiユーザー

    2007年06月13日 22:33

    縞柄が流行る背景について、つらつら考えました。
    「縞」という語を使わずに「島」や「間道」などと言い表すことが多かったのは、中国の魏のころ、「遊女は縞の衣服を着ていたので遊女を縞と呼んだ」という故事があり、「縞」という語をずっと避けていたそうです。
    「木綿以前のこと」で見たと思うのですが、もう少し確認してきます。
    唐桟は、将軍への献上品になっていますから、庶民にいきわたるまでにはまた、別種のタブーがあったかもしれないですね。

    また糸の段階から日本で織られる縞木綿は、木綿の種類もあって糸が太く短くなるので、厚くて堅い仕上がりになり、柄も唐桟のように鮮明にはならず、とても「絹のような風合い」にはほど遠いと聞きました。
    「手織りの名人のおばあさんが縞木綿のアンサンブルを作ってくれたが、みんなは華やかな大正染めを着ているのに自分だけごわごわして地味で・・・」と、瀬川清子さんが述べていました。「絹のような風合いの木綿」がどれほど得がたく、魅力あるものか逆に実感できそうです。


    NHKの新日曜美術館で、鳥居清長の「八頭身美人」が取り上げられていました。
    人物を八頭身で描いたのは彼が最初だそうです。鈴木春信のものと比べて「これは六頭身です」と八頭身ぶりを強調。
    ヨーロッパのデッサンの教科書のようなものが当時、江戸に伝わったそうです。
    長身に見せるデザインといったら、縦じまストライプ!

    浮世絵(当時のグラビア)と将軍が着ていた唐桟。(縞柄)

    うーん、、もっと知りたいですね。
  • [66] mixiユーザー

    2007年06月14日 09:34

    縞の話はほんと尽きず面白いですね。「いきの構造」九鬼周三著で粋と縞の関連を個人的感性の論理で解明しています。学者じゃのう〜というかんじ。このひとの出自を思うと哲学にはまっていったのもわかります。岡倉天心と母が米国からの帰還の船のなかで恋におちてしまい、自分は天心のこどもではないか、とずっと疑心があったという。いつも話がそれてしまいますが・・・。

    松坂にいったときに松坂木綿を復活した工房にいきました。松坂木綿の縞は信長の時代にベトナムに定住した松坂商人がもたらしたそうです。もっと以前から木綿栽培はありましたが。
mixiユーザー
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  • 2007年03月21日 (水) 祝日午後1時〜
  • 埼玉県 川越市仲町・田中屋美術館
  • 2007年03月21日 (水) 締切
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参加者
9人