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2008年08月26日10:09

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父の8月15日

今年は8月15日から三重県に帰省しました。

父のお盆休みとはちょうど入れ替わりで
この夏は会えないかな…と、諦めていたのですが、
私と息子が到着するギリギリまで出発を待っていてくれて、
ほんの30分ほどでしたが
お互いに顔を見ることができましたわーい(嬉しい顔)

その時は時間もなくバタバタしていて
昭和20年の8月15日のことを
聞きそこなってしまったので、
川崎に戻ってきてから
よみうりランドのWAIで
息子と姪っ子と主人が遊んでいるプールサイドのデッキチェアから
あらためて父に電話をしました。





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私「昭和20年の8月15日、玉音放送を聴いたとき、
  何を思った?」

父「あの日は朝から学校に行っとったんやけど、先生から 
  『今日、正午から天皇陛下からの大事な話が放送されるけぇ
   昼までに家に帰ってラジオの前で待っとくように』 
  って、言われて午前中で家に帰ったんや。」


当時小学校4年の父は、まさか“天皇陛下からの大事なお話”が
『戦争に負けた報告』だとは夢にも思わずに、
「天皇陛下からの話ってなんじゃろおなぁ」
と、友達と話しながら学校から帰ってきたそうです。


父「そういやぁ8月14日にな、玉音放送の前の日よ、
  アメリカの戦闘機が
  そりゃあもうぎょうさん(沢山)飛びよったんよ。
  『ほいじゃけど今日は爆弾を落としてきよらんな…』
  と、思いつつもビクビク空を眺めとったが、
  後から思えばあれはもう日本の降伏が決まっとって
  政治的な動きが始まっとったんやろうな〜」


果たして、8月15日の正午、玉音放送は始りました。


父「はっきり言うて天皇さん、滑舌が悪ぅての(笑)、
  何言いよるんかパパにはよぉわからんかったんやけど、
  おじいちゃん(私の祖父)が
  『なんじゃっ、日本負けたんかっ!!』って、
  言うたんを聞いて初めて日本が敗けたんがわかったんや。」


祖父は、姿勢を正してラジオの前でじーーっと、
放送に耳を傾けていましたが、
日本が負けたことがわかった瞬間、
弾かれたように上記の言葉を叫んだそうです。
そうして暫く押し黙って放送を聴いていたかと思うと、
捻じり出すような声で一言、

「たっちゃんを殺してまでして……」

と、言ったっきり、今度は本当に一日中押し黙っていた、
と、いうことです。


“たっちゃん”とは、8月8日と11日の日記で記しました
当時中学一年生だった父の兄、達三(たつぞう)叔父のことです。

(読んでいらっしゃらない方は是非お目通しをくださいませ…)
  ↓
8月8日 黙とう
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=895456634&owner_id=19426232

8月11日 エピソード
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=898154902&owner_id=19426232&org_id=895456634



父「西条小学校から兄貴を含めて三人の同級生が
  広島一中に行っとってな、
  一人は三谷君。
  話したやろ?十年後に死んだ人や。
 
  実は三谷君は原爆で顔が半分ケロイドになっとてな、
  帰って来た三谷君の顔を見た時には
  声がひとつも出せんかった。

  それでも三谷君は
  『命には代えられん』いうて明るぅ生きとったわ。
  パパも池へ一緒に泳ぎに連れてってもろうたりしたけどなぁ。 
  …けど、十年経って結局 原爆症で死んでしもうた。

  もう一人は半田君。
 
  半田君は原爆投下から15日後にひょっこり帰って来よったんよ。
  もう親も諦めとったけぇ、そら〜えろぉ喜んだわなぁ。

  『半田君、どこ行っとったんや?』って、パパが聞いたら、
  『二の島に収容されとった』って、言うとった。」
 

原爆が投下された後、動けなくなっている人達が保護されて、
二の島いう所で大勢の人々が手当てを受けていたそうです。
半田君もその収容所に運ばれていたのでした。
丸二週間そこで休み、ようやく動けるようになったので帰って来た、
と、父に話したそうです。


父「ほいじゃけどなぁ、
  家に帰ってから2ヶ月後にポコッと、死んだ。
  ほんとうに、ポコッと。
  やっぱり原爆症よ。」



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



私「周りの人たちは敗戦を知ってどんな様子やった?」

父「そおやなぁ、
  昨日まで本気で行進曲をラッパで吹いて
  『一億総玉砕の精神でっ!』いうて、
  竹槍持って町内を行進しとったんやからなぁ〜(笑)」


子供の頃から秀才で通って来た近所の歯医者の息子は
敗戦を知って気がふれてしまったそうです。
二ヶ月後に正気に戻ったんですが、
気がふれている間の素行の様子が本人の耳に入ってしまい、
結局 汽車に飛び込んで自殺してしまったらしい。


父「みんな軍から洗脳されとったけぇのぉ〜。

  『一億総玉砕の精神でっ!!
   たとえ一億人が玉砕しても、本土だけは我々が護るっっ!!』

   いうて、軍の人がよう叫んどったわ。」

私「でもさぁ、一億総玉砕で本土だけ残ってもさぁ、
  そこに住む一億人がおらんだら意味ないやん。」

父「ほうじゃの。軍隊いうんはわからんところよ(笑)」

私「なんで広島と長崎が原爆の投下目標に選ばれたん?」

父「広島は軍都じゃったけぇ。
  7月27日には横須賀と並んでトップの
  呉の海軍基地も焼き払われたけぇのぉ。
  あの“戦艦大和”は
  広島の呉工廠(くれこうしょう)で作られたんで。」

私「じゃぁ、長崎は?なんで投下先に選ばれたん?」

父「実は、九州の第一目標は小倉やったんよ。
  八幡製鉄と並んで大きな工業地帯やったし、
  軍需工場もいっぱいあったけぇな。

  長崎は第二目標やったんよ。
  それはやっぱり大都市やったからや。
  
  8月9日は小倉は天気が良うのぉてな。
  視界が悪うて投下目標が見えんけぇ
  諦めてアメリカへ帰る道すがら
  通りかかった長崎の空がたまたま晴れとったけぇ、
  こう言っちゃなんやが、
  ついでに落していったようなもんよ。
  ほいじゃから長崎の投下位置は
  長崎市のど真ん中からズレとるやろ?
  たまたま長崎の上空の晴れとった所が、
  あの浦上天主堂がある浦上市界隈やったんやなぁ。」

私「ついで…」

父「あぁ、そういやぁ… 
  アメリカ軍がな、
  7月の末…原爆を投下する一週間くらい前やったな。
  ビラを撒いたんよ。」


当時アメリカ軍は、
しょっちゅう日本でビラを撒いていたそうです。
しかし、日本軍は

『ビラの内容は決して見ないこと。
 ビラを拾った場合は全て、学生は学校の先生に、
 市民は軍隊や警察に届けること』

と、緘口令を布き、国民は従順にそれに従っていたそうです。


父「それが上質な紙を使ぉとってなぁ、
  日本なんかその頃 物資がまるでのぉて、
  今の4分の1のサイズで1枚きりの新聞じゃったし、
  紙はみんなザラザラの藁半紙ばっかじゃったのに、
  『たかがビラにええ紙使ぉとるなぁ〜』って思うたもんよ。」


原爆投下の一週間ほど前に
広島市内の上空からばら撒かれたビラを、
父の兄 達三が1枚だけ家に持って帰って来たのだそうです。
そこに書かれていた内容は…



『戦争は虚しいものだ。
 日本の国民は早く戦争反対の運動を起こしなさい。
 アメリカは戦争を終わらせるために
 やむなく爆弾を落とします。
 
 花の京都は後まわし。

 疎開はできたか、広島の人達。』



父「具体的な言葉は正確に覚えとらんが、
  だいたいこんな内容やった。
  『花の京都は後まわし』
  これだけはハッキリ覚えとる。
  『あぁ、京都には爆弾が落ちんのか…』
  って、その時思ぉたからハッキリ覚えとる。」

私「警告しとったんや…」

父「とにかくあの頃は日本国内の主要都市は京都以外
  ことごとく爆撃を受けて焼き払われとったからな。
  『よぉ広島が狙われんもんじゃのぉ』と、話しとったが、
  一番大きいんがとってあったんやな。」



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



父「日本が負けて、
  大人たちはみんなやっぱり沈んどったけど…
  沈んどったけど…それでも本当はホッとしとる人も
  ぎょうさんおったやろうなぁ。
  戦時中は『早よぉ戦争が終わってほしい』
  いうようなこと言うたら即、逮捕されよったしのぉ。
  それよりも何よりも、
  これから先も、生きてゆかにゃあならんだで。」

私「パパ自身は日本が負けたことをどう受け止めたん?」

父「そおやなぁ…
  パパはまだ子供じゃったけぇ、
  負けて悔しいとか、絶望したりとかはなかったな。
  そりゃ、兄貴が死んだ、と、いうことに対しては
  言葉にならんような感情があったけど、
  戦争に負けたこと自体に対しては今一つピンとは来んかった。

  ただ、
  原爆投下一ヶ月後の広島一中の合同慰霊祭に参列した時にな、
  ぼんやり空を眺めとったんよ。
  天気が良ぉてなぁ。
  その時に、
  

  『あぁ、空襲警報の鳴らん空っちゅうのは ええもんやのぉ…』


  と、しみじみ思ぉたわ。」







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空襲警報の鳴らん空は ええもんやのぉ。




この言葉を聞いた瞬間、
大音量で流れる音楽と明るい歓声に満ちた、
今、自分の目の前に広がる空が目に飛び込んできました。

色鮮やかな水着を纏ってはしゃぐ
カップル、家族、グループ…、うちも勿論そのひとつ。



喧騒の中で私の心は凪いだ。



あの日、あの時散っていった人達が、
もしも今の日本を、日本人を見たら、どう思うのかな。

これは批判的な意味で言っているのではありません。
父の話から想像する空と、今自分が見ている空との
あまりにも大きなギャップに湧いた、
素朴な疑問です。


父の家の近所に住んでいた高等工業学校(現・広大工学部)の学生が、
原爆投下後市内から帰って来た時にこう言ったそうです。


『あぁ、これで日本が滅ばんで済む。』


…確かに滅びはしなかった。
あまりにも大き過ぎる犠牲の上に。


今、すぐそこに広がる楽しげな光景の中に、
爆撃機が飛来してきて
焼夷弾の雨を降らせる光景を重ねて想像してみた。

鳥肌が立った。

でも、現実に、
間違いなく現実に、あったんですよね。
そんな光景が。





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あぁ、空襲警報の鳴らん空は ええもんやのぉ。






















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