mixiユーザー(id:10896991)

2008年01月22日18:46

3081 view

九州回想6  二日目:宮崎の冬山は狩人の世界だった(5)尾股、田代八重

【平成20年1月5日】
小椎葉から瓢丹淵に抜けたあとは東陵中学校跡へ向かい、北側から山を眺め、バス停名などにその名残を確認した。
中尾小学校と思って行った古仏所の学校跡は、記念碑からあとで一ツ瀬小学校跡とわかったが、これも校舎のほかプール跡などが確認できた。
国道を進み、銀鏡(シロミ)方面へ県道を曲がって柳にあった八重小学校では、記念碑のほかは3コースだけの小さなプールが残っていた。
中学校付近は全く家はなく、尾八重に向けてトンネルを掘削中だった。小学校2校の跡地付近は、ともにわずか数軒ばかり家があるきりで、道の向こうは一ツ瀬ダムの巨大な湖面になっていた。

次は、いよいよ西米良村尾股である。
宮崎県のH17国勢調査資料を見ると、西米良村の大字表章に尾股という地名は見あたらなかった。ずいぶん前から無人地帯だったのだろう。最新の道路地図には尾股の集落名さえなく、ここはまさに消えてしまった村なのだ。

尾股、という地名を知ったのは、数年前のローカル新聞だった。
リヤカーを引いて日本縦断した方の寄稿だったと思うが、お名前は忘れてしまった(今考えると山陰ローカル紙なので、たぶん出雲市出身のリヤカーマン永瀬忠志さんと思うが、すると記事は平成17年夏頃だろう)。その方が、昭和40年代の日本と20数年後の平成の日本を、リヤカーを引いて目にした世の移り変わりを話題にしていたように思う。
私が目を奪われたのはその記述の一部で、九州のある山村のことだった。そこ、西米良村尾股は、最初に訪れた昭和40年代にはたくさんの方が住んで学校もあり、集落をあげて歓迎してくれた。だが、再び訪れた時、村は無人の廃村になっていたという。このくだり、2〜3度繰り返して読んだ。
それまで総論的に山村の崩壊を聞くことはあっても、具体的な地名をともなう物語としてはあまり目にすることがなかっただけに、尾股の名は強く印象に残ることになった。
もっともそれには、近くまで行ったことがあるという親しみ感や、再び行くのは容易でない僻遠の地という要素も加わっていただろう。
しかしながら、この九州回想の冒頭に戻るが、尾股の学校跡地がわからなければ今回宮崎に来ることはなかったはずで、はからずも尾股は、いつの頃からか過疎地探査や廃校調査、ひいては廃村探求の対象として象徴的存在の一つとまで思い入れるようになっていたみたいだ。結果としてこの新聞の一文が、廃校・廃村へ傾斜を深めていく大きな契機になったのは間違いない。

西米良村役場のある村所(ムラショ)から3キロほど進んで国道265号に左折すると、板谷集落を過ぎてなおしばらくは2車線改良済みで、地図に見る尾股峠の酷道ぶりとはほど遠い。もっとも改良区間が終わったとたん急激に道幅は狭まるが、それでも平均3〜3.5mくらいで、小椎葉の市道を経験した目には思いがけず快適な道路に映ってしまう。道路脇には僅かながら残雪もある、尾股への最後の峠越えである。

峠道を下っていくと国道の標識はようやく「西米良村尾股」となっていた、ついにやって来たのだ。しばらく谷筋の道を下っていくと、川向こうに長屋状の3棟を見つけた。尾股の廃屋第1号である。周囲には耕地にしていたような平場も見あたらず、どういった家屋だったのかよくわからなかった。
さらに進むと道は緩やかな下りになり、無人の山中に突然2車線の道が開けた。山を切り橋を架け、今までの峠道とのギャップからまるで一直線にも見えるような良好な道だ。橋には平成7年竣工と書いてあり、その時期にどういうつもりだったのか、わずか何百メートルだけ道路改良がされていたが、次に廃屋がかたまっているあたりまでにはもう元の道幅に戻っていた。

尾股川の両岸は平地もなく、ただ山である。
地図で尾股の学校跡と確認したあたりまで来ると、小さな橋の向こうに僅かな平地と建物が見えた。村所小学校尾股分校だった。
途中に1軒だけ新しそうなお宅(事務所)を見かけたが、他は廃屋状態の長屋ばかりという尾股にあって、まさか校舎が残っているとは思いもかけず、興奮気味にクルマを飛び降りた。

橋を渡ったところで眺めてみると、まさしく地形図に見るL字形の建物のようだ。
轍の残る道を進もうとした時、大きな糞に目が釘付けになった、新しいものだ。人のではなさそうだし、たぶん大型の動物である。唯一安心なのはクマの糞でないことだ、九州にクマはいない。イノシシやシカ、イヌとも違うような気がする、といろいろ想像と妄想を巡らした。学校にナニかが棲み着いているのだろうか。

ワンワン
谷の下流方向から風に乗って遠くイヌの吠える声が聞こえた。またかと思い寒川がよみがえってきた。快晴だった今日もすでに16時、日が陰ってひんやりした空気が、ここでも自分一人きりという気持ちを膨らませ、足下から冷えが這い上ってきた。
この糞は大型のイヌだろうか。
姿の見えないモノに、ふたたび不安を掻き抱くようにしてクルマまで戻ると、対岸の学校を眺めながら、ためらい、しばらく考えこんでしまった。しかし、ここまで来て学校を見ずに帰るなど、どうあってもできることではない。
意を決して、橋のガードレールを金属でたたいてやると、ガン、ガン、という音が狭い谷間に2,3度こだました。そしてもう一度。学校あたりでは、音にも、見た目にも何の変化もなかったが、気持ちだけは少し落ち着いて、警戒しながら再び橋を渡って校舎へ向かった。橋から見えていたのは、濡れ縁のついた住宅のような校舎だった。

校庭は一面にコケが広がり黄色い絨毯のようになっていて、踏み込むと水を含んだコケで足元はふわふわしている。校舎の一枚の戸が外れていて教室をのぞき込むと、意外に床板はしっかりしている様子で、誰が置いていったものか、黒いテレビがひとつぽつんと捨てられていた。
校舎の窓ガラスは所々割れているが、屋根にも軒にもゆがみはほとんどなく、まだ崩れそうな気配はない。廃校、廃村からかなり経つだろうに、これほど無事な校舎も珍しい。校庭中に広がった分厚いコケと対照的だった。

16時15分、尾股分校を後にして小林市(旧須木村)の田代八重(タシロハエ)に向かった。ここの須木小学校綾北分校が、今日最後の学校跡である。
小林市の資料では、田代八重には1世帯2人がお住まいらしいことがわかっていた。

「小林市」と書かれた道路標識を過ぎると、国道左下の谷には広い水面が見え始めた。そんなもの、手持ちの地図には載っていない。おかしい・・・。
やがて国道が改良2車線になると新しそうなダムの堤体が見えてきた。結構広い湖面で、もしかして、田代八重も水没しているんじゃないか、そういう不安はダムの名前で確実になったとわかった。
田代八重ダム。
後で廃村コミュを確認すると、ちゃんと載っている!
資料で見た旧版地図は昭和40年代だから当たり前として、ダム工事は平成5年〜平成12年3月で終わっているのだから、一体どれだけ古い地図を使っていたのかと一人こっそり恥ずかしい思いだった。

学校のあった場所は、対岸の付け替え国道から見ても完全に水面下だった。
学校跡の裏山まで行ってはみたが、何も見えるはずはない。そしてまたしても、ダム移転で1軒だけ残っているお宅からイヌに吠えかけられてしまい、ここも早々に退散することにした。
渇水期であれば確認できたかもしれず、少し残念な思いが残った。

(追記:この日記を書いたあと(平成20〜21年頃)に宮崎森林鉄道資料館の管理人さんからいただいた情報から、ダム工事の段階で田代八重の集落・学校跡には盛土工事されていると見られます。したがって渇水期にも跡地そのものを見ることは困難と思われます。)
(追記2:ここのお宅は、ポツンと一軒家で2度取り上げられました。)


長い行程だった。
朝から走り通して走行距離は300キロほどになって、それもひどい山岳路ばかりときた。
狭い道に悩まされたこの日は、また思いがけず、一日を通してケモノにおびえその影に悩まされることにもなった。自分自身が獲物さながら追われる錯覚に似ていた。猟期まっただ中のこの時期、宮崎の山は油断できない。
この先小林に向かう国道265号には、まだ輝嶺峠という酷道部分が残されていたが、それでもこの日の計画が予想以上に達成されて、気持ちだけはいくぶん軽やかだった。
1 3

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する