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2017年07月24日07:54

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(全文貼)いい顔してるね>「ジャンプの船木」百貨店でパイ売り 現役続行の陰で

瞳に濁りがない。

良い記事なので尻切れ蜻蛉は勿体ない。

スポーツは嫌いだが全文貼っときます。





http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4681651


「ジャンプの船木」百貨店でパイ売り 現役続行の陰で

聞き手・笠井正基

2017年7月23日09時11分




 スキージャンプの長野五輪金メダリスト、船木和喜さんは従来型の支援体制から飛び出し、42歳のいまも現役選手として飛び続けている。アップルパイの販売を手がける経営者としても、後進の支援に独自のスタイルを模索する。東京五輪が3年後に近づくなか、スポーツ選手を支え、育てる体制は十分なのだろうか。

■パイの重さ、金メダルと同じ

 ――いま、年に十数回は全国の百貨店を回り、催事場でアップルパイを売っていますね。山形の百貨店では冗談を交えて気さくに声をかけ、船木さんと知ったお客さんが驚いていました。

 「ジャンプの後輩の就職先になればと、仲間と一緒に2008年に食品の卸を始めました。故郷の北海道余市町産のリンゴを使って何かできないかな、と。パイはつくるのに手間がかかるので、やる人は少なかった。競合しないので、入りやすかったですね」

 ――五輪金メダリストの肩書は、通用しますか。

 「『ジャンプの船木』と言えばわかってもらえましたが、最初は信用がなく、催事場への出店契約はすぐには結べなかった。いまも、売り上げは厳しいところは厳しい。僕が行かなかったら、売れませんから。パイの味や形には苦労しましたが、お客さんや百貨店の方に『君にしかつくれないものをやっては』とアイデアをもらいました。パイの重さは、長野五輪の金メダルとほぼ同じです」

 ――売り上げで、ジャンプをやる子どもたちを支援しています。

 「道具にお金がかかるので、親の負担を少しでも減らせればと。スーツやヘルメットなどのスポーツ用品を贈り、これまでに6500点を超えました。売り上げには波がありますが、利益が出てもゼロになるよう道具を贈っています。北海道江別市には、小さなジャンプ台を手作りで整備しています。子どもが競技を始めるきっかけにしたい」

 ――なぜ、独自に?

 「長野で金メダルを取りながら何もしていない、という恥ずかしさが原点です。1972年の札幌五輪で金銀銅のメダルを独占し、日の丸飛行隊と呼ばれた笠谷幸生さん、金野昭次さん、青地清二さんに『五輪後にどういう活動をしましたか』と長野五輪の後、1人で聞きに行きました。国に働きかけ、北海道では学校の校庭に小さなジャンプ台ができ、競技人口が増えたそうです。長野の団体金メダルメンバーは4人なので『俺たちより、もっとできる』と励まされました。子どもが減っている時代、このままだとメダルの取れない国になる危機感を持ちました」

■利益上げないと支援できない

 ――現役選手のまま、次世代を支援する。葛藤はありますか。

 「まだ飛んでいるんだと言われるのは、嫌でしたね。僕、格好つけでしたが、引退は別の話と思い始めてから、考え方が変わりました。プライドといった問題ではなく、利益を上げないと子どもたちを支援できないと」

 ――五輪でメダルを手にした翌99年の絶頂期に所属企業を退社し、スポンサー収入と賞金に頼るプロとして活動しながら、クラブチームを立ち上げました。そもそも、異例の決断ですよね。

 「周りから、バカだなと結構言われました。長野五輪の直後、全日本スキー連盟会長だった堤義明さんにほぼアポなしで会いに行き、相談すると、『経済は変わる。企業の支援の形は縮小ではなく、どんどん変化する。対応しながら、やるならやりなさい』と、僕の考えに賛同してもらえました。ここで反対されていたら、独立していなかった。企業チームではない選択肢を、つくりたい思いもあった」

 ――企業チームではない魅力とは、何ですか。

 「ワールドカップ(W杯)で優勝すると、300万〜400万円の賞金をもらえたのですが、欧州の選手はスポンサーからの報酬が1桁、もしくは2桁多かった。1勝すると人生が変わりますよね? 欧州ではプロとして食えるかどうかが、はっきり分かれている。彼らと同じ土俵で、やってみたかった。一方、日本は恵まれていて、成績が出なくても所属企業から給料もボーナスも出ます。45歳で飛んでいる葛西紀明選手も、優遇されています。メダルを取ったらある程度の収入はありますが、人生は変わらないですよ」

 ――W杯出場は12年が最後で、いまの主戦場は国内です。スポンサー収入は成績に左右され、不安定ですよね。

 「厳しいです。お金がないと何もできない国ですから。独立直後にある企業のスポンサー料は年1千万円でしたが、成績が落ちると、800万円、300万円、100万円と減った。スポンサーは最初、1年契約で3社。新宿で1日3棟のビルと目標を立て、飛び込み営業もして、1万社ぐらいは回りました。『僕の夢を買ってください』とお願いして、『お前、もう終わった人間だろう』って言われたこともある。でも、いまは十数社ついてくれています」

 ――12年には北海道恵庭市の専門学校にスキー部を作りました。現役選手、そして経営者とともに、指導者でもありますね。

 「受け皿を一つ増やすことで、高校を卒業してやめてしまう選手、大学でアルバイトをしながら飛ぶ選手を完全燃焼させてあげたかった。いま2人いる選手の授業料は、1人あたり年間100万円ほどですが、スポンサーを募って払ってもらっています。手に職をつけると引退後の第二の人生も違いますから、選手自身が鍼灸(しんきゅう)やトレーナーの資格を選んでいます」

■スキー連盟は魅力発信して

 ――少子化が進むなか、子どもたちがジャンプを身近に感じ、始めてもらうには何が必要ですか。

 「葛西選手や高梨沙羅選手といったスター選手がいるうちに、全日本スキー連盟はジャンプの魅力をいろいろと発信してほしい。札幌市は26年冬季五輪の招致をしていますが、子どもが遊びの延長から始めたいと思ったとき、すぐに指導を受けられるようにしないと、競技人口を確保できません」

 ――指導者層が薄いのですか。

 「競技の裾野を支えるジャンプ少年団では、指導者がほぼボランティア。指導者を支援するしくみを、国はつくってほしいです。欧州では自治体がクラブに補助金を出し、人件費を確保しています」

 ――3年後の東京五輪に向け、選手へのスポンサー支援の動きが活発になっています。

 「スポーツのバブル、ですよね。選手にスポンサーがついたと聞くと、経営者の視点から、どんな会社なのかと結構、調べています。選手の能力以外の部分も見ているんだろうなと思います」

 ――バブルは、はじけますか。

 「長野五輪後は、全日本スキー連盟からスポンサーが離れ、一時期はお金がなくてジュニア選手の強化ができていませんでした。東京五輪後も支援が続くかどうかは、選手自身がどうパフォーマンスを見せ、各競技団体がどうするかにかかっていると思います」

 ――スポーツ支援のあり方も、いま主流の企業チームから変化していくと思いますか。

 「企業チームを大規模で作る会社は、出てこないでしょう。個人にスポンサーがつく流れが強まると思いますが、それでも何年も継続してもらうのは厳しい。自分も経営者なのでわかりますが、選手への投資には限度がある。仕事ができない、人間性がちゃんとしていないが、結果は出しているというだけの選手に、投資できない」

■大舞台もう一度、戻りたい

 ――ジャンプの魅力とは?

 「長野五輪後はルールが何度も変わり、道具が進化しました。ルールが変わると、経験に基づいた根拠が崩れます。こうしたら飛べる、という答えが見つからない。それでも、答えが見つからない楽しさがあります。もう一つ、海外のW杯で勝って、何万人ものブーイングを歓声に変える楽しさも知っているんですよね。あそこにもう一度、戻りたい」

 ――ジャンプで培った変化への対応力は、経営や指導面でも発揮できていますか。

 「まだまだです。確固たる自分の考えがないから、挑戦し、対応しているふりをしているのかも知れません。ジャンプでも一番と思ったことはないですよ。長野五輪で金メダルを取っても、直後の試合ではボロボロでしたから」

 ――長野五輪のころは、口数が少ない印象がありました。かなり変わりましたね。

 「金メダルメンバーで僕は当時22歳、一番年下でした。しゃべらなくてもいいなと思い、取材エリアを素通りしていた。一般常識を知らなくて、変なことを言っちゃう怖さもあった。そしたら『クールな船木』『しゃべらない船木』と呼ばれ、メディアの怖さを知りました。原田雅彦さんが『ふなき、ふなき〜』と叫んでくれて、僕の名前が浸透していますが」

 ――いつまで飛び続けますか。

 「いまは経営と選手の時間が半々でバランスは取れていますが、経営が上回って練習が減らないようにしています。プロとしてやると決めた以上、僕の夢を買ってくれるスポンサーが一つもなくなった時点で、現役引退です」(聞き手・笠井正基)

     ◇

 1975年生まれ。鋭い踏み切りと美しい飛型を強みに、98年長野五輪で金2、銀1のメダルを獲得。W杯は日本男子歴代2位の通算15勝。

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