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2017年01月16日02:13

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須賀田磯太郎 交響的序曲

ここからしばらくは、鑑賞会用の日記です。


須賀田磯太郎作曲 交響的序曲作品6
小松一彦指揮
神奈川フィルハーモニー管弦楽団



かんち自身の解説

今回は実は珍曲で並べたプログラムになっていますが、その第1陣を飾るのは、私の出身である神奈川県の、しかも横浜市が生んだ作曲家、須賀田磯太郎が作曲した交響的序曲作品6です。

須賀田は20世紀音楽に強く影響を受けた作曲家です。是非とも日本の生んだ素晴らしい作品をご賞味ください。

なお、彼の生家があった場所は、神奈川県立図書館の近くで、じつは私が知ったのも県立図書館で行われていた特別展でした。東洋組曲<砂漠の情景>の直筆譜を見たのを覚えています。

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須賀田 礒太郎(すがた いそたろう、1907年(明治40年)11月15日 - 1952年(昭和27年)7月5日)は日本の作曲家。

神奈川県横浜市に生まれた。関東学院中等部に入学し、ピアノ、ヴァイオリン、声楽、音楽理論を学んだ。しかし病弱のため、1927年に退学。翌年から山田耕筰と信時潔に作曲を学び、ドイツ音楽の影響を受けた。

1931年より菅原明朗に師事し、菅原はクロード・ドビュッシー、モーリス・ラヴェル、イーゴリ・ストラヴィンスキー、ダリウス・ミヨーなどのフランス音楽を紹介した。その結果、ストラヴィンスキー色の濃い交響詩『横浜』(1932年)などを作曲した。

1933年から東京音楽学校教授でグスタフ・マーラーの弟子のクラウス・プリングスハイムに師事したことにより再びドイツ音楽に立ち戻り、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ、パウル・ヒンデミット、アルノルト・シェーンベルクの音楽を研究した。

1935年に管弦楽曲『日本絵巻』が宮内省のコンクールに入選。1938年に管弦楽曲『交響的舞曲』が新響第2回邦人作品コンクールに入選。戦時中は栃木県田沼町に疎開し、戦後も同地に留まり肺結核により死去した。

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まず、須賀田磯太郎の説明から参りましょう。明治40(1907)年に横浜の、それも現県立図書館近くの紅葉坂付近で生まれた作曲家です。ドイツやフランス、ロシアなどの音楽を参考にしつつ、西洋音楽と雅楽の融合を目指した作風に特色があります。

須賀田礒太郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E8%B3%80%E7%94%B0%E7%A4%92%E5%A4%AA%E9%83%8E

ウィキよりも、このサイトのほうが詳しいかと思います。

日本の作曲家たち/3須賀田礒太郎
http://www.medias.ne.jp/~pas/sugata.html

ナクソスの日本語解説並みかそれ以上のヴォリュームがあり、横浜市民として本当にありがたいと思います。

一つ補足するとすれば、須賀田磯太郎が生きた時代は、ちょうど新古典主義音楽が勃興しすたれていった時代に相当します。彼の作品が新古典主義音楽とするのは無理があるように思いますが、その影響を受けているとは言えるかと思います。つまり、基本的に無調礼讃ではないということです。ロジックを組みながら、雅楽的旋律を組み立て、管弦楽へと仕上げていく、そのために使った手法が、時としてドイツ音楽であり、フランス音楽であり、ロシア音楽であったと言うことです。

ですから、無調的なものもありますが、かといってそれだけではないもの存在します。様々なジャンルが彼の作品の中に存在しているので、わかりにくい点があるのだろうと思います。

まず、1曲目の「交響的序曲」は昭和15(1940、皇紀2600)年に作曲された作品です。カッコ内でわざと「皇紀」を使いましたが、なぜかと言えばこの作品が皇紀2600年の記念に作曲されたものだったからです。当時の題名は「興亜序曲」。大東亜共栄圏が戦前叫ばれましたが、それを意識した作品であるわけなのです。其れゆえか、音楽的には雄大さをもち、不協和音などが多用されつつ、そこに日本的な旋律(紀元節等)を織り込んでいくという手法を取っています。日本的な旋律、例えば紀元節ですが、それも直接ではなくむしろアレンジしてという形で使われており、須賀田の音楽的な、或いは社会的な理想というものが織り込まれているように思います。

直接だと、日本的なものを押し付けていくので拒否されるという形になりますが、アレンジであれば、それは現地で受け入れられていくということになります。当時、大東亜共栄圏へ進出した日本人が大勢いましたが、その日本人たちの実態を恐らく様々なチャンネルで知っていたことでしょう(そもそも、須賀田の実家は裕福な生糸商でしたので、音楽家であった彼にも所謂東南アジアのビジネス情報は少なからず入っていたことでしょう)。だからこその手法であったというように、私は思っています。
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