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2016年10月18日14:18

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琵琶湖東岸から弥生時代末〜古墳時代前期の大規模集落、鉄器工房跡も

滋賀に邪馬台国時代の大型建物跡、鉄や土器出土

読売新聞2016年10月17日
 滋賀県彦根市の弥生〜古墳時代(2〜5世紀)の大規模集落跡、稲部(いなべ)遺跡で、3世紀中頃では国内最大級の大型建物1棟の跡が出土し、市教育委員会が17日、発表した。
 昨年6月からの調査で、建物約80棟の跡が出土した。このうち大型建物跡は幅11・6メートル、奥行き16・2メートル。同時期では、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の大型建物跡(幅19・2メートル、奥行き12・4メートル)に次ぐ規模という。纒向遺跡の建物は、古代中国の史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に登場する邪馬台国の女王・卑弥呼の宮殿という説もある。
 3世紀としては最大規模の鍛冶工房とみられる竪穴建物23棟以上の跡も確認。建物跡などから鉄片や鉄製の矢尻といった鉄関連遺物が計約6キロ出土した。大和(奈良県)、越前(福井県)、尾張(愛知県)などで出土するのと同じ形状をした土器の破片も多数見つかった。各地から運ばれてきたとみられる。()
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滋賀 彦根の遺跡に巨大建物跡 巨大勢力の拠点か

NHK 10月17日
滋賀県彦根市にある弥生時代から古墳時代にかけての遺跡で、規模の大きな建物や、鉄製品を作っていた跡などが見つかりました。この場所に巨大な勢力の拠点があったと見られ、専門家は中国の歴史書『魏志倭人伝』に記述のあるクニの1つの可能性があると指摘しています。
滋賀県彦根市の「稲部遺跡」は、弥生時代から古墳時代にかけての大規模な集落の遺跡で、市の教育委員会が発掘調査を進めたところ、4棟の巨大な建物の跡が新たに確認されました。

最も大きなものは、古墳時代前期の3世紀前半ごろに造られたと見られる縦16メートル、横11メートルほどの建物で、柱を据えた穴の直径は最大で1.5メートルに及んでいます。
これは、この時期の建物としては、奈良県桜井市にある邪馬台国の候補地の1つ、纏向(まきむく)遺跡の建物に次ぐ大きさだということです。

また、周辺の23棟の建物の跡から、焼けた土が混じった鉄の塊や破片など、合わせて6キログラム余りが見つかったほか、倉庫と見られる建物の跡も確認されました。

遺跡では、これまでの調査で、今の静岡県から鳥取県に至る各地の土器も確認されていて、市の教育委員会は、この場所に巨大な勢力の拠点があり、当時としては国内有数の規模で、鉄製品の生産や流通が行われていたと見ています。

この時期の歴史に詳しい大阪大学大学院文学研究科の福永伸哉教授は「国内のほかの地域だけでなく、海外とも交流していた大きな地域勢力で、中国の歴史書『魏志倭人伝』に記述のある、魏と外交を行っていたとされる30のクニの1つであった可能性がある。これまでほとんどノーマークの遺跡で、今後、中央政権や各地との関わりを明らかにすることで、ヤマト政権の成り立ちを知る教科書のような手がかりになる」と話しています。

また、調査を行った彦根市教育委員会文化財課の戸塚洋輔主査は「まだ遺跡の20%しか発掘できておらず、引き続き発掘を進めれば、さらに重要なものが見つかる可能性がある」と話しています。
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滋賀・稲部遺跡
大規模な鉄器工房遺構 「邪馬台国」時代

毎日新聞10月17日
「日本の国の成り立ちを考えるうえで貴重」 彦根市教委発表
 滋賀県彦根市教委は17日、市内の「稲部(いなべ)遺跡」(同市稲部、彦富両町)で弥生時代終末から古墳時代初め(3世紀前半)の鉄器工房群の遺構が見つかったと発表した。同時代では他にない規模という。大規模な建物の跡も確認された。当時、鉄製品の原料は大陸からの調達に頼っており、同時代の邪馬台国について記した中国の史書「魏志倭人伝」で、大陸と交易があったとされる「三十国」のうちの一つともみられるという。
 鉄器工房は30棟以上ある竪穴建物群で、各棟は一辺3.5〜5.3メートルの方形。うち23棟の床面から鉄片や鉄塊が見つかった。一部に土なども含んだ状態だが、全体の重さは計約6キロに上るという。同時に鍛冶や鉄を加工する際に使ったと思われる台石や、鉄製矢尻2個なども見つかった。国内には当時、製鉄技術がなく、鉄の延べ板を朝鮮半島から取り寄せ、武器や農具、工具を造っていたと考えられる。
 一方、鉄器製造が始まった直後に大型の建物が現れた他、鉄器製造が終了した3世紀後半には、一辺十数メートル規模の大型の建物2棟が相次ぎ出現。首長の居館や巨大な倉庫として利用され、他の国との物流拠点だった可能性があるとしている。邪馬台国畿内説の有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)では、より大規模な同時代の建物跡が確認されている。
 「魏志倭人伝」では、倭人は現在の韓国・ソウル辺りにあった帯方郡の東南の大海の中にいて、もとは「百余国」あったが、同書が書かれた3世紀には「使訳(使者や言葉)通ずる所三十国」と伝えている。福永伸哉・大阪大教授(日本考古学)は「稲部遺跡は東西日本の結節点にあり、近江勢力の大きさを物語ると共に日本の国の成り立ちを考えるうえで貴重」と話す。
 現地説明会は22日午後1時半〜午後3時。小雨決行。【西村浩一】
稲部遺跡
 滋賀県彦根市南部の田園地帯にあり、弥生時代から古墳時代(2〜4世紀)を中心とする大規模集落遺跡。総面積は約20万平方メートルと推定される。宅地造成工事による1981年の調査に始まり、2013年からの市道改良工事に伴う調査では竪穴建物180棟以上、大型建物、鉄や青銅の金属器工房などを確認した。稲部遺跡が最も栄えた時代は、中国の歴史書「魏志倭人伝」に出てくる邪馬台国時代と重なる。
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古墳時代前期の大型建物跡発見 滋賀、鍛冶工房遺構も
日経産業新聞 2016/10/17
 滋賀県彦根市の稲部遺跡で、古墳時代前期(3世紀中ごろ)の大型建物跡(面積188平方メートル)が見つかり、17日、市教育委員会が発表した。弥生時代末〜古墳時代前期では、邪馬台国の有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の大型建物跡(238平方メートル)に次ぐ規模だった。当時では国内最大規模の鍛冶工房とみられる遺構も見つかった。
 遺跡は東日本と西日本をつなぐ交通の要衝に位置。邪馬台国の頃にあった30国の一つとする見方もあり、邪馬台国から大和政権成立期に鉄と交易で栄えた一大勢力があったことを示す遺跡として注目されそうだ。
 建物跡は縦16.2メートル、横11.6メートル。柱穴の大きさは1.5メートルと巨大で、柱の直径は0.3〜0.4メートル。そばには柵とみられる柱穴の列もあり、豪族居館などだった可能性がある。同じ場所で、柱が多い総柱建物(145平方メートル)に建て替えられており、総柱建物は物流に関わる巨大倉庫とみられている。
 弥生末〜古墳前期の竪穴建物23棟からは鉄片など約6キロ分が出土。集落からの出土としては全国的にも屈指の量という。市教委は鉄器生産を専業とする工房で、鉄製武器などを作っていたとみており、「地域の鉄器生産センターではないか」と話している。
 遺跡からは福井、岐阜、静岡、奈良、鳥取など各地の土器も出土、3世紀の物流の中心的な遺跡とみられるという。〔共同〕
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滋賀・稲部遺跡で鍛冶工房跡 邪馬台国期の拠点集落か

朝日新聞10月18日
大野宏、編集委員・今井邦彦
 滋賀県彦根市の稲部(いなべ)遺跡で、弥生時代末(3世紀初め)〜古墳時代初め(同中ごろ)の鍛冶(かじ)工房群や大型建物の遺構が確認された。市教委が17日発表した。建物は何度か建て替えられたとみられ、邪馬台国の時代からヤマト政権の成立期にかけて、この地域の拠点的な集落だったと推定している。
 この遺跡では1981年に発掘調査が始まり、直径数百メートルの範囲内に弥生時代後期(2世紀ごろ)〜古墳時代中期(5世紀ごろ)の遺構が発掘されている。
 古墳時代初頭ごろとみられる30棟以上の竪穴建物跡からは、鉄の破片や鉄を加工する際に出る不純物の鉄滓(てっさい)が計約6キロ見つかった。この時期では国内最大規模の鍛冶工房群と考えられるという。
 琵琶湖東岸は強力な地域勢力が…
(以下略)
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滋賀・稲部遺跡
鉄器工房群発見に「邪馬台国時代とは…」

毎日新聞10月16日

滋賀県彦根市の稲部(いなべ)遺跡で、弥生時代終末期から古墳時代初めの鉄器工房群が見つかった。集落跡からは生産に伴う鉄片などが大量に出土。邪馬台国時代の様相を明らかにする手がかりになりそうだ。
 彦根市教委によると、稲部遺跡は弥生時代後期から古墳時代中期まで、形を変えて約400年間存続した直径数百メートルの集落遺跡。大規模な鉄器生産は弥生時代終末期に始まり、古墳時代初頭にかけて最盛期を迎えたという。広瀬和雄・国立歴史民俗博物館名誉教授は「鉄器は当時の権力を支えた物の一つ。立地も含めて、この地の政治基盤のあり方を語る上で大きな意味を持つ」と話す。
 同遺跡のある琵琶湖東部は陸路と水路で東海と畿内、北陸などをつなぐ交通の要所。鉄は延べ板などの形で大…
(以下略)
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邪馬台国時代、彦根に一大勢力存在か 稲部遺跡で国内最大級の建物跡、鍛冶工房跡出土
産経ニュース(10/17)
滋賀県彦根市の稲部遺跡で、古墳時代前期(3世紀中ごろ)の大型建物跡(面積188平方メートル)と鍛冶工房跡23棟が見つかり、市教委が17日発表した。弥生時代末〜古墳時代前期では、邪馬台国の有力候補地とされる纏向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の大型建物(238平方メートル)に次ぐ規模。鍛冶工房跡も当時としては国内最大規模で、邪馬台国から大和政権成立期に一大勢力が存在したことを示す資料といえそうだ。
魏志倭人伝「小国家」解明のカギに? 22日に現地説明会
 大型建物跡は縦16・2メートル、横11・6メートル。直径1・5メートルの柱穴跡があり、建物の巨大さがうかがえる。有力者の居館か祭祀(さいし)用の建物だった可能性がある。その後、大型倉庫とみられる建物に建て替えられており、他地域との物流拠点になったとみられるという。
 鍛冶工房跡は一辺が3・5〜5・3メートルの方形で、鉄片など約6キロが出土。当時の遺構からの出土としては全国的にも屈指の量という。ハンマーとして使った石や完成品の鉄の鏃(やじり)も出土し、工具や武器などを生産していた可能性が高い。周辺から朝鮮半島の土器が出土していることから、渡来人が加工技術を伝えた可能性もあるという。
 また、遺跡からは福井、岐阜、静岡、奈良、鳥取など各地の土器も出土、3世紀の物流の中心的な遺跡とみられるという。
 中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」によると、当時日本には30程度の小国家があったとされる。大阪大学大学院文学研究科の福永伸哉教授(日本考古学)は「邪馬台国から大和政権成立期の近江勢力の大きさを物語る遺跡。魏志倭人伝の約30国を解明する手がかりとなる可能性もある。日本の国の成り立ちを考える上で貴重」と話している。
現地説明会は22日午後1時半〜3時。問い合わせは同市教委文化財課((電)0749・26・5833)。
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邪馬台国VS狗奴国のはざまで独自路線か 彦根・稲部遺跡、交通の要衝で交易繁栄物語る

産経新聞west 10月17日

国内最大級の大型建物跡と鍛冶工房跡とみられる遺構が見つかり、17日に滋賀県彦根市教委が発表した同市の稲部遺跡。今回の調査からは、東日本と西日本をつなぐ交通の要衝という近江の立地を生かし、鉄と交易で栄えた小国家があったことをうかがわせる。
 遺跡があるのは、北陸、東海への分岐点となるJR米原駅から約15キロ南西の地点。船が使える琵琶湖も約4キロの距離だ。遺跡からは東海や北陸、山陰の土器も出土しており、各地との交流の要になっていたことがうかがえる。
 発見された鍛冶工房跡が最盛期を迎えたとみられるのは、弥生時代末−古墳時代初頭。邪馬台国や、敵対する狗奴国(くなこく)が成立しつつあった倭国の形成期で、武器や道具の素材が石から鉄へと変わり、鉄の入手が勢力を左右した時代だった。
 当時、鉄素材は朝鮮半島から輸入したとされ、越前(福井県)の土器も出土していることなどから、独自に日本海ルートで入手していた可能性があるという。
 大阪大学大学院文学研究科の福永伸哉教授(日本考古学)は、邪馬台国が奈良、狗奴国は東海地方にあったと推定した上で、中間に位置しているため「双方を見ながらキャスチングボートを握ろうと独自路線を歩んだのかもしれない」と推測する。
今回発見された大型建物跡は、大和政権期に入ってから建て替えられたとみられ、小国家が政権に組み入れられる変遷をたどるうえでの貴重な遺構という。
 彦根市教委の戸塚洋輔主査は「後の大和政権にとっても、近江は東日本に出る際に通る地域。政治的にうまく付き合おうとしたとみられ、政権が結び付いた結果、大型建物が出現したのでは」とみている。



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