「シン・ゴジラ」を観た。
一回観ただけで論じられるほど、希薄な映画ではない。
非常に情報密度が高い映像と台詞であった。
ゆえに、この感想は一見感想とする。
娯楽映画としては、近年まれに見る優れた作品だ。
アイデアのユーモア、特撮の精密さ、音楽と映像の相互作用。どれをとっても文句のつける所が見いだせない。
問題は主人公にある。
いや、主人公は誰なんだ?
ゴジラの対策を立案する矢口という人物なのだろうか?
そうとするならば、この「シン・ゴジラ」という物語には近代小説として致命的な欠陥がある。
主人公に葛藤がないのだ。
行政官として政策を立案し、政治家を利用して実行する。
でも、それは何のために?
ゴジラを倒す。何のために?
ゴジラを倒すためには、部下も協力者も犠牲を惜しまない。しかし、何のために?
国家を存続させるためか、人民を救済するためか、はたまた自らの支配欲を満たすためか?
そこが明らかでない。というより、監督は考えてないんじゃないか?
(心の中に思うところがない、というより、意識できずにいるのでは?という意味)
もし主人公に目的があれば、自らの行為が合目的か検討するはず。そうすれば、経済的人的損失に懊悩するし、自らの判断に罪悪感も抱くはず。(合目的的であるならば、熱核攻撃に反対する理由がない)
それがない(描写されていない)から、
「こいつ(主人公)、心がないんじゃないか?」
と一人の観客として見えてしまう。
よしんば心があるとして、「選ばれし者としての高揚に恍惚としてる、中二病」と理解する事になる。
「逃げちゃダメだ」と「僕が一番ガンダムをうまく動かせるんだ」の域から一歩も出てない人間に見える。
私見だが、
怪獣ものとは、主人公が対立する対象である怪獣に自らを映して、自らの鏡像を破壊して、止揚した自己を得る物語
であると考える。
怪獣倒して何も変わらない主人公なんて、近代小説の主人公ではない。
もちろん、現代はそんな古くさい弁証法から脱した状況にある、と言われればそれまでなのだが、それでも、私は主人公に人間の心を感じない。
あの主人公に違和感でなく共鳴する人がいるとしたら、私は哲学的ゾンビの実在を認めざるを得なくなるのだ。
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