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2016年05月01日13:55

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山名氏歴史・考察記事2

アルバム「山名城/山名氏」→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000099237721&owner_id=32815602

(行間1)
◎北畠顕家──
建武4/延元2(1337)年8月11日、顕家は義良親王を奉じて上洛の途につく。およそ10万。
12月8日、小山城を陥落。
12月13日、利根川の戦い。足利軍撃破。
16日、安保原の戦い。撃破。
23日、鎌倉侵攻。
24日、これを攻略。斯波家長討ち死、足利義詮・上杉憲顕・桃井直常・高重茂らは房総へ逃亡。
義貞次男 新田義興、南朝へ帰順した北条時行が北畠軍に合流。
※北畠軍は徹底した略奪を行いながら行軍したという。元より物資不足であり、また陸奥国伊達郡(現 伊達市)からの兵站など確保できない。北畠軍が通った後には人家どころか草木も残らなかった、と悪し様に批判が記されている(太平記)。

建武5/延元3(1338)年 1月2日、鎌倉出発。
1月28日、青野原の戦い(大垣市)。激戦のち北朝軍敗走。総大将 土岐頼遠が行方不明になる大損害。北畠軍もこの戦いによる兵力の減少と疲弊により上洛を中止、2月に伊勢へ後退した。
(越前の義貞と合流しなかったという事については諸説紛々あるが、義貞と顕家の不仲説は囁かれていない。)

2月、新田義貞は斯波高経を鯖江で破り、越前国府を落とす。この報が越前中に伝わると、足利方の出城73が降伏を申し出たとされる(太平記)。また、伊予の大舘氏明、丹波の江田行義らも呼応して決起、京都を包囲して一斉攻撃するという構想がもたれていた。しかし、義貞、顕家らが連携することはなかった。

2月4日、尊氏の命により、高師泰・師冬・細川頼春・佐々木氏頼・高氏らが顕家軍討伐軍を結成、出陣する。
14日および16日、伊勢国雲出川およひ櫛田川で合戦。決着つかず。
21日、辰市および三条口にて合戦。顕家は大和国を占領する。
28日、般若坂の戦い。北朝方 桃井直常と激戦のすえ敗走。
(敗れたため、顕家は義良親王を秘かに吉野へ送った。こののち河内国にて伊達行朝、田村輝定らと軍を再建。)
3月8日、天王寺の戦い。北畠軍勝利。
13日、再び天王寺、阿倍野および河内片野で合戦。北畠軍敗れる。
14日、三たび天王寺。敗れる。
15日、渡辺の戦い。北畠軍勝利。 16日、ふたたび阿倍野で戦い、敗れる。和泉国へ敗走。
21日、北朝方は高師直がこれを追撃。
22日、顕家は南朝から正二位・権大納言に叙任される。
5月6日、北畠軍は和泉堺浦の町屋を焼く。
8日、顕家は和泉国坂本郷、近江国観音正寺に砦を構える。
9日、熊取、佐野、長滝の各地に進撃し、北朝方の細川顕氏・日根野盛治 ・田代基綱ら現地の北朝勢力と交戦を繰り返した。
16日、北朝 高師直は天王寺から堺浦に向かって出撃。
22日、石津の戦い。疲労困憊の北畠軍は善戦したが、海からも攻撃され、味方に援軍もなく、やがて壊滅する。
顕家は共廻りほか二百騎とともに石津で包囲され、最期を迎えた。享年20。
名和義高・南部師行らも討ち死。

建武5/延元3(1338)年閏7月2日(7日説)、藤島の戦い。義貞は50騎を率いて藤島城(斯波高経に所領を安堵された平泉寺衆徒が篭城中)を落としに向かっていた。これを黒丸城から出撃した細川出羽守、鹿草彦太郎公相らが率いる斯波軍300騎が攻撃。灯明寺畷で乱戦に陥ったすえ水田に誘導された義貞は身動きが取れなくなり、そこへ矢の乱射を受けた。致命傷を負った義貞は観念し、頚を太刀で掻き切って自害。享年38歳前後。義貞の首を取ったのは氏家重国。
(この直前、中野宗昌が退却するよう誓願したが、義貞は「部下を見殺しにして自分一人生き残るのは不本意」と言って宗昌の願いを聞き入れなかったという。)

延元3/暦応元(1338)年、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が名実ともに成立。
延元4/暦応2(1339)年8月15日、後醍醐天皇が吉野で崩御。尊氏は慰霊のため天龍寺を造営。また、南北朝争乱における戦死者たちを弔うため諸国に安国寺利生塔の建立を命じた。
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山名氏の歴史を綴るつもりで書き始めたんですけど……(-ω-;) このあたり表舞台に歴史がないんですよー|||||||/(° × °)\||||||| 表舞台に出てくるときにココの歴史分かってないと登場時ワケわからんとですよ。ココで名前を上げていくとですよ。


●山名時氏――2(舞台、背景の方がデカくて……ヾ(-д-;)
興国2/暦応4(1341)年、時氏は塩冶高貞討伐で功績を挙げ、その功で伯耆・出雲・隠岐守護となる。
◎塩冶高貞(えんや たかさだ)は箱根竹ノ下の戦いで足利方へ寝返り、室町幕府において出雲国と隠岐国の守護となった。高師直の讒言により謀反の疑いをかけられ、暦応4(1341)年3月京都をひそかに出奔し領国の出雲に向かうが、時氏らの追討を受けて自害。居館までたどり着くも妻子が先に自害したと聞き、出雲国宍道郷の佐々布山で自身も…。

正平2/貞和3(1347)年、南朝の楠木正行が京都奪還を目指して蜂起。
9月、細川顕氏・畠山国清連合軍がこれを討とうとするが敗走。
11月、時氏が増援として送られ、摂津国天王寺・住吉浜にて合戦におよぶ。しかしふたたび破れ、京都へ敗走する。
◎楠木正行(くすのき まさつら)──
楠木正成嫡男。翌年河内国北條(現 大阪府四條畷市)で行われた四條畷の戦い(四條縄手)で高師直・師泰兄弟に敗北し、弟の正時と共に自害して果てた。享年22(諸説)。

正平3/貞和4(1348)年、時氏は若狭守護となる。
正平5/観応元(1350)年、観応の擾乱。時氏は高師直派に。
※観応の擾乱(かんのうのじょうらん)──
1349年〜1352年にかけて続いた足利政権(室町幕府)の内紛。内部紛争が徐々に拡がり、南朝と北朝、公家同士、武家同士の確執も顕現する。
足利直義派と高師直派の対立からはじまった。ついで、上杉氏と高氏。一族内。家臣武家ら。ついには北朝・南朝の枠さえ変化させる(「正平一統」の成立と破断)。室町幕府の権力確率、南北朝動乱の延長、北朝内公家の抗争、全国の守護大名・武将たちの、観応の擾乱に合わせた二極対立化。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E5%BF%9C%E3%81%AE%E6%93%BE%E4%B9%B1

同年12月、北朝の光厳上皇より追討令が出された直義は、それまで敵対していた南朝方に降った。これに時氏も従っている。
(10月26日、前年12月に出家していた直義は京都を出奔。大和に入り、11月20日畠山国清に迎えられて河内石川城へ。高兄弟討伐を呼びかけ国清、桃井直常、石塔頼房、細川顕氏、吉良貞氏、山名時氏、斯波高経らを味方に付けて決起。これが擾乱の始まり。直義の両腕だった上杉重能と畠山直宗は前年謀殺されている。)
正平6/観応3(1351)年閏2月19日、北畠親房の指揮の下、楠木正儀・千種顕経・北畠顕能・山名時氏ら南朝軍は京都へ進軍。七条大宮付近で足利義詮・細川顕氏らと戦い、これを破る。翌20日義詮は近江へ落ち延びた。
同年3月15日、義詮は近江の佐々木道誉・四国の細川顕氏・美濃の土岐頼康・播磨の赤松氏らに、直義派だった山名時氏・斯波高経らの協力も得て京都を奪還。
21日、八幡の戦い。後村上天皇の仮御所のある男山八幡を包囲し兵糧攻めを行った。この包囲戦は2ヶ月におよび、5月11日に四条隆資が打って出て戦死したのち、(日時不詳)後村上天皇は側近を伴って脱出、男山八幡陥落。
正平7/文和元(1352)年2月26日、足利直義死去。享年47。
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000043693090&owner_id=32815602

(1月5日捕縛されたのち鎌倉浄妙寺境内の延福寺に幽閉されていた。病による急死、また尊氏による毒殺説。奇しくも高兄弟の1周忌。「観応の擾乱」は直義の死により終わりを告げたとされるが、この権力闘争は頭を足利直冬(尊氏次男。庶子)に代えて継続する。)

正平8/文和2(1353)年、時氏は出雲守護職と所領を巡り佐々木道誉との対立、将軍派を離脱。
同年、出雲侵攻。佐々木道誉の部将 吉田厳覚を破り出雲を制圧した。時氏はそのまま南朝の楠木正儀と連合する。
6月、京都侵攻。破れた義詮は天皇を連れ美濃へ落ち延びた。ここで佐々木道誉の子 佐々木秀綱が戦死。義詮は独力での京都奪還を諦め尊氏へ救援要請。
7月、尊氏が鎌倉から上京すると、時氏ら南朝方は京都を放棄し撤退した。
正平9/文和3(1354)年5月、直冬は桃井直常、山名時氏、大内弘世ら旧直義派の武将を糾合し石見より上京を開始。
正平10/文和4(1355)年1月、直冬は南朝と結んで京都を占領。
同年2月、神南の戦い(摂津国神南(こうない)。現 高槻市神内)。主力だった時氏勢が佐々木道誉、赤松則祐に大敗、直冬軍は完全に崩壊した。
正平13/延文3(1358)年4月30日、先の直冬との合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、足利尊氏、京都二条万里小路第(現下京区)にて死去。享年54。

貞治2/正平18(1363)年8月、時氏は3男氏冬と5男時義を上洛させ、切り取った所領の安堵を条件に室町幕府へ帰順した。
時氏は伯耆・丹波守護に、
嫡男 師義は丹後、
氏冬は因幡、
時義は美作守護に任命された(後に次男の義理に交代している)。
山名氏は5ヶ国の守護となった。また、引付頭人(ひきつけとうにん。政事を合議・決裁する評定衆)にも任じられ幕政へ参加。赤松・一色・京極氏と並んで四職の一に数えられる幕府重臣へと成り上がった。
※足利義詮室 渋川幸子、同じく幕府に帰順した斯波義将、大内弘世らは共に反「管領 細川頼之」派だった。
※南北朝抗争中、山名氏は自勢力の拡大を積極的に行っていた。この頃には山陰地方随一の大大名となっている。5人の息子らも所領を増やしていったが、これが幕府に危険視され、のちに内訌を生む。
※四職──左京職・右京職・大膳職・修理職の総称。室町時代、侍所の長官を務めた四家。山名・一色・細川・赤松。

建徳2/応安4(1371)年、時氏69歳で死去。伯耆大雄山の光孝寺(現 山名寺。倉吉市厳城)に葬られ、家督は嫡男 師義が継いだ。

※南朝年号──元徳→元弘→建武→延元→興国→正平→建徳→文中→天授→弘和→元中→明徳統一。
※北朝年号──正慶→元弘→建武→暦応→康永→貞和→観応→文和→延文→康安→貞治→応安→永和→康暦→永徳→至徳→嘉慶→康応→明徳→統一。


●山名氏9代 師義。丹後・伯耆守護。
次男 義理は紀伊、
3男 氏冬は因幡、
4男 氏清は丹波・山城・和泉、
5男 時義は美作・但馬・備後の守護となった。
天授2/永和2(1376)年3月11日、師義死去(49)。嫡男 義幸は病弱で他の3人の息子も幼少だったため、末弟の時義が中継ぎとして後を継いだ。

●10代 時義。美作・伯耆・但馬・備後守護。
時氏5男 時義の相続には、甥の師義4男(嫡流) 山名満幸や4兄 氏清が不満を露わにしたという。
元中元/至徳元(1384)年、師義の4男 満幸が新たに播磨守護職を与えられる。山名氏はこれで全国66ヶ国の内11ヶ国を領有、「六分一(6分の1)殿」の通称を付けられる程の勢力を誇った。
※正確には68ヶ国だが、
1、陸奥・出羽は守護不設置なので除く、
2、「嶋」扱いなので対馬・壱岐を除く、
3、狭島・遠島扱いの隠岐と、志摩(あまりにも領土が狭いため伊勢守護が室町時代を通じて兼任の属領扱いとなっている)を除いたため通称全国66ヶ国と以上3説あり。
また、
時義、伯耆・但馬・備後・隠岐。
義理、紀伊・美作、
氏清、丹波・山城・和泉、
満幸、丹後・出雲、
氏家、因幡、
以上12ヶ国とする説もある。室町時代の日本全国六十八州のうち6分の1にあたり、以下略。
※義幸は永徳元/弘和元(1381)年に病を理由に丹後・出雲・隠岐守護を辞任、代官を務めていた満幸がこの3ヶ国を継承していた。説。

元中6/康応元(1389)年、時義死去(43)。

●11代 嫡男 時熙(ときひろ)が家督と但馬守護、義弟 氏之(時義養子。甥説)が伯耆守護を継承。
元中7/明徳元(1390)年3月、足利義満は時義が生前将軍に対して不遜であったこと、時熙と氏之にも不遜な態度が目立つとして、氏清と満幸に討伐を命じた。
氏清(8代時氏4男)が時熙の本拠但馬、満幸(9代師義4男)が氏之の本拠伯耆を攻撃。
元中8/明徳2(1391)年、時熙・氏之は敗れ没落。戦功として氏清には但馬と山城、満幸には伯耆の守護職が新たに与えられた。(備後が満幸の兄義熙に継承されたが、同年中に細川頼之へ異動された。)
※このころ足利義満は、軟弱な幕府の権力と武力を向上させるため、有力な守護大名らを次々と貶めていた。これ以前には細川、斯波、土岐など。

同年、逃亡していた時熙と氏之が京都へ戻って清水寺辺りに潜伏、義満に赦免を嘆願しているという、また義満がこれを許そうとしているという噂が流れる。
氏清は不安になり、同年10月の義満を招いての宇治での紅葉狩りを直前になって病を理由に中止。これで義満の不興を買った。
11月、満幸の分国出雲において、満幸は後円融上皇の御料である仙洞領横田荘を押領、御教書にも従わなかったとの理由で出雲守護職を剥奪、京都から追放される。
満幸は氏清の分国 和泉国堺へ赴き、「将軍は山名氏を滅ぼすつもりである」と挙兵を説いた。
氏清はこれに同意し、ともに京へ侵攻することを決意する。堺に兵を集めつつ、紀伊守護の次兄 義理に挙兵の旨を説明、難航するもなんとか同意を得た。そして、大義名分を得るため南朝へ降り、錦の御旗を下賜される。
元中8/明徳2(1391)年12月19日、幕府へ氏清・満幸謀反の報が伝えられた。幕府重臣らは半信半疑だったが、因幡守護 氏家が京都を退去するにおよび、洛中は大騒ぎとなり山名氏謀反は確定だと知覚する。
25日、幕府の評定では和解論が強かった。
氏清と満幸を挑発して挙兵に追い込んだ義満だが、けして山名軍との直接対決を臨んでも、戦勝確実と妄信していたわけでもなかった。南北朝争乱期の山名軍の強大さは認識している。それでも、和解論を退け開戦へ向かった。
「当家の運と山名家の運とを天の照覧に任すべし」と述べたという。

◎明徳の乱(内野合戦)──
幕府軍は主力5000騎を旧平安京の大内裏である内野に置き、義満と馬廻(奉公衆)5000騎は堀川の一色邸で待機。赦免された時熙と氏之はここに加わった。
山名軍は決戦を12月27日と定め、氏清軍3000は堺から、満幸軍2000は丹波から進軍。
26日、丹波路を進軍してきた満幸は、内野から三里の峯の堂に布陣。
堺から進む氏清は、河内守護代 遊佐国長に阻まれ進軍が遅れる。軍からは脱落者(幕府方へ降参)も出ていた。
29日夜、氏清軍は淀の中島に至り3隊に分かれて京へ。満幸軍は2手に分かれて京へ。闇夜の進軍のため、各隊の連係は取れず、各個突入となった。
30日早朝、時氏6男 山名義数、小林上野介の700騎が二条大宮に構える大内義弘の300騎と激突、開戦となる。
乱戦ののち山名義数、小林上野介は討ち死。山名軍は緒戦敗退。
次いで、満幸軍2000が内野へ突撃。構えるは細川頼之・頼元兄弟、畠山基国、京極高詮の3000。激戦となるが、義満の馬廻5000が投入されて勝敗は決す。満幸は丹波へ落ちていった。
氏清の軍勢2000は大内義弘、赤松義則の軍勢と激突。氏清は奮戦して大内、赤松の軍勢を後退させる。
山名時熙は50騎持ちとして参戦、8騎に討ち減らされるまで戦い抜いたという。
劣勢になった大内・赤松軍に一色詮範・満範軍と斯波義重軍が援軍に加わり、幕府軍は盛り返し、氏清軍は潰走する。氏清は一色勢に取り囲まれ、討ち取られた。
1日の合戦で山名氏は敗れ去った。

元中9/明徳3(1392)年正月、論功行賞が行われる。
山城は畠山基国、
丹波は細川頼元、
丹後は一色満範、
美作は赤松義則、
和泉・紀伊は大内義弘、
但馬は山名時熙、
因幡は山名氏家(反乱に加わったが、降伏して許された)、
伯耆は山名氏之、
隠岐・出雲は京極高詮。
11ヶ国の守護領国を誇った山名氏は、僅か3ヶ国に減らされてしまった。
また、義満が増強していた直轄軍の馬廻(奉公衆)はこの戦いで大いに働き、その武力を示した。

同年2月、山内義理は兵1000を率いた大内義弘に紀伊へ攻め込まれる。抗戦を試みるが紀伊国人にことごとく背かれたため、一族63人と共に舟で脱出した。紀伊国由良湊まで逃げ、この地の興国寺で子の氏親、時理ら17人と共に出家。その後の動向は不明。
応永2(1395)年、剃髪して僧になり九州の筑紫まで落ち延びていた満幸も捕らえられ、京で斬られた。
※その後義満は、明徳の和約で南北朝合一を成し遂げる。また応永6(1399)年には大内氏を取り潰している(応永の乱)。

山名時熙は応永の乱へ参陣し、戦後 備後守護を任命されている。
相伴衆として幕政に参加、4代足利義持から6代足利義教まで仕えた。
応永23(1416)年、上杉禅秀の乱。このとき京都から出奔しようとした足利義嗣と共に内通疑惑をもたれる。
応永34(1427)年、赤松満祐出奔事件。討伐軍へ加わる。
永享4(1432)年、侍所頭人を務め、畠山満家と共に宿老となった。(応永21(1414)年にも侍所頭人を務めている。)
永享5(1433)年、家督12代目を3男持豊(宗全)に譲る。長男は病死、次男は将軍義教の勘気を被り廃嫡。
永享7(1435)年7月4日、時熙死去(69)。法名は大明寺殿巨川常熙大居士。
明徳の乱で一度は没落したが、時熙は勢力を取り戻し、
従兄 氏利が石見、
従弟 熙高(ひろたか。猶子)が因幡を継承、
時熙は但馬・備後・安芸・伊賀、
氏之は伯耆、
と7ヶ国を有した。


8、山名時氏
9、山名師義
10、山名時義
11、山名時熙
12、山名持豊(山名宗全)
13、山名教豊
14、山名政豊


●山名宗全(持豊)──
応永11年5月29日(1404年7月6日)〜文明5年3月18日(1473年4月15日)。
改名、持豊→宗峯→宗全
別名、小次郎、宗全入道・赤入道
戒名、達碧院殿最高宗峯大居士
官位、正四位下・左衛門佐、従三位・右衛門督
役職、室町幕府侍所頭人 兼 山城守護、但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護
父、山名時熙
母、山名氏清娘
兄、満時、持熙
息子、教豊、是豊、勝豊、政豊、時豊、豊久
娘、斯波義廉室、六角高頼室、吉良義藤室
養女、細川勝元室(山名熙貴娘)、大内教弘室(山名熙貴娘)
wiki→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E6%B0%8F
wiki→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E5%AE%97%E5%85%A8
武家家伝→ http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yamana.html

永享9(1437)年、持豊の家督相続に不満を持った次兄 持熙が備後で挙兵。これを鎮圧。
嘉吉元(1441)年6月24日、足利義教が播磨・備前・美作守護 赤松満祐の屋敷で殺害される。同席した諸大名、公家衆に多数の死傷者が出たが、持豊は抵抗せず無傷で事後退出。
7月28日、一族で討伐軍を結成。赤松氏の本拠播磨へ侵攻。これを鎮圧。
※嘉吉(かきつ)の乱→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E5%90%89%E3%81%AE%E4%B9%B1

新たに赤松氏旧領ふくむ5ヶ国の守護となり、
教清は石見・美作、
教之は伯耆・備前、
山名熙高は因幡、
これで10ヶ国を有す。
嘉吉2(1442)年、出家。宗峯と号す。長禄年間に宗全と改名。
文安元(1444)年、赤松満祐従弟 赤松満政が代官を務める東播磨の明石郡、三木郡、加東郡3郡を幕府に申し出て領有。
同年10月、満政は播磨へ下向し反抗するが、11月には山名軍が大勢を傾け、文安2(1445)年1月には追討の御綸旨も発された。
4月24日、従兄弟 有馬持家に寝返られ、赤松満政、摂津有馬で討ち死。
※こののち赤松氏との領国奪還に伴う長い戦乱が続いていく。

享徳3(1454)年、後継者争いでお家騒動に陥った畠山持国(管領 細川勝元の政敵)を失脚させることに成功、細川勝元と共に幕政の頂点に立つ。(勝元は娘婿。)
同年11月2日、赤松氏再出仕を巡り8代足利義政と対立。宗全退治令が出され諸大名の軍勢が京都に結集したが、細川勝元の取り成しで中止される。宗全は家督と守護職を嫡男 教豊に譲り、但馬へ下国した。
赤松満祐の甥 則尚が、播磨で教豊の嫡子 山名政豊(宗全には孫)を攻めると、宗全は但馬から出兵してこれを駆逐する。則尚は備前まで敗走したが、宗全の追っ手が迫り自害した。
康正2(1456)年、赤松氏旧臣 上月満吉が吉野へ入り、“三種の神器”に関する情報収集任務に就いた。これは後南朝に奪われた神器奪還のためであり、これは「勅諚」と「上意」であったという。
長禄元(1457)年12月2日、長禄の変。1年がかりの調査により赤松家旧臣ら(石見太郎、丹生屋帯刀、上月満吉)と大和の豪族 小川弘光は奥吉野へ侵入し、南朝行宮を襲撃した。南朝後胤とされる自天王と忠義王兄弟、野長瀬盛高・盛実兄弟、楠木正理らを殺害した。このとき神器も奪還した。
長禄2(1458)年8月、神器は15年ぶりに京都へ戻り、その功績により赤松氏再興が幕府から認められ、赤松政則(元服前で次郎法師丸)が9代当主となった。また、加賀北半国の守護職・備前新田荘・伊勢高宮保が与えられている。
これまで加賀北半国の守護だった富樫成春は追放された。


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