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2015年12月20日00:34

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●「本人が高まり、浄化されることが、まわりの環境をも浄化するという思想」について。無血democracy革命は、脳内革命から始まる。

●【「本人が高まり、浄化されることが、まわりの環境をも浄化するという思想」について。無血democracy革命は、脳内革命から始まる。】

これは、ミクロの世界においてまで押し広げて考えれば極めて合理性のある考え方だと思います。
量子のレベルまで下っていけば。

主権者国民が、democracy【人民支配、人民主権】に覚醒し、社会契約に覚醒するということ。

主権者国民が、憲法98条、憲法99条、憲法前文に覚醒するということ。

これらは、日本国人民の想念の高まりそのものです。

日本を変えずにはおかない。政治に直結する。無血democracy革命は、脳内革命から始まる。




※【参考情報】
(出典:「理性のゆらぎ」  青山圭秀著 P.249〜P.251 )
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 では、現時点だけとれば、われわれの体と環境とは別々なのだろうか。
 個々の粒子が別々の独立した存在だと思われたのは、ニュートン時代のことである。現代物理学の教えるところでは、どんな粒子も個々別々のものではありえない。というよりも、それはわれわれが頭の中で想像するような粒子ではないのである。先にも書いたように、物質には原理的に波動性が含まれている。「波動関数として数学的に扱われるその波動は、中心に最大の存在確立を持つが、すそは無限の遠方まで広がり、互いの時間と空間を共有する。
 この世界で時々刻々と生起する物質的な事象とは、結局、互いに触れ合い、時空を共有する、これらの波動の相互作用である。原理的に、それは全体として一つであり、とてつもなく巨大な一個のエネルギーのうねりといえる。ただ、これをそのままの形で捉え切ることは人知では不可能なので、便宜上われわれはその要素を一つひとつ区別し、近似的な観測をし、近似的な理論を展開する。ありがたいことに、人はそれを科学と呼んでくれている。
 物質、つまり存在の表層レベルですらそうなのである。ましてや深いレベルでは、一見別々に見える存在は、お互いに深くつながっており、そして最も深いレベルでは全ては一つであるというのがシャクシマールの主張であり、ヴェーダの主張である。
 こうした考え方は、実はインド文化に限ったものではない。瞑想であれ何であれ、それによって本人が高まり、浄化されることが、まわりの環境をも浄化するという思想は、世界中の文化に根づいている。どんな社会にも、祈りや祭祀を専門とする人々が発生し、彼らは、その集団で最も、場合によっては王よりも尊敬されることとなる。
 たとえば、カトリックの修道会には、外で社会活動をする「実践修道会」と、内に籠もって祈りと犠牲の生活を送る「観想修道会」とがある。後者は、前者のように学校や病院を経営したり、孤児院を運営したりというような、いわゆる生産的なことはしない。自分たちのものは自分たちで賄い、外部とはほとんど接触することなく、祈りと犠牲の生活に明け暮れる。社会全体が物質主義に陥っても、こうした修道会が脈々と続いてきた根底には、彼らの生活が、それ自体、社会に大きく貢献しているのだという根強い思想がある。
 同様に、ヒマラヤの聖者は山に籠もって瞑想して、社会に何の貢献もしていないかといえば、おそらくそうではない。彼らのかもしだす肯定的な波動は、この精妙な科学の法則に基づいて、世界を覆っているに違いない。

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