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2015年03月31日09:20

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夜ノヤッターマン・12夜、越前13部・16話

夜ノヤッターマン・最終夜「夜明け」

 脚本:ふでやすかずゆき
 演出:吉原達矢

 普通。

 作り手がやりたかったことは分かったが……。

 冒頭、ドロンボー達はドクロベエを倒そうと決意する。ガリナは、「だけど、僕たちだけの力じゃどうにもならない。人々がこの闇を晴らしたいと思って立ち上がらないと何も変わらない」と言い、ドロンボー達はみんなに真実を教えようとする。しかしドロンボーの話を誰も聞いてくれない。ガリナは、ヤッターマンの話なら聞いてもらえると考え、アルエットと一緒にヤッターマンになろうと決意する。

 ……それはいいのだが、そういう話だったら、民衆が立ち上がり、ガリナ達を先頭にして民衆が力を合わせてドクロベエを倒す……という展開にしないとダメだと思うのだが、結局、急に強くなったドロンボー達とガリナ、ナルエットの5人だけでドクロベエを倒してしまった(^^;)。
 これじゃ、ドロンボーやガリナが民衆に真実を訴えた意味、ないじゃん(^^;)。ガリナとアルエットがヤッターマン1号と2号になった意味、ないじゃん(^^;)。ドロンジョ達とガリナ達が別れる意味、ないじゃん(^^;)。5人だけでとっととドクロベエを倒しちゃえばよかったって話だよな。
 作劇としては、ドクロベエを倒す過程に、何らかの形で民衆を絡めるべきだったよな。12神将とドクロベエはドロンボーとヤッターマンが倒すけど、ヤッター兵は決起した民衆が倒した、という形にするとか。

 オリジナル版のヤッターマン主題歌とともにヤッターワンが戦うシーンはかっこよかった。

 アルエットがヤッターワンに「ワンちゃん」と呼びかけるとヤッターワンがパワーアップしたが、このヤッターワンにはワンの部品が使われているのだろうか。あるいはワンの記憶が移植されているとか?
 悲劇的な死を遂げたワンがヤッターワンとして甦ってアルエットのために戦っている……今後はヤッターワンとして常にアルエットに寄り添って生き続ける……としたら、それはぐっと来る設定だが。

 ケンダマジックの糸はやたらと丈夫で、人間一人を振り回しても切れないし、ドクロベエの巨体を引っ張っても切れない。
 あれ、通常の物質じゃないな。パペッティア人の単分子繊維かなんかじゃないか?

 トンズラーと将軍との肉弾戦は、意味不明の繰り返しが何度も。カットのつなぎが不自然で、何が起こっているのか分からない。どうやら制作がおっつかなかったらしい。ヤッターワンとドクロベエの戦闘も、ちょっとヘンだった。ブルーレイを出すときには直すんだろうな。

                         *

 全12話を使って作り手が作りたかった物語の大きな柱は、「ガリナとアルエットがヤッターマン1号・2号になる物語」と、「ドロンジョがガリナに恋をし、ガリナがヤッターマンになったことによってガリナと別れなければならなくなる物語」の2つ……だろう。その物語の背景に、「ヤッターマンが悪の帝国を作り上げて人々を弾圧している陰鬱な世界」を設定し、ビジュアル的な面白さ・価値観を逆転する面白さを狙ったのだろう。
 作り手は、そこから逆算してシリーズ構成をしたのだろう。
 ツイッターには、「ギャグ回はいらなかった」とか「ギャグ回を削り、最終回の内容を2話くらい使って描くべきだった」といった声があった。が、このシリーズ構成をするためにはギャグ回は必要であり、最終回の内容をあの1話だけで収めたのは正解だったと思う。

 内容的には、「1〜3話」と「最終回の1回前と最終回」だけあれば、ストーリーは分かってしまう。しかし、作り手が上述のような物語を作りたかったのだとしたら、ガリナの成長を描かねばならず、ドロンジョとガリナの関係を描いていかなければならない。
 最初の「情けないガリナ」があって、「旅の途中で色々な経験をして成長する」という過程があって、最後の最後にヤッターマンになるからこそ、「新ヤッターマン誕生の物語」としては盛り上がる。そして、もう1つの柱である、「ドロンジョの恋と、別れ」のドラマのためにも、旅を通してドロンジョとガリナの交流を描いておく必要がある。

 また、最終回の内容を2話に分けて描くのはダメだと思う。ためにためていた状態から、最後の1話で一挙にドバーッと活躍させるからこそカタルシスがあるのであって、この戦闘はダラダラやるべきではない。
 さらに、この作り手には、2話を使って最終決戦をだれさせずに描く力量はない。
 例えば、今までゴロー将軍一人にやられていたドロンボーが、なぜ11人の将軍を一気にやっつけられるほど突然強くなったのかとか、その他諸々、展開におかしいところ・説明不足なところが山ほどある。1話につめこむからこそ、そういったヘンなところを「勢い」でごまかすことができるのである。

 ギャグ回に関しては、それもまたシリーズ構成上は必要だったと思う。
 なぜならこの物語、「ギャグ」にしないと、「爆発の中でドロンボーが死なない理由」「ボヤッキーが短時間でメカを作れる理由(資金は、資材は、作る時間は……)」などが説明できないからだ。「このアニメは、こういうデタラメが通用するギャグアニメなんですよ」というエクスキューズが必要だったのだ。

 というわけで、「作り手が作りたかった物語」に対する「シリーズ構成」としては、これで良かったのではないかと思う。
 問題は、作り手が絶望的に「ヘタクソ」だったということだろう。

 例えば、「爆発でも死なない」とか「ボヤッキーがあっという間にメカを作ってしまう」ということに不自然さを感じさせないためには、最初からもっとナンセンスな作りにすべきだ。
 第1話でボヤッキーが船を造るのに苦労するなんて描写をしたために、世界観が「リアル寄り」になってしまった。船ごときに苦労するボヤッキーが、第3話以降(だっけ?)突然簡単に巨大メカを作れるようになるのが、不自然きわまりない。「ファイトだ!ピュー太」の博士とか、「W3」のノッコみたいに、そこら辺のガラクタからいとも簡単にメカを作れる……というナンセンスギャグを第1話からかましまくればよかったのに。
 「シリアスな作風なのだが、ところどころに寒いギャグが入る(面白いギャグにするつもりだったのが、作り手にギャグのセンスがないために、ことごとくすべってしまう)」というよりは、「基本的にギャグなのに、物語の底にシリアスな流れが存在する」という方が、面白かったと思うけどな。

 そう、作り手にギャグのセンスがない、という点が困っちゃうのである。
 シリーズ構成上、「ギャグを交えた旅」を描くのは必要だったと思う。が、残念なことにギャグが全然面白くないのである。面白いギャグを描く力量がないのだったら、ギャグ抜きでシリアス一辺倒でやった方がマシだったかもしれない。
 ガリナの成長ドラマもヘタクソだったし、ガリナに対するドロンジョの恋心が育っていくドラマもヘタクソだった。おかげで、最終回の「別れ」に関するドロンジョの切なさ・悲しさに、全然感情移入できなかった。

 「旅」のドラマとしてもヘタクソだった。
 「旅」の過程で様々な人と出会う……というドラマを描くのなら、普通、旅の回で出会った人たちが最終回でドロンボーに加勢するドラマを作ると思うが。「助けに来る」とか、そうでなければ「それぞれの場所でヤッター兵と戦っており、それがドクロベエの勢力を削ぐ原因の1つになった」とか。それが全然ないんだもんな。

 ……というわけで、作り手がやりたかったことは理解できたし、ああいうストーリー構成にしたことも理解できたが、結局「作り手の力量が足りなくて、描きたかったことを描くつもりだったようには描けなかった」という作品だった……という気がする。

 ウィキペディアhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E3%83%8E%E3%83%A4%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3

 実況のまとめ http://anicobin.ldblog.jp/archives/44032088.html

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大岡越前・第13部・第16話「孫兵衛を怨んだ男」

 脚本:櫻井康裕
 監督:山内鉄也

 半次、登場せず。

 喬之助と千夏がついに結婚。喬之助、佐橋家の婿になる。

 八丈島に16年間流されていた駒吉がご赦免になる。孫さんは駒吉が島流しになったあと、残された妻と娘の世話をし、妻が死んだあとは墓まで建ててやっていた。娘は大店の養女として世話し、幸せに成長していた。しかしそれを知らない駒吉は、盗賊一味からウソを吹き込まれて孫さんを逆恨みし……。

 以前、源さんの時代にそっくりの話があった。今回の話は源さんを孫さんに置き換えて作った話だな。

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 あらすじとロケ地 
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