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2017年03月11日16:49

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石原会見と丸山眞男の影

石原元知事「法的措置も検討」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=4466330


石原慎太郎の会見を見たその日の報道ステーションに、アフロかパンチパーマの朝日系列のおばちゃんが出演して、惜しいことは言っていたが、それが丸山もしくは山本を引いたものでなかった、ただの本人の雑感に終わったことは残念だった。

あっ、岩田温は論外でしたね。あれはただの傀儡の傀儡に過ぎない。

日本人が集団で何かを決定するとき、その決定に最も強く関与するのはなにか。提案の論理性?基礎づけの明証性?

極めて重大な決定でさえ、その採否をそれに委ねる。仮に事後的に決定が誤りであったことが分かろうとも、「とても反対できるものではなかった」という言い訳が口を衝く。

戦艦大和の沖縄出撃後の戦後の言葉曰く。

「これに対する最高責任者、連合艦隊司令長官の戦後の言葉はどうか。『戦後、本作戦の無謀を難詰する世論や史家の論評に対しては、私は当時『ああせざるを得なかった』と答うる以上に弁疏(べんそ)しようとは思わない』であって、いかなるデータに基づいてこの決断を下したかは明らかにしていない。それは当然であろう。彼が『ああせざるを得なかった』ようにしたのは『空気』であったから――。」(山本七平『「空気」の研究』(文春文庫、1983)pp.18-19)

場の空気と論理性が背馳する場合に、我々は空気に従う(まことに不思議な心象ですが)と示した人物がもうひとりおります。

「ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているに違いない。然るに我が国の場合はこれだけの大戦争を起しながら、我こそ戦争を起したという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。」(丸山眞男「超国家主義の論理と心理」(丸山眞男著、杉田敦編『丸山眞男セレクション』(平凡社、2010.04)所収)

さて、「ずるずる」とはなんでしょう?

その政治的行為を主宰する主体がいない、ということです。

ある決定の初発の意図を説明し、それを指導的に遂行し、それがもたらす功罪のすべてについて固有名において責任を取る人間がいない。

既成事実の前に無限に屈服してゆき、個人としての責任の引き受けはこれを拒否する。

それがわかりやすい例をご紹介するほどでもないですが。

キーナン検察官の最終論告に曰く。

「二十五名の被告の全ての者から我々はひとつの共通した答弁を聴きました。それは即ち彼等の中の唯一人としてこの戦争を惹起することを欲しなかったというのであります。(・・・)彼等は他に択ぶべき途は開かれていなかったと、平然と主張致します。」」(丸山眞男著、杉田敦編『丸山眞男セレクション』(平凡社、2010.04)所収)

「(・・・)ここで『現実』というものは常に作り出されつつあるもの或(あるい)は作り出され行くものと考えられないで、作り出されて『しまったと』、いな、さらにはっきりいえば『どこからか起こって来たもの』と考えられていることである。『現実的』に行動するということは、だから、過去への繋縛(けいばく)のなかに生きているということになる。」(丸山眞男「超国家主義の論理と心理」『現代政治の思想と行動』(未來社、1964)P109)

丸山を引いたからこそ、マルクスが生きてきます。

「人間は自分じしんの歴史をつくる。
だが、思う儘にではない。
自分で選んだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、あたえられた、持ち越されてきた環境のもとでつくるのである。
死せるすべての世代の伝統が夢魔のように生ける者の頭脳をおさえつけている。
またそれだから、人間が、一見、懸命になって自己を変革し、現状をくつがえし、いまだかつてあらざりしものをつくりだそうとしているかにみえるとき、まさにそういった革命の最高潮の時期に、人間はおのれの用をさせようとして、こわごわ過去の亡霊どもをよびいだし、この亡霊どもから名前と戦闘標語と衣装をかり、この由緒ある扮装と借り物のせりふで世界史のあたらしい場面を演じようとするのである。」(op.cit)
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