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ジミー・スヌーカ

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詳細 2017年8月26日 11:08更新

ジミースヌーカ
(JIMMY "SUPERFLY"SNUKA)

ジミー・スヌーカ(Jimmy Snuka、本名:ジェームズ・レイアー(James Reiher)、1943年5月18日 - )は、フィジー出身のプロレスラー。アメリカや日本で活躍し、跳躍力を活かしたハイフライムーヴによりスーパーフライ(Superfly)のニックネームを持つ。

養子のジミー・ライアー・ジュニアもプロレスラー(デュースの名でWWEに登場しタッグ王座も獲得、後にシム・スヌーカのリングネームで活動)。なお、第一次UWFに来日したジャック・スヌーカはジミー・スヌーカの弟を名乗ったが、単なるギミックで血縁関係はない。


ハワイでボディビルダーとして活動した後、1969年にアメリカ本土でプロレスラーとしてデビューし、太平洋岸北西部のPNW(Pacific Northwest Wrestling)でキャリアを積む。デビュー当時はラニー・ケオロハというリングネームだった。1971年9月にはインディアン・ギミックのグレート・スヌーカとして日本プロレスへの来日を果たしている(同名義では1974年11月の全日本プロレスにも参戦)。

その後、南洋の原住民スタイルのヒールに変身して飛躍のきっかけを掴む。PNWではパシフィック・ノースウエスト王座を1977年まで通算6回獲得し[1]、ジャック・ブリスコのNWA世界ヘビー級王座にも挑戦。1970年代後半からはジム・クロケット・ジュニアのNWAミッドアトランティック地区を主戦場に、リック・フレアー、リッキー・スティムボートらとの抗争で一躍トップスターとなる。ミッドアトランティック地区ではポール・オーンドーフやレイ・スティーブンスと組んでタッグ戦線でも活躍、同地区認定の世界タッグ王者となり[2]、フレアー&スティムボート、マスクド・スーパースター&ブラックジャック・マリガンなどの強豪チームと対戦した。

日本では1981年5月より全日本プロレスを主戦場とするようになり、リッキー・スティムボートとの抗争も日本マットで再現。同年の世界最強タッグ決定リーグ戦ではブルーザー・ブロディとのタッグチームで優勝している。しかし、最終戦(12月13日、蔵前国技館)に乱入したスタン・ハンセンとブロディが組むようになると、翌1982年4月にブロディと仲間割れ。10月にブロディ対スヌーカの遺恨試合が行われたが、スヌーカがWWFに定着し全日本プロレスを離脱したため両者の抗争アングルは立ち消えになった。

WWF(現・WWE)には1982年3月より登場。当初はNWA時代と同様にヒールであったが(マネージャーはキャプテン・ルー・アルバーノ)、当時のWWF王者ボブ・バックランドとの抗争を通し、一連のハイフライムーヴにより観衆の喝采を集めベビーフェイスに転向。その後はバディ・ロジャースがマネージャー役に就くなど、一時はバックランドをも凌ぐ人気者となり、次期WWF王者の有力候補と噂された。

1983年10月17日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて行われたドン・ムラコとの金網マッチでは、金網最上段からのスーパーフライを敢行。この試合をリングサイド3列目で見ていたプロレスラー志望の大学生ミック・フォーリーは、これがきっかけで本気でレスラーになることを決めたという[3]。以降もWWFに定着し、1984年にビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下でスタートした全米侵攻にもベビーフェイスの主力として参加。ロディ・パイパーのインタビューコーナー『パイパーズ・ピット』への出演に端を発するパイパーとの抗争は、歴史的イベント『レッスルマニア』第1回大会への伏線ともなった。

1985年5月には当時WWFと提携関係にあった新日本プロレスに来日、IWGPリーグ戦へ出場した。同年11月のIWGPタッグ王座の初代王者チームを決めるタッグリーグ戦では、当時新日本へ参戦していたブロディとコンビを再結成し出場したが、外国人レスラーに王座を与えない新日本側の方針に反発してリーグ戦後の決勝戦を急遽キャンセルして帰国している(反発したのはブロディだけであり、スヌーカは巻き込まれただけだとする説が有力。その説を裏付けるように、後日坂口征二と和解した写真が各紙に掲載された)。


(左から)レッスルマニア25でのパイパー、スヌーカ、スティムボートその間、アメリカでは1985年下期にWWFを離脱し、1986年よりAWAに参戦。AWAがWWFのレッスルマニアに対抗して開催したイベント "WrestleRock" ではタッグマッチでブロディとも対戦している(同イベントには当時のAWA世界ヘビー級王者スタン・ハンセンも出場)。1987年にはブロディとともに全日本プロレスに復帰、同年および翌1988年のブロディ死去後の世界最強タッグ決定リーグ戦に出場している(1988年のパートナーはタイガーマスク)。

1989年よりWWFに復帰し、ベテランの中堅として1992年2月まで所属。1991年4月には、ジ・アンダーテイカーのレッスルマニア初戦の相手も務めた。その後はインディー団体を転戦しつつ、初期のECWへも参戦。1992年4月に初代ECW世界ヘビー級王者にも就いている[4]。1995年にはWARにボブ・バックランド、ミル・マスカラスと共に来日した。

1996年にWWF殿堂入りを果たし、2001年にはWCWにも出場。2004年にWWEとレジェンド契約を結び、折を見てストーリーラインに絡み、試合も行っている。WWE以外でも時折、インディー団体に参戦しているという。2009年4月のレッスルマニア25では、ロディ・パイパー&リッキー・スティムボートとレジェンド軍を結成し(セコンド役はリック・フレアー)、クリス・ジェリコとのハンディキャップ・イリミネーション・マッチを行った。

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