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Pee Wee Russell

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詳細 2023年7月29日 20:46更新

ピー・ウィー・ラッセル

mixiにデキシー出身のクラリネット奏者である、ピー・ウィー・ラッセルのコミュニティが無かったので、作成致しました。\(^o^)/

皆さんの御参加をどうぞ宜しく御願い致します。m(__)m

ピー・ウィー・ラッセル 1906.3.27〜1969.2.15
 1920年代からビックス・バイダーベックやフランキー・トランバウアーらと共演、その後レッド・ニコルス楽団に加入。30年代からはボビー・ハケット、バド・フリーマン、エディ・コンドン、マグシー・スパニアらと活動し、その飄々として意表をつくクラリネットプレイはディキシーランドジャズシーンに欠かせない存在であった。とくにエディ・コンドンとは多くの録音を残している。モダン・ジャズメンとの共演も多く、後年は自分がシカゴ派として紹介されるのを嫌がっていたという。

 1906年3月27日、チャールズ・エルズワース・ラッセル:Charles Ellsworth Russellとしてセントルイスに生まれる。15歳までに生地でプロ・デビュー、テキサスやメキシコで活動し、1925年には生地でビックス・バイダーベック(co)やフランキー・トランバウアー(C-melody sax)とも共演した。1927年にニューヨークに進出し、レッド・ニコルス(co)の「ファイヴ・ペニーズ」をはじめ、1930年代の半ばまで多くのセッションに参加する。ルイ・プリマ楽団(1935-37年)を経て1938年にエディ・コンドン一家の舎弟となり、広く知られるところとなった。コンドンとの関係は30年に及ぶ。1950年に大酒が祟って瀕死の重病になるが奇跡的にカムバック、前にも増して精力的に活動した。1950年代の半ばからは中間派やモダン派との共演で注目され、代表作もこの時期に残している。

 初期の演奏はニコルスの「ファイヴ・ペニーズ」(1927年8月、ブランズウィック)、ミフ・モール(tb)の「モーラーズ」(同、オーケー)で聴ける。清新な魅力を発散、とくに後者の《オリジナル・ディキシーランド・ワン・ステップ》は上出来だ。1929年頃、ニューヨークに進出したシカゴ派との交流が始まり、やがてジョニー・ドッズ流のダーティ・トーン、フランク・ティシュメーカー流の軋むフレージングが目立つようになる。両者を信奉する彼らに焚きつけられたのではないか。元は流麗なジミー・ヌーン系だと思う。コンドン一家の傘下に入った1938年から1940年代まで推薦できる演奏はほぼない。せいぜいバド・フリーマン(ts)の「スマ・カム・ロード・オーケストラ」(1940年4月、デッカ)あたりか。総じて可もなく不可もないか、時に覇気が空回りするといった按配だ。

 奇妙なことに、ラッセルは1942年から44年まで「ダウンビート」誌のポール・ウィナーに輝いている。当時を最盛期とする方もあるが、人気は音楽性を保証するものではなかろう。1940年代までは自分を発揮できない環境で苦闘していたとしか思えない。1950年に九死に一生をえたことが転機となって快進撃が始まった。モダン派のジミー・ジュフリー(cl)やスウィング派との『ザ・サウンド・オブ・ジャズ』(1957年12月、コロンビア)、中間派のルビー・ブラフ(tp)やヴィック・ディッケンソン(tb)との『ポートレート・オブ・ピー・ウィー』(1958年2月、カウンターポイント)、バック・クレイトン(tp)やトミー・フラナガン(p)との『スウィンギン・ウィズ・ピー・ウィー』(1960年3月、スウィングヴィル)といった名演をものしていく。“その時”はまさにその最中だった。

 推薦盤はマーシャル・ブラウン(vtb, bass tp)と組んだピアノレス・カルテットによる『アスク・ミー・ナウ!』(1963年4月、インパルス)だ。ボブ・ブルックマイヤー(vtb)在籍時のマリガン・カルテットに、ジュフリーやトニー・スコット(cl)が客演したかのような感すら覚える。“説得力ある個性”を発揮して立派だ。ジュフリー流の素朴なリリシズムが美しい《アイド・クライム・ザ・ハイエスト・マウンテン》に心打たれぬ輩は人ではなかろう。1964年3月から4月にかけてコンドン一家で来日公演、放送録音(キアロスキュロ)が残されている。大した出来ではないが、ワン・ホーンによる《ピー・ウィーズ・ブルース》は絶品だ。それにしても、1920年代にデビューした古参が晩年の1960年代に傑作を生みだすなどというのは極めて異例で、ラッセルの異能を物語ってあまりある。

 1967年に妻に先立たれたラッセルは酒浸りになり、やがて後を追った。1969年2月15日、バージニア州アレキサンドリアで逝去。10年半前の“その時は”ピー・ウィーが最も輝いていた時期に重なっている。トラディショナル〜スウィング派は最盛期を過ぎていたが、ラッセルにとってはようやく訪れた春の季節だった。そして、モンクにとっても。



ピー・ウィー・ラッセル 1906.3.27〜1969.2.15
 1920年代からビックス・バイダーベックやフランキー・トランバウアーらと共演、その後レッド・ニコルス楽団に加入。30年代からはボビー・ハケット、バド・フリーマン、エディ・コンドン、マグシー・スパニアらと活動し、その飄々として意表をつくクラリネットプレイはディキシーランドジャズシーンに欠かせない存在であった。とくにエディ・コンドンとは多くの録音を残している。モダン・ジャズメンとの共演も多く、後年は自分がシカゴ派として紹介されるのを嫌がっていたという。

 1906年3月27日、チャールズ・エルズワース・ラッセル:Charles Ellsworth Russellとしてセントルイスに生まれる。15歳までに生地でプロ・デビュー、テキサスやメキシコで活動し、1925年には生地でビックス・バイダーベック(co)やフランキー・トランバウアー(C-melody sax)とも共演した。1927年にニューヨークに進出し、レッド・ニコルス(co)の「ファイヴ・ペニーズ」をはじめ、1930年代の半ばまで多くのセッションに参加する。ルイ・プリマ楽団(1935-37年)を経て1938年にエディ・コンドン一家の舎弟となり、広く知られるところとなった。コンドンとの関係は30年に及ぶ。1950年に大酒が祟って瀕死の重病になるが奇跡的にカムバック、前にも増して精力的に活動した。1950年代の半ばからは中間派やモダン派との共演で注目され、代表作もこの時期に残している。

 初期の演奏はニコルスの「ファイヴ・ペニーズ」(1927年8月、ブランズウィック)、ミフ・モール(tb)の「モーラーズ」(同、オーケー)で聴ける。清新な魅力を発散、とくに後者の《オリジナル・ディキシーランド・ワン・ステップ》は上出来だ。1929年頃、ニューヨークに進出したシカゴ派との交流が始まり、やがてジョニー・ドッズ流のダーティ・トーン、フランク・ティシュメーカー流の軋むフレージングが目立つようになる。両者を信奉する彼らに焚きつけられたのではないか。元は流麗なジミー・ヌーン系だと思う。コンドン一家の傘下に入った1938年から1940年代まで推薦できる演奏はほぼない。せいぜいバド・フリーマン(ts)の「スマ・カム・ロード・オーケストラ」(1940年4月、デッカ)あたりか。総じて可もなく不可もないか、時に覇気が空回りするといった按配だ。

 奇妙なことに、ラッセルは1942年から44年まで「ダウンビート」誌のポール・ウィナーに輝いている。当時を最盛期とする方もあるが、人気は音楽性を保証するものではなかろう。1940年代までは自分を発揮できない環境で苦闘していたとしか思えない。1950年に九死に一生をえたことが転機となって快進撃が始まった。モダン派のジミー・ジュフリー(cl)やスウィング派との『ザ・サウンド・オブ・ジャズ』(1957年12月、コロンビア)、中間派のルビー・ブラフ(tp)やヴィック・ディッケンソン(tb)との『ポートレート・オブ・ピー・ウィー』(1958年2月、カウンターポイント)、バック・クレイトン(tp)やトミー・フラナガン(p)との『スウィンギン・ウィズ・ピー・ウィー』(1960年3月、スウィングヴィル)といった名演をものしていく。“その時”はまさにその最中だった。

 推薦盤はマーシャル・ブラウン(vtb, bass tp)と組んだピアノレス・カルテットによる『アスク・ミー・ナウ!』(1963年4月、インパルス)だ。ボブ・ブルックマイヤー(vtb)在籍時のマリガン・カルテットに、ジュフリーやトニー・スコット(cl)が客演したかのような感すら覚える。“説得力ある個性”を発揮して立派だ。ジュフリー流の素朴なリリシズムが美しい《アイド・クライム・ザ・ハイエスト・マウンテン》に心打たれぬ輩は人ではなかろう。1964年3月から4月にかけてコンドン一家で来日公演、放送録音(キアロスキュロ)が残されている。大した出来ではないが、ワン・ホーンによる《ピー・ウィーズ・ブルース》は絶品だ。それにしても、1920年代にデビューした古参が晩年の1960年代に傑作を生みだすなどというのは極めて異例で、ラッセルの異能を物語ってあまりある。

 1967年に妻に先立たれたラッセルは酒浸りになり、やがて後を追った。1969年2月15日、バージニア州アレキサンドリアで逝去。10年半前の“その時は”ピー・ウィーが最も輝いていた時期に重なっている。トラディショナル〜スウィング派は最盛期を過ぎていたが、ラッセルにとってはようやく訪れた春の季節だった。そして、モンクにとっても。

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2011年5月2日

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カテゴリ
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