通称:深志城
城郭構造:梯郭式+輪郭式平城
天守構造:連結複合式
築城主:石川数正・康長父子
築城年:1593〜1594年
主な改修者:松平直政
主な城主:小笠原氏,石川氏,松平氏,堀田氏,水野氏,松平氏(戸田氏)
廃城年:1871年
遺構:現存天守,石垣,土塁,堀,復元門
位置:北緯36度14分20.76秒,東経137度58分8.83秒
松本城(まつもとじょう)は,長野県松本市にある城。天守は国宝に指定されている。鴉城,烏城等の別名が流布しているが誤りである。昔は,深志城(ふかしじょう)と呼ばれていた。国指定史跡。
【構造】
典型的な平城。本丸,二の丸,三の丸ともほぼ方形に整地され,縄張りは梯郭式+輪郭式を成している。
【天守】
5重6階の天守を中心にし,乾小天守を渡櫓で連結し,辰巳附櫓,月見櫓を複合した連結複合式天守。初期の天守に多く見られる下見板張が特徴。現存天守である。
【歴史】
戦国時代,信濃国中部を治めていた甲斐源氏の名門,小笠原氏が砦を築いたのが始まりといわれている。以後,同じ甲斐源氏である武田氏の侵攻を受け武田氏の支配下となる。武田氏が滅んでからは徳川家康の支配下におかれ,配下に支配が委ねられた。
豊臣秀吉が徳川家康を関東に転封したのちは,元の家康の重臣の石川数正が配置された。石川数正とその子康長が,天守を始め,城郭,城下町の整備を行う。
江戸時代は,松平康長や水野家などの松本藩の居城として機能。水野家の後は松平康長にはじまる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。
明治30年代ころより天守が大きく傾き,明治36年より大正2年まで明治の大修理がおこなわれた。貞享騒動(加助騒動,嘉助一揆)の首謀者・多田嘉助が磔刑に処せられる際,天守を睨んで絶叫した怨念によって傾いたといわれる伝説は,城が傾き始めた明治になってから作られた伝説である。 現在では,軟弱な地盤(元々この地は深瀬,深志と呼ばれる沼地で,城の始まりは沼の畔の館である)の上に天守を構築する工法として採用された天守台の中に埋めこまれた16本の支持柱が時代を経て朽ち,土台構造物を失った天守が自重で沈み込んだ事が傾斜の原因であると判明している。
享保12年(1727年)には本丸御殿が焼失,以後の藩政は二の丸で執務がとられた。
明治維新後,1872年に天守が競売にかけられ,一時は解体の危機が訪れるが,市川量造ら地元の有力者の尽力によって買いもどされて難を逃れる。昭和5年(1930年),国の史跡に指定された。1936年(昭和11年)4月20日には天守,乾小天守,渡櫓,辰巳附櫓,月見櫓の5棟が国宝保存法により,当時の国宝に指定され,1952年(昭和27年)3月29日にはこれら5棟が文化財保護法によりあらためて国宝に指定されている。明治時代の二の丸の筑摩県庁火災で延焼しなかった土蔵が現存している。
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