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小平

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小平(トウショウヘイ、1904年8月22日 - 1997年2月19日)は、中国の政治家。生涯に3回の失脚を乗り越え、実利的な視点に基づく「改革・開放」政策によって中国の市場経済化に手を着けた。1978年−1997年まで、事実上の中国の最高実力者。

1904年、四川省広安県の客家系地主の家庭に生まれる。初め先聖と名づけられ、幼時には希賢の名も用いる。1920年、16歳でフランスへ留学。第一次世界大戦後の労働力不足に応じた「勤工倹学」という形の苦学生であった。ちなみに小平はこの後一度も帰郷したことはない。

留学中の1922年に中国少年共産党に入党し、機関誌の作成を担当。「ガリ版博士」とあだ名され好評を博す。1926年モスクワに渡り、東方大学・中山大学で共産主義を学ぶ。

1927年帰国し、ゲリラ活動を開始。紅七軍を政治委員として指揮するが、冒険的で無計画な李立三路線に振り回される。1931年、蜂起したものの根拠地を失った部隊と共に毛沢東率いる江西ソヴィエトに合流し、瑞金県書記となる。しかしコミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従う小平を失脚させる。

1935年、周恩来の助力で中央秘書長に復帰、長征に参加し八路軍一二九師政治委員となる。この後華北方面での抗日ゲリラ戦や、淮海戦役・揚子江渡河作戦などの対国民党戦で大きな戦果を収める。中華人民共和国の独立後も西南部の解放戦を指導し、解放地域の復興に努める。

1952年毛沢東により政務院常任副総理に任命され、そのほか運輸・財務の大臣級のポストを兼任する。その後昇進を続け、1956年には中央委員会総書記に選ばれて党内序列第六位になっている。

しかし小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗以降、次第に毛との対立を深めていく。文化大革命の勃発以降は権力を失っていき、1968年には全役職を追われさらに翌年江西省南昌に追放される。1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰するが、1976年には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第一次天安門事件によって再び失脚する。同年毛沢東が死去すると後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後1977年に再々復権を果たす。

復権後は華国鋒の掲げた「二つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東路線に反対して思想の解放を説き、生産力の増大、特に食料不足の解消に努めた。思想の解放については行き過ぎにブレーキをかける傾向もあり、1979年の魏京生逮捕、1989年の天安門事件などに見ることができる。しかし全体としては両極端を避け、共産主義革命からは遠ざかりつつも急速なブルジョワ的自由化を避けて経済成長を目指すのが小平の基本姿勢である。

小平の行った代表的な経済政策として、「改革・開放」政策の一環である経済特区の設置がある。社会主義国家では考えられなかった外資の導入を一部地域に限り許可・促進することにより経済成長を目指すこの政策は大きな成果を収めた。生産力の増大を第一に考える彼の政策は「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という「白猫黒猫論」に表れている。

また1984年12月には「一国ニ制度」構想の元、香港返還に関する合意文書に調印している。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%A7%E5%B0%8F%E5%B9%B3

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2005年05月03日
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