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Майя Плисецкая

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詳細 2015年2月10日 00:31更新

マイヤ・ミハイロフナ・プリセツカヤ(ローマ字表記:Maya Mikhailovna Plisetskaya、ロシア語: Майя Михайловна Плисецкая、1925年11月20日生)はロシアのバレエダンサー。しばしば現代最高のバレリーナと呼ばれる。





生い立ち
マイヤ・プリセツカヤはモスクワの芸術家を多く輩出する有名なユダヤ人一家に生まれた。エンジニアの父の仕事の都合で、スピッツベルゲン島の学校へ通う。1938年、父親はスターリンの粛正により処刑され、サイレント映画女優だった母親はカザフスタンへ強制送致された。マイヤは母方のおばにあたるバレリーナスラミフィ・メッセレルの養子となった。

その後、マイヤは帝室バレエ学校において、偉大なバレリーナエリザヴェータ・ゲルトのもとで学ぶ。11歳になったばかりでボリショイ劇場にて初めて舞台に立つ。1943年にバレエ学校を卒業し、ボリショイ・バレエに入団した。


活動歴
プリセツカヤはバレエ学校卒業後、他の多くのバレリーナが最初に務めるコール・ド・バレエ(群舞を担当するダンサー集団)をまったく経ずに、いきなりプリンシパル・バレリーナに採用される。デビュー当時から、彼女は目立つ存在だった。赤い髪の毛とすばらしいプロポーションで舞台の上でも外でも人気となる。彼女の流れるように動く長い手は今日でも並びなきものと賞されているほどである。

アンナ・パヴロワの代表作「瀕死の白鳥」を演じ、当たり役とする。またプリセツカヤの最大の当たり役は、「白鳥の湖」のオデット/オディール(1947年)、「眠れる森の美女」のオーロラ姫(1961年)である。跳躍の高さ、柔軟で大きく反る背中、技術の確かさ、カリスマ性すべてにおいて高く評価された。

彼女に向けられた高い賞賛とは裏腹に、劇場上層部の彼女への待遇はあまりよいものとはいえなかった。ユダヤ人であったことが災いし、1956年の国外公演には反ユダヤ主義的風潮のなかで同行が許されなかった。しかし、1959年に彼女が西側世界に初めて登場すると、バレエ界に大きな衝撃を与えることとなる。世界中のバレリーナは、プリセツカヤ以後、技術の完成度でも演技力でもより高度なものを要求されることになったのである。

1958年、作曲家ロディオン・シチェドリンと結婚、翌年にはソ連人民芸術家として表彰される。

1960年、ガリーナ・ウラノワが引退すると、プリセツカヤはボリショイ劇場のプリマ・バレリーナ(首席バレリーナ)に任命される。1967年ソヴィエトで制作された『アンナ・カレーニナ』の映画版では、トヴェルスコイ公爵夫人(ヴェッツィ)を演じ、1971年には、シチェドリンの作曲、自身の振り付けによるバレエ版「アンナ・カレーニナ」を発表し、主役アンナを演じた。他にユーリ・グリゴロヴィッチ、ローラン・プティ、アルベルト・アロンソ、モーリス・ベジャールなどの著名な振り付け師が彼女のために作品を振り付けている。

1980年代には、プリセツカヤはシチェドリンとともに海外で過ごすことが多くなり、ローマ・オペラ・バレエや、マドリッドのスペイン国立バレエの芸術監督を務める。65才で、ついにボリショイ劇場のソリストから引退したが、その後も芸術活動を続けている。70才の誕生日には、ベジャールの振り付けによる「アヴェ・マイヤ」を初演。

1994年からは自身の名を冠したマイヤ・プリセツカヤ国際バレエコンクールの審査員長を務めている。

2003年、宝塚歌劇星組公演「王家に捧ぐ歌」の振付を担当し話題になった。

2006年、第18回高松宮殿下記念世界文化賞の演劇・映像部門を受賞。

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