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西太后 (慈禧太后)

西太后 (慈禧太后)

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詳細 2016年10月16日 11:51更新

西太后(せいたいごう)道光十五年(1835年11月29日) 光緒三十四年十月二十二日(1908年11月15日)は清は咸豊帝の妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州 旗人(鑲藍旗人)の葉赫那拉(エホナラ)氏の出身。慈禧太后(じきたいこう)のこと。

紫禁城内における二人の皇太后の住む場所によって東太后(皇后。慈安皇太后、母后皇太后)、西太后(第二夫人。慈禧皇太后、聖母皇太后)と区別して呼ばれた。諡は孝欽顕皇后。

下級官吏の貧しい家に育ったが、通りかかった咸豊帝に、容姿が美しいことからみそめられ、宮中に入る。その後も寵愛され咸豊帝の妃の一人になるが、次第に帝を取り込み様々な策略を企て発言力を強める。

咸豊帝が崩御した1861年、西太后は咸豊帝との間に生まれた皇太子載淳を同治帝として即位させ、自らも東太后と共に垂簾聴政の名の下、咸豊帝の弟である恭親王奕訢(エキキン)を取り込み、事実上の摂政として発言力を強める。一方咸豊帝の遺命を受け政治の中枢を掌握していた「顧命大臣」載垣や端華・粛順たち8名は垂簾聴政を真っ向から反発し、激しい権力争いの末、顧命大臣の中心人物だった載垣や端華・粛順を処刑(辛酉政変:1861年)し、権力を思うままにする。また、梳頭太監だった宦官李蓮英をとりたてて重く重用した。

1874年同治帝が大婚し親政を行おうとしたが、天然痘(実は梅毒)のため若くして崩御。この病気は西太后が皇帝と皇后(嘉順皇后)を離間させたため、天橋の売春宿へ通う
ようになり、そのために感染したという説が有力。皇后との間に実子がいなかったため、自身の妹の息子である載湉(さいてん)を光緒帝として即位させ、自らも再び垂簾聴政を行う。

1881年東太后が崩御、一説では西太后によって毒殺させられたという見方もある。

1887年光緒帝の成年に伴い、自らは隠退を要望するが、混乱を恐れた重臣たちの意を受け3年間の「訓政」という形で政治のフォローを行う事を条件に、光緒帝の親政が始まる。

1888年自身の姪を光緒帝の皇后(のちの隆裕皇太后)に推挙。1898年光緒帝や康有為・梁啓超らの改革派(帝党)と共に、戊戌維新(別名戊戌の変法、変法自強運動、百日維新)がスタートするが守旧派(后党)の激しい抵抗にあい、また改革派の一員とされていた袁世凱が一部で進めていた西太后暗殺計画を密告した事により光緒帝を逮捕の上、中南海の瀛台(エイダイ)に幽閉し、三度目の垂簾聴政を開始。(戊戌政変)さらに将来光緒帝を廃位すべく、端郡王載漪(サイイ)の子溥儁(フシュン)を大阿哥(清朝では立太子の制度を廃止した為、普通は皇長子もしくは皇嗣子を指す。)に擁立(己亥の建儲)。

1900年義和団の乱により日本を中心とした八ヶ国軍の猛攻撃を受け北京が陥落、自らは側近を伴い西安へ逃れる。この際光緒帝の側室珍妃を紫禁城内の井戸へ投げ捨てる事を命じた。

1908年光緒帝が崩御した翌日、「ラストエンペラー」溥儀を宣統帝として擁立し、西太后も74歳で崩御。

中国史上、権力者として50年もの長期にわたり女性が君臨した例はなかった。(前漢の呂后は約25年、唐の武則天は帝位について16年であった。)

権力欲と人を巧みに操る感覚が並外れたものを持っていたが、それ以前に皇太后という身分では外界の情報が届きにくく、かつ、国体(王朝)の保持を第一義としてしまったた
めに、人民を顧みない政治を行い続けたことは当時の中国人にとって不幸以外の何物でもなかった。また諸外国との戦争処理の際に安易な妥協や講和をし続けたことで清朝そのものを疲弊弱体化に導いてしまった事は大いに悔やまれる。

他方で西太后が君臨する前から中国の疲弊弱体化は進んでおり、西太后が現れなかったらもっと早く中国の分割・植民地化は進んでいた、という学説もある。


と言う事でわいはこんな西太后だ好きだーーっ!!!!

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開設日
2005年3月19日

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カテゴリ
学問、研究