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上田馬之助

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詳細 2020年8月11日 11:39更新

上田裕司(うえだゆうじ、1940年6月20日 - )は、愛知県出身の元プロレスラー。リングネームは上田馬之助。身長190cm、体重118kg。頭髪をまだらに金髪に染めていた事から「まだら狼」と呼ばれた。
熊本の病院に入院していると聞いていたが、今は妻とともに大分県臼杵市に住んでいるらしい。
馬之助は胸から下がまったく動かないし肺の機能も3分の1失ってしまい言葉もままならない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E8%A3%95%E5%8F%B8

経歴
大相撲から転じ1960年に日本プロレスに入門。1961年4月プロデビュー。若手時代は実力はありながらも、ほぼ同時期に入門したジャイアント馬場やアントニオ猪木の影に隠れ地味な存在だった。だがショー性を一切排した「ガチンコ」に滅法強いといわれていた。

1966年にアメリカに渡り「ミスター・イトー」のリングネームで悪役レスラーとして活躍した。1970年3月に帰国し、1973年に大木金太郎とのタッグでインタータッグ王座を獲得した。

日本プロレスが崩壊すると全日本プロレスへ参戦したが前座扱いだった為フリーの身となり、すぐに渡米し髪を染め竹刀を振り回す「まだら狼」へと変身して南部地区を中心に転戦した。1976年5月に国際プロレスへ参戦し、ラッシャー木村と金網デスマッチなどで激闘を繰り広げIWA世界ヘビー級王座を獲得した。1977年に新日本プロレスへ参戦し1978年にアントニオ猪木と釘板デスマッチで激闘を展開したり、タイガー・ジェット・シンとのタッグで北米タッグ王座を獲得する等、トップヒールとして活躍した。1981年に再び全日本プロレスへタイガー・ジェット・シンと共に参戦し、その後はインディー団体を転戦した。

1996年3月に不慮の交通事故に遭遇し、一命は取り留めたものの(フロントガラスを突き破り、車外に投げ出されアスファルトに叩きつけられるという大事故だったが、レスラーとして体を鍛えていた事に加え、叩きつけられる直前、無意識に受身をとっていた事が一命を取り留める理由となった。普通の人なら、即死だっただろうと言われている。ただし、本人は車が衝突した瞬間以降の事は覚えていないらしい)脊椎損傷の大怪我を負い車椅子での生活を余儀なくされた。1998年4月16日に上田がリハビリ中の熊本県で「力道山OB会」主催の引退記念大会が開かれ、車椅子姿でファンの前に現れ喜ばせた。

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人柄
相撲時代に毛筆の訓練を受けたために、達筆としても知られていた。
サインの筆跡を似せるほど力道山に私淑し、日本プロレス時代に交付されたプロレスラーのライセンス証を、後年になっても肌身離さず持ち歩いていたという。「力道山先生の頃の本格的なプロレスを復活させるのが夢」「プロレスにライセンス制度を導入すべき」というような発言もしている。
ライバルを問われると「お客さん」と答えた。観客の目を意識できないものは評価されないプロレスの世界において、まったくの正論である。
場外乱闘時に逃げ遅れた観客の老婆を見て乱闘をやめたり、タイガー・ジェット・シンが暴れている時に周囲の(無関係の)一般人が近づくのを必死になって制止したことがある。
引退のきっかけとなった交通事故で、運転していたIWAジャパンの営業部員は死亡した。その話を聞いたとき、「俺が死ねばよかった。なんで人生まだこれからの若いやつが死ななきゃならないんだ」と号泣したという。
交通事故の直後は首から下が動かない状態であったが、リハビリを経て、プロレス会場に車イスで来場できるほどまで回復した。また、往年のファンのために来場時にはトレードマークの金髪に染めている。
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密告事件
力道山が亡くなった後の日本プロレス末期に、不透明な経理に不満を抱いていた馬場・猪木ら選手会一同は、一部幹部の退陣を要求しようと密かに画策していた。もし要求が受け入れられない場合は、選手一同が退団するという嘆願書に全員がサインをしていたという。

ところが、仲間だと思っていた上田が「猪木が日本プロレスを乗っ取ろうとしている。」と幹部に密告したため、慌てた幹部連中の懐柔工作によって選手達は次々と寝返り、猪木のみが孤立し選手会を除名され、日本プロレスから永久追放される事件が起きた。

一方で、猪木と腹心の仲でありサイドビジネスの手伝いもしていた経理担当の某氏が、不透明な小切手を切ったり、猪木を社長に祭り上げて日本プロレスの経営権を握ろうと画策しているかのような動きを見せたため、この事に気付き危機感を持った上田が馬場に相談したのが発端であったともいわれている。

当時の日本プロレスは暴力団との関係が取り沙汰されたり、ドンブリ勘定の資金管理など闇の部分が存在したのは間違いない。猪木自身は「経営陣の不正を正したかった事に嘘はない」としているが、誤解を与える行動があったのは事実で100%非がないとは言い切れない。

いずれにせよ、この事件が発端となり馬場と猪木の決裂は決定的なものとなり、その後日本プロレスは崩壊し「全日本プロレス」と「新日本プロレス」が誕生した。慎重派といわれた馬場は、この事件についてその後一切語らず、以降信頼関係を第一に考えるようになった。「裏切り者」の汚名をきせられた猪木は、以降攻撃的な策士の面をみせる一方でスキャンダルが付きまとった。元来お人好しで馬場より猪木と気が合ったといわれる上田は、以降孤独の身となりフリーとして悪役レスラーを貫き通した。 馬場・猪木・上田のみならず日本のプロレス界にとっても重要な出来事であり、三者の心に暗い影を落とした事も事実である。

上田馬之助の引退興行の際「猪木さんにお詫びしたい」と語ったといわれ、後に和解したものの猪木は、「追放された事実よりも仲間だと思っていた上田の裏切りに深く傷ついた」と語っている。

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2006年6月15日

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カテゴリ
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