ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

言葉の見る夢 𓃠 ɯɐǝɹpɹoʍコミュの昔話 言葉 𝓵𝓮𝓰𝓮𝓷𝓭 ˡᵉᵍᵉⁿᵈᵒ 

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 
思い出話・昔話を聞かせてください。
 

♪ 時には昔の話を http://bit.ly/2JZFgFv
 
♪ 若き日の望楼 http://bit.ly/2K3iJbc
 
♪ 我が麗しき恋物語 http://bit.ly/2KXVfH7
 
♪ rock'n roll night http://bit.ly/2Y8FUFR

コメント(48)

 
John Lennon
http://youtube.com/results?q=%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%EF%BD%A5%E3%83%AC%E3%83%8E%E3%83%B3+%E3%81%95%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AA%E3%82%89%E7%A7%81%E3%81%AE%E5%A4%A2

1985/09/20、中2でビートルズに夢中だった僕は観た。
 
【 サイダー 】
 
自販機でサイダーを買った。
私には少し甘みが強すぎるそのサイダーを選んだのは
あなたが真夏にまとめ買いしたそれを
私との会話中に今でも飲み続けているからだ。
 
シュワシュワと浮かぶ小さな泡のように
あなたとのちょっとした出来事が浮かんでは消える。
 
 
ある秋の日、
やっぱりそのサイダーを飲んでいるあなたに
ふざけて、笑って、私は言った。
 
  「あなたの夏は そのサイダーがなくなるまで終わらないのかな?(笑)」
 
するとあなたも笑って、こう答えた。
 
  「僕の夏は君と一緒に飲んだ1本のサイダーで終わったよ(笑)」
 
 
9月にやってきた遅い夏休み。
終わらない夏の日差しを浴びながら
山間の茶屋に私たちは並んで腰掛けていた。
 
私が 「飲みたいけど飲みきれない」
そう言って買った1本のサイダーを、二人分け合って飲み干した。
あの時 陽にかざしたビンのように、キラキラと眩しい思い出。
 
 
シュワシュワ・・・シュワシュワ・・・
浮かんでは消えるあなたとのたくさんの出来事
 
口に含んだサイダーは
二人の甘い記憶が溶け込んで
余計に甘く感じられていた。



**☆**:**☆**


今年の夏も終わるのだなぁ・・・と最近感じました。
「暑さ寒さも彼岸まで」なんて言いますが、
今年の夏の終わりは早く感じています。
>>[912]も昔、フルタイムで働きながら保育園へ迎えに行ったら「時刻を過ぎている」と抗議されたそうです。
まあ彼女たちも労働者ですから、わかる気もします。
ところが、その最中にさらに遅れて迎えに来た女性と、仲がよいのか笑顔を交わして素通りだったので、「あの人は何なんですか」と猛烈に反撃したそう。
抗議を甘んじても、ご自分に自信をもって生活を切り盛りされたらそれでいいと思います。

母さんは僕と姉の二人を自転車に乗せ坂を上がって保育園へ通い、後輪に足を引っかけてケガをした姉を、路上で叱ったそうです。
そのとき道を往くオバサンに非難がましい目で見られたことを今でも憶えていて、姉も叱られたことを憶えていて。
でも今では、頑張って生きてたねという笑い話です。

cosmos http://youtube.com/results?q=%E7%A7%8B%E6%A1%9C+%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E7%99%BE%E6%81%B5

microcosmos http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%A2%E3%82%B9 CP:http://zhp.jp/sT8D
 
 
私は東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。

小さな集落でしたが、朝学校へ行く際すれ違う人皆が「彩加ちゃん! 元気にいってらっしゃい」と声をかけてくれるような、温かい大川がとても大好きでした。

あの日、中学の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震起き、地鳴りのような音と共に津波が一瞬にして私たち家族5人をのみ込みました。

しばらく流された後、私は運良く瓦礫(がれき)の山の上に流れ着きました。
その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見てみると釘や木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。
右足が挟まって抜けず、瓦礫をよけようと頑張りましたが私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。
母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。
「行かないで」という母に私は
「ありがとう、大好きだよ」と伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。

そんな体験から今日で4年。

あっという間で、そしてとても長い4年間でした。
家族を思って泣いた日は数えきれないほどあったし、15歳だった私には受け入れられないような悲しみがたくさんありました。全てが、今もまだ夢の様です。

しかし私は震災後、たくさんの「諦めない、人々の姿」を見てきました。
震災で甚大な被害を受けたのにもかかわらず、東北にはたくさんの人々の笑顔があります。
「皆でがんばっぺな」と声を掛け合い復興へ向かって頑張る人たちがいます。
日本中、世界中から東北復興のために助けの手を差し伸べてくださる人たちがいます。
そんなふるさと東北の人々の姿を見ていると「私も震災に負けてないで頑張らなきゃ」という気持ちにいつもなることが出来ます。

震災で失った物はもう戻ってくることはありません。
被災した方々の心から震災の悲しみが消えることも無いと思います。
しかしながらこれから得ていく物は自分の行動や気持ち次第でいくらにでも増やしていける物だと私は思います。
前向きに頑張って生きていくことこそが、亡くなった家族への恩返しだと思い、震災で失った物と同じくらいの物を私の人生を通して得ていけるように、しっかり前を向いて生きていきたいと思います。

最後に、東日本大震災に伴い被災地にたくさんの支援をしてくださった皆様、本当にどうもありがとうございました。
また、お亡くなりになったたくさんの方々にご冥福をお祈りし追悼の言葉とさせていただきます。

↑ http://www.asahi.com/articles/ASH3B6J5XH3BULBJ010.html http://sp.mainichi.jp/select/news/20150312k0000m040034000c.html
 
ペン
__TOMATO__

トマトって知らなかったけ
ど案外高いんだね。下野之
國では若殿氣分で漫然と過
していた日々を想うと青臭
いトマトが今では心に滲み
て懐かしい。

遠回りするか息せず駆けて
通るかしていたよ。機嫌が
悪い時「アソコ通るのボク
厭だよ」と毒を吐いた。翌
年畑が大胆に移動していた。

みんな御免ね。村の人たち、
いつも我儘な鬼子のように
振る舞っていたボクだった
けど來るの待っていてくれ
て有難う。ボクが帰る時に
遠いバス停まで見送ってく
れた同世代の子供たち、遥
々銀座線に乗ってやって來
たボクの云うことに終始従
ってくれて有難う。

今はこうして心底泣いて詫
びてるよ。ネクタイが真中
心に位置しているか氣にな
ってふり返らなかったけど
みんな御免ね。君らが朝か
ら晩までダンベダンベと云
っていたのって氣障りだっ
たけどすっかり大人になっ
てもう大丈夫になりました。

  **
  「ある夏の日」
茹だるような暑さだった。
額や背中から体をつたう汗は、先にがぶ飲みした
蛇口の水を思い起こさせた。

夏休みの美術部は、一枚の良作を仕上げる為に
週に2度朝からお昼頃まで活動した。
本当は、仲良し四人組で放課後に遊べればと思った地味な部だったのだけど、高校二年になって赴任してきた先生の影響で、真面目に描かなければいけなくなった。
初めて彫刻デッサンをした時、先生は誉めちぎった。
それから、あれもこれも描いてほしがるのに描くものを見ては、初めて描いたとは思えないと項垂れる。
今思えばこれは、何かの作戦だったのかもしれない。
そうなると、初心者でも必死に形にしようと、対象物の質感や量や重さを目で捕らえ、移し描くのに無言のまま三時間は容易かった。
女性の像なら尚の事、その姿や瞳に人生や愛や思いも募らせると、必死になった。時間を忘れる時だった。

そうしてお腹が空いてきて集中力も切れた頃、美術室を出て一人での帰り道、茹だるような暑さに堪らず、学校の坂を吹き出す汗をそのままに急いで降りて、交差点過ぎのスーパーで涼んだ。
田舎の女子高生必須携帯のカラータオル(ブルー、ピンク、イエロー他)で汗をふき(笑)、溜まる熱をハタハタと逃がしてった。
そして涼みついでに、スーパーで売ってる一個70円くらいのソーダアイスを買おうと手にしたら、その氷霧も出る冷たさに一瞬で口の中がソーダ味を呼び、シャリシャリと音まで聞こえて来て頬が緩んだ。

そう喜んで買ったはいいものの、外に出れば瞬時にソーダジュースになる暑さで心配になる。すぐに座ってゆっくり食べれる場所をと見回すけれど、陽に焼けて暑そうな建物ばかりだった。
ここでは駄目だと、いつもは通らないスーパーの駐車場の端の階段を降りて辺りを見回すと、道路向こうに木陰が見えた。
そこは少し窪んだバス停所みたいな場所で、誰が持ってきたのかわからない椅子らしきものも見え、もうそこがこのアイスを持つ私の天竺にしか見えなかった。

近くまで走り、息を整えながら改めて間近で見ると、椅子は思った以上に汚くて腐りかかり、後ろの木の落ち葉や雨水も手伝って土に帰ろうとしていた。
誰ももう座っていないのが一目瞭然だった。
天竺が一気に現実に返って、私はこの椅子の持ち主を少なからず頭で思った。

明かに手作りだ。
この椅子は誰かのもので、ここに来ることが習慣になってたんだろう..。たとえば、すぐそこの角の病院に通うお婆さんとか。それで、バスや迎えの車なんかを待つのにお爺さんが作ってくれたんだ。きっと。

そう誰かへの思いやりの椅子なんだと、自分の妄想を勝手に確信して、取り残されたその椅子に座る事は悪いことじゃないと思った。今は使われなくなったのを思うと、少し寂しくなるから。

女子高生必須携帯アイテムはここでも活用され、椅子を親の敵かのようにゴシゴシ拭いて、タオルを真っ黒にしながら座る場所を確保した。タオルは洗えば良い。

そうして満足気に向き直ると、2m程離れたそこに杖をついたお爺さんが立ってこちらを見ていた。私は気付かずにいたので、お爺さんと突然ふっと目が合って驚いた。
でもすぐに、横の角を曲がって来られたのかなと、瞬間移動手段の謎を解いた。

こんにちはと気恥ずかしく挨拶すると、にこっとしてヨタヨタとこちらに杖をついて来て「私も座っていいかね?」とお爺さんは私に話しかけてきた。

こんな椅子に座る人が私以外にもいるのかぁと一瞬思いつつ、どうぞと言う前に、お爺さんの分もゴシゴシ兄と弟の敵ぐらいに拭いて席を譲った。
お爺さんはありがとうと言いながら杖を置いて座り、二人して同じ方向を眺め同じ景色を見た。お爺さんからはほのかに薬のような匂いがした。

私は遠慮がちに袋からパリッと開けだし、口に含めばすぐ崩れるほど柔らかくなったアイスを急いで口に頬張った。 
お爺さんは「暑いね」とか「美味しいかい?」など聞いてくるので、(え?お爺さんも食べたいのかな?)と思いつつ他愛ない会話をしてた。
私達の歳の差の感じる話し方になにか時代の流れを感じ、お互いの時の長さは違えど何十年と生きた中で今ここで偶然私と一時話をしている事に、不思議と喜びが込み上げた。

食べ終わったのにそこから動けずにいたのは、その喜びもあったし、お爺さんが優しい笑顔でこちらを覗いて話すし、何か私が孫のようだとも思ったから。私も笑って話してた。
でも、どうやってその話になったのかは思い出せない。

そのお爺さんは、自分の大事な話をその当時は結構奔放な高校生の私に話してくれた。
ゆっくり、懐かしむように。杖を前に置き、少し体の支えにして。
お爺さんは若い頃に、戦争に召集された。
それまでお爺さんには想い人がいたけれど、戦争に行く事になり諦めようとしたのだと言う。
だが、彼女は結婚を了承してくれた。
それだけで嬉しかった。一時でも夫婦になれた。
そしてお爺さんは彼女に「私が死んだら、どうか私の事は忘れて他の人と結婚してください」と伝え、死を覚悟して戦争に向かっていった。
それから時が経ちお爺さんは戦争の渦に耐え、なんとか生きて帰ってこれた。
やっとの思いで帰ったお爺さんに、戦争は終わっても酷い仕打ちを与えた。それまでの心の支えを失った。
帰った時には、彼女の姿はなかった。
お爺さんを待ちながら、彼女は瓦礫の下敷きになって亡くなっていた。
そして、不幸にもお爺さんは亡くなったと誤報を彼女は知らされていたのだと近所の人から知らされた。
それでも、彼女は待っていた。
お爺さんは申し訳なさでいっぱいだったと言った。

私が死ぬはずだったのにとも言った..
お爺さんはそれから誰とも結婚出来なかった。
今もそれからも、彼女に会うために生きてる。
この世の土産話を持って、彼女にお礼をしなきゃいけないって。


私は静かに話を聞いて
その時のお爺さんを思い、これまでのお爺さんを思うと、涙はぼたぼた落ちてった。
お爺さんは私に謝るけれど、大丈夫だよと言うのがやっとだった。

誰かは、お爺さんはずっと幸せな思い出と悲しい思い出にとらわれて、不幸だと言うかもしれない。それでも、真っ直ぐ人を思う心は、私はとても愛しいと思った。

気が済むまで泣くと
ぐずぐずの顔を拭い、落ち着きを取り戻した頃、
お爺さんはそれから私に手紙を書いていいかな?と驚きの提案をしてきた。私はもちろん!と快諾して、住所をメモしてお爺さんに渡した。
お爺さんが彼女にする土産話の1つになれればいいなと思って。

それから、もう戻らないととお爺さんが言うので、足が悪いうえ坂道になるので送ると申し出た。お爺さんの大丈夫と言う言葉を右から左に受け流して、杖をつくお爺さんの横に並んだ。
戻る先は近くの病院だと思ったけれど、それは違った..。
その少し奥に隠れるようにある○○所という施設だった..。

看板は見たことあったけれど、施設自体は初めてみた。
昔からあったのであろう古さがそこかしこにあり、平屋建てに同じ幅で窓がいくつも設置されているので、その幅でその数の部屋があるのだとわかる。
しかし、何かそこの施設は周囲に馴染まず、古いという理由だけではなく、この建物だけ違和感を放ち、何かに取り残されたかのような雰囲気が漂っていた。


扉を開けると、すぐその表よりも中の異様さに気付いた。
ゾッとした。
暗すぎる...。節電かともおもったけれど、まだ陽は照るのに、窓もあるのに施設全体が陰鬱としている。
それに、なにより静かすぎたのだ。部屋は数多くあるのに、何も音がしない。生活の音というのが、全く無い..。空気が重く苦しい
私は..暗い死の淵にいるような恐怖を感じてしまった。
 
誰の姿も見受けられず、ドアの側には名前を記したプレートがあると言うのに、生きた人間を悲しいくらい感じられなかった。
そうして、一瞬でそこの異様さに捕らわれていると、中から施設の人らしき60代くらいの女性が出てきた。
出てきたと思ったら開口一番にお爺さんを叱責しだした...。
お爺さんに心配の声も何もなく、ただずっとなじり倒していた。
異様さに加え、このおばさんが強烈な打撃を私に打ったせいか何を言ってるのか、言葉を理解できなかった。
お爺さんは慣れてるのか、ありがとう、あなたは早く帰りなさいと横で一言言うと、無言で玄関を上がり真っ直ぐ歩いていった。
そうしたら、今度はこのおばさんは私に何か言ってる。
頭がクラクラした。
このおばさんはしきりに私に何か言ってくるけど、言葉が全く頭に入らず理解できなかった。
そしてとても嫌な臭いがした。薬でも病院のような臭いでもない、とても嗅いだことの無いような嫌な臭いだった。クラクラする上に酷い臭いで朦朧としていると、なぜかこの臭いはこのおばさんが放っているのだと思った。強い臭気はおばさんから放たれている...。

そう思うなかで、なぜお爺さんはこんなとこにいるんだと凄く悲しい気持ちになった。
何か少しでも安らげる物はないかと朦朧とする中施設を見回すと、左手少し奥から光が刺してた。異様さばかり目に行って見落としたいた。
その奥に中庭らしきものが見える。
「中庭だ!」と心の中で歓喜にも似た声をだした。少し安堵したにも関わらず、よく見ると草が腰辺りまで生えていた。

恨めしく思った。
お爺さんは私と座った枯れた椅子にも平気で座れるのに!
そこの草を刈ってどんな椅子でもいいから置いてあげれば、お爺さんは悦んで座る。そしていつでも彼女を思い出せるのに!
そう思っていると暗闇に半端同化するおばさんと目が合った。
そうなると悪寒しかなかった。言ってやれなかった。
もう嫌だった。ここに居たくなかった。失礼しますとだけ言って走って逃げた。



それから数日して、お爺さんからとても丁寧で達筆な手紙が届いた。
手紙は、拝啓から始まり季節のうつろいの話など様々で、その内容はあの時話したお爺さんのままでとてもほっとしたのを覚えている。
それから、お爺さんの手紙は3ヶ月に一度くらい届いた。
年賀状も、いつもの筆文字で明けましておめでとうと届いた。
私も毎回返事を書いた。
書いたけれど、一度もお爺さんは私の手紙の中での問いや、なげかけの言葉に返事をすることはなかった..。
いつも、お爺さんの手紙は一方通行だった。

それでも、近況や話を聞けて嬉しかった。だけど、応えられない事がとても悲しかった。
私は、初めから薄々危ぶんでいたけれど、やっぱりそうか..という思いだった。
お爺さんはきっと私の手紙を読んでいない。
ましてや、お爺さんの手に渡っていないのだと思った..。

それでも3ヶ月に一度届く手紙は、私をとても安心させた。




そして、2年目のある月....





綺麗な筆文字の手紙は届かなくなった....。




お爺さんが書けなくなったのか..書きたくなくなったのか..



もしくは、





お爺さんのずっと願っていた願いが叶ったのか..。



わからなかった。
確かめる術は、施設を訪問すればいいのだけど、あの施設にもう一度足を踏み入れる勇気がどうしても出なかった..。

臆病者の私は、後者を願った。
もう手紙も届かない話も聞けないけれど、あの施設に居てはほしくないし、何より、彼女に会えたのだと、
桃の花にふりかかる雨が好きだと言ったお爺さんと、きっと花の似合う彼女が
淡紅色の花を満身につけて立つ桃木の前で、幾年月が過ぎてやっと出会えたのだと
冷たい川の底から、彼女の生きる地表に這い上がれたのだと思った。


そう、思ったら泣きだした。


私のまた勝手な妄想かもしれないけれど、もう一通も届かなくなった手紙は、確信に近く私にそう思わせてくれた。










もう、何年も前の話だけれど
お爺さんを思い出しては唱える



いつの日か  雨上がる












手紙をありがとうお爺さん。


     あの夏の日に感謝しています。     
            





    ある夏の日、でした。 おわり。
 
傷ついて傷つけて
報われず泣いたりして
今はただ愛おしい
あの人を思い出す
 

♪ https://goo.gl/8Hwo2Z
ガラケー時代。
2つに割ることしたなー

むしゃくしゃすると
目に入るもの、なげたり壊したり…

携帯は、しょっちゅう投げて割れたな

何をそんなに自家発電して
炎上してたんだろ。

沸点ひくっ‪𐤔𐤔‬

そんなあの日の私
かわいかったな。

社会は、そんな甘くないぞ。
七年の結婚生活←姑の呪縛
旦那の口だけのヘタレ親の言いなりの最悪の日々から
自由の身になったばかりの頃

友人の紹介で
産まれて初めて年下と付き合った
二つ年下のO型君
口数少ないけど、やり取りは豆で
毎日がこれまでとは違った景色に見えた
このまま平穏に付き合いが続けばいいと思っていた

でも付き合って一ヶ月もしないうちに
真面目な顔で「同棲して欲しい」と言われ
私は離婚したばかりだからすぐは無理よと
半年たっても仲が良かったらしましょう
それまでお互い貯金しましょうと話した

けれど相手は週一に会う度に
物件をネットや携帯で見せてきたり
「〇〇を幸せにできるのは俺しかいない」とか
「俺だけを信じてればいい」と
日に日にエスカレート

更にはある日私には内緒で相手の兄夫婦に会わされ
嫁さんと話す羽目にもなり
(嫁さんはいい人だったけど)
だんだん怖くなっていった((;゚Д゚)ガクガクブルブル

そんな私にある日相手は痺れを切らしたのか
「俺だけを信じてればいいんだよ」と言い

しかししまいは
「なんで離婚経験者になったんだよ。親に反対されるはず。。。」と悲しそうに言われ

さすがに私も堪忍袋の緒がキレ

口だけのヘタレとは同棲はしません!
半年たってからていったでしょ!
誰も同棲してくださいとは言ってないのに何その言い方!
そんな事言うならしなくていいんじゃないの?無理して
辞めましょ辞めましょ

そう相手に冷静沈着に言い返した

すると彼は
「嫌だ!!絶対同棲する!!」といい
「好きだと言ってよ。。。」と言った
続き

所詮こいつも前の旦那と同じ口だけのヘタレの親の言いなりなんだわとその時はそう実感していた
信用出来ないと。

それからも当時の彼は会う度にマメに送り迎えしてくれて
会えない時はメールを送ってくれていた

そんなある日今度は出会い系に相手がいたと
これまた相手にストレートに
もう無理ですお別れしましょうねものは処分してください

とメールした(笑)

したら今度は

あーーもーー好きなんだんよまじで離れたくないんだ
〇〇〇が何も言ってくれないから不安で仕方なかったんだよ

等とこれまで一番長文でのメールがきて

放置してたら今度は

家の前にいるから出てきてくれとあり
片道二十分もかかるのを
明日は早朝出勤なのを吹っ飛ばしてきたのかと

外に出て車のとこに行くと誰もいない
足跡が聞こえ振り向くと。。。。

殺されるんじゃないかと思うくらい
抱き締められた





むかしむかし

木は土の栄養を吸い取り
土地を枯らして

自らは、果実となり鳥に食べてもらい

糞として他の土地へ降り立った。

栄養を吸い取られた土地は、
耕されて田んぼになり

毎年、焼畑農業で
生き返りながらも

焼かれる痛みに耐えてる。

田んぼに水が流れると

カエルも鳥もきて、賑やかで好き。
そんなモノたちから、ささやかな楽しみを感じる。

春夏秋冬、空を見上げている。


離婚経験したら、
ちゃんと終わってても戸籍や
住民票に思い出したくもない姓が残っている
見る度にフラッシュバックと
二度と他所の姓になることは無いと誓う

前もって話して恋愛しても
理解ある人だと思う度
やっぱり結婚しようという言葉を聞くと
後ずさりしてしまう
どんな好きな人でさえそれは曲げられない

夫婦別姓が世の中に広まるといいのにと
何度思ったことでしょう


 
あるクリスマスの夜、棲んでた街の小さなレストランでギャルソンをしてて、普段なら4人用にしてあるテーブルもすべてズラッとカップル席が並んだ。
壁際を埋めつくす長いソファには女性たちが座り、まるでミス·コンテストのよう。
そのなかで1番 素敵な女性の彼氏が、何と酔ってテーブルにうつ伏せて眠ってしまった。
閉店も間近になり、その恋人たちがその後どうなってしまうのか案じながらも、こんな女性とのクリスマスに泥酔する彼に少し嫉妬した。
この話はもうすでに書いたことある、きっと。笑
ある意味、人生が変わった経験。
若かりし頃に仲良くしていたその人を私は親友だと思っていたから、特に何でもない時に確かめてしまった。
「うちらって親友だよね?」ってな具合で。
あっけらかんと、何言ってるの〜そらそうでしょ!みたいな感じで返してくるものだと思っていたのが私は凄く子供だった。

その人は若干引き気味になって、
「それはそっちが親友やと思うならそれでいいんじゃないの?お互いの答えが同じじゃないといけないの?」と言った。
そんな事言うタイプにはとても見えなかった人だからビックリしたし、ショックで返事したのかさえ覚えてない。
ただ、確かめたりするもんじゃないんだなとずっと恥ずかしかった。
自分の思う答えじゃなかったからなのか、何なのか分からないけれど、それからは自然と距離が出来た。多分、今はもう私を微塵も思い出したりはしてないと思う。

私は私で物凄くバカだとよく分かったけど、言葉によって残酷になったり幸せな気持ちになったり、
自分が発信する限りはずっと、一語一句重みを感じて使って生きていくと思う。
カッケーのお手本。

『傷だらけの天使』 https://goo.gl/ZnFHYu
 
数年前、中学時代の友人たちと久しぶりに待ちあわせた。
酒場の予約時刻より早く着いたので、近くのカフェに座って何気なくマンガ週刊誌を開いた。
その中の1話が面白くて今も憶えてる。

優しく美しい妻が死んだ夫の元に、何らかの奇跡で妻が戻ってきた。
なぜかオッサンの姿で。
何とかその真実を夫もわかったようで、一緒に暮らしていた。
さらには夫の勤める会社に、生前の妻そっくりの新人が入ってきた。
しかも彼女は夫が既婚者?であることを知りつつ?も夫へ暢気に好意を抱いていて、二人は半ば交際していた。
夫は悩んでいる。

という話。
僕は何か悩みごとがあるとき、それを究極の選択のように極端にしたりミニマムにしたりして例えて、悩みの参考にすることがある。
なので究極の選択はわりと得意なのだけど、このコメディ風の物語には、主人公と同じく悩まされた。
問題は生前の妻の美しさにあると思う。

先日、そのマンガはドラマ化されて今、放送されている。
その優しい妻は、“救済しりとり” という言葉遊びを考案していた。
語尾が「ん」で終わる単語の語尾直前の音から始めて、やはり語尾が「ん」で終わる語を探す、特殊なシリトリだった。

「ん」救済しりとり
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=568437&id=93160704


何年か前、
確か「接点復活スプレー」とかいう小さい黒い缶のスプレーがあって

なんだそれって、随分ふざけた名前の商品だなと思っていた。
いや実は、その時は実物は見たことなかった。

その存在をまだ知らなかった時の、ある時。



ある時からなんとなくぎくしゃくして来て、
メールで話しても埒が明かず、
電話では話したくないと言われ、

なんだ?なんかしでかした?
いやいや心当たりは何も無いしと、
そこで小さな花束を抱え逢いに行きました。


だけども何をどう話したらいいのか思いつかず、
やっぱり、
やっぱりと言う言葉は2人の間であまり使わないでいた言葉なんだけど、
あえて、やっぱり、、、やっぱり、これ以上はなのかなと、思ったりしたわけです。


カメラのシャッターが切れないと。
最近調子が悪くてと。
結局、話しかけた言葉はどうでもいいそんな内容だったと思う。

彼は一言、
「接点復活スプレー注してごらん。。。」と。

そんなへんてこなネーミング聞いたことないし、そもそもなんなん?それ。

「そこのそれ、それをシュッと細いノズルでその調子が悪いところに、、、」と、彼。



「そこのそれ、今の私達にシュッと細いノズルでその調子が悪いところに、、、」と、繰り返した私。

「そうしたらまた通電するでしょ。」と、ちょっとキレ気味に私。


記憶では、彼はいつもの優しい目で笑い出したのでした。





お勧め品でございます。
AZ接点復活スプレー
特徴は、耐摩消耗に優れていますので接点の寿命を一段と安定させます。
とあります。(多くを省略)















6月26日。

昨日は母の誕生日。
生きていれば、72歳。
43の時、突然、逝ってしまった。

昨日は母の手作り料理の中でも好きだった、
ミートスパを再現し、お子らに食べさせながら、

今は無き母の話しをした。

、今年の夏
、わたしは

、母と歳が並ぶ。


母親が見ることの出来なかった世界を
わたしは見ることが出来るのだろうか。

そんなことを、最近、強く思って止まない。
だから、何かに必死に踠くけど、やっぱり何も掴めないで居るのだ。
踠けば踠く程に。
必死に成れば成る程に。

昔の自分と今の自分の誤差に戸惑うばかり。
あたしは一体誰?

何がしたくて、今、現在、ここに、存在して居るの?

こんなこと考えていても無意味だ。

分かってる。
だけど、やっぱりまた、考えて、考えて、考えぬいてしまう。

自分が出来ること、存在して居ること、意味、なんだろう?と。



しかし、今日のお昼寝は
本当に深く深く、健やかに眠ることが出来た。

まるで、母がもう苦しまなくてもいいよ、て、
言ってくれていたかのように。
お子たちがまだ幼い頃のお話。

TVを観ていてごはん食べないお子たちを見て
『ごはん観てないでTV食べなさい!』
と叱ったのに笑われました。

車を運転中はしゃぐお子たちを見て
『顔から窓出すとあぶないでしょ!』
と叱っ···以下省略。


そんな母の威厳を受け継いでいるのかいないのか。
職場探しをしていた頃。

お子1:『母ちゃん、あそこにテクニックあったよ!』

母: ?

お子2:『違うよ、ピクニックだよ!』

母: ???、
  
  『·····それ!クリニックだから〜!!』


わたしの子育て間違ってなかったと思った瞬間でした(笑)

彼とは付き合っていたわけでもなく、だから、何故2人で歩いていたのかも覚えていない。
私たちの目の前を黒猫が横切り、
「一応、やっとく?」と顔を見合わせ、一緒に4歩下がった。
ただ、それだけ。

黒猫ジンクスの思い出。
5年前くらいの職場での話。

当時二十歳だった後輩が上司にいじめられていたのを見て。

『あのブタゴリラめ。』

と言ったらその後輩に

『ブタにゴリラだなんて、そんなこと言ってはいけません!』

と叱られた!
ブタゴリラを知らないなんて!
ジェネレーションギャップなり〜
 
 
何気にエゴサーチしたら、You Tube の投稿に自分が該当してビックリ!
中を観てみると。
あるスマホ·ゲームで、プレイヤーに購入された家や家具のお洒落?なレイアウトのうち1軒を、開発チームの女の子がゲーム内からリポートしてた。
そこに自分のレイアウトが紹介されてるのを発見!したのが今日。
だけど投稿されてたのは3年前! w(°o°)w
気ままな遊びがうれしいサプライズに化けましたとさ。
 
"Avakin Life: Open House Episode 26"
https://youtu.be/pRPgi4zis0I
 
亡くなった方たちにお悔やみを。
生きていく人たちに励ましを。
 

♬ ❀ blooms http://bit.ly/3ch70Uf
桃太郎と浦島太郎とどっちがいい?(*´∀`)
フォトは今日の。

むかーし大失恋したとき、察してくれたのか、家族が遠出の食事に誘ってくれた。
そのとき車のBGMにこの曲が流れたら、親父がつぶやいた。

お前もこんな曲 聴くようになったんだなあ。


♬ hey beauty https://bit.ly/3df9uDl
昔、まだ私が正社員で働いていた頃の話。
仲良くなった同期の男性と話しているうちに、同じ小学校に通っていたという事実が判明した。
でも、私は一浪しているので、小学生の頃は学年が違う。
そして、その後、私も彼も小学生のうちに他県へ引越している。
接点はなかった。
・・・と思っていたが、当時習っていたピアノの先生の家で撮った写真に彼が映っていた。
28年前
12歳中学一年生の7月7日
4つ上大人びた誰もが振り返るような女の子
大黒パーキングエリアの大階段

「ねぇ。◯っちゃん俺と付き合って下さい」

彼女は何も言わずいいこいいこしてくれて

月日は流れ子供は大きくなり
長男が家を出て、僕達は寝室が別になった。
自由時間を手にいれて振り返る

まだ告白の返事もらってないんだよな
2008年〜2010年
香港に住んでいた時の話。
ショッピングモールを出たところでスコールに遭った。
横断歩道の前だったので、そこで足を止め、傘を開いた。
すると、突然、見知らぬ中東の青年が傘に入ってきた。
「ごめんなさい。いきなりの雨で困っていたら、目の前で傘が開いたものだから、つい入ってしまった。悪いけど、そこまで入れてくれる?」
びっくりしたけど、笑ってしまった。
意図せず、こんな風に相合傘になることがあるなんて。
「不思議なんだけど、今、僕はすごく美味しいデーツを持っている。傘に入れてくれたお礼に少し分けてあげるよ」
彼が住むアパートの前で、彼はドバドバと私が持つレジ袋の中に直接デーツを放り込んだ。


というエピソードを息子に話しながら、もらったデーツを一緒に食べた。
息子にとってはそれが初デーツだったので、今でもデーツを食べると、その時の話を思い出すらしい。


ログインすると、残り17件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

言葉の見る夢 𓃠 ɯɐǝɹpɹoʍ 更新情報

言葉の見る夢 𓃠 ɯɐǝɹpɹoʍのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング