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原始仏典コミュの因縁相応 「縁起」7

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(続き 『南伝大蔵経13 相応部経典2』大蔵出版 P62−67 に相当)




「   第八 比丘

28.サーヴァッティに住んでいた。・・・・・・
 比丘たちよ、ここに比丘は老死を知り、老死の集を知り、老死の滅を知り、老死の滅に行く道を知り、
 生を知り、生の集を知り、生の滅を知り、生の滅に行く道を知り、
 有を知り、有の集を知り、有の滅を知り、有の滅に行く道を知り、
 取を知り、取の集を知り、取の滅を知り、取の滅に行く道を知り、
 愛を知り、愛の集を知り、愛の滅を知り、愛の滅に行く道を知り、
 受を知り、受の集を知り、受の滅を知り、受の滅に行く道を知り、
 触を知り、触の集を知り、触の滅を知り、触の滅に行く道を知り、
 六処を知り、六処の集を知り、六処の滅を知り、六処の滅に行く道を知り、
 名色を知り、名色の集を知り、名色の滅を知り、名色の滅に行く道を知り、
 識を知り、識の集を知り、識の滅を知り、識の滅に行く道を知り、
 行を知り、行の集を知り、行の滅を知り、行の滅に行く道を知る。

 比丘たちよ、何が老死か。
 それぞれの生ける者たちがそれぞれの生ける者の部類において老い、老衰し、壊れ、白髪になり、皺が寄り、寿命が減少し、諸根が熟し切ること。
 これが老いと言われる。
 それぞれの生ける者たちがそれぞれの生ける者の部類において死に、死亡し、破壊し、消滅し、死し、死の時が来て、諸蘊が壊れて完全に放棄される。
 これが死と言われる。
 このようにこれが老いであり、またこれが死である。
 比丘たちよ、これが老死と言われる。
 生が生起すると老死が生起する。
 生が滅すると老死が滅する。
 この聖なる八支の道が老死を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、何が生か。
 それぞれの生ける者たちがそれぞれの生ける者の部類において生まれ、発生し、入胎し、生起し、生起され、諸蘊が出現し、入処を獲得する。
 比丘たちよ、これが生と言われる。
 有が生起すると生が生起する。
 有が滅すると生が滅する。
 この聖なる八支の道が生を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
 
 比丘たちよ、何が有か。
 比丘たちよ、これら三つの有がある。欲のある存在・物質のある存在・物質のない存在。
 比丘たちよ、これが有と言われる。
 取が生起すると有が生起する。
 取が滅すると有が滅する。
 この聖なる八支の道が有を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、何が取か。
 比丘たちよ、これら四つの取がある。欲への執着・見解への執着・戒や禁止事項への執着・自分を語ることへの執着。
 比丘たちよ、これが取と言われる。
 愛が生起すると取が生起する。
 愛が滅すると取が滅する。
 この聖なる八支の道が取を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、何が愛か。
 比丘たちよ、これら六つの愛がある。色への渇愛・声への渇愛・香への渇愛・味への渇愛・触れられるものへの渇愛・法への渇愛。
 比丘たちよ、これが愛と言われる。
 受が生起すると愛が生起する。
 受が滅すると愛が滅する。
 この聖なる八支の道が愛を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、何が受か。
 比丘たちよ、これら六つの受がある。眼で触れることによって生じる感受・耳で触れることによって生じる感受・鼻で触れることによって生じる感受・舌で触れることによって生じる感受・身で触れることによって生じる感受・意で触れることによって生じる感受。
 比丘たちよ、これが受と言われる。
 触が生起すると受が生起する。
 触が滅すると受が滅する。
 この聖なる八支の道が受を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、何が触か。
 比丘たちよ、これら六つの触がある。眼で触れること・耳で触れること・鼻で触れること・舌で触れること・身で触れること・意で触れること。
 比丘たちよ、これが触と言われる。
 六処が生起すると触が生起する。
 六処が滅すると触が滅する。
 この聖なる八支の道が触を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、何が六処か。
 眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処。
 比丘たちよ、これが六処と言われる。 
 名色が生起すると六処が生起する。
 名色が滅すると六処が滅する。
 この聖なる八支の道が六処を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、何が名色か。
 受・想・思い・触・作意。
 これが名と言われる。
 四大存在と四大存在を取る色。
 これが色と言われる。
 このようにこれが名であり、またこれが色である。
 比丘たちよ、これが名色と言われる。
 識が生起すると名色が生起する。
 識が滅すると名色が滅する。
 この聖なる八支の道が名色を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、何が識か。
 比丘たちよ、これら六つの識が身体にある。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識。
 比丘たちよ、これが識と言われる。
 行が生起すると識が生起する。
 行が滅すると識が滅する。
 この聖なる八支の道が識を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、何が行か。
 比丘たちよ、これら三つの行がある。身体の行ない・言葉の行ない・心の行ない。
 比丘たちよ、これが行と言われる。
 無明が生起すると行が生起する。
 無明が滅すると行が滅する。
 この聖なる八支の道が行を滅することに行く道である。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、比丘はこのように老死を知り、
 このように老死の集を知り、
 このように老死の滅を知り、
 このように老死の滅に行く道を知り、
 このように生を知り、
 このように生の集を知り、
 このように生の滅を知り、
 このように生の滅に行く道を知り、
 このように有を知り、
 このように有の集を知り、
 このように有の滅を知り、
 このように有の滅に行く道を知り、
 このように取を知り、
 このように取の集を知り、
 このように取の滅を知り、
 このように取の滅に行く道を知り、
 このように愛を知り、
 このように愛の集を知り、
 このように愛の滅を知り、
 このように愛の滅に行く道を知り、
 このように受を知り、
 このように受の集を知り、
 このように受の滅を知り、
 このように受の滅に行く道を知り、
 このように触を知り、
 このように触の集を知り、
 このように触の滅を知り、
 このように触の滅に行く道を知り、
 このように六処を知り、
 このように六処の集を知り、
 このように六処の滅を知り、
 このように六処の滅に行く道を知り、
 このように名色を知り、
 このように名色の集を知り、
 このように名色の滅を知り、
 このように名色の滅に行く道を知り、
 このように識を知り、
 このように識の集を知り、
 このように識の滅を知り、
 このように識の滅に行く道を知り、
 このように行を知り、
 このように行の集を知り、
 このように行の滅を知り、
 このように行の滅に行く道を知る。

 比丘たちよ、この比丘はこう言われる。
 「見解を具足した」とも、
 「見ることを具足した」とも、
 「この正法に達した」とも、
 「この正法を見た」とも、
 「有学の知を成就した」とも、
 「有学の明を成就した」とも、
 「法の流れを具足した」とも、
 「聖なる解明する智慧がある」とも、
 「不死の扉を打って立つ」と。

 

   第九 沙門バラモン[一]

29.サーヴァッティに住んでいた。
 比丘たちよ、いかなる沙門バラモンであっても
 老死を遍知せず、老死の集を遍知せず、老死の滅を遍知せず、老死の滅に行く道を遍知せず、
 生を遍知せず、生の集を遍知せず、生の滅を遍知せず、生の滅に行く道を遍知せず、
 有を遍知せず、有の集を遍知せず、有の滅を遍知せず、有の滅に行く道を遍知せず、
 取を遍知せず、取の集を遍知せず、取の滅を遍知せず、取の滅に行く道を遍知せず、
 愛を遍知せず、愛の集を遍知せず、愛の滅を遍知せず、愛の滅に行く道を遍知せず、
 受を遍知せず、受の集を遍知せず、受の滅を遍知せず、受の滅に行く道を遍知せず、
 触を遍知せず、触の集を遍知せず、触の滅を遍知せず、触の滅に行く道を遍知せず、
 六処を遍知せず、六処の集を遍知せず、六処の滅を遍知せず、六処の滅に行く道を遍知せず、
 名色を遍知せず、名色の集を遍知せず、名色の滅を遍知せず、名色の滅に行く道を遍知せず、
 識を遍知せず、識の集を遍知せず、識の滅を遍知せず、識の滅に行く道を遍知せず、
 行を遍知せず、行の集を遍知せず、行の滅を遍知せず、行の滅に行く道を遍知しないならば、
 比丘たちよ、私はその沙門バラモンを沙門としては沙門と認めず、バラモンとしてはバラモンと認めない。
 またその尊者が沙門の義・バラモンの義を現世において自ら超知し実証し具足して住するということもない。

 しかし比丘たちよ、いかなる沙門バラモンであっても
 老死を遍知し、老死の集を遍知し、老死の滅を遍知し、老死の滅に行く道を遍知し、
 生を遍知し、生の集を遍知し、生の滅を遍知し、生の滅に行く道を遍知し、
 有を遍知し、有の集を遍知し、有の滅を遍知し、有の滅に行く道を遍知し、
 取を遍知し、取の集を遍知し、取の滅を遍知し、取の滅に行く道を遍知し、
 愛を遍知し、愛の集を遍知し、愛の滅を遍知し、愛の滅に行く道を遍知し、
 受を遍知し、受の集を遍知し、受の滅を遍知し、受の滅に行く道を遍知し、
 触を遍知し、触の集を遍知し、触の滅を遍知し、触の滅に行く道を遍知し、
 六処を遍知し、六処の集を遍知し、六処の滅を遍知し、六処の滅に行く道を遍知し、
 名色を遍知し、名色の集を遍知し、名色の滅を遍知し、名色の滅に行く道を遍知し、
 識を遍知し、識の集を遍知し、識の滅を遍知し、識の滅に行く道を遍知し、
 行を遍知し、行の集を遍知し、行の滅を遍知し、行の滅に行く道を遍知するならば、
 比丘たちよ、私はその沙門バラモンを沙門としては沙門と認め、バラモンとしてはバラモンと認める。
 またその尊者が沙門の義・バラモンの義を現世において自ら超知し実証し具足して住するということもある。



   第十 沙門バラモン[二]

30.サーヴァッティに住んでいた。・・・・・・
 比丘たちよ、いかなる沙門バラモンであっても
 老死を知らず、老死の集を知らず、老死の滅を知らず、老死の滅に行く道を知らないならば、
 実に彼は老死を超越して住するだろうというこの処を知らない。
 生を知らず、生の集を知らず、生の滅を知らず、生の滅に行く道を知らないならば、
 実に彼は生を超越して住するだろうというこの処を知らない。
 有を知らず、有の集を知らず、有の滅を知らず、有の滅に行く道を知らないならば、
 実に彼は有を超越して住するだろうというこの処を知らない。
 取を知らず、取の集を知らず、取の滅を知らず、取の滅に行く道を知らないならば、
 実に彼は取を超越して住するだろうというこの処を知らない。
 愛を知らず、愛の集を知らず、愛の滅を知らず、愛の滅に行く道を知らないならば、
 実に彼は愛を超越して住するだろうというこの処を知らない。
 受を知らず、受の集を知らず、受の滅を知らず、受の滅に行く道を知らないならば、
 実に彼は受を超越して住するだろうというこの処を知らない。
 触を知らず、触の集を知らず、触の滅を知らず、触の滅に行く道を知らないならば、
 実に彼は触を超越して住するだろうというこの処を知らない。
 六処を知らず、六処の集を知らず、六処の滅を知らず、六処の滅に行く道を知らないならば、
 実に彼は六処を超越して住するだろうというこの処を知らない。
 名色を知らず、名色の集を知らず、名色の滅を知らず、名色の滅に行く道を知らないならば、
 実に彼は名色を超越して住するだろうというこの処を知らない。
 識を知らず、識の集を知らず、識の滅を知らず、識の滅に行く道を知らないならば、
 実に彼は識を超越して住するだろうというこの処を知らない。
 行を知らず、行の集を知らず、行の滅を知らず、行の滅に行く道を知らないならば、
 実に彼は行を超越して住するだろうというこの処を知らない。

 しかし比丘たちよ、いかなる沙門バラモンであっても
 老死を知り、老死の集を知り、老死の滅を知り、老死の滅に行く道を知るならば、
 実に彼は老死を超越して住するだろうというこの処を知る。
 生を知り、生の集を知り、生の滅を知り、生の滅に行く道を知るならば、
 実に彼は生を超越して住するだろうというこの処を知る。
 有を知り、有の集を知り、有の滅を知り、有の滅に行く道を知るならば、
 実に彼は有を超越して住するだろうというこの処を知る。
 取を知り、取の集を知り、取の滅を知り、取の滅に行く道を知るならば、
 実に彼は取を超越して住するだろうというこの処を知る。
 愛を知り、愛の集を知り、愛の滅を知り、愛の滅に行く道を知るならば、
 実に彼は愛を超越して住するだろうというこの処を知る。
 受を知り、受の集を知り、受の滅を知り、受の滅に行く道を知るならば、
 実に彼は受を超越して住するだろうというこの処を知る。
 触を知り、触の集を知り、触の滅を知り、触の滅に行く道を知るならば、
 実に彼は触を超越して住するだろうというこの処を知る。
 六処を知り、六処の集を知り、六処の滅を知り、六処の滅に行く道を知るならば、
 実に彼は六処を超越して住するだろうというこの処を知る。
 名色を知り、名色の集を知り、名色の滅を知り、名色の滅に行く道を知るならば、
 実に彼は名色を超越して住するだろうというこの処を知る。
 識を知り、識の集を知り、識の滅を知り、識の滅に行く道を知るならば、
 実に彼は識を超越して住するだろうというこの処を知る。
 行を知り、行の集を知り、行の滅を知り、行の滅に行く道を知るならば、
 実に彼は行を超越して住するだろうというこの処を知る。


                  第二 十力品

   その頌
    二つの十力と依拠、他に住する者とブーミジャ
    ウパヴァーナと縁と比丘、二つの沙門バラモン。」(続く)




(『南伝大蔵経13 相応部経典2』大蔵出版 P62−67 に相当)



 註 遍知 パリジャーナーティ parijānāti 知り尽くすこと 別経において
     「遍知とは貪りが尽き、怒りが尽き、愚かさが尽きること」とある。
   超越して住するだろう samatikkamma ṭhassantīti

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