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Apple Venus Vol.1コミュのXTCとシュリークバックの狭間に

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「モンスタランス」では、しばらくぶりにバリーの演奏を聴くことができました。

さらに、<XTC掲示板>の「ノエルかえる」さんによれば、ライブも行うとの事。


ここでは、バリーの音楽活動の転機について振り返ります。

コメント(11)

(1)バリー・アンドリュースの脱退

XTCはヨーロッパツアー後、
1978年にトーキング・ヘッズの前座としてアメリカ・ツアーを行います。

1974年にキング・クリムゾンを解散したロバート・フリップは、
1977年から、ニューヨークに移住しており、
バワリー街の「CBGB」などを訪れていました。
そんな中、「ビーコン・シアター」において、フリップはXTCを知ることになり、
間もなく、フリップはバリーを「ザ・リーグ・オブ・ジェントルメン」のメンバーとして招き入れます。

XTCはこの前に、セカンド・アルバムの「GO2」をレコーディングする際に、
バリーはアンディと一緒にスタジオにいられなくなるくらい、
対立が明らかでした。
(この時期の不仲ぶりは、「チョークヒルズ・アンド・チルドレン」に記載されております。)

私の勝手な想像ですが、
バンドが解散寸前の状態であったバリーにしてみれば、
「大物ギタリストからのリクルート」を
受け入れないはずはないだろうな、と思います。

まさに渡りに船。

そして、ツアー中のボストンで、
バリーは正式にXTCから脱退宣言をします。

脱退後、バリーはヴァージン・レコードの契約が残っており、
ソロ名義で「Town and Country」と、「Rossmore Road」をリリースします。
(2)ロバート・フリップのソロ活動

1977〜78年ごろのロバート・フリップについて、
シド・スミスは著書「クリムゾン・キングの宮殿」で、

「パンクの変革はロック・ミュージックに騒乱を引き起こした。
そのとき、ミクロ・レベルでフリップは、まさしく強打されていたのだった。」
(「クリムゾン・キングの宮殿」P251) と書いております。

そして、この時期の音楽の傾向をこう綴っております。
「イギリスのロック誌は、ピンク・フロイドやEL&P、
そしてより"本物"指向の同種のグループをサポートしなくなった。
荒削りでローファイな(そして理解しやすい)パンクの直接的なアプローチは、
ますます膨らみ、
大袈裟でリスナーとの関係性の薄いビッグ・グループのプロジェクトとは際立った相違を表した。」(同P251)

フリップも、「パンク」という音楽に対して衝撃を受けておりました。
というよりも、そもそもこの人、「新しい音楽」「新しい楽器」に対して貪欲なのです。
それは、キング・クリムゾンの元のメンバーからの「再結成」の誘いを
全て断っていることからもわかります。

1977年、フリップはピーター・ガブリエルのツアーに参加し、
少しずつ音楽活動を再開しておりましたが、
「アメリカのハイ・スピードの文化的環境に突入しようとしていた」(同P252)フリップは、
ニューヨークに移住し、次第に活動はスピードアップしていきます。

フリップは「ドライブ・トゥ・1981」という声明書を書き、
「MOR(ミドル・オブ・ザ・ロード)三部作」というコンセプトの元、
1977年、ダリル・ホールのファースト・ソロ・アルバムである、
「セイクレッド・ソングズ」をプロデュースし、
そしてピーター・ガブリエルのセカンド・アルバムもプロデュースします。

そして1978年1月から、自身のファースト・ソロ・アルバムである、
「エクスポージャー」のレコーディングを開始します。
(3)「エクスポージャー」とバリー

フリップのソロ・アルバム「エクスポージャー」に参加したミュージシャンは、
主に次のとおりです。

・フィル・コリンズ
・ブライアン・イーノ
・ピーター・ガブリエル
・ダリル・ホール
・ピーター・ハミル
・トニー・レヴィン
・ジェリー・マロッタ
 ・・・・
これらビッグネームのミュージシャンに、
バリー・アンドリュースが加わります。

このアルバムでは、
4曲目の「Disengage」、
7曲目の「NY3」(※ファースト・エディションのみ)、
12曲目の「I May Not Have Had Enough Of Me But I've Had Enough Of You」
で、バリーはキーボードを弾いております。

特に、7曲目の「NY3」、12曲目の「I May Not Have〜」は、
曲の全面にわたってバリーのオルガン全開です。

1979年5月に発表された「エクスポージャー」は、商業的に失敗に終わります。
また、様々な批評家からのレビューもよくありませんでした。

最高のミュージシャンが集えば、
最高のレコードが作れるとは限りません。


※2006年にリリースされた「完全版」に収録されております。
(4)「ザ・リーグ・オブ・ジェントルメン」とバリー

1980年3月19日、ドーセットのウィンボーンの近くのバッドバリー・リングスに隣接した、
14世紀の狩猟小屋で「ザ・リーグ・オブ・ジェントルメン」のリハーサルは始まりました。
メンバーは、フリップとバリーに、
サラ・リー(ベース)、ジョニー・トゥーバッド(ドラム)が加わりました。

この「ザ・リーグ・オブ・ジェントルメン」というバンド、
元々はロバート・フリップが1963〜65年に在籍したセミプロ・グループの名前で、
フリップの歴史を知る人にとっては思い入れのある名前だと思います。
そして、キング・クリムゾンを解散後に編成したバンドがこの名前ですから、
さぞ、多くの人が期待したのではないでしょうか。

この時期、フリップはセカンド・ソロ・アルバムとして、
「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」、
そして、「ザ・リーグ・オブ・ジェントルメン」のレコーディングを行い、
(後に、この2枚のアルバムは「ゴッド・セイヴ・ザ・キング」としてCD化されます。)
1980年4月から11月まで、ヨーロッパとアメリカ・ツアーに出ます。
(4)ザ・リーグ・オブ・ジェントルメンのライヴ

「ザ・リーグ・オブ・ジェントルメン」は、
1980年4月から11月まで、ヨーロッパとアメリカのツアーに出ますが、
そのときのライヴは、オフィシャル・ブートレッグ・ライブ・アルバムである、
「スラング・スラング・ゴジンブルクス」で聴くことができます。

ロバート・フリップという大御所に引き抜かれたバリーですが、
フリップと合流することで演奏スタイルを変えたか、というと、「NO」です。
「スラング・スラング・ゴジンブルクス」を聞くと、
XTC時代にライヴでも披露したフレーズが多く聞かれます。

特に、このアルバムでは、
1曲目「インタラクティヴ・レゾナンス」、
3曲目「トラップ」、
5曲目「ヘプタラパラパーシノーク」、
7曲目「クリスチャン・チルドレン・マーチング、シンギング」、
9曲目「ディスロケイティド」、
10曲目「マイナー・マン」、
12曲目「フェアウェル・ジョニー・ブリル」
で、バリーのオルガンが曲全体に飛び回っております。

曲の構成は、オルガンが全体を覆い尽くす中で、
フリップのギターが絡むというものです。
フリップは70年代クリムゾン風の音に加え、
80年代の「原型」とも言えるフレーズを連発。

このアルバム、元々の音源は「カセットテープでの録音」のため、
非常に音がこもっていて、
曲によっては殆どバリーのオルガンが聴き取れないものもありますが、
狭いライヴハウスの雰囲気が感じられます。
(4)ザ・リーグ・オブ・ジェントルメンの足跡

フリップがバリー・アンドリュースを招きいれたというのは、
キング・クリムゾンにとって(というか、フリップ自身にとって)、
キース・ティペットやジェイミー・ミュアーが参加したときと
酷似しているようにも見えます。
「パンク」や「ニュー・ウェイヴ」に影響された時期に、
「自分に無いものを取り入れようとする』フリップの特異性なのではないでしょうか。

「ザ・リーグ・オブ・ジェントルメン」約7ヶ月、ツアーに出ますが、
ツアー日誌を見ると内情は散々です。
「スラング・スラング・ゴジンブルクス」ライナーノーツには次のように書かれております。

初日からバスで移動する際に、バリーはロンドンに一人置き去りにされたこと(1980年5月1日)、
会場のタバコとマリファナがきつかったこと(5月7日)、
バンド側は客席が立ち見の会場を希望したのにもかかわらず、
「バーの無い、格式高い小さな劇場だった」こと(5月9日)、
「(ジョニーによって、)車のドアに挟まれて(フリップの)右腕が潰されそうになった(5月1日)」という事故があったなど、悲惨なものです。

フリップは、ジョニーに対して、
「…プロのドラマーとしての生活に自分を適応させる気がないということだった…(中略)
…結局この驚嘆すべき不注意は、聴衆に仕えるというプロのバンドとしての名誉を著しく汚すものとなった」
(「スラング・スラング・ゴジンブルクス」ライナーノーツ P11より)と、
積もり積もった怨み節も書かれております。
(後に、フリップはジョニーを「解雇」します。)
(5)ロバート・フリップとバリー・アンドリュース、
   そして「ザ・リーグ・オブ・ジェントルメン」の終焉

フリップとジョニーの対立は記されておりますが、
バリーとの対立、というのはありません。

フリップの思い出として、
「(バリーが)右手に持ったドライヴァーを
クルーマー・オルガンの奥底深くに突っ込んだ一方で、
左手は依然としてプレイを続けていたこと。
私にはこの(たびたび繰り返される)儀式の効果を確認できたことは一度も無い。
機械に良いのか、チューニングが狂わなくなるのか、その両方なのか。」
(ライナーノーツ P11)
といったことや、

ロッテルダムでのライブ後、
「ショウのあとにカフェに歩いていくと、バリーが話をしていた。
集合という意味での音楽の譜割というものが
もはや不要になるほどのレヴェルに到達するような音楽の可能性についてだった。
このことはまさしくデヴィッド・ボウイが先週私に、
私のやりたいことは何なのかと尋ねて以来頭に浮かんでいたことを、
さらに考えさせることになった。」(5月5日の日記)

バリーとは、音楽の理論について議論するような関係だったようです。
(アンディも、バリーとは音楽について、
 度々議論を交わしていたことを述べております。)

フリップはツアー終了後、残りの曲のアルバム・レコーディングを行い、
「ザ・リーグ・オブ・ジェントルメン」を終わりにします。

その後、フリップは「ザ・リーグ…」の、
アメリカ・ツアーの時に前座を務めたバンド「ギャガ」のメンバーである、
エイドリアン・ブリューと、
旧知のビル・ブラッフォード、トニー・レヴィンにより、
新しいバンド「ディシプリン」を結成し、
そしてそれは新しい「キング・クリムゾン」へと発展することになります。

フリップが求めたのはサックスやヴァイオリン、キーボードプレーヤーではなく、
「自分に無いものを持っている、トリッキーなギタリスト」だったのです。

バリーはその後、「レストラン・フォー・ドッグズ」に参加し、
「シュリークバック」に至ります。

                    (この章終わり)
the league of gentlemen

http://www.youtube.com/watch?v=XeboyIXrX5I

XTC掲示板より。ときよたさんが書いておりましたので、
転載しました。

ときよたさん、いつもすみません。

この映像、ロバート・フリップばかりスポットが当たっていて、
バリーが殆ど映っておりません。

今だったらフリップは暗いところで演奏して、
他のメンバーに照明があてられているのでしょうが。
DGM Liveに、珍しいものがありました。

BARRY AND ROBERT

MP3形式で無料ダウンロードができます。


http://www.dgmlive.com/index.php

ホームページ右上の<HOT Tickle>の枠の
<BARRY AND ROBERT>をクリックするとダウンロードできます。

<League of Gentlemen 10 March 1980>
とありますので、録音したのは
バンドがツアーに出る直前か、もしくは最初の頃でしょうか。
何にせよ、バリー・アンドリュースとロバート・フリップの二人による
スタジオでの録音は貴重です。

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