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城下町コミュの加納

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 1445年に美濃守護代斎藤利長が厚見郡の荒田川沿いに築いた平城を、関ヶ原の戦の直後の1600年11月、徳川家康が戦略上の要地として注目し、廃城となった岐阜城の建材を利用して大改築を命じた。
 翌年、家康の娘婿である京都所司代奥平信昌が10万石で入封したが、同年、上野吉井藩2万石の藩主となっていた実子の菅沼忠政に4万石を分与、1602年には忠政が松平姓を称して加納6万石藩主となった。信昌は1575年の長篠の戦の際、500人の手兵で2万人の武田勝頼軍軍相手に獅子奮迅の活躍をして持ち場を死守した猛将で、隠棲領として4万石を有していたが、1615年に死去したため、隠棲領は忠政が併合し、加納藩は10万石に復した。
 加納松平家は1632年の第3代藩主忠隆の死と共に無嗣断絶し
、大久保忠職(タダモト)が5万石で入封するが、1639年に播磨明石に転封され、松平(戸田)光重が7万石で入封した。
 1711年、松平光熙(ミツヒロ)が山城淀に転封され、安藤信友が6万5000石で入封したが、1728年の失火で城が全焼し、二の丸御殿のみが再建された。
 1755年、安藤氏3代目の信成は5万石に減封された上で、翌年陸奥磐城平に転封され、永井直陳(ナオノブ)が3万2000石で入封した。
 加納城は1614年に名古屋城が完成した後は戦略的重要性が薄れ、藩主の石高も減る一方となって、加納は寧ろ中山道の宿場町としての性格を強めた。
 幕末の藩主永井尚服(ナオコト)は、幕府若年寄兼会計総裁職を務めていたが、1868年の鳥羽伏見の戦直後に幕府の役職を辞して新政府軍に帰順した。
 1871年7月、廃藩置県によって加納県が設置されるが、同年11月に岐阜県に統合され、稲葉郡加納町・上加納村等となった。1887年、上加納村に東海道本線岐阜駅が設置され、1889年の岐阜市制施行の際に駅前地区は岐阜市に編入、1903年には上加納村全体が岐阜市に併合、加納町も1940年に併合された。
 岐阜駅南方の加納天満宮は1445年の築城時に守護神として創建された神社で、加納の伝統産業であった和傘作りの発祥を偲ぶ傘祖顕彰碑がある。
 城跡西方500mの盛徳寺には初代加納藩主奥平信昌と正室亀姫の墓がある。

コメント(3)

加納城に関しては、以下も参照。

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=1803109
さとこ様
加納城跡には行かれた事がありますか?

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